※レビュー部分はネタバレあり
ロバート・デ・ニ―ロとマーティン・スコセッシの強力タッグによる最初期の作品。ある一人のタクシードライバーの心理と狂気を描く秀作。カンヌ国際映画祭パルムドール賞受賞。
ロバート・デ・ニーロは狂気を秘めたV感情を持つトラヴィスの危うげな演技が実にはまっていて、デ・ニーロに静かな恐怖を感じる。
大都会ニューヨークを流すタクシー。元海兵隊員のトラヴィスはベトナム戦争に従軍して退役した後、職業あっせん所に行き、仕事を探していた。
そこで見つけたのはタクシー運転手の職だった。
家族もいないトラヴィスは、今は将来の当てもなく、ただ毎日タクシー運転手としてその日暮らしで働いていた。
一方、彼の中では、次第に社会への怒りやいら立ちが募ってきていた。孤独や空虚、そして自分自身を理解してくれる者が誰もいないことを悟った彼は、ある決心をする。
自分自身と言う存在を世間に知らしめるべきなのだ…。
ロバート・デ・ニ―ロのとスコセッシ監督の10作以上にわたるコンビの先駆けとなったタクシードライバー。この作品でロバート・デ・ニ―ロは当時の若者に絶大な人気を博することとなった。
また、娼婦役で出演するジョディー・フォスターは当時13歳。
タクシードライバーでアカデミー助演女優賞にノミネートされた彼女は以降、子役から女優として本格的に第一歩を踏み出すことになる。
アメリカの顔、NYという都会が実に印象的に描かれる。
ジュリアーニ市長の市政以降はNYの街角は劇的に変化した。
オフ・ブロードウェイの喧騒や裏通りの猥雑さは今はない。
そのNYの描写をさらに印象的に引き立てるのはこれが遺作となったバーナード・ハーマンによるサックスを基調にした音楽の流れ。
タクシードライバーは一見の価値ありの映画だ。
【映画データ】
タクシードライバー
1976年 アメリカ
監督 マーティン・スコセッシ
出演 ロバート・デ・ニーロ,シビル・シェパード,ハーヴェイ・カルテル,ジョディー・フォスター
映画:タクシードライバー 解説とレビュー
※以下、ネタバレあり
★ラストシーン、トラヴィスに残る狂気
トラヴィスは結局、釈放されて、夜の街をタクシーで流す姿でエンディングを迎えます。この結末、狂気は彼を解放したのでしょうか。
答えは否、です。
ベッツィーを降ろした後、タクシーを走らせる彼がフロントミラーに視線を走らせる場面。そのとき、一瞬のショットが捉えた鏡の中の彼の眼が、いまだ彼の内部に残る狂気を映し出しています。
そう、彼の狂気はいまだ彼の中にあるのです。
★トラヴィスの狂気はどこから来たのか
彼が無謀な計画を立てたのは、このアメリカに腹を立てていたから。
ベトナム戦争に行って命を投げ出してアメリカに尽くしたのに帰ってきたら職業安定所で職をもらわなければいけない状態。
毎日のようにニューヨークの街を流し、昼も夜もありません。ポルノ映画を見に行くか、夜はたまに仲間のタクシー運転手とたむろするくらい。あとは一日中同じ繰り返しです。
おまけに恋人になるはずの女には逃げられ、誰もトラヴィスの近くにはいません。
こんなはずではなかった。
トラヴィスがアメリカを離れ、遠くベトナムの密林の中で毎日命を銃弾にさらしていた間にアメリカは一体どうなってしまったのでしょうか。
ベトナム戦争に対するはげしい反対運動はアメリカに厭戦気分をもたらし、アメリカ社会は戦争に対して消極的な雰囲気が漂っていました。その上、敗色の濃い戦争でした。
トラヴィスら兵士がベトナムで生死の境を彷徨っている間にアメリカ社会は大きく動いていたのです。
ベトナム戦争は失敗でした。当然、帰還してくる兵士たちもいます。しかし、それ以上に死体袋の数が多すぎました。
ベトナム戦争はアメリカの歴史の汚点になりました。もはやだれも正面切って触れたがりません。しばらくはそっとしておきたい問題でした。
↑ジョン・レノン.アーティストであると同時にベトナム反戦運動の旗手でもあった.1971年10月に「イマジン」発表.
