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ドニー・ダーコ

映画:ドニー・ダーコ
※レビュー部分はネタバレあり

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 1988年、マサチューセッツ州。高校生のドニー・ダーコは、両親と大学受験のために浪人している姉、幼い妹の5人で暮らしている。10月2日の夜、ドニーは自分に呼びかける声に気がついてベッドを抜け出す。家の外にふらふらと出ていくと、"銀色のウサギ"がドニーを待っていた。

 銀色のウサギは彼に「世界の終わり」が迫っていると告げる。それによると、「あと28日と6時間と42分と12秒」が世界の終わりまでに残された時間だった。翌朝、ドニーは近くのゴルフ場で目を覚ます。彼が自宅に戻ると、墜落した飛行機のエンジンの一部がドニーの自室を直撃しており、自宅の屋根が半壊していた。

 「未来へ来い」とドニーを誘う銀色のウサギ、青空に空いた穴、そしてタイムトラベル。過ごした時間は夢か現実か。ドニー・ダーコの辿る数奇な人生を描く。

 主人公ドニー・ダーコを演じるのは、「遠い空の向こうに」「ブロークバック・マウンテン」で秀逸な演技を見せたジェイク・ギレンホール。「ドニー・ダーコ」から4年後の映画「ブロークバック・マウンテン」では同性愛に苦悩する20代の青年を演じていた。「ドニー・ダーコ」では10代の不安定な少年の心を若きジェイクが繊細に演じている。自分一人で抱え込むには重すぎ、しかし、他の誰かにも頼ることができない悩み、内向的な一面を持つ人間の揺らぎ。「ドニー・ダーコ」には今のジェイク・ギレンホールに通じる演技の真髄を見ることができる。

■「遠い空の向こうに」『解説とレビュー』はこちら
■「ブロークバック・マウンテン」『解説とレビュー』はこちら



【映画データ】
ドニー・ダーコ
2001年・アメリカ
監督 リチャード・ケリー
出演 ジェイク・ギレンホール,ジェナ・マローン,ドリュー・バリモア,メアリー・マクドネル,パトリック・スウェイジ,キャサリン・ロス



映画:ドニー・ダーコ 解説とレビュー
※以下、ネタバレあり
※本レビューは「ドニー・ダーコ」についてのレビューです。本作の続編「ドニー・ダーコ2」については未見ですので、ご承知置きの上、お読みください。

★「帰ろう」

ドニーは1988年10月2日の深夜、飛行機のエンジンが自宅を直撃するという事故に巻き込まれ、死亡しました。映画「ドニー・ダーコ」はドニーの不幸で、幸せな人生を描写したものでした。彼は何を思い、いかなる気持ちで死を迎えたのか。銀色のうさぎに導かれ、時空を旅した彼の足取りを追ってみましょう。

 ドニーは10月2日の朝を近所のゴルフ場で迎えました。自宅に帰った彼は、自室を直撃している飛行機のエンジンが運び出されているところを目にします。そして、ドニーは銀色のうさぎの言うがまま、いたずらや放火をし、グレッツェンと恋をし、最後にグレッツェンの死に行きあわせました。このときまでに28日と6時間と42分と12秒が過ぎ去っています。

 街を見下ろす高台に車を停め、「帰ろう」と呟くドニー。彼は10月2日の深夜に戻ってきました。ベッドに横たわって笑い転げるドニー。彼の上に飛行機のエンジンが落ちてきたのはそれからすぐのことでした。

 ドニーは今度こそ、「死んだ」のです。ドニーが過ごした28日と6時間と42分と12秒は、ドニーの未来の時間でした。ドニーが生きていたならば、経験しただろう未来の時間。そして、それはすなわち、「世界の終末」までの残り時間でした。

 「世界の終末」とはなんだったのか。これは世界が崩壊するとか、地球が消し飛ぶとか、そういうことではなく、ドニーが大切な人々を失うということでした。ドニーの母、ドニーの妹サマンサは飛行機事故で死亡し、心から愛した人グレッツェンは車に轢かれて事故死する。そして、ドニー自身はフランクを殺した人殺しとなる。これがドニーの迎えるべき、「世界の終末」でした。ドニーはこの将来を回避するべく、未来へと旅立った時点へと戻ることにしたのです。

 タイムマシンの話を聞かせてくれたモニトフ先生はタイムトラベルをするための条件として、金属製で空を飛べる乗り物、宇宙と外宇宙に開いた穴を挙げていました。その条件が揃うのは、ずばり、飛行機の落下事故のとき。飛行機の落下事故によって空に開いた穴は現在と未来を結ぶ通り道となります。ドニーは飛行機のエンジンが落下して、絶命する寸前、この通路を通って未来へと旅立ち、そして、再び、戻ってきました。

