※以下、ネタバレあり
「ダークナイト【あらすじ】」はこちら。
ダークナイトを文章化した詳しいあらすじを公開しています。完全ネタバレなので未見の方はご注意ください。
「ダークナイト」の『解説とレビュー』を4つのタイトルに分けてご紹介しています。その最後、4つ目のタイトルとなる本ページでは「ダークナイト【バットマンの世界観と論理】」を掲載しています。
「ダークナイト【ジョーカー研究】」はこちら。
「ダークナイト【トゥーフェイス研究】」はこちら。
「ダークナイト【バットマン研究】」はこちら。

Presented by WARNER BROS. PICTURES.
★エスカレートする「正義」
バットマンはアルフレッドに、バットマンとしての行動がゴッサムシティに「狂気や死を蔓延させた」とこぼします。
つまり、バットマンが犯罪を摘発すればするほど、マフィアの犯罪は凶悪化し、ついにはマフィアにすら忌み嫌われていたジョーカーをゴッサム・シティに降臨させ、そのジョーカーは毎日市民を殺しているということ。
これをバットマンは「狂気と死」と表現したのです。
バットマンの苦悩は、自分の良かれと思ってする行動が逆に犯罪者を刺激し、犯罪が凶悪化するという悪循環にあります。
この構造は、どんな種類の犯罪捜査をする際にも起きる問題。バットマンに限った事ではありません。犯罪摘発が緻密なものになればなるほど、犯罪者たちはその摘発をのがれようと、より巧妙な手口に走る。
分かりやすい例が「紙幣の偽造」です。
カラーコピーした紙幣を偽造として見破られないなら、カラーコピーの偽造で十分。しかし、当然、カラーコピーでは見破られます。そこで、紙幣をそっくりまねて本物よろしく印刷するようになりました。
そこで、偽造対策に透かしを入れることにしました。
しかし、すぐに透かしの入った偽造紙幣が出回るようになります。
透かしの入った偽造紙幣の対策として次は、ホログラムを入れました。しかし、すぐにホログラムがついた偽造紙幣が出回りはじめます。
結局、警察が偽造紙幣を追いかければ追いかけるほど、偽造者はより巧妙化された手口の偽造を始める。
紙幣の偽造なら、身体生命への影響は直接的にはないかもしれませんが、これが、人命に関わるものとなれば深刻です。
例えば、アメリカでは、犯罪者、もしくは犯罪者と疑われる者に対する警察官の発砲と射殺に対するハードルが低い。
犯罪者には警察がすぐに撃ってくるという認識があります。そこで、撃たれるより先に、と彼らは銃を撃つ。警察は彼らがすぐ撃ってくるから、先制して射撃しようとする。
この循環でどんどん銃犯罪がエスカレートしていきます。
バットマンの苦悩も基本的にはこれと同じ論理をたどります。
バットマンは手段を選ばず、マフィアを追い詰めます。
マフィアはバットマンに徹底的に追われるから、バットマンを殺そうとジョーカーを雇う。ジョーカーはそれをいいことに、市民を巻き添えにして殺人ショーを展開する。
犯罪が先か、バットマンが先か。
バットマンが法を破り、強引な摘発方法に走れば走るほど、犯罪者も過激な方法に訴える。
犯罪はエスカレートし、巻き添えで死ぬ市民が増える。
それは、はたして正義といえるのか?

Presented by WARNER BROS. PICTURES.
★正義と平和は「力」で実現する
バットマンは苦悩しますが、作品の方向性としては、もちろん、これを「正義」と位置づけています。
「ダークナイト」の結末で、バットマンはゴッサム・シティの守護者であり、街の監視者として必要な人だと語られます。
つまり、バットマンのことを、"必要悪"としての「正義」だととらえています。
そして「その混乱の後に平和が来る」。これはアルフレッドの言葉。
犯罪者という「力」に対して、正義の「力」で対抗する。
これがバットマンの論理。
そして、アルフレッドによると、いつか迎える未来には「正義」が勝ち、平和が訪れる。
これがバットマンの世界観。
そう整理できます。
はたして、「力の正義」を追求した果てに、「平和」は実現されるのでしょうか?

