※『解説とレビュー』はネタバレあり
スティーブン・スピルバーグ監督作品としてあまりにも有名なこの映画。
特に冒頭20分のノルマンディー上陸作戦オマハ・ビーチ戦の描写はそのリアリティーで賞賛を集めた。

↑ノルマンディー上陸作戦を決行後,戦闘がひとまず終結. その後展開を始めた連合軍. アメリカ軍軍事情報センター提供.
プライベート・ライアンを初めて観たのはおそらく中学生のころ。オマハ・ビーチ戦はあまりに強烈で、本当に「痛い」と感じるほどだった。
バリー・ペッパーを知ったのはこの作品から。この後は彼の出演作もいろいろと気にするように。お気に入りは『25時』。日本未公開だが、『スノーウォーカー』という映画もいい。
オマハ・ビーチ戦の、あまりに生々しい記憶があったので、その後放置していた。ようやく見直したが、やはり、名作。
本作から3年後、「バンド・オブ・ブラザーズ」という10話に及ぶドラマが同じくスティーブン・スピルバーグとトム・ハンクスの共同制作により製作されている。
これはノルマンディー上陸作戦のもう一方を描くもの。
空挺部隊を主役に据え、ノルマンディー上陸作戦からドイツの降伏、そして終戦までを描いたドラマだ。
ライアン上等兵の所属していたのと同じ、空挺部隊の兵士を描いたという意味ではもう一つの「プライベート・ライアン」ともいえる。
元空挺部隊隊員の証言を元に構成されたノンフィクション・ドラマとしてこちらも秀逸。→『バンド・オブ・ブラザーズ』
プライベート・ライアンの『解説とレビュー』では"1人のために8人が命をかけたその意味とは何か"、そして、"アパム伍長のプライベート・ライアンにおける存在意義"について解説しています。

↑D-Day当日にノルマンディー上陸を待つ連合軍. アメリカ軍軍事情報センター提供.
1944年、ノルマンディー上陸作戦が決行され、連合軍はドイツ領フランスに侵攻した。
オマハ・ビーチの激戦を生き残ったミラー大尉に米軍空挺師団のジェームズ・ライアン上等兵の救出を命じる指令が下される。
ミラー大尉は部下を8人引き連れてライアン上等兵の捜索に乗り出すことになった。
しかし、空挺部隊はドイツ軍の対空砲火によって四散しており、ライアン上等兵の生死や所在は定かでない。
そのうえ、ノルマンディー上陸後、間がなく、いまだ解放されていないドイツ占領下のフランス領に侵入しなくてはならないという危険極まりない任務であった。
彼らの行く手には想像以上の困難が待ち受けていた。
【映画データ】
プライベート・ライアン
監督 スティーブン・スピルバーグ
出演 トム・ハンクス,トム・ハンクス,トム・サイズモア,エドワード・バーンズ,マット・デイモン,バリー・ペッパー,アダム・ゴールドバーグ,ヴィン・ディーゼル,ジョバンニ・リビシ

↑ノルマンディー上陸作戦前夜、作戦決行を待つアメリカ軍. アメリカ軍軍事情報センター提供.
【簡単に分かる!ノルマンディー上陸作戦】
作戦決行日はD-Dayとも呼ばれる.ノルマンディー上陸作戦は連合軍がドイツ占領下のフランスに上陸するという対独戦線の突破口となった重要な作戦。『史上最大の作戦』とも呼ばれる。これに対比して、史上最大の失敗といわれる連合軍の作戦も存在する。詳しくはこちら。
空挺部隊が先行してドイツ領フランスに空から侵攻し、先に海からの上陸作戦の障害になる砲台等を攻略しておき、続いて海から陸軍が上陸する手はずになっていました。
しかし、ドイツ軍の対空砲火が予想以上に猛烈であったうえ、フランス上空の通過時間は12分という短さ。
空挺部隊は海に降下して溺死するか、各地に四散してしまい、決められた集合地点に到達出来た兵士はごくわずかという状況であったといいます。
結果的には、空挺部隊は大半の任務の遂行に成功し、海からの上陸作戦も成功します。
上陸作戦も複数の方向から上陸作戦が決行され、もっとも激戦かつ多数の死傷者を出したのが本作で描かれるオマハ・ビーチでした。

