※レビュー部分はネタバレあり
ファイト・クラブのエドワード・ノートンはハマり役、ブラッド・ピットはワルっぽさが最高。
2大スターが競演する映画、ファイト・クラブ。90年代の映画のなかでも、ファイト・クラブは屈指の傑作といえる映画だ。
人を苦しめる孤独と、心に潜む暴力的な衝動、そして自己破壊。誰もが持つ心の闇。その深層心理を見事に描きだす。
「解説とレビュー」ではファイト・クラブの結末、ファイト・クラブの「暴力」とは?、主人公に名前がない理由、ラストに映るブラッド・ピットのヌードの意味など、2つに分けて詳しく解説していきます。
ファイト・クラブ 解説とレビュー後半はこちら

【映画データ】
ファイト・クラブ
1999年・アメリカ
監督 デヴィッド・フィンチャー
出演 ブラッド・ピット,エドワード・ノートン,ヘレナ・ボナム=カーター
主人公は金融関係の仕事をし、裕福な生活をしている金融関係のサラリーマン。気に入った家具を通販で買い揃え、都会のど真ん中の高層マンションに住んでいた。
一方で、仕事は目が回る忙しさ。上司とのあつれきやすれ違い、仕事の日常的なプレッシャーに耐えかねてもいる。
そんな彼の楽しみは一風変わっていた。
"がん患者の会"や"アルコール依存症患者の会"などのグループ・カウンセリングに出掛けては時間を過ごし、会員と交流することが唯一の安らぎだったのだ。
ある日、彼が出会ったのはタイラーという男。
タイラーは主人公の男とは対象的な性格で、野性的で乱暴なところのある男だった。喧嘩に強く、女性にもてるタイラーに彼は自分の理想を見るようになる。
タイラーは「ファイト・クラブ」というクラブの主催者でもあった。
ファイト・クラブとは、その名の通り、殴り合いのファイトを目的に結成されたクラブ。毎日、深夜に開催されるファイト・クラブに主人公も参加するようになる。
昼間はスーツを着て会社のデスクに張り付いていなければならない。
しかし、夜に男たちの集うファイトクラブは全く違う場所。
そこは腕っぷしの強さがものをいう世界だ。お互いがお互いを本気で殴り合う。
初めて知る、新しい世界。主人公は次第にファイト・クラブにのめりこんでいく。
【映画データ】
1999年・アメリカ
監督 デヴィッド・フィッシャー
出演 エドワード・ノートン,ブラッド・ピット,ヘレナ・ボナム=カーター

映画:ファイト・クラブ 解説とレビュー
※以下、ネタバレあり
ファイト・クラブではエドワード・ノートン演じる主人公の名前が最後まで明かされません。なので、以下の「解説とレビュー」では便宜的に"ノートン"と俳優名で表記します。
なぜ、名前がないのかについても書いていきます。
★ファイト・クラブの結末
恋人のマーラと手を取り合って震動するビルの最上階にたつノートン。
2人はどうなったのでしょうか?
結論としては2人のいたビルも爆破されました。2人は死にました。
直前で爆弾を解除していた?とも思われます。
が、解除が失敗したか、まだタイラーがノートンによって消される前ですから、解除された爆弾をタイラーが修復したものと思われます。
タイラーはノートンの後から結末の舞台となったビルの最上階に来ていますしね。
エンドロール直前、ラストの映像も、ひどく画面が揺れ、最後に映像がブレて、途中でシャットダウンするようにして映画が終わっています。
その時にビルが崩壊したものと考えるのが素直でしょう。
死の直前、ノートンはマーラとの「愛」を知り、そして死んでいったのです。

★ファイト・クラブは暴力賛美?
現在ではファイト・クラブはカルト的人気を誇る映画として根強い人気があります。しかし、ファイト・クラブ公開時は暴力的だとこきおろされ、散々な興行収入でした。
ファイト・クラブが公開時に暴力的だと非難された理由の一つは、映画中で行われるファイトの様子。
確かに、ぶん殴られて血が飛び、痛みに顔をゆがめる様子は、銃で人をばんばん撃ち殺す映画よりはるかに痛々しい感情を映画を観る者に呼び起こします。
やはり、このファイト・クラブという映画は暴力行為に賛同し、暴力の助長を含意するものなのでしょうか。