★"超法規的"行為か、"違法"行為か
これが是か非かはもう、価値観の問題でしかありません。
完全に間違っているとは言えないし、完全に正当だとは言いきれないでしょう。
だから、映画「ダークナイト」では、バットマンのことを「必要悪としての正義」、つまり「ダークナイト(闇の騎士)」と呼ぶのです。
バットマンの行為は、完全に正義を目的としていますが、やっていることは監禁、誘拐、傷害、脅迫です。
つまり、法律を外れる行為をしながら、ゴードンやデントをはじめとする警察や検察はそれを見逃していることになります。
この文脈でいけば、"ダークナイト"たるバットマンの行為は、違法でありながら取り締まられず、逆に黙認されている"超法規的"行為ということになるでしょう。
現実的に見て、"超法規的"行為とは"違法"行為のこと。
例え話をしましょう。
自分の自転車が盗まれたとします。次の日、隣家の軒先に自分の自転車が停めてあるのを発見しました。
しかし、それを勝手に取り返してきたら、あなたは立派な泥棒になります。
客観的に見て、隣家に止めてある自転車を勝手に持ち帰ってくるのは泥棒といえます。
しかし、その自転車が自分の物であるなら、それを「取り返す」行為は、かえって正義を回復するためにした泥棒ともいえるでしょう。
この点、バットマンが正義のために悪人を誘拐してくるのと同じ論理が働いています。客観的には犯罪行為になるとしても、正義を回復するための行為ならば、それは違法行為とは言えないという論理です。

では、このような、"超法規的な"方法がなぜ、現代社会で許されないのか。
それは、社会そのものを守るため。
皆が自警行為を始めれば、それが"自警行為"なのか、それとも単なる"違法行為"かの区別がつかなくなるからです。
例えば、隣家から取り返した自転車が実は似ているだけの別物だったら?
自転車が本当にあなたのものだったとしても、隣人はその自転車をリサイクル店から事情を知らずに買ってきただけだとしたら?
隣人が自転車を盗んだ犯人でなかった場合、隣人は権利を主張して、あなたの家に自転車を取り返しに来るかもしれません。
あなたも再び権利を主張して、隣人から自転車を取り戻したらどうなるでしょうか。
延々とこれが繰り返されるおそれがあります。
また、これがかたき討ちになったら大変です。命の取り合いが延々と続くようでは、恐ろしくておちおち寝ていられません。
それなら、代わりに、法的機関がそれを解決する。
これが「法治国家」を称する現実社会の論理構造です。
つまり、バットマンはその枠外にあるものであり、本来は存在してはいけないはずの存在です。
彼の存在を堂々と認めるということは、国家がその法的統治機能を放棄したと宣言するに等しい行為。
バットマンがいるということは必然的に社会のあるべき姿を乱します。
バットマンは社会のはみ出し者なのです。

Presented by WARNER BROS. PICTURES.
★それでも、バットマンは必要か?
法を外れた、"超法規的な力"として、しかも、バットマンが永遠に正義の側に立つ者だとして、バットマンが必要だということを認めたとしましょう。
この場合、犯人を訴追し、犯人を有罪か無罪かを判断して、有罪ならば刑罰を科す、検察や裁判所といった法執行機関は、"超法規的な手法"に頼ってはならないでしょう。
バットマンのみならず、合法的な国家機関まで法の枠外に外れたならば、誰も「正義」の暴走を止められなくなるからです。
だから、ハーヴェイ・デントがしたように、検察官が「549人をまとめて訴追し、裁判をする」とか、サリロ判事のようにそれを「許可」して549人をまとめて裁くということは許されるべきではありません。
デントはこの訴追で「18か月は平和になる」といいます。
確かに、犯罪に苦しむゴッサム・シティの人々には評判がいいかもしれませんが、長期的にみて、非常に危険な行為です。
デントの行為は、"適正な裁きを裁判所で受ける"という権利を侵すもの。
それだけでなく、その侵害行為を裁判所という国家機関で合法なものとして扱わせてしまった。
結果、公の場で"超法規的な手法"による解決法が堂々とまかり通ってしまいました。
裁判所が完全に正義の側に立っている間はそれでもいいかもしれません。
しかし、ゴッサム・シティ警察のように、買収がまかり通るようになってしまったら、その"超法規的な"方法は犯罪者に有利に使われるかもしれないのです。