↑D-Day当日. 上陸後,戦闘がひと段落し,負傷者の手当てをしている. アメリカ軍軍事情報センター提供.
映画:プライベート・ライアン 解説とレビュー
※以下、ネタバレあり
戦争映画というと国と国との戦争を描いたもので、集団戦闘シーンが思い浮かびがち。
プライベート・ライアンでも、冒頭の20分間はノルマンディー上陸作戦のオマハ・ビーチの模様を丹念に描き出している。
このシーンでは、目を覆いたくなるほどのリアリティと迫力のある大規模な戦闘シーンを見ることができます。
しかし、プライベート・ライアンの最も褒めるべきところは戦争を個人のレベルで体感できる戦闘に引き直して見せたところ。
主役級の兵士はミラー大尉以下8名のみ。
それぞれの戦闘の様子が丁寧に描かれ、ラストのドイツ軍との攻防戦でも、各兵士の動向が把握できるほど最小化された戦闘場面の描き方をしています。
そのため、自分がその場にいるかのような迫力が身をもって感じられる映画となりました。
さて、プライベート・ライアンでは特にアパム伍長を取り上げてその内容を探っていきたいと思います。
なぜなら、アパム伍長は観客の大多数を代表する存在だから。彼抜きではプライベート・ライアンを語ることはできません。
アパム伍長はプライベート・ライアンの"隠れた主役"といってもいい存在なのです。

↑ノルマンディー上陸作戦前,待機中のアメリカ軍.イギリスだと思われる. アメリカ軍軍事情報センター提供.
★アパム伍長
アパム伍長にいらいらしませんでしたか?
「早く階段を上がれば仲間は殺されなかったのに!」と思いました?
「早く弾丸を運べば弾丸切れにならないのに!」と思いましたか?
数ある戦争映画のなかでもアパム伍長のような兵士は異色の存在です。
アパムの存在は観客に焦燥感を抱かせる存在であり、その分、観客の印象に強く残る人。
プライベート・ライアンを観ているときには観ている者をいらだたせる腹立たしい存在だったとしても、観終わったあとには「なぜ、アパムがプライベート・ライアンという映画に登場するのか?」という問いかけが残る。
本当に不思議。
なぜ、アパムのような人間がプライベート・ライアンに必要だったのか。
その秘密を探ってみましょう。

↑D-Day直前のアメリカ軍.アメリカ軍軍事情報センター提供.
一度は捕虜に捕ったドイツ兵がまた、戦場に戻って来ました。
彼は、自らの意思で自軍に戻ったのか、それとも、ミラー大尉らから解放されて最初に出会った部隊がドイツ軍だったのか。
いずれにしても、そのドイツ兵は戦場に戻ってきていました。
その後、航空支援により、形勢が逆転し、ドイツ兵を追い詰めたアパムは降伏し、一列に並んだドイツ兵に銃を向けました。
そのなかに見つけたのは、一度は捕虜として捕えたあのドイツ兵。
アパムは彼を射殺し、残りのドイツ兵を逃がしました。
アパムはなぜ、彼だけを殺したのか?
一度は捕えたのに、連合国軍に投降せず、ドイツ軍として再び戦場に戻り、戦ったからでしょうか。
もちろん、それはあるでしょう。
しかし、ドイツ軍兵士が連合国軍兵士と戦い、味方を殺したことが憎いのなら、その場に一列に並んだドイツ軍兵士は皆同罪ではないでしょうか。
なぜ、同時に投降していた他のドイツ軍兵士を捕虜として捕えず、その場から逃がしたのか。
アパムはこの少し前に仲間を見殺しにしました。
アパムは階上で格闘する音に怯えてしまい、階段を上ることができずに、結果として仲間をドイツ兵に刺し殺されています。
ドイツ兵は「こうするしかない」といいながらナイフに体重をかけていく。ゆっくりと胸に刺さるナイフ、抵抗する仲間の米兵の声。
決着がついたのち、仲間を殺したばかりのドイツ兵はアパムをちらっと見ましたが、彼の目の前をさっと通り過ぎ、階段を駆け降りて行きました。

