※レビュー部分はネタバレあり
リドリースコット監督、オーランド・ブルーム主演の歴史スペクタクル。
キングダム・オブ・ヘブン、天の王国。昔も今も人はその地を探して彷徨っている。
止むことのない流血の地、イスラエル=パレスチナ戦争の発火点である聖地エルサレムがキングダム・オブ・ヘブンの舞台である。
12世紀、フランス。時は十字軍の時代。
村で鍛冶屋をしている鍛冶屋のバリアンは妻子を失い、失意の底にあった。そこに、現れた一人の騎士。バリアンはその騎士に同行して十字軍に参加することになる。
時のエルサレムはキリスト教徒である賢王ボードワン4世の支配下。キリスト教徒とイスラム教徒の共存の地でありながらも、常に一触即発の危うい均衡状態のもとにあった。
対するイスラム勢力には伝説的な名将として名高い指導者サラディン。ボードワン4世とサラディンの両者によりエルサレムの平和は一時的にしろ、保たれていた。
そんな情勢の中、エルサレムに到着し、王に謁見するバリアン。エルサレムで新たな生活を始めるなかでシビラと出会うのであった。
その一方で、宮廷内では権力闘争が激しさを増し、王を支える軍事顧問ティベリアスと王女シビラを妻にする宮臣ギ―の対立はイスラム教徒に対する軍事攻撃の可否をめぐって熾烈を極めるようになっていく。
もはや、十字軍の騎士たちの狂気と欲望は抑えきれないものになりつつあった。
キングダム・オブ・ヘブンは3万人ものエキストラを起用し、CG技術と当時の装備・衣装、そして舞台となる城壁などの高い再現度によって、驚くべき行軍のスケール及び迫力を演出することに成功している。
また、脚本は史実をもとに脚色されており、主人公バリアンをはじめとするボードワン4世やサラディンなどは実在の人物で、その人物考証も史実に基づく。また、エルサレムの籠城・防衛戦についても資料に基づく再現がされている。
キリスト教徒、イスラム教徒ともに自己の陣営内の過激派勢力の対処に頭を悩ませ、両者ともにエルサレムの平和と両者の調和を望みつつも、戦争に至る経過を描いている。
その点で、十字軍対イスラム教徒軍の戦いを描きつつも、人間ドラマとしても十分に楽しむことのできる、奥行きある歴史スペクタクルが完成している。
本レビューで扱うのはディレクターズカット版であり、監督を始めとした製作陣が入れたいシーンが網羅された完全版であるので、劇場公開版よりもストーリー展開が深い。
これから観る方にはディレクターズ・カット版をお勧めします。
また、リドリー・スコット監督は代表作グラディエーターに象徴されるように、歴史巨編製作の第一人者であり、全体として本作においても映像美を極めた映画を完成させている。
特に、バリアンの故郷のシーン。森の深遠な青緑がかった美しさは忘れられない。
見て損はしない映画の一つ。
あと、エドワード・ノートンが出演しているが、本人の希望により、クレジットには名前がない。公式プロモーションにも名前を出していないようだ。
【映画データ】
2005年・アメリカ
監督 リドリー・スコット
出演 オーランド・ブルーム,リ―アム・ニーソン,ジェレミー・アイアンズ
↑エルサレム,岩のドーム.ムスリムの聖地,7世紀末に完成.
映画:キングダム・オブ・ヘブン ディレクターズ・カット版 解説とレビュー
※以下、ネタバレあり
★全体の印象
なじみのない歴史背景を扱う作品だからでしょうか、キングダム・オブ・ヘブンの日本での興行成績は残念なものに終わり、評価も芳しくありませんでした。
しかし、アメリカサイドの製作としては、イスラム教徒側のステレオタイプ的描写も少ないし、十字軍が正義の体現者であるかのような扱いもありません。
割と両者対等に描かれており、善対悪の二元論に終わっていない点でも見る価値のある作品だと思います。
ボードワン4世を初めとするキリスト教徒側の陣営の内紛や人物、イスラム教徒側について、もう少し、陣営内部を描いても良かった気はしますが、焦点はあくまでキリスト陣営側にあるだろうから省いたのでしょう。
少なくとも、サラディンについてはそれなりに描写があって、戦闘シーンの実写とCGの融合は言わずもがな、人間ドラマとしても見応えがあります。
それでは、以下キングダム・オブ・ヘブンのストーリーの詳細について多少引っかかるかな、と思う点がありましたので、書いていきます。
★なぜ、バリアンはシビラと結婚して王位継承者となり、ボードワン4 世を継ごうとしなかったのか。
ここは、作品の面白さを決める大きな分岐点になると思いました。
ここで、結婚してギ―らを抑え込めば、エルサレムの平和は継続して、イスラム軍とも戦闘をしなくてもよかったのではとも思えます。
そう解釈するとバリアンはただの融通の利かない頑固者ということになり、その後の戦闘はバリアンのせいではないか!?
