※レビュー部分はネタバレあり
デイ・アフター・トゥモローが描くのは凍結した地球。ジェイク・ギレンホールとデニス・クエイドを主人公の親子を演じる。
アメリカ、ワシントン。気象学者のジャックは医師である妻と息子の三人家族。ジャックは地球温暖化による地球の遠い将来を熱心に研究している学者である。
彼は将来の地球温暖化による気候変動に強い危機感をもっていた。そこで、ジャックは政府にも警告を発するが、取り合ってもらえずにいる。
一方、息子のサムは高校生学力コンテスト参加のため、親元を離れてNYに向かっていた。
その直後、急激な気候変動によって突然地球に訪れた氷河期。急激な気温の低下と凍結、そして竜巻や雹(ひょう)などの異常気象。
東京やロンドン、そしてロサンゼルス…世界の大都市が急転直下の大災害に見舞われ始めた。
地球はどうなってしまうのか。親子は無事に再会できるのか。
デイ・アフター・トゥモローは当時の最新VFX技術を駆使して、氷結していく世界を表現して話題を呼んだ。自由の女神像の凍結場面は印象的。
【映画データ】
デイ・アフター・トゥモロー
2004年・アメリカ
監督 ローランド・エメリッヒ
出演 ジェイク・ギレンホール,デニス・クエイド
↑ニューヨーク,マンハッタンのダウンタウン
映画:デイ・アフター・トゥモロー 解説とレビュー
※以下、ネタバレあり
サムをはじめとする避難してきた人たちが窓の外をふと見やると、大洪水で水面が上昇していて、建物の高層階に当たる高さを巨大タンカーが横切っていくシーン。あれはデイ・アフター・トゥモローの中でも衝撃的なシーンでした。
また、異常な気温の低下に見舞われ、何もかもに氷が張り、煙ったように白く霞む地上の世界が崩壊していく様子には目を見張るものがあります。
ニューヨーク・マンハッタンの高層ビル街に氷が上から下へ走るように張って、ほんの一突きで建物が氷の破片と化すのではないか、実にはらはらするシーンです。
氷結していく白と銀色の世界には美しさすら感じてしまうほどでした。
その意味で、デイ・アフター・トゥモローで映像や視覚効果の発展、またそれに向けられたその努力の素晴らしさは称賛に値します。
一方、安全な場所から見ている映画の鑑賞者が、災害に襲われた者たちの行動に感情移入するには、彼らの行動や感情に共感できなくてはなりません。
つまり、登場人物の行動と映像の両方にリアリティが必要です。
ところが、デイ・アフター・トゥモローでは明らかに映像のリアリティに力点が置かれていて、とてもアンバランスになっています。
映像はこの上なくリアリティに満ち溢れているのにも関わらず、ジャックやサムの行動のあちらこちらにご都合主義が見え隠れします。
↑NY,エンパイア・ステート・ビル。デイ・アフター・トゥモローの中で一気に凍結して氷が走ったビルです。
ジャックはなぜ、わざわざ息子に会いに来るのでしょうか。
それは、息子を助けるため。
別におかしくない、と思ってしまいますが、これはデイ・アフター・トゥモローのストーリーの本筋にして、最大のウィークポイントです。
現実には外は大吹雪、ニューヨークは大洪水、道は雪道を超えて、もはや道なんてないも同然の大雪原です。そんな道をわざわざ来ようというのでしょうか。
確かに、ジャックにとっては、サムはかけがえのないわが子でしょう。しかし、視野を転じれば、何百万規模の人々が、襲い来る大寒波に命を危険にさらしているのです。そして、まだ、避難が可能な人々もいます。彼らの救出に人員を割くべきではないでしょうか。
また、父親は政府に助言できる立場にある研究者です。しかも、今の異常な寒波の襲来を警告できた唯一の気象学者でした。
彼は、今後の異常気象の詳細な分析や予測をするなり、政府が安全な避難ルートの策定をできるように助言するなり、専門家として人々に貢献すべきことがたくさんあるでしょう。
人類未見の異常気象の中、多くの人命を救うために、すべきこと、できることは多かったはずです。
にもかかわらず、仲間を引き連れ、仕事を放棄してできるかどうかも分からない息子の救出に行こうというのでしょうか。
このシチュエーションでは最良の選択をするべきです。それは、救えることが確実な命を救うことであり、息子の救出に集団で向かうことではありません。