↑ナチスドイツのメダル.これは社会福祉活動に対して与えられたもの.
アパムのこの経験がかつて捕虜にしたドイツ兵を射殺させました。すべては報復のために。
アパムは何もできず、殺されそうな仲間を助ける時間も武器も十分にあったのに、ついに動かず、仲間をドイツ兵に殺されてしまいました。
しかし、ミラー大尉らが捕虜にしたのち、逃がしたドイツ兵と仲間の米兵を殺したドイツ兵は別人です。
ところが、アパムにとってその区別は、もうどうでもいい。
アパムは、自分が怯えて動けず、そのせいで仲間がドイツ兵に殺されたという現実にどうしようもない憤りとやるせなさを感じていました。
そして、目の前に無抵抗で並ぶドイツ軍兵士たち。
アパムには全員を怒りにまかせて殺すような度胸はありません。
しかし、そのなかに見知った顔がいる。かつて、捕えたドイツ兵です。
あのとき、ミラー大尉らは射殺するかどうかを散々議論し、そのドイツ兵に自分の墓まで掘らせた末、投降するように言い含めてドイツ兵を解放しました。
「彼なら、一度死んだも同然の人間じゃないか」。
アパムにとって、報復の対象はドイツ軍の軍服を着た者であるならだれでもよかった。
かつて捕虜にしたドイツ兵でも、仲間を刺殺したドイツ兵でも同じでした。アパムに射殺されたドイツ兵は仲間を刺殺したドイツ兵の代わりだったのです。

↑D-Day当日,連合軍に投降してくるドイツ兵たち. アメリカ軍軍事情報センター提供.
この場合のアパムの「報復」は非常に個人的なもの。
「戦場で自分が期待された役割を果たすことができなかった」という自分に対する失望感と、そのせいで仲間が死んだという罪悪感。
自らの中に溜めこんだうっぷんを晴らすため、アパムはドイツ兵を殺しました。
一方、アパムの仲間を殺したドイツ兵は、階段でふるえていたアパムを見逃しました。
なぜか。
階上の室内での格闘では、ドイツ兵は自分が殺さなければ相手に殺されるという状況にありました。だから、殺した。
しかし、アパムは武器こそ持っていますが、階段でぶるぶる震えて縮こまっている。そんなアパムはドイツ兵の生死に関係してこない。
だからアパムは殺されなかったのです。
しかし、アパムはドイツ軍兵士が全員降伏している状況下でその1人を射殺している。
つまり、生きるか死ぬかの状況ではなく、絶対安全下でアパムは敵を殺しました。
アパムが仲間を助けに行けなかったのは、命の危険を感じて怖かったから。
しかし、相手が無防備ならば、敵を殺すことができる。

↑フランス・ノルマンディーにあるドイツ軍戦死者墓.
アパムは卑怯な人です。
アパムが仮に、階段で震えるアパムを見逃したドイツ軍兵士の立場だったら。
アパムは階段で怯えている敵軍兵士をも、殺したかもしれません。
なぜなら、アパムは臆病な人だから。
階段にいる敵軍兵士は怯えているけれど、武器を持っている。彼を見逃せば後ろから撃たれるかもしれない。
しかし、と思うのです。
仮に、本当に戦場に送られたとき、人は「アパムのような行動をとることはしない」といえるのか、と。
戦争という現実に"命のやりとり"をする場において、皆が「英雄」でいられるのか。
自分の命の危険があれば味方を見殺しにし、自分の身が安全な場では敵を堂々と殺す。
アパムの行動は、戦争という場におかれた人間の行動として責めることはできないのではないか。
戦争映画を見るとき、観客は登場人物に"活躍"を期待します。
観客が期待するのは、自分の命を投げ出し、仲間の命を守ろうと行動する戦場の勇者。
命の危険に怯え、仲間よりも自分の命を優先するアパムの行動は観客の期待を裏切ります。
そこに観客はフラストレーションを感じるわけです。

