※レビュー部分はネタバレあり




バリー・ケインは飛行機工場の労働者として働いていたが、工場で起きた火災事故の犯人と疑われ、警察から逃げることになる。バリーは手掛かりを追ううちに、火災事故の背後に大規模な破壊活動組織があることを知る。
アルフレッド・ヒッチコック監督作品。1942年の作品。罪を犯したとあらぬ疑いをかけられ、罪を晴らすために真犯人を追いかけるストーリー。彼の道連れとなる女性パトリシア、目の不自由なパットの叔父マーチン、道中で出会ったサーカスの人々…彼らの存在は「逃走迷路」を単なるサスペンスでは終わらせない。正義とは?人間の生きるべき道とは?一人の男の逃避行を通して、社会にあるべき人間の姿を問いかける作品となっている。
【映画データ】
逃走迷路
1942年・アメリカ
監督 アルフレッド・ヒッチコック
出演 プリシラ・レイン,ロバート・カミングス,ノーマン・ロイド
映画:逃走迷路 解説とレビュー
※以下、ネタバレあり
★「逃走迷路」の時代背景、そして映画の問うもの
バリー・ケインは飛行機工場で働く労働者でした。彼はある日、工場で起きた火災事故に巻き込まれ、友人ケン・メイソンを失います。後に、火災が破壊活動によっておこされたことが判明し、バリーは犯人として疑われてしまいました。バリーは当時、一緒に消火活動にあたったフライという男が犯人だと睨み、警察から逃亡する決意をします。
バリーは道中、たくさんの人々に出会いました。その出会いが彼に教えたものは一体、何だったのか。
1942年、第2次世界大戦中に製作された映画「逃走迷路」。当時は第2次世界大戦中、ヨーロッパではヒトラーが台頭し、ファシズム・全体主義の嵐が世界を席巻していました。そんな時代を背景に製作された「逃走迷路」。真の「愛国者」とは?正義とは何か?社会において、人間とはどうあるべきか?現代に続く重要な問題が問われています。

★「国民の義務」とは?-マーチンとパットの争いから
バリーが真っ先に出会ったのはヒッチハイクで逃げる彼を乗せてくれたトラック運転手でした。そして、行きがかりの別のドライバーは警察の注意を逸らし、バリーを逃がしてくれます。そして、目の見えない男性フィリップ・マーチンとの出会い。バリーは「バリー・メイソン」と名乗り、男性のロッジで一時の休息を取ることができました。
バリーは手錠をしたままですが、目の不自由なマーチンにはそれが見えないはずでした。しかし、マーチンはとっくにバリーの手錠に気が付いていました。彼はバリーが警察に追われる身であることに気がついていながら、バリーを温かくもてなしていたのです。手錠に驚いた姪のパトリシアは、バリーを警察に突き出そうとしますが、マーチンは姪を制止します。
薄汚い身なりで手錠をしたバリーをマーチンは「メイソンさんは危険な人じゃない」とかばいました。姪のパットは猛反対します。脱走犯人を探していると警察から聞いていたパットはバリーを警察に突き出すことが「国民の義務よ」と叔父に反論しました。それに対し、マーチンは「ときには法律を無視するのも義務だと私は思ってる」と返します。
バリーの手錠を外すため、知り合いの鍛冶職人のところへ行くよう、バリーを送り出すマーチンは別れ際、バリーにこう言いました。「バリーは本名だね。メイソンは嘘だと思った」。マーチンは目が見えません。しかし、彼は心の目で真実を見極めていました。バリーの薄汚い服装やびしょぬれになってロッジにやってきた、彼の見るからに事情のありげな様子はマーチンの目を曇らせはしません。マーチンはバリーという人間そのものを見、彼をかばう判断をしたのです。
一方のパトリシア。パットは「あなたはいかにも破壊活動家らしいわ」とバリーに言います。パットは後に破壊活動家であることが分かるチャールス・トビンのことは「いい人」だと言っていました。トビンは「スパイには見えない」。バリーはパットに「牧場とプール付きの家を持ってればそうは見えないと?」と反駁していました。
パットが見ているのは叔父のマーチンとは対照的な部分です。彼女は警察から追われているバリーのことを犯人だと思い込んでいます。その根拠は、警察から脱走犯人がいると聞いていたこと、そして、手錠をし、薄汚い格好のバリーの様子。彼女は他人から聞いたこと、あるいはその言い分を鵜呑みにし、そして、バリーの外見を見てバリーがクロであると判断していました。
バリーが指名手配犯である以上、バリーは犯人である。バリーの人柄を見抜く目がパットにはなかったのか。そうというよりは、「指名手配犯」という犯罪者のレッテルを目の前にして、パットは思考を停止した、という方が正しいでしょう。警察が犯人だと言っている以上、バリーは犯人である。ここでパットは考えることをやめたのです。そして、バリーの薄汚い格好。いかにも、警察に追われ、逃げている人間らしい外見です。パットは完全に思考を停止しました。バリーは犯人に間違いない。
これに拍車をかけるのが義務感です。指名手配犯を通報するのは「国民の義務」。パットの強い義務感は彼女を拘束しました。義務である以上、従わねばならない。パットはそう考えていたのです。「国民の義務」があることは認めてもいいでしょう。しかし、その義務に絶対的に服従せねばならないのかは別問題です。「国民の義務」であると言われたが最後、それに疑問を付すことは許されないのか。

