※レビュー部分はネタバレあり
トム・ハンクス主演の「天使と悪魔」は、ヴァチカンの抱える問題点に切り込む意欲作。
同時に、人間の中に潜む"天使と悪魔"にも焦点を当てている。
『解説とレビュー』ではこの2つをテーマに解説しているが、特に興味深いのは、「現実のヴァチカン」を"映画の中のヴァチカン"に当てはめてストーリーを作っていること。
一方で、日本人にはなじみの薄い、ローマ教皇をめぐる事件。
そこで、『解説とレビュー』の後半では現実にヴァチカン起きた事件や出来事がどのように「天子と悪魔」に反映されているのかを見ていく。


ストーリー的にはまったく関連しないが、「天使と悪魔」は「ダヴィンチ・コード」に続く2作目。1作目同様、ダン・ブラウン原作の映画化だ。
キリスト教に絡む秘密を謎といていく展開とミステリーの雰囲気の濃いストーリーは前作に共通する。
簡単なあらすじはすぐ下。結末まで知りたい方はその下の『解説とレビュー』をご覧ください。
ローマ教皇が逝去し、間もなく新教皇の選出が行われようとしていたヴァチカンで大事件が起きた。
4人の枢機卿が誘拐され、脅迫状が届いたのだ。「今夜8時から枢機卿を1人ずつ、1時間ごとに公開処刑に処する」。
事件の背後にイルミナティという秘密結社の存在があるのではないか。
ロバート・ラングドンはヴィットリア・ヴェトラというスイスから来た女性科学者とともに、ヴァチカン警察の協力要請のもと、誘拐事件の捜査を進めていく。
【映画データ】
天使と悪魔
2009年・アメリカ
監督 ロン・ハワード
出演 トム・ハンクス,アィエレット・ゾラー,ユアン・マクレガー,ステラン・スカルスガルド,ピエルフランチェスコ・ファヴィーノ

映画:天使と悪魔 解説とレビュー
※以下、ネタバレあり
★超簡単なあらすじ
教皇が死去したヴァチカン。新しく教皇を選ぶため、間もなくコンクラーベ(枢機卿による次期教皇の選出会議)が開かれようとしていた。
そんな中、大事件が起こる。なんと、次期教皇候補として有力視されていた4人の枢機卿が誘拐されてしまったのだ。
ハーバード大学にいたロバート・ラングドン教授はヴァチカン警察の要請を受け、急きょアメリカを発ち、ヴァチカンに向かう。
犯行声明を出し、脅迫状を送りつけてきたのは「イルミナティ」とよばれる秘密結社。
イルミナティとはかつて科学者が教会の教えに疑問を抱き、それを秘密裏に研究をしていたところ、教会に弾圧され、地下に潜った者たちが結成した秘密結社のこと。
その秘密結社イルミナティが報復を始めたのだ。そして3人もの枢機卿を誘拐し、殺害。
しかし、実際に殺人を実行していたのは雇われた者で、その男に報酬を支払い、イルミナティを装って計画を実行させていたのはカメルレンゴ(教皇の側近・付き人)のマッケナ神父だった。
マッケナ神父は前教皇も注射により毒殺していた。そして、真相に気がついたリヒタースイス衛兵隊長とシメオン神父を罠にハメて身辺警護をしている者に射殺させ、自分で地下に仕掛けた反物質を発見したかに装った。
彼はヘリに乗って一気に上昇し、空中で反物質を爆発させて、人々の命を守った。しかし、それは人々に自分を英雄視させ、その力を利用して枢機卿らにローマ教皇に指名させようという計画の一環だったのだ。
コンクラーベにマッケナ神父が呼ばれ、あわや教皇に選出されようかというときに、ラングドン教授はリヒター隊長の部屋から隠しディスプレイを発見した。
そこには、マッケナ神父と話すリヒター隊長の隠しカメラ映像が残っていたのだ。その映像に残されていたのは、リヒター隊長を罠にはめるマッケナ神父の姿だった。
真相を知った枢機卿たちはマッケナ神父をコンクラーベの部屋から追い出し、逮捕されそうになったマッケナ神父は計画の発覚を悟り、「父よ、私の霊を御手に委ねます」と最後の祈りをささげ、焼身自殺をするのだった。