 ドニーが未来へ行っていた時間は28日と6時間と42分と12秒でしたが、現在の時間ではほんの一瞬のこと、飛行機が墜落し、エンジンがドニーの自室に落下してきて、それにドニーが押しつぶされるまでのほんのひとときの出来事でした。

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                【えんじ色の矢印→】ドニーがエンジンの落下事故で死ぬ時間軸。
                【虹色の矢印→】ドニーが事故を回避し、生き残る時間軸。
                【青色の矢印→】母妹・恋人の死を経たのち、ドニーは事故直前の時間に戻ってきた。

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★未来のために

 ドニーは家族のため、そしてグレッツェンのために過去の時点で死ぬことを決意しました。ドニーが10月2日を生き延びる限り、グレッツェンの命は助かりません。そして、母親と妹の命も。

 ドニーが10月2日に死んでいれば、グレッツェンがドニーと出会うことはなく、ドニーが地下室へ行こうと彼女を誘い出すことはありません。地下室に行かなければ、ドラッグをやっていた不良連中に出くわすこともなく、その後の事故でグレッツェンが死ぬこともありませんでした。そして、ドニーが人殺しになることもなかったでしょう。ドニーがジム・カニングハムの自宅に放火することもなく、ジムが児童ポルノ所持で起訴されることもなく、ジムの支援活動のために教師のキティがダンス・チームを引率できなくなることもなく、従って、母親のローズが妹サマンサのダンス・チームを引率することはなかったはずです。

 母がコンテストが終わってすぐの深夜便で帰ろうとしたのは、情緒不安定なドニーを家に残したことを心配したからです。キティが引率していれば、翌朝便で帰ってきたでしょう。深夜に急いでロサンゼルスを発ち、落下事故を起こす便で帰ってくることはなかったはずです。母は家にいて飛行機事故に巻き込まれることはなく、妹は翌朝便で帰宅することで、やはり、飛行機事故に巻き込まれることはないはずだったのです。

 ドニーがグレッツェンと出会わなければ、ドニーがジム・カニングハムの家に放火しなければ、グレッツェンや母ローズ、妹のサマンサは助かる。ドニーはそのために死を選びました。それは「孤独な死」でした。グレッツェンの愛も得られず、母親との和解もありません。グレッツェンとは赤の他人のまま、母親とは喧嘩別れしたまま、ドニーは死ぬことになるのです。

 ドニーは精神科医のDr.サーマンに「孤独は嫌だ」と訴え、孤独に死ぬことは耐えられないと告白しています。この言葉通り、ドニーの死は孤独なものとなりました。ベッドに一人、死んでいく。

 しかし、ドニーにとってこれは孤独な死ではありません。未来の自分の時間を生き、グレッツェンと出会い、母親を始め、家族の愛を得て死んでいくのですから。彼の心にあるのは温かい愛情にくるまれた満足感でした。飛行機のエンジンが落下してくる直前、ベッドに寝転がるドニーは笑い転げています。楽しくてたまらないかのように。

 彼は、未来を旅し、自分の死を覚悟していました。しかし、それと引換えに、心の隙間を埋めてくれる愛情に彼は満たされていました。だから笑っていた。そして、予定通り、飛行機のエンジンがドニーの部屋に落下し、ドニーの人生は終わりを告げたのです。

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★運命か、選択の結果か

 エンジンの落下は運命だったのでしょうか。この広い地球上の空にはたくさんの飛行機が飛んでいるけれど、その飛行機が墜落し、偶然にもエンジンが自室を直撃するなどということはそうそうあるものではありません。

 これは避けられない運命だったのか。もし、そうなら、精神不安定で薬が手放せず、非行を繰り返し、家族ともすれ違っていたドニーの人生は悲惨としかいいようがありません。ドニーはなんて不幸な人間だったのか、ということになるでしょう。

 しかし、このエンジン落下事故を意味のあるとする選択肢があります。それが、愛する人のために死ぬという選択をするということです。「あえて」死を選ぶ。ドニーの事故死は不幸な運命ではなく、ドニー自身の選択によるものだ、と考えることです。

 ドニーはモニトフ先生に「生き物には運命がある」と述べています。彼は運命というものがこの世に存在していると信じていました。「運命」とは、人の力、その人個人の力では如何ともし難い、変えられない未来のことです。人はただ、その運命に従わざるを得ません。例え、その運命に不服があっても。運命は不可変です。運命は神が決めるものであり、どうあがいてもドニーの力では変えられない。なるようにしかならないもの、それが運命です。

