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映画レビュー集> 『あ行』の映画

ウォッチメン

映画:ウォッチメン あらすじ
※レビュー部分はネタバレあり

 ウォッチメンの原作はアメコミ。アラン・ムーアのアメコミで古典的名作の部類に入る。
 
 まずはあらすじのご紹介。

 世界の出来事の 裏にはウオッチメンがいた。ケネディ暗殺・ベトナム戦争・キューバ危機といった数々の歴史的事件の裏には必ずウオッチメンが存在し、その事件の真実をつくってきたのだ。

ウォッチメン
    

 この世界ではアメリカが圧倒的優位を保ち、ソ連と冷戦の真っただ中にある。
 ケネディ暗殺事件の後、ニクソンはウォーターゲート事件で失脚することもなく、現在5期目で、ベトナム戦争には勝利を収めた。

 そして、人々は核戦争の現実に日々怯え、世界の終末時計は12時まであと5分の猶予を残すのみになっていた。             
 
 その世界を支えていたのはウオッチメンの存在だった。

 ウオッチメンはいわゆるヒーロー達であり、政府に雇われて、裏で活動していた。彼らの活動により、数々の歴史的事件や事実の結末が変更されることで、もう一つの世界が形成されていたのである。

ウォッチメン


 しかし、一方で、彼らの活動は一般人の知るところとなり、その活動が暴力的だとして反発が起きるようになる。

 激しくなる抗議や批判の声に対してニクソン大統領はヒーローの活動を非合法化せざるを得ず、多くのヒーローは引退を余儀なくされた。

 しかし、いまだ、ひそかに政府に雇われて、もしくは非合法に活動するウオッチメンが存在した。
 
 そして、ある日、事件は起きる。

 ウオッチメンの一人が殺害されて見つかったのだ。引退したとはいえ、ヒ―ローが殺害される事態は初めてのことだ。非合法にヒーロー活動を続けていたウオッチメンの一人ロールシャッハは調査に乗り出す。殺したのは誰なのか。ウオッチメンのかつてのメンバーに危険が迫っていた。



【映画データ】
ウォッチメン
2009年 アメリカ
監督 ザック・スナイダー
出演 マリン・アッカーマン,ビリー・クラダップ,マシュー・グッド,ジャッキー・R・ヘイリー


ウォッチメン


映画:ウォッチメン 解説とレビュー
※以下、ネタバレあり

 勧善懲悪のヒーローものかと思いきや、ミステリー要素が強くて面白い…特にオープニングの展開や映像の美しさは特筆ものです。

 この映画は冷戦時代で米ソ核戦争が現実味を帯びていた時代のアメコミを原作にしていますが、扱うテーマが実に普遍的なテーマで、今でももちろん大きな問いかけをしてくれます。

そのテーマについても以下、みていきます

★ウォッチメンの心理

 他の映画のレビューでもそうですが、原作がある映画でもそうでなくても、その映画だけを基準に評価しています。

 スター・ウォーズのようにシリーズものでは、一作づつ評価するのはおかしい点もあるかも知れませんが、少なくとも、観客はその映画を見に来ているわけです。

 それならば、映画のレビューはその映画のみを対象に評価をするべきだと思います。
 ウォッチメンもその観点から見ていきます。

ウォッチメン


 ビジュアル的な面の美しさは素晴らしく、オープニングからの掴みはかなりよかったと思います。映像も美しいですし、ストーリーも理解しやすい。

 中盤過ぎまではストーリーに何とかついていけますが、火星にDr.マンハッタンが行ったあたりから一気に失速してしまいました。

 まず、人物描写が薄いこと。

 いずれも過去のトラウマやコンプレックスを背負った人間として描かれているウオッチメンですが、心理描写が薄いように思います。

 そのために、Dr.マンハッタンが人間性を喪失していっていること、ロールシャッハの狂気や偏執性などがいまいち伝わってきません。

ウォッチメン


 もちろん、それぞれ、その心理状態を示すエピソードは用意されていますが、エピソードが唐突過ぎて、いまいち、伝わって来ません。

 それは、彼らがエピソード以外の他の場面においてはいたって普通に見え、精神的なバランスの危うさが除々ににじみ出る感じがないためです。                                    
 丁寧な心理描写がないと、
1, なんで火星にDr.マンハッタンが行って、また戻ってきたのか、