かくしてベトナム戦争は葬られました。
戦争から帰還してきた兵士たちに戦争の影響による精神症状や枯葉剤などの化学病の症状が出ても、それがベトナム戦争のせいだとは認めたがりませんでした。
犠牲が多すぎた戦争、アメリカが負けた戦争。この衝撃は一時的にせよ、アメリカ社会を麻痺させました。
アメリカ社会にとってのベトナム戦争は忘れたい記憶になったのです。その狭間に落ちたのがトラヴィスのようなベトナム戦争帰還兵でした。
今日明日の金銭に事欠き、職も十分にありません。
加えて、大なり小なり体や精神に傷を負った者が多かったのです。そのせいで、長く働けなかったり、解雇されることも多いのも事実でした。
手を差し伸べるべきアメリカ社会は戦争に負けたというアメリカ社会自体が食らった傷の修復に忙しく、帰還兵のことなど構っていられません。
楽ではない暮らし、むくわれない思い。
そして、何よりも、このアメリカという国に埋もれてしまっている自分。命を張って闘った自分は今いずこ。
いまや一介のタクシー運転手に過ぎない。自分が社会的に相当と評価されないことに対するやるせなさ。
トラヴィスの怒りの根源はベトナム戦争。
そして、怒りの対象はアメリカそのもの。たまたまターゲットが大統領候補者であったのは、恋人の女の勤め先だから。
怒りの投影しやすい身近な人々にトラヴィスの怒りの矛先が向けられました。
↑アメリカ各地にベトナム戦争のメモリアルがある。これはシカゴのもの
★偶然という幸運
だいたいが、トラヴィスが英雄扱いされたこと自体が偶然にすぎません。彼の計画に明確に裏打ちされた思想性もなく、計画性すら存在しないのです。
まず、当初の計画では大統領予備選候補を暗殺するつもりでした。しかし、SPに阻まれてあっさり断念し、次の標的を狙うことにします。
そもそも大統領予備選候補を狙ったのも、単にベッツィーが働いていたのがその候補の選挙事務所だったからにすぎません。特に政治的にどう、という話ではないのです。
かくして暗殺に失敗したトラヴィスの次なる標的は少女を売春させてシャバ代をとる元締めになりました。そして、その殺害に彼は成功します。
ここまでならただの殺人ですが、また偶然が味方してくれました。
少女は家出していたのです。
このことから、少女の所在が判明し、家族が少女を引き取ることができました。そして両親はトラヴィスに感謝の手紙を出すことに。それで、マスコミによって彼はあっという間に英雄に祭り上げられてしまったのです。
★殺人は正義か、狂気か
ある殺人行為が狂気の仕業とされるか、それとも正義の鉄槌なのか。
実に相対的ではありませんか。本来、殺人犯として訴求されるべきトラヴィスが無罪放免になってしまったことから分かるように。
誰が「ノーマル」な人間で、誰が異常な人間なのか、いつたい誰が決めるのでしょう。判定する側が狂っていたならば、「ノーマル」な人間も異常な人間になるのでしょうか。
そもそも、「ノーマル」な人間の基準って何なのでしょう。何が普通かなんてどうやって決めるのでしょうか。
とりあえず、トラヴィスを放免した社会では、トラヴィスの行為が正義の行為とされ、少女の両親の手紙がそれを後押ししました。
事実を拡声して伝えるのはメディア。映画中でも、トラヴィスの行為や両親からの感謝の手紙が送られたことを伝える新聞記事が映っています。
彼を放ったのはメディアに拡大された社会の「多数派」の声。この場合は世間一般の人たちは釈放を選択しました。この場合はそれが「ノーマル」な選択でした。
トラヴィスを英雄に祭り上げ、無罪にした社会は狂っているのでしょうか。
でも、社会の大半の人間がトラヴィスの行為を正義だと思っているとき、トラヴィスの行為を罰すべきと考える人間は「アブノーマル」なのかもしれません。
★最後に
世間はトラヴィスの事件でベトナム反戦運動とアメリカ社会の間に落ちたベトナム帰還兵の問題に気がつかねばなりませんでした。
これに結局気がつかずに事件が終わってしまったことのつけはいつかはそのつけが返ってくるでしょう。
トラヴィスは無罪放免ですし、アメリカには他にもトラヴィスのように問題を抱えた帰還兵が大勢います。
トラヴィスは自己顕示をすることに成功しました。
彼の誇らしげな気持ちは、自分の記事をスクラップして壁に貼り付けていることから窺えます。
今、トラヴィスの歪んだ精神は、自身が犯した殺人を正当化し、自分が社会的にも評価されたと思い込んでいます。
トラヴィスが事件を起こそうと決めたのは世間の人たちの注目を集めたかったから。正義を貫きたいからではありません。
最初の計画通り、大統領予備選候補を暗殺していたらトラヴィスが英雄になることはあり得ませんでした。
娼婦の少女が家出人でなかったら娼婦の元締め殺しで殺人犯だったでしょう。
トラヴィスの狂気の根本は何ら解決していないのです。
いまだその狂気は孤独と閉塞感を伴って彼の心に潜んでいます。いつか、また何がきっかけで爆発するかわからない。
そして、それに気がつくことのできない、もしくは見て見ぬふりをしている社会にもその責任があるのです。