 しかし、このドニーの考え方にモニトフ先生は反対です。ドニーは運命が目に見えるものなら、未来も見えるはず、と主張します。これに対して、モニトフ先生は、「運命が映像として目に見えるということは、運命に背く選択肢もありうるということだ。だが、その選択の存在自体がすでに運命に背いてる」と指摘しました。

 運命とは不可変かつ不可避なもののことをいいます。それなのに、その運命を回避してしまえる可能性が生じるというのでは、それはもはや運命とは言えず、そこに矛盾が生じる。

 目に見える未来があるとするなら、人はその未来を招来しないように行動することが可能になります。その未来へつながらないような行動を選択すればいい。運命とは本来、目に見えないものです。目に見えないからこそ、人は全ての因果関係を想定し、生じる結果を予想して行動することはできず、運命を回避することができません。

 あのとき、そのときのちょっとした行動が未来において、予想もしない結果を引き起こしているかもしれません。ドニーの放火が回り回って母妹の死を招いたように。結果が見えていて、それを回避する選択肢を取れるという時点で、それは「運命」ではないのです。"

 あるイベントの発生において選択肢があるとき、そのイベントが発生するのは運命のせいではなく、選択の結果です。ドニーの場合なら、ドニーのエンジン落下による事故死が起きるのは運命のせいではありません。母妹の死、グレッツェンの死という目に見える未来を回避するために、ドニーは自ら、死を選びました。ドニーの人生は運命に従い、流され、定めのままに死を迎えたわけではありません。ドニーの人生は、ドニー自身の選択と決定によって形作られていました。

 Dr.サーマンは言います。「もし、空が開くものなら、この世に法則などないはずよ」。空が開き、タイムトラベルへの道が開くなどという不思議なことが本当に起こるなら、この世には、定められた道などない。一見、決まり切ったことのように見える物事でも、実は違った道が残されているのかもしれない。「あるのはあなたの記憶とあなたの取った選択とあなたの知人だけ」。不確かな世界の中で、唯一、確実と言えるのは、自分が決めたこと、行動したこと、そして、自分の愛した人々、そして自分の中に残るそれらの記憶です。自分が決めて取った何らかの行動が実際に存在することに間違いはない。自分のとった行動は運命に導かれてのものではなく、自分が自ら選びとった結果です。そして、その選択は自らを導く。

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★銀色のウサギ、もう1人の自分

 ドニーは銀色のウサギの言うことに逆らうことはできない、とDr.サーマンに主張していました。「逆らったら孤独になる」。ドニーの「想像の友人」である銀色のウサギは彼を導く大切な人でした。

 「何が起こるの?」とDr.サーマンに尋ねられ、「フランクが殺す」と答えるドニー。しかし、現実にフランクを殺したのはドニーです。フランクはドニーであり、ドニーはフランクである。この場合の"フランク"とは銀色のウサギのことです。銀色のウサギはすなわち、ドニー自身でした。

 銀色のウサギはドニーの前に現れては、次の取るべき行動をドニーに命令します。その言葉に従い、ドニーは未来へ行き、銀色のウサギの指示するままの行動を取りました。「大丈夫だ、まだ捕まらない」とドニーに囁き、「俺は何でもできる、お前もだ」とドニーを唆す銀色のウサギはドニーの心の内を具現化した存在でした。

 学校の水道管を破裂させ、銅像に斧を振り下ろし、ジム・カニングハムの家に放火する。そして、未来へ来いとドニーに働きかける。ドニーはタイムマシンを作る計画のために地下室へと行きました。これらの行動はドニーに衝撃的な結果をもたらしました。ジム・カニングハムの家への放火は母と妹の死を招き、タイムトラベルを実現させるために忍び込んだ地下室では襲われて逃げ出した末に、グレッツェンが車に轢かれて死亡してしまったのです。

 ドニーは銀色のウサギのいうがまま、非行を繰り返してしまう自分のことを「悔しい」と語っていました。悔しいけれど、孤独にはなりたくない、だから友人の言うことには従わねばならない。銀色のウサギの命令に逆らえば、""友人""を失い、孤独になってしまう。

 しかし、ドニーは目を覚ましました。銀色のウサギが導く道は自分の望まない道である、と。愛する人のいるドニーはもはや、孤独ではなく、銀色のウサギの命令はドニーにとって、絶対的なものではなくなっていました。そして、銀色のウサギの命令を客観的に捉え、考え直すことができました。

 銀色のウサギはドニーの心の弱さの現れでもありました。ドニーは銀色のウサギを殺すことで、自分自身の暗部と決別することができたのです。

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★銀色のウサギは死んだのか

 銀色のウサギはドニーに殺されました。ドニーが殺したのは銀色のウサギの着ぐるみを着たフランクです。フランクはドニーの姉エリザベスが大学に合格したことを祝うハロウィーン・パーティに招かれてやってきた友人たちの一人です。フランクの着ていた銀色のウサギの着ぐるみはハロウィーン・パーティの衣装でした。