同じことはバットマンにも言えるでしょう。彼は正義の信念が強い人のようだから、彼がいるうちはそれでいいかもしれない。
しかし、その"超法規的"な方法による解決に頼り続ける限り、バットマンが活動を止めたとしても、警察や検察は次の「バットマン」を必要とするでしょう。
なぜなら、バットマンのように法律に縛られない存在はとても便利だからです。警察や検察が捜査をするには、法律による制約があります。
例えば、ゴードンは銀行への強制捜査をしたい、と令状の発布をデントに頼んでいました。このように、捜査の種類によっては、いちいち令状を用意しなくてはなりません。
一方、バットマンなら、合法であろうが非合法であろうが、どんな手段でも取ることができます。
バットマンが現役の今だって、ジョーカーに殺されたブライアンという一般市民のように、バットマンの真似をする自警市民が出ています。
彼らは、バットマンのように超人的な力を持たないから、犯罪者を殺してしまいます。生け捕りにするまでの能力がないからです。
フォックスやアルフレッドという優秀な理解者たちから情報を得られるバットマンと違って、犯罪者でない者を殺傷してしまうかもしれません。
それに、"自警市民"を標榜し、自警行為を装いながら、その実、勢力拡大のために、犯罪組織の仲間を殺す内部抗争が起きたら、どう収拾をつけるのでしょう?
それは犯罪者を殺すという意味で自警行為かもしれませんが、一方では内部抗争のために人を殺すという犯罪行為でもあります。
バットマンのような法を越えた存在は逆に治安を乱す要因になってしまうかもしれません。

★ゴッサム・シティは平和になるか、地獄になるか
バットマンという存在は終わりのない議論を提起します。
そして、彼を必要とする議論にも、不要とする議論にも一理あるといえるでしょう。
しかし、いずれの立場を取るとしても、共通して理解し、議論の土台とすべきなのは、彼の持つ力の使い方によってはゴッサム・シティは平和にもなるし、地獄にもなるということ。
それをひとりの手に委ねていることの危険性を認識しておかねばなりません。
力で悪を抑え込むことの限界がここにあります。
悪をどう抑え込むかではなく、なぜ、バットマンがいるにもかかわらず、悪が根絶されないのかをも、併せて考える必要があるのではないでしょうか。
根本的に悪がのさばる原因を考えなくては、バットマンVS.悪のパワーゲームが始まります。
バットマンに恐れをなして、悪人どもが犯罪をやめればいいのですが、現実はそうはなりません。彼らはバットマンをあの手この手で出し抜き、隙あらばバットマンをこの世から消し去ろうとするでしょう。
そうなれば、バットマンと犯罪者の対立がエスカレートし、死人が増えるだけ。
ゴッサムシティにはバットマンが必要だとしても、永遠にバットマンを必要とするゴッサム・シティでいるつもりでしょうか?
ゴッサムシティに平和をもたらすことはバットマンだけではできません。
バットマンの力は悪を消滅させる方に働きますが、悪の力を平和を構築する力に転換することはできません。
平和をもたらすのは、悪事を働く人間に対する救いの手。
悪事を働かなくても、暮らしていけるように、救いの手を差し伸べることができるかは、ゴッサム・シティの市民を始めとする市全体の姿勢が問われています。

★揺るぎない真理
バットマンが長きにわたって愛されるのは、その根底にある論理や世界観に感じるところが多いからです。だから、何年たっても古臭いストーリーになることはありません。
人間というものは本質的には変わらないものであるということ。
それは必ずしも嘆くべきことではありませんが、それを知って放置しておくことにもためらいを感じていいでしょう。
バットマンがかざした力の論理。彼が苦悩しつつも、そのやり方を変えなかったこと。その論理から現代に生きる者たちは何を感じ取っていくべきなのでしょうか。
その答えは人それぞれに見つけるものです。
以下では、その一例として、対テロ戦争を取り上げました。これで、「ダークナイト」の『解説とレビュー』のまとめとしたいと思います。

★バットマン = アメリカ
「力で悪を抑え込む」。
バットマンVS.悪の構図は、今、世界中で展開されているアメリカVS.テロの戦い。
パワーゲームの始まりです。
アメリカはアフガニスタンのタリバンを叩きのめし、イラクのフセイン政権を倒すことで、テロ組織がアメリカを恐れてに手を出さなくなると考えていました。
こうすれば、9.11の悲劇の二の舞は防げると考えたのです。
しかし、アフガニスタンやイラクではアメリカ軍の兵士は毎日血を流し続けています。
テキサスの米軍基地ではイスラム原理主義に共鳴した少佐による乱射事件が起きました。
はたして、アメリカはその巨大な軍事力をもって、力ずくでテロ組織を壊滅させることができるのでしょうか。
もちろん、アメリカがテロ組織によって疲弊させられているさまを、ただ冷笑的に見ていればいいという話ではありません。
テロ組織が厳然として世界に存在するのは事実です。そのテロ組織に対峙するため、軍事力は必要でしょう。アメリカが戦争をしなければ世界は平和になる、というような平和論には与することはできません。
それに、アメリカがアフガニスタンのタリバン政権やイラクのフセイン政権を倒したことにより、自由を享受し、抑圧的な政策から解放された現地の人々がいたことは事実です。