ジャックは、前半では誰にも理解できなかった未曾有の大惨事を予測したのに、後半になると一気に常識的な判断をしなくなってしまいます。
研究者は、自分の性に合う分野を一点探求し、その生涯をかけて考察を深めようとするものです。だからこそ、他にはないプライオリティーを持った職業でもあります。
特に、政府に助言できるような立場の研究者ならば、いい加減な研究業績ではないはずです。
その証拠に、ジャックは誰も信じなかった異常気象の発生を警告していました。
常に自分の研究分野に対する情熱を持っているジャックだからこそ、誰よりも早く警告をすることができたのです。
そして、そのような研究者は、常に自分の専門分野に対してはプロフェッショナルとしての矜持(きょうじ)を持っているものです。それが、息子の命の危険というものでぐらついたとしても、最後の一線では留まるものがあるはずです。
少なくとも、救出に向かうという選択肢を外せないのならば、仲間の応援はなんとしても断わるべきでした。
仲間はサムの救出以外の仕事に人員として配置し、現在の気象状況の分析と把握を行ったり、多くの被災者の救援策に回すのが、理性ある科学者としての態度です。
父が息子を助けに行きたいという気持ち、それ自体は実に自然な愛情ですし、描かれるべき価値のある題材でもあるでしょう。
しかし、息子一人のために、仲間全員を犠牲にしてまでたどり着く価値は、他の大勢の避難民の救出を図ることに比べていかほどでしょうか。
父のジャックは息子の命の危険と仲間の命の危険を冷静に考える余裕もなくなってしまっていたのでしょうか。
加えて、ラストシーンで流れるニュースもおかしいと言わざるをえません。何百万人単位で亡くなっているのに、いささか不自然なまでに明るいナレーション。
確かに、ジャックとサムは無事再開を果たしました。
地上には太陽の光が戻り、急速に(いささか急速すぎますが)氷が解けて、元の世界に戻っていっています。感動的な父と息子の奇跡の再会です。
一方で、この映画では、かなりの人々が命を落とします。
ニューヨークが大洪水に見舞われる前には東京で雹(ひょう)が降りそそぎ、イギリスではスーパー・フリーズ現象が起き、ロスでは巨大な竜巻が街を飲みこんでいます。
ところが、それらの人々の死は今回の大災害の悲惨さを演出するバックの一部でしかありません。
全ては父と子の感動の再会を演出する単なる背景なのです。
ラストシーンの不自然に明るいニュースのナレーションも、妙に早い天候の回復も、全ては父子の感動の再会を演出するため。
ここで、観客は他の多くの犠牲を忘れて、感動しなさい、というメッセージを受け取るわけです。
しかし、その感動を描くために無理に状況を設定すれば、その無理から来る歪みの方が気になって、感動すべき父の行動にさっぱり共感することができません。
人はなぜ、ディ・アフター・トゥモローのような天候の急変を災害だと思うのでしょうか。
それは、その地に人間の生活があり、人間の命の営みがあるからにほかなりません。自然災害は彼らの生活を破壊するばかりか、彼らの生命をも奪ってしまうのです。
ところが、この映画は失われる命に対して、恣意的に比重がかけてあります。息子の命は何よりも重く、仲間の命やその他大勢の命は自然災害の強大さを強調する仕掛けの一部に過ぎません。
この扱いの差が意味するのは、デイ・アフター・トゥモローの中での人間の命は軽い、ということです。
すなわち、大量の犠牲はデイ・アフター・トゥモローでの命の価値を下げてしまっているのです。
そのため、息子の命もまた軽いものに見えてきますし、命を賭けた父の救出劇はもはや茶番に過ぎません。
技術は進歩するものです。「ビジュアル・エフェクトの展覧会」のような映画は、次の世代には見向きもされなくなります。
しかし、そこにある人間のドラマがよいものであれば、作品のVFX技術が過去のものになっても、作品自体の価値が下がることは決してないでしょう。
↑NY,エンパイア・ステート・ビルのライトアップ。
次のレビューも(たまたまですが)、ジェイク・ギレンホールの主演映画を取り上げます。親子愛と友情を描く感動作「遠い空の向こうに」です。