 フランクは銀色のウサギだったのでしょうか?銀色のウサギはドニーの分身だというのに、どうして銀色のウサギの中身がフランクなのか。銀色のウサギは肉体を持って実在するのでしょうか?そもそも、"銀色のウサギ"など、この世に存在していなかったとしたらどうでしょう。肉体を持って存在していたのは初めから、"フランク"というドニーの友人だけ。

 映画の冒頭、自転車で帰宅するドニーが走り抜ける道路端に「ハロウィーン・カーニバル」の看板が出ているのが目に付きます。そして、ドニーが未来で過ごす最後の夜もハロウィーン・パーティ。そして、グレッツェンと一緒に観た映画は「死霊のはらわた」。映画館には銀色のウサギも現れていました。そして、この場でドニーにカニングハムの家への放火を命令しました。

 「死霊のはらわた」という映画は、奥深い山中のロッジに泊まりに来た男女5人が次々に死霊にとり憑かれ、死霊に体を操られて仲間を襲うというストーリーの映画です。

 ハロウィーンの季節には死者の霊や精霊が現れるとされます。かぼちゃをくりぬいて作るジャック・オ・ランタンは有名ですが、これはハロウィーンの季節に戸口や庭にこれを置いて悪霊を怖がらせるためのもの。ハロウィーンは魔が近づく季節なのです。

 銀色のウサギがドニーにさせたことは悪事ばかり。そして、そのウサギの言うがままに行動し、夢遊病者のように映画館を彷徨い出るドニーは、悪霊にとり憑かれ、肉体を乗っ取られたかのようです。

 繰り返し出てくるハロウィーンの描写は偶然ではありません。「死霊のはらわた」の死霊と、それにとり憑かれ、意のままに操られる若者たちの関係は、銀色のウサギとそれに盲従するドニーの関係に似ています。そして、映画館のスクリーンに映し出されるシーンは、若者たちがロッジに到着したところです。銀色のウサギは「スクリーンを見ろ、よく見るんだ」とドニーに促しました。スクリーンに映るシーンは、山奥のロッジの軒下にある吊り下げ式のベンチが一人で勝手に揺れているシーンです。これは「死霊のはらわた」冒頭のシーンで、死霊の存在が示唆されている場面でした。

 "銀色のウサギ"はフランクではない、人間でもない。銀色のウサギは霊的な何かである可能性が示唆されています。そして、肉体を持たない""銀色のウサギ""を銃で撃ち抜いて殺すことはできない。ドニーは銀色のウサギの命令に逆らうという意思を自分自身に対して示すために、銀色のウサギを殺すという儀式がどうしても必要でした。そして、フランクはその犠牲者となった。

 ドニーが殺したのはあくまで、フランクであり、"銀色のウサギ"ではありません。フランクを殺したのはドニーの放った一発の銃弾でした。銃弾はフランクの片目を撃ち抜き、彼を殺しました。"

 ドニーは包丁をキッチンから持ち出し、鏡に映った自分の目に突き立てていました。そののちに映画館で会ったフランクは目から血を流しています。鏡の向こう側にいる銀色のウサギはドニー自身、銀色のうさぎは鏡に映るドニーの姿です。鏡に映る自分の眼に突き立てた包丁が傷つけていたのは鏡の向こう側にいるもう1人の自分、"銀色のウサギ"でした。

 銀色のウサギの着ぐるみを着て映画館に現れたフランクの片目には血を流した痕がありましたが、グレッツェンが死んだ現場に駆けつけてきたフランクには眼に傷がありませんでした。これは人間である"フランク"と霊的な存在である"銀色のウサギ"が別の存在であることを示すものです。映画館に来ていたフランクは"銀色のウサギ"としてそこに存在していました。だから、このときのフランクは片目を負傷していました。一方で、グレッツェンが轢かれて死んだ現場に来ていたフランクは"
フランク"として存在していました。だから、フランクの目には傷がありません。

 銀色のウサギはフランクの肉体を借りてこの世に存在しつつ、ドニーの心に巣くう存在でもあったのです。
 銀色のウサギは今もどこかにいるかもしれません。"銀色のウサギ"はもう1人の誰かになることができます。ドニーの暗部に忍び込み、もう1人のドニーとなったように。彼はドニーでもあるし、他の誰かでもある。ドニーのような、複雑で揺れる感情を抱えた心には"銀色のウサギ"が現れるかもしれません。