★堕ちた天使
反物質の爆発で白んだ空は夜の闇と混じって赤と黒、紫が混じったような不気味な色をしている。その空から白いパラシュートで降りてくる天使。
爆発から人々を救い、パラシュートで地上に降りてきたマッケナ神父は確かにあのとき、天使でした。しかし、彼こそが、誘拐犯であり、殺人犯でもありました。
「天使と悪魔」。"天使か悪魔か"、ではありません。天使か、それとも悪魔かは単純に2分できません。
1人目の枢機卿が殺され、放置されていたカペラ・デッラ・テーラ礼拝堂。この"土の礼拝堂"には、半分天使、半分悪魔の彫像が出てきます。あの彫像こそがこのテーマの主題。
神に仕える者であるはずの神父が、教会を守ることを目的に人殺しというもっとも神から遠い手段であるはずの悪に染まっていきました。
だから、「天使と悪魔」。
天使と悪魔、その境界線はとても曖昧なようです。


"宗教を標榜した殺人"というものは世界に多くあります。
"神のため"を標榜するテロはその最たる例でしょう。実行している者は"神のため"、"宗教のためだ"といいます。しかし、神からみればそれは単なる殺人なのかもしれない。
神のため、そう声高く叫びながら、その実は自分の偏狭な考え方やエゴに凝り固まってはいないでしょうか。
高いところにあるはずの崇高な思想を個人的な動機のもとに、自己に引き付け、都合のいいように神の思想を歪めているのです。
マッケナ神父が神を呼ぶ声は神ではなく、"悪魔"に届きました。悪魔が装う神にだまされ、悪魔の意のままに操られる。
人間は天使にも悪魔にもなれます。そして天使か悪魔か、その境界線上は霞みがかっていてはっきりとは見えません。
かつては白かった天使の羽が黒く染まってきてはいないか、人は常に気をつけていなければならないようです。

★"神の意思"は誰が決めるのか?
神の意思による殺人だと主張して殺人を行う者がいる。では、その殺人が、神の意思にかなうのか、そうでないのかは誰が決めるのでしょうか。
それと同様に、神が許す科学か許されない科学は誰が決めるのでしょうか。
神でしょうか?
「神がどのように考えているのか」について2つの異なる考え方が現われた場合、どちらが正しいか、それを決定することはできません。神が言葉を発して正誤を告げてくれることはないからです。
しかし、少なくとも、神の考え方が何であるかによって人間が殺し合いや争いを起こすことは神の意思に明確に反することになるでしょう。そのことだけは、神の言葉を待つまでもなく、明確であるように思います。
今までも、人間は常に神の名を借りた戦争や暴力・破壊行為を行ってきました。
神の名によって人間を裁き、神の名によって、報復を誓う。

映画「天使と悪魔」のなかではカメルレンゴのマッケナ神父がその落とし穴にはまることになりました。しかし、マッケナ神父だけではありません。
ローマ教皇の座するヴァチカンもその落とし穴にはまっています。教会による異端審問や魔女裁判はその最たる例。秘密結社「イルミナティ」も教会に弾圧された科学者による地下組織でした。
ガリレオ裁判しかり、ヴァチカンに批判的な聖職者への弾圧しかり。ヴァチカンは処刑という暴力を行使して、もしくはその可能性をちらつかせて、教会の教えに反すると考えられた者を処断してきました。
その暴力の行使は神の教えに沿うものなのでしょうか。神の名を借りた殺人にすぎないのではないのでしょうか。暴力を行使する主体がローマ教皇をいただくヴァチカンだからといって、全てが正しいと考えるべきではありません。
客観的に、冷静的に物事を観察したとき、ヴァチカンとマッケナ神父がしてきたことは、実は同じ論理をたどっているのではないか、ということに気が付きます。
「神の意思」ということで全てが正当化されることはありません。
「神の意思 」を標ぼうすることで、何もかもの免罪符となるかのように扱うことは非常に危険です。何もかもを「神の意思」に求めるのは、単なる思考停止に過ぎません。
「神の言葉」を語るのは人間です。「神の意思」が何であるのか、今しようとしていることが「神の意思」にかなうのか。これらは、全て人間が決めること。
究極的には人間ひとりひとりの判断です。その判断には間違いがあることもある。これを忘れないようにしなければ、「神」を称する悪魔に、人間はいとも簡単に操られてしまうことがあるのです。
天使と悪魔。天使と悪魔は紙一重の存在。天使になる者は悪魔にもなることができます。
天使と悪魔を見分け、天使に与するのか、それとも悪魔の手先に堕ちるのか。それは、その人自身にかかっているのです。

