※以下、ネタバレあり
映画:ファイト・クラブ 解説とレビューの続きです。
ファイト・クラブ 解説とレビュー前半はこちら
ファイト・クラブではエドワード・ノートン演じる主人公の名前が最後まで明かされません。なので、以下の「解説とレビュー」では便宜的に"ノートン"と俳優名で表記します。
なぜ、名前がないのかについては下の方に書いています。

★外に向かったファイト・クラブの暴力性
それにしても、なぜファイト・クラブはビルの連続爆破を企てたのでしょうか。
ビルの爆破計画は、それまで自分に向けられることで満足していたファイト・クラブの暴力性が、次第に外に向けられ始めたということの象徴です。
すなわち、内面的暴力性から外面的暴力性への変化。なぜ、このようにファイト・クラブは変質していったのでしょうか。
それは、ファイト・クラブで殴り合うだけでは物足りなさを感じるようになったから。
彼らは痛みを感じることで生を感じることができましたが、それはあくまでも夜のファイト・クラブという狭い世界の中だけ。
だんだんそれでは満足できなくなってきます。
昼間の社会では相変わらず。ノートンは、会社の歯車の一つにしかすぎません。
ファイト・クラブに熱心に通うようになってから、ノートンは服装は乱れ、態度もふてぶてしくなりました。
そんな彼は、変わり者扱いされて今では会社のはみ出し者になっています。
ノートンが会社でもそれと分かるようなあからさまな態度を見せたのは、目立つ態度を取ることで周囲から注目されるから。
会社でノートンに向けられたのは非難の視線だったかもしれません。それでも、彼はその視線に満足するものを感じていました。
確かに、褒められることで注目されたわけではないけれど、少なくとも、何も自分に関心が向けられなかった前よりもずっとましでした。
自分はここに「いる」のだ、ということ、自分という存在を知ってほしいという思い。

また、ファイト・クラブに行くようになって自分は強くなった。少なくともノートンはそう思っていました。
人は自分が強くなったと感じると自分に自信がついてきます。
また、自信がつくと、自分が強くなったと感じる。ノートンはまさに、その通りの状態。自分に自信を持つようになってきていました。
ところが、上司を始め、周りはノートンのファイト・クラブでの活躍を知りません。ノートンはあくまでもノートン。周囲にとって彼はやはり、会社のただの一社員に過ぎません。
上司はいつも通りにノートンをノートンとして扱います。
ところが、ノートンは自分に自信がついていて、今までどおりの扱いをされることに我慢がなりません。
それで、上司に反抗的な態度を取り、仕事を投げ出します。
こんなにも強い自分を分かってくれない昼間の世界の人間たち。
次第にファイト・クラブの外の世界にも「自分」を出したいという欲求が高まってきます。
この世界の人間たちに自分の存在を知らしめるにはどうしたらよいか。
そこで思いついたのは、ビルの連続爆破計画でした。

★ノートンは何を求めていたのか?
ノートンは自分の「存在」を知らしめるため、ビル爆破を計画した、と先ほど書きました。
自分が「存在する」、とはどういうことでしょうか。
たとえば、友人と自分が2人で席に着き、自分が話し始めたとしましょう。
相手が他の方を見ていたり、心ここにあらずで、明らかに自分の話を聞いていないことが分かると、そのとき話している人はふっと孤独感を抱くものです。
ノートンはまさにこの状態。自宅は高級マンションに高級家具。快適な生活ですがひとり暮らしの生活で恋人も友達もいない。
会社に行けば周りに人間はたくさんいますが、誰もノートンに関心を払わず、彼に興味すら持ってくれません。皆、自分の仕事にきりきり舞いで、他人のことに注意を払う暇などないのです。
では、人間が自分の存在を他人に認識してもらっていると感じるのはどんなときでしょうか。
それは、他人が自分の話を聞いてくれるとき、自分の話に共感してくれるとき。
相手が自分の話を聞いていることが分かると、人は安心するものなのです。
それは相手が話を聞いてくれるからだけではありません。
相手の反応を通して、相手が話をしている「自分」を認識していることが分かるからです。
つまり、人間は他人を通して自分の存在を認識するのです。

