※レビュー部分はネタバレあり
最後の晩餐 平和主義者の連続殺人。なんとも派手な題名だが、内容は社会派ブラックコメディ。かなりしっかりした作りの映画で題名で敬遠すると損するなあと思った映画の一つ。
↑イエス・キリストの最後の晩餐
アイオワ州で共同生活をする5人の大学院生が主人公。彼らはリベラルな思想をもつグループで、それぞれ政治、心理学、法律などを専攻している。
ある雨の日、彼らのうちの一人が見知らぬ男に家まで送り届けてもらう。そこで、お礼にとその男を夕食に誘うことに。
しかし、彼は保守的な思想の持ち主であった。食事の席での議論は白熱。リベラル派の大学院生たちとの夕食での議論は紛糾する。そしてちょっとしたアクシデントからついには彼を刺殺する結果に。
驚き、動揺する彼らだが、これは正義のため、世のためになることだと納得することにする。そしてとりあえず彼を庭に埋めておくことに。
そしてあるアイディアを思いつく。そうだ、保守派の人々を招待してこの世から消えてもらおうと…。
↑イエスが最後の晩餐で振舞ったのは赤ワインと一かけらのパン.
なかなかの掘り出し物。女優として『マスク』でヒットを飛ばしたキャメロン・ディアスの次なる出演作。
でも、これはキャストを見るべき映画ではない。それよりも断然際立つのは、この扱うテーマの面白さ。
ただの議論が暴力に至ったら?心から正義を愛しつつ、正義のために殺人をいとわない彼らにご注目。
タイトルの「平和主義者」には異議あり。恐らく「連続殺人」と対比させたかったためのネーミングだろう。かれらはリベラリストではあるが、リベラリスト=平和主義者ではない。原題は『The Last Supper』。
【映画データ】
最後の晩餐 平和主義者の連続殺人
1995年 アメリカ
監督 ステーシー・タイトル
出演 キャメロン・ディアス、ジョナサン・ペナー、他
↑最後の晩餐で使用したとされる聖杯.代表的な聖遺物の一つ.
映画:最後の晩餐 平和主義者の連続殺人 解説とレビュー
※以下、ネタバレあり
★『最後の晩餐 平和主義者の連続殺人』が笑うもの
この映画では両極端なリベラルも保守派も笑い飛ばされています。
リベラルは言うまでもなく大学院生5人のことで、彼らは「排除すべき」意見や考え方を持つ招待客を殺しまくり、果ては犯罪隠ぺいのため、保安官まで殺害。
招かれた保守派の客たちも、その極端でときに自己矛盾した主張にはあいた口が塞がりません。
極端な保守でもなく、極端なリベラルでもなく、じゃあ中道を行けということ?
『最後の晩餐 平和主義者の連続殺人』には中道派の代表と目されるTVリポーターの男も出てきます。この男、意外とまともかと思いきや、大学院生全員を殺してしまいます。
さらに、大学院生との食事の席では大統領のような権力には興味がないと言いながら、最後はどうやら大統領選に名乗りを上げているようです。
加えてその演説の内容。「みなさんの声に押されて…」。
↑最初のうちは手の込んだ料理を出していましたね.
アメリカ大統領選といえば、保守代表の共和党かリベラル派の民主党のほぼ2政党しかないわけで、TVリポーターの男はどちらかから出馬したことが推測されます。
これは保守でもリベラルでもどちらでもないといいながら自分の考え方を持たず(ただし、大統領選に出馬したい意思は自分のもの)、日和見的にその時の時流に乗っている方を選択する中道派を自称するご都合主義な人々を皮肉っているのです。
つまり、『最後の晩餐 平和主義者の連続殺人』は両極端なリベラル・保守主義を笑い、中道派を自称する人をも笑い飛ばす映画なのです。
★映画の深層
さらに、深読みしてみましょう。
リベラル・保守というような思想の色を取りのけて、単純にこの映画の人物たちの対立構造に着目してみます。
すると、ある考え方を持つ者が、正義の実現を掲げて、対立する思想の者を排除する図式になっていることが分かります。
さらに、大学院生たちは自分たちの思想に合わない者は、心変わりしない限り殺すというルールを作って、選択肢を殺人という暴力的手段に狭めてしまっています。
「正義」の相対性、一義的な定義の不可能性から、なにが正義かを決めてその枠から外れる者を排斥する考え方は全くナンセンスです。
しかし、大学院で勉強している頭脳明晰なはずの学生たちは正義の名に目が眩み、その論理のいびつさに気が付いていません。
正義を標榜する学生たちにはその論理のおかしさがもはや見えなくなっていたのです。
『最後の晩餐 平和主義者の連続殺人』は1995年に製作されました。90年代はソ連崩壊後、アメリカが世界の警察としての矜持を保つため、戦争や紛争介入が繰り返された時代。
1991年にアメリカは湾岸戦争に参戦していますし、同時期にはボスニア紛争が勃発しました。
一方で、ベトナム戦争の悪夢の再現を恐れるアメリカが、自国の直接関係しない戦争に介入することの負担を感じていた時期でもありました。
民族紛争においてはどっちもどっちという場合が多く、どちらが善・悪とは一概には決められません。
このような場合にどちらかを悪と決めて介入してきたアメリカ外交政策。そこに基底して流れるのは「善悪区分論」です。9.11後の「悪の枢軸論」にも見られるこの論理は、ブッシュ政権下で突然に登場した理論ではありません。
この理論は自分たちの思想に絶対的な「正義」を見出して従わない者に暴力行為を繰り返した大学院生たちの論理にそっくり。
アメリカ外交政策に対する暗喩がこの映画には込められているような気がします。
↑大学院生たちが出した食事は、最後にはファーストフードになっていました.