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★"フランク"が消えるとき

 「フランク、いつ消える?」とたずねるドニーに対して、「知っているはずだ」と答える銀色のウサギ。

 "銀色のウサギに対して見せるドニーの表情は凄味を帯び、グレッツェンに対しても、母親ローズに対しても見せることのない形相をしています。銀色のウサギに会ったときのドニーからは、彼の破壊的な衝動が解放されていました。ドニーは、銀色のウサギに会う前から精神的な問題を抱え、放火をして処分を受けたという前科を持っています。

 暴力の行使がどのような理由で正当化されるとしても、暴力は暴力です。ドニーは自分の暴力性に気が付いていて、銀色のウサギの唆しに乗り、学校の水道管を破裂させ、銅像を壊したことについて「悔しい」とDr.サーマンに語っています。一方で、ドニーはそのような行動をしてしまうことに対して、銀色のウサギの命令だから従わねばならない、とも言っていました。

 ドニーはしてはいけないことをさせようとする自分自身の中にある力に恐れを抱いていました。その恐れは銀色のウサギと特異な存在を生みだしていたのです。ドニーは銀色のウサギに「命令」させることで、それに従わざるを得ない状況というのを作り出していました。

 命令に従うためにやるしかなかった、そういう状況を作り出すことで、ドニーは自分自身の中に残る罪の意識を消化していたのです。銀色のウサギはこのようなドニーの罪悪感に対処するための"装置"でもありました。銀色のウサギに命令されてした水道管の破壊や学校の銅像に斧を突き立てた行為は「学校の危機」という言葉で正当化され、ジム・カニングハム宅への放火は児童ポルノの収集家だったという彼の性癖を暴くという結果によって、ドニーの中で正当化され、罪の意識を消化していたのです。

 "フランク"こと、銀色のウサギが消え去るのは、ドニーが友人"フランク"の正体に気がついたとき、そして、自分の暗部が"銀色のウサギ"を生みだしたことを自覚したときです。銀色のウサギはドニーの友人としての外見を装い、ドニーの行動を正当化するという役割をドニー自身に期待されていたのです。

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★"銀色のウサギ"とフランク

 「不思議の国のアリス」で白うさぎがアリスを先導して不思議の国へ導いたように、ドニーにとってはフランクの描く銀色のウサギが未来の世界への先導者となりました。この銀色のウサギはあくまで、ドニーの「想像の友人」です。しかし、ドニーは銀色のウサギの名前は「フランク」だと言い、実際に、フランクという名前の人物もいる。

 このフランクという人物はなぜ、銀色のウサギの着ぐるみを着せられ、銀色のウサギの役を演じることになったのか。ドニーがタイムトラベルから戻ってきたエンジン落下事故の日、夜を過ごす人々のカットが次々に入ります。いずれも、ドニーの知人ばかりです。

 その中の1人にフランクがいました。ベッドの下にはまり込むようにして座るフランクの近くには、"銀色のウサギ"のイラストが数点と、"銀色のウサギ"の面があるのが見えます。これはいわゆる、「現実」の時間軸での出来事です。

 つまり、ドニーが戻ってきたこの世界にもフランクという人物はいて、彼は""銀色のうさぎ""の絵を描く。この絵と似たタッチの絵は他にも見ることができます。一つはドニーの部屋にある右眼がクローズアップされた大きな絵。そして、もう一つはグレッツェンと発表したときに使った記憶発生装置IMGのイラストです。

"銀色のウサギ"のイラストは未来の時間軸において、ドニーの部屋のカレンダーの上部に貼り付けられていました。そして、現実の時間軸において、ドニーの部屋にある大きな眼の絵は未来の時間軸から戻ってきたときの入り口になっていました。

 銀色のウサギはドニーを未来へと導く役割を果たしました。現実の時間軸において、ドニーはフランクと何らかの形で知り合いだったのでしょう。大きな右眼の絵はフランクの手によるもので、ドニーはフランクの描くウサギの絵を見たことがあったのかもしれない。

 そして、その"銀色のウサギ"を描くフランクは、銀色のウサギを「動かす」人。フランクが銀色のウサギの被り物を着ていたのはフランクが""銀色のウサギ""を描く人だったからでしょう。"
また、現実の時間でフランクがドニーの友人であり、過去のパーティで銀色のウサギの着ぐるみを着ていたのをドニーが記憶していて、それが未来の時間軸にも反映されたということも考えられます。銀色のウサギはもう一つのドニー。そして、銀色のウサギは、ドニーの友人という外見を取り繕うためにフランクという肉体を必要としました。