だからノートンは"依存症患者の会"や"がん患者の会"なるものに通っていたのです。
グループ・カウンセリングの参加者たちはノートンの作り話を聞き、涙を流し、話が終われば拍手で迎えてくれます。
ノートンには話を聞いてくれる人が必要でした。彼は話を聞いてくれ、共感してくれる存在を求めていたのです。
グループにいるのは見知らぬ他人ですが、それでも構わない。
自分の話を聞き、あいずちを打ちながら聞いてくれる人間がいるというだけで十分なのです。
グループ・カウンセリングが終わったあと、ノートンは体格のいい男とお互いの話をいい話だったとたたえあいながら抱き合っていました。
これも、自分の存在を確認したいという心理がなせるもの。他人との接触はやはり自分の存在を感じる源になります。
これが殴り合いに変わっただけ。
ファイト・クラブの「暴力」は「グループ・カウンセリングに通うこと」、「抱きしめ合うこと」の代わりなのです。
そして、最後には「暴力」は「愛」に変わりました。
愛とは相手に共感するということ。お互いを思いやるということは相手の存在を自分のなかで認めるということ。
つまり、「愛」とは主人公が最後まで求めた、自分の存在を確認する手段の最終形でした。

★結末直前、ペニスとブラピのヌードのサブリミナルはなに?
日本公開時にはモザイクがかかっていたとの話ですが、ファイト・クラブの結末。
ビルが崩れていくシーンが終わってエンディングクレジットに移る直前にブラッド・ピットのヌードと男性器のアップがサブリミナル的に入れられています。
なぜ、このショットが入ったのか。単なる監督の気まぐれではないでしょう。
男性器については、恐らくはペニス=セックス=愛の象徴、としての意味があると思われます。
これはすなわち、主人公が最後に掴んだマーラとの愛のこと。
次になぜ、ブラッド・ピットのヌードか?
ブラッド・ピット演じるタイラーは主人公の理想形。ファイト・クラブのセックス・シンボルです。
となれば、映画ファイト・クラブの文脈においては、「タイラーのヌード」は「最も男性的な姿」。

タイラーはその姿を消しましたが、タイラーはあくまでも主人公の一部。
主人公の人格の中に併存し、主人公の男性としての面をつかさどる存在です。
タイラーは主人公の一人格であるわけですから、このヌードは主人公のヌードでもあることになります。
つまり、ラストに映るのは主人公のヌードとペニス。
これは主人公の「男性」を表すとともに、この映画そのものの「男性」をかなり強調させるメッセージです。
ここにはセックスこそが最も愛を感じるとき、自分を感じられるときなのさ、というような意味があるように思います。
つまらない世の中でも、セックスをしているときは自分の存在を感じられる、というような。
ファイト・クラブは自分の「存在」を求めて彷徨う主人公のシリアスな物語。
ヌードとペニスのショットはシリアスな映画を真面目に見ている観客をまぜっかえしてやろうというような遊び心ではないでしょうか。
思えば、タイラーは斜めに構えたところのあるふざけた感じの男でした。
主人公の中にあるタイラーの一面が最後の瞬間、少しだけパッと混じったのかもしれません。
そして、タイラーは主人公の意識下の存在になり、それまでのように主人公の意識から分離することはできなくなったことの象徴的表現でしょう。

★エドワード・ノートン = 「?」
ファイト・クラブではエドワード・ノートン演じる主人公の名前、物語の舞台となる都市名が明らかにされません。
エンドクレジットではエドワード・ノートンの役名が「Narrator」とされています。
「ナレーター」とはそのまま、日本語のナレーター。話の語り手、話の進行役といった意味。人名ではありません。
なぜ、エドワード・ノートンの役名や都市名が明示されないのでしょう?
「ナレーター」は日々のうっ屈した不満を自己内に蓄積させた結果、「タイラー」という別人格を生み出しました。
「タイラー」こと、ナレーターが実質的にはファイト・クラブの設立者・運営者であったことは事実です。
これはノートンが二重人格であったという結末の重要なヒントでした。
都市名が明かされなかったのはモデルになったウィルミントンがロケを拒否したという事情もありました。しかし、仮にロケが可能であったとしても、都市名は明かされなかったかもしれません。
ファイト・クラブでは意図的に特定が可能な名前や場所の名称の使用を避けているように思われます。
なぜなら、役名や都市名を明かさないことで、「ナレーター」という存在が誰か個人を指すものではなくなるからです。
特定がされないことで、ファイト・クラブの「ナレーター」は現代人一般の孤独を代表する存在として普遍化されたのです。

★さいごに
ファイト・クラブは90年代最後の傑作。ストーリーはもちろん、エドワード・ノートン、ブラッド・ピットら俳優陣の演技も最高です。
エドワード・ノートンはこういう癖のある映画に好んで出演しているけれど、何を見てもハズレがなくて、俳優として本当に一流。
出演作は必ずチェックしたい俳優のひとりです。

お読みいただきましてありがとうございました。
これからも、魅力的なレビューが書けるようにがんばっていきます。
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