★『気が済んだか、サイコ野郎』
本当にファイト・クラブが暴力行為に賛同する映画であるのなら、幾つかの矛盾が生じることになります。
まず、エドワード・ノートン演じる主人公が一人のファイト・クラブの会員をめちゃめちゃに殴り潰すシーンです。
ここで、ファイト・クラブが暴力を指向するクラブならば、ノートンはファイトに勝利した勇者として称えられなくてはならないでしょう。
しかし、タイラーはノートンに対してそっけなくこう言います。『気が済んだか、サイコ野郎』。
そして、ファイト・クラブの他の会員たちも白けたような、冷たいよそよそしい雰囲気に包まれています。
そこには暴力で不満を爆発させたノートンに対する非難が込められていました。
なぜ、ノートンは非難されたのでしょう?
なぜ彼らは殴り合うのでしょうか?
それはファイト・クラブの目的が「自己破壊」にあるから。

昼間の閉鎖的で規則的な生活。
毎日同じ時間に起きて、同じ時間に家を出る。会社に行って仕事をがむしゃらにこなす。そして家に帰る。その繰り返し。まるで鎖でつながれた犬のように、同じところを周回して回っているような生活。
そんな昼間の生活で生きている実感を感じられない者たちが、夜な夜なファイト・クラブに集まり、本気で殴り合う。
生きることはこんなにも痛いのだ、こんなにも感じられるものなのだ。殴られると痛いから、それが分かるのです。
殴られれば痛みを感じる。殴られてできた傷口がうずく。傷口からは血が流れる。次の朝には殴られた顔が腫れ上がっている。あざが体のあちらこちらにできている。
ファイト・クラブに来る者たちは、殴り合いで傷つき、痛みを感じ、自分の体にキズがつくことで自分が生きていること = 「自分がこの世に存在していること」を実感するのです。
決して、彼らは他人が傷つき、痛がるのを見て満足しているわけではない。
彼らは痛みを感じ、自分の体についたファイトの痕跡を見ることで充足感を味わうのです。

結論、ファイト・クラブの暴力性は自己の内側に向けられたもの、すなわち内面的暴力性です。
ノートンがタイラーに頼んでわざと硫酸をかけさせ、やけどを負ったり、タイラーに殴ってくれと懇願して自分の顔を殴らせていることからも、それが窺えます。
しかし、前述のファイトはノートンが一方的に相手を叩きのめし、さらに殴り続けたにすぎません。
そこには「殴られる」という要素が欠けています。
そうなってしまえば、もう単なる「暴力」です。
ノートンの行為はファイト・クラブでされるべき行為ではありませんでした。
すなわち暴力が他者に向かっていたことがファイト・クラブの趣旨に反する行為であり、それが皆を唖然とさせた原因だったのです。

★ハッピーエンドでない結末
また、暴力を肯定し、それを社会に対して行使することを肯定する映画であるならば、ファイト・クラブの主宰者であったノートンが恋人と幸せを手にした瞬間にビルが崩れ落ちるようなラストであってはならないはずです。
しかし、ラストではノートンは結局、自分が創設したファイト・クラブによる爆破計画により死亡する結末になっています。
仮に、ノートンが死亡しないという解釈をとるにしても、ノートンは爆破計画を止めようとしています。
確かにノートンは「タイラー」としてビルの爆破計画を立て、これを遂行しようとしていました。
しかし、結果的に計画を止められなかったとしても、最後に「タイラー」ではなく、主人公自身の人格でファイト・クラブの計画を止めようとしていました。
このことからも、暴力行為を肯定する映画であることは否定できるでしょう。
1, ファイト・クラブの暴力性が自分に向けられたものであったこと、
2, ノートンが爆破計画を止めようとしたこと。
以上2つの理由から、ファイト・クラブが暴力行為に賛同する映画であるなどという批判はナンセンスです。
むしろ、ファイト・クラブは暴力的表現で自己主張する行為を批判する映画であると見るのが当を得ているといえます。

長くなるので、ここで前半の「解説とレビュー」を終わりにします。
ご面倒ですが続きをご覧ください。
続きでは以下の内容について書いていきます
→続きはこちら
★なぜ、ファイト・クラブはビル連続爆破を企てたのか?
★★主人公はなぜ、グループカウンセリングに通っていたのか?
★★★なぜ、ファイト・クラブの主人公には名前がないのか?なぜ、舞台になる都市名が伏せられているのか?
★★★★ラストに映るサブリミナル映像。ペニスとブラッド・ピットのヌードの秘密。
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