↑ノルマンディー上陸作戦前に待機中のアメリカ軍. アメリカ軍軍事情報センター提供.
アパム伍長は臆病者であり、卑怯であり、仲間よりも自分を優先する人。
ミラー大尉らは果敢にドイツ軍に立ち向かい、その高い技量と強い使命感をもって任務の達成に尽力し、そして散っていく勇気の人。
ミラー大尉らの活躍が、彼らとは対象的なアパム伍長の存在によって、より強調されます。
しかし、少し冷静になってプライベート・ライアンを観てみると、アパムという存在はボディーブローのように効いてくる。
なぜなら、アパムがいることで、戦場に置かれた人間の本当の姿をまざまざと見せつけられていることに気がつくからです。
戦場の兵士には「崇高な精神」と「無限の勇気」を無意識的に要求してしまうもの。
しかし、アパムの存在は自分が兵士に何を求めているのかを意識させます。
戦場に行ったら急に強い人間になるわけではない。なのに、つい、強い人間を期待してしまう自分に気がついてしまう。
戦争映画に登場する兵士に"強者"を思い描く自分、そして、現実の戦争とのギャップ。

↑フランス・ノルマンディーにある連合軍戦没者の墓. 祖国に戻らず,ノルマンディーの地に埋葬された数多くの兵士たちがいた.
プライベート・ライアンのラスト。迫りくるドイツ軍とミラー大尉らドイツ軍を待ちうける連合軍との攻防戦。
観客はアパムの視点からその先頭を経験することが多くなります。
それはなぜか。
多くの観客はアパムと同様、戦争での実戦経験がない人ばかりでしょう。観客は戦場に行ったとき、戦場で期待される"あるべき兵士"のようなパフォーマンスができるのか。
あるべき兵士か、そうでないかの境目を、無意識的に人間という枠を超えて求めてしまってはいないだろうか。
つまり、戦場で戦っている兵士も、祖国で会社勤めをする人間や、学校に通っている学生と同じ「人間」であるということを忘れてはいないかということ。
ミラー大尉をはじめとする部隊の仲間は連戦を重ねてきた者たち。いわば「殺し慣れ」ているわけです。
一方、突然に歴戦の兵士たちの中に放り込まれることになったアパムは、実戦の経験がほとんどない事務方専門の兵士。
アパムの存在は"戦地という非日常"に日常の尺を持ち込むもの。
これを思い出させてくれるのがプライベート・ライアンにおいての、アパム伍長という存在なのです。

↑アメリカ,ワシントンDC. アーリントン国立墓地にある無名戦士の墓. 戦争ごとに1体の身元不明の遺体を選び,その戦争の無名戦没者の代表として埋葬している. 1体を選ぶのはこの墓が慰霊碑としてモニュメント的性格が強いからである.
ちなみに、千鳥ヶ淵戦没者墓苑は引き取り手のない遺骨や,身元が不明である兵士の遺骨を全員について納めている. 納骨堂の性格が強い.
★1人のために
1人のために8人もの命をかけて救出に行く必要があるのか。
1人のために、8名の部下を引き連れ、ライアン上等兵の救出に向かうことになったミラー大尉。その任務が意義あるものなのか、それぞれがそれぞれの思いを抱いていました。
上官として、部下の前で大げさに不平不満は言わないものの、ミラー大尉も内心は複雑な思いを抱えています。
命令を下した軍上層部には、ライアン家では4人兄弟のうち、既に3人が死亡しており、全員戦死との訃報を母親に知らせることはできないとの配慮がありました。
また、当時のアメリカにはヨーロッパとの戦争にアメリカが口出しをする必要はないとの議論が下火ではありましたが、なくなったわけではありませんでした。
ノルマンディー上陸作戦を成功させたばかりの軍上層部には、世論に厭戦気分が広がらないようにする戦略的配慮があったのは当然です。
これらの事情から、「ライアンを帰還させよ」との命令が下されました。
空挺部隊の見知らぬ一兵士を、生死も定かでなく、彼がどこにいるかもわからない状況下で、帰国させるために連れ戻す。
その任務のどこに意義があるのでしょうか。
彼らの任務に対する疑問は当然やる気にも影響してきます。
空挺部隊の兵士が脇をぞろぞろと歩く横で、大量に缶に入れられた空挺部隊のドッグタグをざあっと机に空け、放り投げるようにして選別するミラー大尉以下、ライアン救出部隊の面々。