こうなると、多数の犠牲者を出したエルサレム籠城戦は映画のラストを演出する単なるご都合主義だ、ということになってしまいますね。となるとなんて脚本なんだ!ということでキングダム・オブ・ヘブンは駄作決定。
確かに、ストーリー展開上、ここで結婚してしまったら話が終わるということもありますが、それはさておき…。
ここは結婚してしまえ!といった感想がありがちな箇所でもあるので、一つの見解を示して見ましょう。
それは、キングダム・オブ・ヘブン、すなわち天の王国と呼ばれるエルサレムに対する価値観の違いであるとの説です。
主人公はもとは村の鍛冶屋です。なぜ、エルサレムに来たのか。それは@妻子を亡くした絶望とA父親が騎士であったこと、それにB父がエルサレムに息子を誘ったからです。
つまりは、主人公は狂信的なキリスト教徒ではないし、エルサレムに対する思い入れがそれほど深くはない。父祖の代から血を流し、戦闘を繰り返しながらエルサレムを文字通り死守してきたシビラやボードワン4世とは違う。
もとはと言えば、イスラム教徒の住んでいたエルサレムを無理に支配下に置き続けようとすれば、いずれはイスラム教徒の対決は避けられず、同胞であるキリスト教徒をも粛清しなくてはならなくなる。
そうであるならば、いっそ、イスラム教徒の手にエルサレムを返すべきではないかと考えたというのです。
これはこれで一理ありますね。
十字軍に参加すべくはるばる欧州から馳せ参じた騎士たちは、正確に言うと、エルサレム現地のキリスト教徒とは一線を画しています。
これは劇中にも描かれていますが、王の軍事顧問であるティベリアスと対立しているのは主に欧州から馳せ参じた騎士たちで、彼らのことを狭義の意味で十字軍と言います。
彼らは、エルサレムを守るためにわざわざやってくるほどですから、血気盛んで、隙あらばイスラム教徒と一戦交えようと非常に好戦的です。
しかし、エルサレム居住の騎士たちは長い戦いを経てきているので、現実的。イスラム教徒の軍隊と比べて、自軍が人数で劣ることを自覚して、融和的態度でイスラム教徒に臨むべきと考えています。
よって、単純に言ってしまうと、ボードワン4世宮廷内の過激派とは、欧州からの参戦組を中心にする一派ということになります。
ここで、主人公バリアンは欧州からの参戦組ではありますが、もとはといえば、フランスの村人であったわけで、戦争をしに来たわけではありません。
また、父はボードワン4世の側近であった様子からすると、立場的には宮廷内の穏健派に近いことになるでしょう。
そして、主人公の考え方は父の遺志をついで、エルサレムの調和を目指すところにあるわけです。となれば、エルサレムの地をキリスト教徒のものとして死守することにシビラほどの思い入れはないと考えても十分に納得できます。
そうはいっても、バリアンとて、はるばるエルサレムに来て、自分の領地を持ち、苦労して開墾や灌漑をし、愛する人もいる地です。全く思い入れがなかったわけではないでしょう。
そこで、バリアンの人柄が王位継承を断る決断に関係してきます。
★バリアンの人柄
バリアンは自分の正義に忠実な人でした。
バリアンがギーら自軍の過激派を粛清したくないという自分の正義を貫いて結婚の話を断ったことは映画から最も簡単に分かります。もっとも一般的な解釈ですが、この一見もっとも単純な点に真義があると考えます。
すなわち、ここで、バリアンが一時的に信念を曲げて国王になったとしても、ギ―らの粛清の後、サラディンとの危うい平和状態を保つことになります。
しかし、第二、第三のギ―が現れることは避けがたく、サラディンも好戦的な勢力を抱えて、バリアンらキリスト教徒側と事情は同じ、いずれはイスラム教徒との開戦は避けられない…結局は同じ流血の事態が繰り返される歴史となるのです。
もちろん映画中ではっきりと、イスラム教徒の手にエルサレムを返してしまえなどとは言っていませんが、少なくとも同じような歴史を積み重ねて血を流すことの愚かさを述べたかったのではないかと考えました。
★じゃあ、最後の籠城戦はせずに降伏したらよかったのに?