★宗教の堕落
枢機卿の誘拐そして殺人を実行した男は雇われの殺し屋でした。
彼が言った言葉を覚えているでしょうか。
彼は自分が宗教に雇われる殺し屋であり、他の宗教にも雇われたことがあるのだといっています。さらに、神の使いなのだから追跡するなら覚悟するように、とも。
これは、マッケナ神父に雇われたのみならず、他宗教でも「仕事」を請け負い、陰謀に加担したことがあるということでしょう。
「神の使い」といったのは、黒幕がカメルレンゴのマッケナ神父だから。
マッケナ神父はカメルレンゴとして、次期教皇選出までの間、ローマ教皇の権力を一時的に継承する立場にあるマッケナ神父がカトリックの最高位聖職者として最も神に近い立場にあるからです。
しかし、その神、つまりマッケナ神父は殺人という行為に堕落した聖職者だった。

宗教とは何なのでしょうか。
そして、神に最も近いとされる聖職者とは。
宗教に人は何を求めるのでしょうか。"安らぎ"、"平穏"、"死後の世界"。人が生きるべき道を指し示し、道を誤ることのないように導くものが宗教ではないのでしょうか。
とするならば、殺し屋を雇い、殺人さえいとわないということと宗教の間には甚だしい矛盾が存在していることになります。"殺人さえいとわない宗教"というのは、もはや、宗教としての資格を喪失してしまっているのです。
そして、人間を導くために神の意を受け、人を導く聖職者がおり、その聖職者たちを導く最高の権威者としてローマ教皇がいます。
しかし、現実、教皇位を巡っては、ローマ教皇の権威を我が手にしたい、進歩派VS.守旧派の聖職者たちによる闘争の場になってはいないのでしょうか。
ローマ教皇が当初予定されていたものではなく、単なる権力闘争の目標になっているのであれば、もはや、最も神に近い聖職者という位置づけからは遠く離れてしまっているようにも思えます。

★「天使と悪魔」、そしてヴァチカン
「天使と悪魔」。キリスト教圏ではタブー視される「ヴァチカン」を正面から扱うという意味では衝撃作でした。
しかも、ヴァチカンの主であるローマ教皇の選出にからめて、ヴァチカン内部で繰り広げられるの思想抗争を大々的に扱っています。
「ゴッド・ファーザー」の3作目が思い出されます。ゴッド・ファーザー3部作のうち、3作目のみが低い評価を受けました。参考までにアカデミー賞受賞歴を見ても、前2作がアカデミー賞作品賞を受賞したのに、3作目は7部門ノミネートどまり。
「ゴッド・ファーザーPART3」がそれほど悲惨な出来だったかといえば、まったくもってそうではありません。
「ゴッド・ファーザーPART3」が一部で酷評されたのは、あるタブーを破ったためだといわれています。
そのタブーとは、"ヴァチカンの暗部を扱う"ということ。
ヴァチカンの熾烈を極める権力闘争、マフィアをはじめとした闇社会とのかかわり。
つまりはマフィアの金をヴァチカンが洗ってやったのではないかというマネーロンダリングの疑惑、そして殺人です。

マフィアとヴァチカンの関係は公然の秘密です。
1970年代にヴァチカン銀行の総裁がマフィアに不正融資したとの疑惑が存在しました。なお、この事件のてん末は、鍵を握る人物が死体となって発見され、真実は闇の中。
それを正面から描いた「ゴッド・ファーザーPART3」はあまりに危険な映画でした。
1990年に公開された「ゴッド・ファーザーPART3」。それから19年の歳月が流れ、2009年に「天使と悪魔」がメジャー級の映画として世界規模で公開されました。
歳月の流れはどのように"映画の中のヴァチカン"を描かせるのでしょうか。
結論的には、「ゴッド・ファーザーPART3」ほどの問題提起性は「天使と悪魔」にはありませんでした。しかし、それでも、十分のインパクトを持った映画になっており、歳月の流れを感じました。
それでは、具体的にどのように天使と悪魔がヴァチカンに向き合ったのか、それを見ていきましょう。
「天使と悪魔」のストーリーは現実のヴァチカンの動向と密接なリンクを示していて、主要な出来事は実際の出来事のメタファーになっているのです。