★「国民の義務」というマジックワード
「大衆は馬鹿だ」とチャールス・トビンは語っていました。愚かな大衆は正しい道を知らず、彼らを導くためには優秀な指導者が必要になる。そして、その指導者の命令に大衆はただ従っていればよい。全体主義において、国民は駒にすぎません。重要なのは、彼らが指導者を支持していること。国民に政治的主体性はなく、ただ、指導者を褒めたたえ、彼の言うままに行動する存在であれば良い。
一方で、民主主義においては、個々人には社会を構成する者として主体性を発揮することが求められます。個人がそれぞれに考え、それぞれに政治的意思表明を行うのが民主主義。全体主義において、個人の意見は求められません。一方で、民主主義においては、それぞれの人間が政治的に思考することが要求される。
全く異なるように見える全体主義と民主主義。しかし、民主主義はときに、全体主義へと変貌を遂げます。それは、個人が思考することを止めたとき、です。思考せず、そもそも政治に関心すら持たず、社会を構成する人々がただの「傍観者」となったとき、彼らは権力の前に漂流を始めます。彼らは時の権力を正当化するための、単なる数合わせの人員になり下がる。そのとき、チャールスのいう「衆愚」が顕在化するのです。彼らはもはや権力の駒でしかない。
パットの繰り返す「国民の義務」はマジックワードです。この言葉を前にすると、人はその正当性を疑わず、思考を停止してしまう。その「義務」たるものに果たして正義があるのかどうか、疑いすら抱かず、その義務を履行しなくてはならないという義務感に駆られ、行動に移してしまう。人々の思考停止状態は権力を肥大化させます。民主主義はとたんに、全体主義へと移行する危険をはらんでいる。
パットの叔父、マーチンは「時には法律を無視するのも義務だ」と語っていました。マーチンの語る「義務」は正義のことです。時の権力や法律によって課される「義務」のことではない。「国民の義務」が果たして、正義を実現するものなのかどうか。それを考えた上で、拒否すべきであるならば、それに従う。そして、それは「義務」に違背することにはならない。なぜなら、「義務」はあくまで社会の善を実現するためのものであり、正義に違背する義務はそもそも「国民の義務」とはいえないからです。
マーチンは常に本質を見ていました。何が正しいのか、の判断において、彼は他からの判断の押し付けを排し、常に、自分自身の心で物事を見ていた。彼にとって、全てを免責し、正当化するマジックワードは存在しなかったのです。