↑第2次世界大戦で使われたドッグ・タグ.
ドッグタグはタグが2枚ついた身元を判別するための認識票で、兵士が身につけているもの。
兵士が死んだとき、そのうちの一枚を取っておき、一枚は死体に残します。
その一枚が、今現在ミラー大尉らのもとにあるということは、もう持ち主は死んでいるということ。
それを多くの空挺部隊兵士が行軍している脇で選別し、しかも、そのタグは彼らが所属する空挺部隊のタグ。
同僚の死の記録、そのドッグタグを目の前で堂々と無造作に分別している者がいたら、どう思いますか?
一体、この配慮のなさはどうしたことか。
ライアン救出にかけるべき意義が見出せず、低調で緩んでいた空気がつい、ミラー大尉たちに無遠慮なことをさせたのでしょう。
「祖国アメリカのために」尽くす用意はあるけれど、はたして、ライアンの救出がその目的にそぐうものといえるのか?
ライアンをアメリカに帰還させるという任務は命の危険を冒してまでやり遂げるべき価値があるものなのか?
その答えは、老ライアンがアーリントン墓地に墓参りにやってきたシーンが明らかにしています。

↑アーリントン国立墓地. 戦没者記念日には全ての墓に星条旗が捧げられる. アメリカ軍軍事情報センター提供.
すっかり年老いたライアン。
彼は墓に花輪をたむけ、涙を流しています。そして、その後ろには家族の姿が。ライアンの子供夫婦と、孫。
ミラー大尉らが命を賭してライアンの捜索をし、帰国命令を受けたライアンは祖国に帰り、家庭を持ち、孫までいる。
彼は今、幸せに暮らしているのでしょう。
ミラー大尉らがライアン上等兵のもとにたどり着いたとき、「帰国するつもりなどない」と言っていたライアン。
今は、ミラー大尉らの任務が自分の人生を大きく変えたことを信じて疑わないでしょう。
ライアン救出という任務が、一見、無意味なように思えたとしても、ミラー大尉らがその任務を果たしたことで、人間1人の人生が大きく変わりました。
「祖国のために尽くしたい」。ミラー大尉たちのその思いには直接的に応えられるものではない任務であったとしても、彼らが忠実に任務を果たしたことで、ライアンは祖国で新しい命をつなぎました。
ライアンの子供や孫たち、次の世代はかつて行われたライアンの救出劇を、称えられるべき兵士たちの物語として語り継いでいくことになるでしょう。

今、していることがはたして、将来どのような役に立つのか、それは未来になってみないと分からないこと。
やっていることがあまりに馬鹿らしいと思えたり、あまりに小さな進歩に焦りを覚えたとしても、全てが将来につながっていく。
その"将来"にあるものが何かはそのときになってみなければ分からない。
けれど、そのときに振り返ってみると、あのときの小さな一歩が実は大きな一歩だったことに気が付くものです。
1人のために。
ミラー大尉らの任務は確かにライアンの未来を変える力をもっていた。
その一事で彼らの任務とその犠牲はやはり、無駄ではなかったのだ、そう思えるのです。