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★人間の着ぐるみ

 骨の上の肉でかたどられる形がどんなに美しくても、皮膚の下にあるのは皆同じ、骸骨です。どんなに見た目を磨き、表面を取り繕っても、中にあるものは変わらない。「なぜ、ウサギの着ぐるみを?」と問うドニーに対して、銀色のウサギは「お前はなぜ、人間の着ぐるみを?」と問い返します。

 人は「好かれる人間」でありたいと思うもの。他人に良く見られたい、と思う気持ちは誰にでもあります。誰からも受け入れられようとするために、自分自身に枠をはめて生きている。そして、それが当然のことになっているという現実があります。

 その本質にあるのが、醜いものだったとしても、外見を飾り立てれば、誰もその正体に気がつかない。児童ポルノを愛好していたジム・カニングハムは""恐怖克服セラピー""を謳う有名なカウンセラーという仮面を被っていました。しかし、彼が特別なのではなく、それは他の大人たちも同様でした。

 タレント・ショーという学校の催しで、一人、舞台で踊るシェリータに対して罵声を浴びせる男性、そして、それをにやにやと見守る大人たち。太めでアジア系、要領が悪く、よたよたと踊るシェリータに対して寄せられる大人たちの冷ややかな視線からは、明らかな軽侮の感情が感じ取れます。

 彼らは表だって罵声を浴びせるわけではありません。ただ、シェリータを眺めてひそひそと囁き合い、にやつくだけ。しかし、彼らの態度はシェリータに対して「引っ込め!」と声を荒げた男と本質的には同じではないでしょうか。シェリータの直後に出演したダンス・チームに送られたスタンディング・オべ―ションと拍手の嵐に比べれば、シェリータのときとの差は明らかです。ジム・カニングハムが司会をして行われた学校のタレント・ショーにはたくさんの「人間の着ぐるみ」を着た人間たちが集っていました。

 シェリータは催し物の後、衣装も着替えることなく一人、銅像の前に座り込んでいました。落胆した様子の彼女の表情からは人間の醜悪な面に触れた人の悲しみが感じ取られます。

 それから数日後、シェリータは、校長に首を言い渡され、大声で悪態をつく教師のカレンに校舎裏で遭遇しました。カレンはシェリータに気が付き、はっとしますが、すぐに微笑を浮かべます。みっともないところを見られてもカレンは物怖じしません。それは、率直な性格のカレンにとっては、普段取り繕っている外見と本音との差が僅かなものであるから。

 そして、いつも皆からバカにされているシェリータは人間の醜いところをいやというほど見てきています。カレンが本音を吐いているところを見ても、シェリータは彼女を理解するだろうと確信が持てたからです。あのすばりとものを言うカレンであっても、仕事を続け、社会生活を送るためには「人間の着ぐるみ」を着なければ世の中は渡っていけない。

 銀色のウサギは人間と逆です。銀色のウサギは着ぐるみではありません。骸骨の顔を持つ銀色のウサギは本質であり、着ぐるみのの下にあるフランクという人間の肉体はドニーの友人という外見をかたどる飾りでした。フランクという人間の外見を持ちながら、中にいるのは"フランク"ではなく、"銀色のウサギ"。フランクの中身がフランクではないことを見抜けない人間を銀色のウサギは嘲笑しています。

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★ドニーの未来

 ドニーはグレッツェンに、将来は「小説家か画家になりたい」と話していました。「皆に僕を分かってほしいから」。ドニーの過ごした未来の時間には彼の願望や希望が現れている部分がたくさんあります。現実の世界では、ドニーは精神上の問題を抱え、家族ともすれ違いが絶えません。

 夕食の席で姉と口論し、部屋に来た母親を追いだして「ババア」と罵声を浴びせる。父親は汚い言葉でののしり合う姉弟をにやつきながら眺め、母親はそんな2人に手を焼いている。姉は一流大学に入学するために浪人中の身ですが、「来年はハーバード大の学生」という母親の言葉がうるさく聞こえるようです。姉はエンジンの落下事故が起きたとき、外からそっと帰ってきたところでした。彼女の服装から察するに、夜遊びからこっそり帰ってきたところではないでしょうか。

 それが、エンジンの落下事故を境とした未来の世界では一変します。ドニーがゴルフ場から帰ってくると、家族は皆、温かく彼を迎え入れ、姉のエリザベスは妹を抱きよせ、弟のドニーに優しく話しかけます。前夜のエリザベスとはまるで態度が一変していました。さらに、姉のエリザベスはハーバード大学に合格し、ドニーもそれを心から喜び、姉弟の仲はうまくいっている。