バリアンがイスラム教徒の聖地支配を半ば容認していたとすると、負けると分かっている映画のクライマックス、エルサレム籠城戦は避けられたのではないかとも思えます。
これは一番痛いところですが、
1, ギ―が実権を握った後、イスラム教徒との戦闘が繰り返され、大敗北により多数の死者が出ていて、感情的に戦争をしないわけにはいかない空気が圧倒的になっていたことや、
2, 圧倒的に不利な今の地位ではエルサレム明渡し交渉を優位に進められず、民衆の安全確保の条件を取り付けるために必要な戦闘であった
との解釈がとれるでしょう。
この籠城戦によって、少なくともこう着状態に陥らせ、不利な地位を回復したところがミソでしょう。
サラディンが名将であるならば、それでも交渉可能でったのでは?とも反論できますが、圧倒的に不利な地位の場合、
1, 交渉で得られる果実は少ないこと、及び、
2, イスラム教徒側にも過激派がいて、サラディンとしてもそれらの者の主張に配慮しなくてはならないことを考えると、
やはり、圧倒的不利な地位のままでの交渉は無益と判断したことに合理性はあります。
まとめると
1, バリアンのエルサレムへの思い入れのボードワン4世・シビラとの違い
2, バリアンの信念、
以上の理由で一時凌ぎでギ―らを粛清して国王となることをバリアンは断ったのであると考えられます。
★バリアンにとっての天の王国(キングダム・オブ・ヘブン:KINGDOM OF HEAVEN)とは…?
同じ歴史を重ねて愚かな戦いを続けることを拒み、国王になることを断ったバリアン。敗戦後は王族であることを捨てたシビラと共に祖国フランスの村に帰って来ました。
そこに訪ねてくるエルサレムに向かうという従者を引き連れた騎士。エルサレムで戦った勇者を訪ねてきたというその騎士にバリアンは自分がそうだと名乗ることはありません。
バリアンにとっては言うまでもなく村での堅実で平和な生活が幸福であり、国王の権力や宮殿の生活は幸福に値しません。
騎士に対して口を閉ざすのは、エルサレム籠城戦が決して褒められるべきことではないこと…その裏にある数え切れないほどの犠牲者たち…を考えてのことであり、騎士の登場に暗示されるように、これからも続くであろう闘いと流血の歴史の重みを感じるからなのでしょう。
ここで、バリアンがキリスト教徒の支配下にエルサレムを置くべきとの考えの持ち主でなく、自己の信念を貫いた人であったことが確実になります。
仮にイスラム教徒の手からエルサレムを奪還すべしとの考えの持ち主であるならば、騎士に自分がそうだと名乗ったでしょうし、これから十字軍としてエルサレムに向かう者に激励の言葉一つもかけたに違いありません。
そうしなかったのはあくまでもバリアンが自己の信念であるエルサレムの調和を願って、先のエルサレムでの戦争を戦ったことの表れなのです。
★訪ねて来た騎士は何者?
これはエルサレム奪還に向かうリチャード1世(獅子心王)でしょう。
第3回十字軍によるイスラム軍との戦争が再び始まることをこの騎士の登場によって示していると考えられます。
そして、究極的には現在にいたるまで続く争いに次ぐ争いの流血の歴史が続いていくことも…。
★オーランド・ブルームとバリアン
バリアンも実在する人物ですが、キングダム・オブ・ヘブンでは相当脚色されていると考えていいでしょう。
実際にはギ―がサラディンと戦って散々な負け戦の末、ギ―自身がイスラム側の捕虜になった戦闘にも参加していました。
そして、その際に脱出に成功し、サラディンからは戦闘に参加しないことを条件にエルサレムへの帰還が許され、戻ってくるが、結局エルサレム籠城戦の戦略・防衛線の構築に尽力したというのが史実です。
映画中のバリアンは理想主義を絵にかいたような人物でリアリティがないなぁと思ってしまうのですが、平和と共存を望んだ人物としてメッセージを観客に伝えるために極限的にピュアな人物像にされていたと考えればいいでしょう。
オーランド・ブルームはちょっと顔が美しすぎますね。これで鍛冶屋と言われても…由緒正しき御子息と言われた方がしっくりする…まあ、実際には騎士の息子だったわけですが。
生きることの長さや重みが出ていない、この、ある意味無個性的な美しさというのは今回のバリアンの役柄に合っているのかもしれません。バリアンは現実に妥協してしまいそうな人間臭さのある雰囲気の俳優ではだめなのかもしれない。
ちょっと現実離れ感が強すぎて、浮足立っている部分があるとも思います。
しかし、この映画が題材とする、聖地を巡る絶え間ない争い、救いのない歴史的背景において、バリアンのファンタジスティックな存在は、唯一の支持すべき大義の体現者です。
ならば、血なまぐさい歴史的背景とのバランス上、それくらいの非現実感があってもいいのかもしれないですね。
【映画データ】
2005年 アメリカ
監督 リドリー・スコット
出演 オーランド・ブルーム、エヴァ・グリーン、リーアム・ニーソン
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