しかし、アメリカの軍事行動が独善的だと非難しつつ、その軍事行動を待たなければ、アフガニスタンやイラクの状況を動かすことができなかったのは事実ではないでしょうか。
戦争とバットマンのもたらす結果は同じ。
バットマンと同じく、戦争は相手を消滅させるだけ。そこから平和を作り出すことはできません。
バットマンだけではゴッサム・シティに平和をもたらすことはできないように、アメリカの戦争だけではイラクやアフガニスタンに明日への力をもたらすことはできません。
なぜ、テロが起きるのか。
どういう事象がテロに力を与えているのか。
テロとの戦いは軍事力だけではありません。
世界はアメリカを非難しつつ、アメリカの圧倒的なパワーを永遠に必要とするつもりなのでしょうか。
ゴッサム・シティがバットマンを非難しつつ、バットマンの圧倒的な力を必要としているように。

Presented by WARNER BROS. PICTURES.
長々とありがとうございました。
ダークナイトは本当に奥の深い映画だと思います。
さまざまなご感想があるかと思いますが、その一つとしてご参考にしていただければ幸いです。
明日は、再びクリスチャン・ベール主演の映画。「マシニスト」をアップしていきます。よろしくお付き合いください。
「ダークナイト【あらすじ】」はこちら。最初から結末まで文章で「ダークナイト」を再現しています。
「ダークナイト【ジョーカー研究】」はこちら。
「ダークナイト【トゥーフェイス研究】」はこちら。
「ダークナイト【バットマン研究】」はこちら。
タグ:ダークナイト クリスチャン・ベール
登場人物の心象を見事に読み解いた素晴らしい考察です。
正義と悪の境界線が何かと言う問題は、人間にとっての命題なのかもしれません。
私はバットマンを純粋には肯定できません。彼の行動には他人の人間としての権利を無視したものがあるからです。しかし彼がゴッサム・シティに必要なことも確かです。
ゴッサム・シティに本当に希望があるとしたら、それは一般市民の中です。
市民はこれまで「バットマン」や「ハーヴェイ・デント」といった象徴的人物に「正義」を預けて安心してしまっていたように思います。
管理人さんも示唆していらっしゃいますが、市民達が自分達の中に「正義」を持って能動的に行動し始めた時、ゴッサム・シティに正義が生まれるのではないでしょうか。
私はバットマンを肯定はできませんが、賞賛したいと思います。彼はその方法はどうあれ、自分の正義を選び、実行しました。
その行動は勇気あるもので、それには善悪を超えた価値があると感じます。
こんにちは。コメントありがとうございました。ご満足いただけたようで、大変嬉しく思います。
バットマンの世界は一言では語れない、奥深さを持っています。その深みにはまればはまるほど、その世界の歪みや問題も見えてくる。
純粋なエンターテインメントとして楽しむことももちろんできる「ダークナイト」ですが、それだけではもったいないですね。
ジョーカーのような圧倒的な悪のパワーを前にしては、バットマンのような超人的な正義の力を必要とせざるをえない。その意味において、バットマンの行動を全否定はできません。しかし、バットマンのような力がゴッサム・シティに存在する限り、それに対抗する悪の力はより凶悪化し、そのデッドレースに市民の無力感は強まっていく。
市民が諸手を挙げてバットマンを歓迎する社会ではないということは指摘しておかねばなりません。バットマンの行動が市民に必ずしも歓迎されているわけではない。超正義を必ずしも許さない市民の姿勢は、この世界の道徳律を危ういラインで守っている。
正義とは?それをどうやって実現するのか?簡単に答えの出る問題ではありませんが、考えることを放棄してよい問題でもありません。常に、問い続けねばならない、答えの出ない問題であると思います。
これからも、いろいろと映画のレビューをアップしていきますので、またご訪問いただければ嬉しく思います。