★進歩派か、保守派か
映画「天使と悪魔」の冒頭で亡くなられたローマ教皇は「進歩的な教皇の死」とメディアがその死を報じているシーンがありました。
さらに、ラストでは、マッケナ神父がその罪を告白する前に、教皇の考え方が教会を打ち壊すものであり、教皇が科学に弱腰で軟弱だったから殺したと語ります。
ここでは、進歩的なローマ教皇VS.保守的なマッケナ神父という基本的な対立構造が提示されているわけです。
では、実際のローマ教皇はどのような考え方をもっているのでしょうか。
現教皇ベネディクト16世の前任者、ヨハネ・パウロ2世は保守的な立場を貫きつつも、「行動する教皇」「寛容な教皇」と呼ばれ、他宗教とカトリックの融和を促進する立場をとりました。
具体的にはイスラム教のモスクを訪問し、ムフティと呼ばれるイスラム法学最高権威者と合同で礼拝をおこなったり、宗教を否定していた社会主義政権下のソ連を訪問したりしています。さらに、ヒンドゥー教が9割を占めるインドを訪問したこともありました。
また、ヨハネ・パウロ2世はガリレオの名誉回復をした最初のローマ教皇です。そして、十字軍による侵略行為の謝罪を教皇として初めておこない、政治的にはポーランド民主化運動を支援する発言をしました。
また、枢機卿を世界各国から任命し、このとき日本人も2名枢機卿として任命されています。それまでの枢機卿就任は西欧人ばかりだったので、この任命はカトリック教会に波紋を呼びました。
一方、ヨハネ・パウロ2世の行動や発言は教会内の保守派を激しく刺激しました。
結果、彼は2度の暗殺未遂を起こされています。

1度目はサン・ピエトロ広場でトルコ人に銃撃され、重傷を負いました。さらに、1982年にはポルトガルのファティマでスペイン人神父にナイフで襲われて負傷しています。
なお、2度目の暗殺未遂については非公表とされ、ヨハネ・パウロ2世の死後に公表されました。
映画「天使と悪魔」には枢機卿のネームプレートが映される場面があり、「Takahashi」という日本人名が大写しにされます。
これはたまたま映ったのではなく、ヨハネ・パウロ2世による日本人枢機卿任命の実績と重ね合わせて、映画中の教皇の「進歩性」を表現ために写されたもの。
そして、誘拐された枢機卿の1人も、実際にヨハネ・パウロ2世が銃撃されて重傷を負ったサン・ピエトロ広場で殺されていますし、そもそも、映画中で亡くなった教皇は注射により毒殺、つまり暗殺されていました。
これは、ヨハネ・パウロ2世を襲った暗殺事件の焼き直し。
つまり、進歩的な教皇とそれに反対する保守派マッケナ神父の陰謀は、現実にヨハネ・パウロ2世を取り巻いていた思想対立や、暗殺未遂事件の時・場所・方法を変えた再現になっているのです。

また、映画「天使と悪魔」では"反物質"という科学が「神への冒涜」だと考えるかどうかが問題になりました。
現実において、問題とされている科学的問題については特に生命科学分野で多く存在しています。
そのなかで発表以来争われている古典的な問題であり、アメリカで議論が真っ二つに分かれるのははダーヴィンの「進化論」。
その進化論が発表されて以来、それが神の教えに背くものかどうかが争われ、守旧派は「人は神によってつくられた」として、進化論を否定しています。
ヨハネ・パウロ2世は進化論について、容認するかのような態度をとったとして報じられたことがありました。
これは、必ずしも進化論を肯定する趣旨ではなかったといわれていますが、いずれにしろ、あいまいな態度を見せただけで、進化論否定派からは激しい非難がなされました。
映画「天使と悪魔」では教皇は"反物質"を容認し、「研究を公表するように」といったうえ、「神の存在を科学的に証明することが科学と宗教の溝を埋めてくれる」、と発言したとされています。
この映画中の教皇の発言は、ヨハネ・パウロ2世の進化論に対する態度が物議をかもしたという実際の出来事にリンクさせています。
つまり、進化論の存在を肯定することで、サルからヒトへの進化という"奇跡"に神の力をみることができる。
そのように、映画「天使と悪魔」は主張していると見ることも可能でしょう。