 両親は、ドニーのことを気遣い、Dr.サーマンの下に足を運んで息子の症状を相談しています。「今までの処分や非行について、あの子なりの言い分があった」と父親。ドニーの問題行動について、父親は理解しようとしています。そして、母親は息子を心から愛し、心配している。事故が起きる前夜、母親を部屋から追いだし、「ババア」と罵っていたドニーと母ローズの関係は、お互いを思いやり、理解しようとする理想的な母子関係へと変化していました。ドニーは精神を病む自分のふがいない姿を母に謝り、母はそんな息子を「すばらしいわ」と言って涙を流して受け入れています。

 また、Dr.サーマンは非常に良くできた精神科医で、ドニーの話をじっくりと聞き、彼が本音を明かせる大事な相手になっています。現実の世界では、ドニーと姉はDr.サーマンに支払う高額の報酬や、投薬治療を引き合いに出して、口論していました。現実には、ドニーはDr.サーマンに何らかの不満を持っていたのではないでしょうか。ドニーはDr.サーマンが高額の報酬を受け取る一方、満足なカウンセリングが受けられず、ただ薬が処方され続けるだけだと思っていたのかもしれません。

 そして、学校でもドニーは楽しい時間を過ごします。何よりも、グレッツェンという恋人の存在です。転校してきた彼女とはあっという間に恋人関係になりました。さらに、この未来の世界において、ドニーには友達がたくさんおり、彼らと放課後の時間を過ごすこともあります。また、ドニーには学校の不良とも、渡り合える度胸がありました。廊下ですれ違うときも目をそらさず、いたずらの犯人と疑われた不良に脅されてもドニーは引きません。

 そして、教師のカレン。彼女は生徒たちに対して何かを命令したり、キティのように自分の考えを押し付けることを嫌う教師でした。校長に対して、「生徒と対話しようともせず、覇気のない子にしてます」と堂々と批判し、一方的な命令を押し付けることの無意味さを述べています。カレンはドニーの良き理解者であり、庇護者でもありました。

 この未来の世界では何もかもがうまくいっている。うまくいきすぎています。それはそう、これはドニーの世界なのだから。この世界はドニーの「僕を分かってほしい」という願望が強く影響して構築されています。

 しかし、これら全ては、神の定めた運命のなせる業ではなく、ドニーが選択し、行動した結果です。ドニーがこうでありたいと願い、その願望に沿って行動したことがこのようなバラ色の未来を生みだしました。しかし、その一方で、ドニーは銀色のウサギの言うがままだった。銀色のウサギの存在はドニーのバラ色の未来に不穏な影を投げかけました。

 銀色のウサギの命令に従うことを選択したのも、ドニー自身の選択です。その命令に従うべきかどうか、ドニーには選択の余地があった。ドニーには「運命に背く選択肢」が用意されていました。そして、その選択肢の存在自体が、運命というものの存在を否定しています。この世にあるのは結局、「あなたの選択」であり、それによって生じた結果なのです。

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★手紙

 ドニーとグレッツェンはスパロウ家のポストに手紙を投函しました。「お尋ねしたいことがたくさんあります」。ドニーは「答え」を恐れていました。「すべてが現実だ」と言われたら、と思うと、怖くて、直接答えをもらうことはできない。だから、「答えは夢で聞かせてください」と続けます。「世界に終わりが来たら、安心したいと思います。楽しみなことがたくさんあるから」。

 ドニーが恐れていたことは何でしょうか。それは「世界に終わりが来ること」です。世界の終わりとは、すなわち、死。世界に終わりが来ることが本当ならば、ドニーは命を失うことになる。しかし、そのことに「安心したい」とドニーは続けます。なぜ、安心できるのでしょうか。それは、銀色のウサギの告げる「世界の終わり」が本当の事であるならば、銀色のウサギの存在する時間に存在するグレッツェンや、家族と心の通う幸せな時間を過ごす今という時間も現実であることになるからです。

 ドニーの希望通り、答えは夢で示されました。グレッツェンとの出会い、家族との和解。この未来はドニーの言う、「楽しみなこと」です。2つの並行する時間軸において、ドニーは未来の自分という現実を過ごしました。これは夢であり、そして現実です。ドニーが事故で死を迎えた時間軸から見れば、ドニーの未来は「夢」であったことになる。一方で、事故を生き延びた時間軸からはドニーの未来は現実です。

 しかし、その現実は愛する人の死、そして人を殺すという、ある一線を越える自身の行動という事実を包含していました。その死、あるいは殺人がドニーの行動と選択の結果だったことはいうまでもありません。ドニーが銀色のウサギの命令に従い、行動したことが回り回ってこれらの悲劇を引き起こした。ドニーはこの未来の時間を生き続けることを断念します。