★「大衆は馬鹿」か?
民主主義を支えるのはひとりひとりの判断であり、行動です。誰かの判断に過ちがあったとしても、他の誰かの行動がそれを修正し、全体として正しい方向へと進んでいく。「大衆は馬鹿」ではなく、社会を正しい方向へと導く社会の主体である、その考えが根底にあります。
「ここ数日の間に、いろいろな人に会ったよ」。バリーはこの逃避行で大勢の人に助けられました。マーチンだけではなく、通りすがりのドライバーやサーカスの一団など、警察に追われる身と知りながら、彼を助けてくれた人々はたくさんいました。
「大衆は味方だ」。物事の本質を見ようとする心、そしてそれを見極める目が人々にあるならば、やがて正義は下される。そのような人々が構成する社会では大衆は衆愚に陥らず、民主主義は順当な発展をみせるでしょう。
民主主義社会においては全ての人々が同一の判断をすることはありません。絶対的な""正当性""などは存在しない。民主主義においての正しさは相対的です。民主主義においては多数派の意見に正当性を与えられます。いわゆる、多数決です。多くの人が同意する意見であれば、その社会においては正当性を持つという意味で多数派の意見に正当性が与えられるのです。"
「時には法律を無視するのも義務」。民主主義においては一人ひとりの判断が権力に正当性を付与します。善き社会を実現するには、真実を見極め、判断することのできる力が必要です。そのためには"マジックワード"を使って思考を停止させてはならない。盲目的服従は真の「愛国者」のすることではありません。

★「愛国者」とは
「高貴で純潔でそのために損をしてる人」、とチャールスはバリーのことを評価します。「実際は愛国者なんだよ」。
チャールスは牧場主であり、大きな家に住み、豊かな暮らしをしている男です。彼はこの破壊活動の首謀者でもありました。彼は死刑の恐れがあるとキューバに逃げる計画であることを仲間に告げます。これを聞いた部下のフリーマンらは不満げです。危険を仲間に押し付けて逃げるのですから当然の反応でしょう。
しかし、チャールスに悪びれる様子はありません。結局、彼が欲しいのは「権力」でした。「戦争や弾圧が君らの利益なんだろ」というバリー。戦争の足音が迫る中、社会には不穏な空気が垂れこめています。情勢不安や混乱につけ込み、破壊活動により、人々の危機感を煽る。チャールスは不安にかられた人々を利用するだけです。仲間の命など、気にもしていない。チャールスが考えていたことは「この国を良くしよう」などということではなく、私利私欲、権力に対する渇望でした。
チャールスの仲間たちのうち、本当に純粋に国のことを考え、政治的信条のために活動をしていた者はチャールスの計画を実際に実行する組織の末端の者だけだったのではないでしょうか。フライのように、危険に身をさらし、計画を実行に移す者たち以外は、現在の裕福な生活に安住し、自己の欲望のままに何不自由なく生きている。
慈善事業で有名だったサットン夫人はその一人です。壮麗な屋敷に暮らし、豪華な宝石を身に付け、ドレスで着飾った彼女は事前パーティを開いては、金を集めている。本当にその金が全て慈善事業に回っていたのかどうか、怪しいものです。彼女が慈善事業よりも、美しい宝石やドレス、慈善事業家としての評判を保つことのほうに関心があったのは明らかでした。
そして、それはパーティに集まってくる男女も変わらない。ドレスやタキシードを着て、社交にいそしむ人々。バリーはサットン夫人の屋敷が破壊活動組織のアジトであることを話し、助けてもらおうとしますが、招待客からはパーティに正装もしてこない酔っ払い、とばかにされ、相手にすらしてもらえません。バリーが話しかけた老夫婦は怪しい男がいると会場係に知らせてさえいました。バリーが話しかけたもう一人の若い男は「君も25ドル払ってきたの?僕は社長の代理さ」と得意げです。
慈善事業という社会奉仕活動に興味を持って参加しているはずの客たちですが、結局、彼らがこのパーティに求めているのはステイタスです。高名なサットン夫人の慈善パーティに出席している自分、困っている人や貧しい人に恵みを分け与えているという自分の優しさに酔っている。慈善事業はただの看板に過ぎません。もっといえば、慈善パーティで集めた金の行き先にすら、興味がないのかもしれない。ただ、出席するだけで、客たちは満足できるのです。いわんや、サットン夫人が裏で何をしているのかなどは疑いもせず、それを見抜く力は誰にもありません。
チャールスはそんな自分や周囲の人間の本音を自覚していました。自分は真の意味での「愛国者」ではない。そして、それは、彼らを取り巻く金持ち連中も同じである、と。バリーはチャールスの組織の存在を告発するために命をかけている。自己の欲望にとりつかれた者たちのなかで、バリーは異質の存在でした。