★保守的なヴァチカンと現実のかい離
2005年にヨハネ・パウロ2世が逝去し、2005年4月からはベネディクト16世がローマ教皇に就任しています。
彼は1990年、枢機卿だったころに、ガリレオ裁判をした教会を擁護したことがある経歴の持ち主で、教皇就任後の2008年11月にはホロ・コーストを否定する発言をして、破門されていた司教の処分を撤回し、復帰させることを決定しました。
ガリレオ裁判については教皇就任後の2008年12月に地動説を認め、破門撤回については、後に、ベネディクト16世自身が司教のホロコースト否定発言を「知らなかった」と釈明しています。
さらに、2009年にはエイズのはびこるアフリカでコンドームの使用が感染予防のために奨励されていることについて、コンドームの使用に反対すると述べたことがあります。
また、ローマ教皇庁は一貫して第2次世界大戦中のユダヤ人虐殺に沈黙を保った当時のローマ教皇ピウス12世を擁護する態度を崩していません。
また、前教皇のヨハネ・パウロ2世は妊娠中絶や安楽死を「死の文化」として反対し、同性愛や女性聖職者についても否定する考えを持っており、ベネディクト16世も同様の立場をとっています。
つまり、進歩的とされたヨハネ・パウロ2世、そしてベネディクト16世が代表するヴァチカンは基本的には保守的な思想を基調としていることが分かります。
ローマ教皇の発言は世界に10億人いるカトリックに影響を与え、政治的・国際的な影響力は大きなもの。
そのため、ローマ教皇に誰が選出され、どのような思想を持っているかには常に注目が集まります。
ガリレオ裁判ですら、1992年にようやく否定されたばかり。
妊娠中絶、安楽死については、教会の教義に直接かかわるばかりに肯定されることはないように思えます。

しかし、コンドームの使用や、ホロコーストについては、現実を見るべきです。
エイズの感染が爆発的に拡大する国でコンドームの使用を否定したら、悲劇の拡大を放置することになります。
エイズ感染は死に至る病気であり、決定的な治療薬はいまだ存在しません。さらに、エイズの進行を抑える薬すら大幅に不足しているアフリカの深刻な状況下で、一番効果的なのは、エイズの感染拡大を防ぐこと。
それなのに、コンドームの使用を否定することは、エイズが子供から親を奪い、国自体を崩壊させてしまいかねない病気であることにあまりに鈍感なのではないでしょうか。
また、ナチスによるホロコースト否定発言をして破門された司教を復帰させたことにも疑義があります。そのような発言をベネディクト16世は「知らなかった」と釈明してはいます。
しかし、ローマ教皇を始めとするヴァチカンが、ホロコーストを否定する発言をする聖職者を擁護する立場にあり、また、そのような人種迫害に対して鈍感であることを世に示す結果となったことは否めません。
ホロコーストで具体的に何が行われたのか、その点に主張の相違があるにしても、人種迫害があり、多くの人が殺されたということは揺るがない事実です。
コンドームの使用についても、ホロコーストの問題にしても、教会の事情や、教義ありきではなく、事実を事実として認め、そのうえで思考するという順序で考えていくべき問題です。
そうでなければ、程度は違えど、「神の意思」を標榜して卑劣な行為を繰り返す者と同じ、思考停止の悪循環に陥ってしまうのではないでしょうか。
人間は「現実」を生きています。
"理想郷"を生きているのではない。生きるために必要なことや、そのために捨てなくてはならない理想もあります。
そのときに、迷う心のよりどころとなるのが、宗教の役割。現実に沿うあまりに、道を踏み外さないように人々を導くもの。
宗教の何たるかを忘れ、それまでの考え方に執着し、現実とのかい離がはなはだしいものとなれば、人々は幻滅するでしょう。
そのときどきの状況に応じ、必要なところでは柔軟な態度をとる。それが"寛容"で"開かれた"宗教であることの条件ではないでしょうか。
人に救いを与え、導くものが宗教であるとするなら、その方向性は間違ったものではないでしょう。

こんにちは。ヴァチカンについてのコメントをいただきました。
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