 「帰ろう」。ドニーはもう一つの時間を生きる自分へと戻ることを選択し、死を迎えることにしたのです。

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★2つの人生

 ドニーの人生には飛行機のエンジン落下事故で死ぬという人生と、事故で死なず、生きていく人生の2つがありました。ドニーは事故で死なず、生き続ける人生を生き、そして、落下事故で死を迎える人生のほうに戻ってきました。ドニーがしてきたことはすべて、そしてドニーが落下事故で死ぬという人生に戻ってくるという決断をしたのも、彼自身の選択です。

 ドニーがタイムトラベルを望んだのは、世界の終わりを回避し、人生をやり直すためでした。ドニーは赤ん坊に記憶を発生させ植えつける装置、IMGのアイデアをグレッツェンとともにモニトフ先生の授業で発表していました。幼いころの記憶を改変し、あるいは人為的に操ることのできる装置です。これはドニーやグレッツェンの生い立ちのたまものでもありました。

 ドニーは自身の前半生を悔やんでいました。精神的な問題を抱え、非行を繰り返し、家族に負担をかけている自分の前半生をやり直したい。赤ん坊のうちに、美しい記憶や楽しい記憶を植えつけることができたなら、成長してから辛い記憶に悩む必要はない、その思いからIMGを思いついたのでしょう。

 グレッツェンも同様です。母親と父親は不仲で、父親の暴力が絶えない家庭に育った彼女にとって、ドニーと同じく、今までの人生には不満が一杯でした。「赤ん坊の自然な発育には暗闇も必要だとは考えなかったか」というモニトフ先生。人間は忘れることで、精神状態の安定を保つことができるもの。

 しかし、ドニーやグレッツェンのように、今までの辛い記憶や忘れたい記憶から抜けることができず、今もその中に囚われているならば、"忘れる"ということを忘れてしまいます。辛い記憶を忘れられない地獄に陥るよりは、美しい記憶を覚えていたい。

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★過去と未来の時間を交換できたら

 グレッツェンは「もし過去に戻れて、辛い時間を楽しい時間と交換できたら」とドニーに話していました。タイムトラベルで過去に戻り、グレッツェンや友人、そして温かい家族のいる人生をやり直す。しかし、タイムトラベルのために地下室へ行ったことはグレッツェンの死を引き起こしました。

 人間には今という時間が目の前にあります。未来の時間も、その場に立てば、今である。過去、あるいは未来という概念は相対的なものです。重要なのは、今という時間が現在なのか、未来なのかを論じることではなく、今という時間を自らの選択によって生きるということ。ドニーが生きた未来の時間も、ドニーがその場に立ち、自分の意思で歩んだという意味では現実の出来事です。だから、ドニーの生きた未来の時間は、未来を生きたという「夢」でありつつ、「現実」でもある。

 ドニーには、今までの人生を「暗闇」にすることができませんでした。人間は、過去に戻り、今と過去の時間を取り換えることはできない。また、その必要もなかったのです。ドニーにはグレッツェンや家族のいる「今」という幸せな時間があったのだから。

 しかし、ドニーはタイムトラベルを望みました。「世界の終わり」という銀のウサギの言葉に囚われ、タイムトラベルを望んだ結果、引き起こされる愛する者たちの死。「世界の終わり」は何か見えない力によってもたらされるものではなく、ドニーの行動によってもたらされたものでした。この引き起こされた結果に対して、ドニーは過去へ戻るという決断をしたのです。"

 銀色のウサギの呪縛から逃れ、幸せと愛を得たのちの死。夢から醒めたドニーにすぐ訪れた死はドニーに「世界の終り」を告げました。彼に恐怖はありません。愛する人々のために迎える死なのだから。未来を生きたドニーには常に「死」が頭にありました。銀色のウサギの面は骸骨です。そして銀色のウサギの絵はドニーの部屋の壁にかけられたカレンダーに被せるようにして貼られていました。

 「死を想え」。死ぬときはひとりです。""死神オババ""ことロバータ・スパロウがドニーに告げたように、「生き物は皆孤独に死ぬ」。しかし、同じ死を迎えるにしても、誰も親しい人がおらずに孤独に死ぬのと、愛する人や大切な人がいて死ぬのは違う。死を身近なものとし、死の意義を考える時間。それが世界の終わりまでの「あと28日と6時間と42分と12秒」でもありました。

 ベッドの上で笑い転げるドニー。死は終わりではなく、始まりである。死は恐怖ではなく、喜びとなる。孤独に死ぬのをあれほど恐れ、嫌がっていた彼の姿はそこにはありません。エンジンが落下するのはこの直後のことです。未来を旅してきたドニーにとって、「世界の終り」は世界の始まり。ドニーが死んだ後の世界には、ドニーの残した幸せな時間が確かに待っています。

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