★「いい人」である条件
「人が困ったときに助けるのがいい人」だ、とサーカスの一員、エスメラルダは語ります。このサーカスにいるのは"骸骨人間"に"ヒゲ女"、"人間山"に"小人"、そして体の一部が結合している"双子"。いずれも、外見に特異な特徴を持つ人間ばかりでした。彼らはその外見ゆえに苦労を重ねてきた人々です。「世間にいい人が少ないってことは私たちが一番よく知ってるわ」と"ヒゲ女"ことエスメラルダは語ります。サーカスで自らの特異な身体的特徴を見世物にして生きてきた彼らは、世の人々が彼らに投げかける好奇と侮蔑の視線を嫌というほど感じてきたでしょう。
それがゆえに、彼らは「いい人」であることがいかに難しいかをよく知っている。慈善パーティに出席し、金を寄付することが「いい人」になる条件ではありません。また、困った人に同情することがその条件でもない。バリーを匿ってくれた、目が見えないフィリップ・マーチンはそのハンディゆえに同情されることを嫌っていました。ピアノはいい、「目が不自由でも下手な同情はしないし、信頼してくれる」、そう語っていました。
「助ける」という行動に出ることがいかに難しいか。特に、その「困った人」が指名手配犯である場合には。エスメラルダはパトリシアがバリーに寄り添っているのを見て、バリーが「いい人」であると感じ取りました。そして、そのためにバリーを助ける決断をした。また、「信頼される」ということも難しい。往々にして、その人に何らかの問題が生じている場合、人はその人が信頼に値する人間であると評価することを躊躇します。
目が見えないというマーチンのハンディ、そして、指名手配犯というレッテルを貼られたバリー。それらの外面的な事象を捨象した生身の人間を評価できるか。それが「いい人」になる条件なのです。

★人間はどう生きるべきか
この社会において、人間はどう生きるべきか。それは常に物事の本質を見ようとする心を忘れないことです。人間には外見というものがあり、世間の評判、あるいは社会的に貼られたレッテルというものがある。それらに惑わされてしまえば、その中身を見ることはできません。「いい人」であろうとすることは、すなわち、「愛国者」であることにもつながる。
愛国者が求めるべき正義は目に見える形では現れません。法律が正義ではないし、誰かに教えてもらえるものでもない。仮に、民主主義が正義を実現する最善の方法だとしても、その内部では様々な議論があります。
社会全体の善を最大化することを追求すれば、全体の利益のために個人は犠牲にされる可能性があります。一方で、個々人には侵害されるべきでない一定の権利があり、それを捨象することはできないと考えることもできる。そう考えるとしても、その踏み越えてはならない一定のラインはどこで引かれるのか。
何が正義か。この難解な問いに対する答えは社会において人間がどう生きるべきかを示すでしょう。正義の意義を追求することは、社会に生きる人間にとって、永遠に課せられた課題なのです。