2, ロールバッハが最後まで絶対的正義に固執するのはなぜか、

3,「いまさら人間性が戻ってきたのか」とローシャルバッハ殺害を躊躇するDr.マンハッタンに投げかけられたローシャルバッハのセリフの意味が理解できません。原作が未読の者には辛い展開だったかな、と思います。

ウォッチメン

                           
★結末

 酷評しているようですが、実はそうではありません。

 この映画、実はものすごい深い奥行きがあって、アメコミのヒーロー物に対する価値観がかなり変化させられた作品です。

 初見で、これだけ内容把握が難しくても、また見ようとわせるのは、この映画に強いメッセージ性があるから。

 このインパクトをもらえる映画というのはそうそうあるものではありません。いままで、原作があるのを知らなかったのが恥ずかしいほどの名作だと思います。

ウォッチメン


 そこで、改めて結末を整理してみます。

 結論としては、Dr.マンハッタンは最終的にはもはや人間としての感性を完全に喪失してしまい、火星に行ってしまいます。

 地球上での関心はシルク・スペクターにしかなかった、というセリフがありますが、まさにその言葉通りに受け取っていいのでしょう。

 実際、火星から帰還した動機は彼女の出生の数奇な軌跡を彼女の潜在的記憶を通して見たことがきっかけとなって、人類の存在自体が「熱力学的奇跡」と改めて評価したことにあるようです。
 
 そして、一番人気のロールシャッハの正義への固執は人物紹介にある通り。

 最後はオズマンディアスの計画…数百万人の一般市民の殺害と引き換えの平和の実現…を全員で黙認し、そうしなかったロールシャッハは殺されました。

 ことでヒーロー達は揃って(殺害まで含めて)共犯になります。この作品には一般的な意味での正義を体現するヒーローはいません。   

ウォッチメン


★オズマンディアスの計画
                                
 なお、オズマンディアスの計画が分かりにくいのでその全貌をまとめると以下のようになります。

 その計画とはDr.マンハッタンに造らせた爆発性エネルギー炉でNYを含む主要都市を破壊することで核戦争を防ぎ、世界の破滅を救うというものです。

 そして、破壊原因がDr.マンハッタンの造った物からと分かれば、米国・ソ連にDr.マンハッタンという共通の敵ができることで核戦争が回避され、平和が保たれるという計画でした。
 
 さらに、

1, コメディアンの殺害
2, Dr.マンハッタンの火星への逃避
3, ロールシャッハの投獄の濡れ衣、

全てが計画の実行のために必要であったことをオズマンディアスは映画中で認めています。
   
ウォッチメン

 まず、

1,は計画がバレそうであったことからの口封じであり、

2,Dr.マンハッタンに対しては報道操作で周囲の人物が癌にかかるという風評を立て、地球から追い出すことが必要でした。

 なぜなら、彼はソ連の核戦力の99.5%を破壊できる能力を持っているので、彼がいる限り、核戦力の著しい不均衡が継続するからです。

 彼を追い出して、核バランスを均衡させ、敵対するアメリカ・ソ連両陣営の共通の敵にすることが必要でした。

3,ロールシャッハの逮捕によって、ヒーロー連続襲撃事件が陰謀説によるもの,とのロールシャッハの誤認推理が現実味を帯びました。

ウォッチメン


★ウォッチメンが直面した問題

 1人の人命を犠牲にすれば100人が助かる場合、あなたはその1人を殺すことができますか。                                                 
 ウォッチメンの面々は「1人」を犠牲にする道を選びました。

 この問題は永遠に解決しない難題です。

 しかし、
1, ウォッチメンのような一握りの人間が、正義を実現しようと大勢の人間を殺害する行為に及ぶ(または黙認する)ことは、許されるのでしょうか。

2, たとえ、それが平和の実現を目的とするものであっても、ウォッチメンのような一部の人間が多数の犠牲を出すことを決定するのは許されてはいけないのではないでしょうか。

3, そもそも、多数の犠牲を出しても救うべき「正義」は誰が定義するのでしょう。この場合はやはりウォッチメンが定義することになるのでしょう。

 正義の相対性、正義とは何か、そして一番の問題…誰が「一握りの人間」」であるウオッチマンを監視するのか。

ウォッチメン


Who watches the watchmen?が原作で掲げられているテーマでもあります。                              

 結局、現実世界にはヒーローが倒すべき絶対的な悪は存在せず、同様に絶対的な正義も存在しません。

 従って、一握りのヒ―ローが悪が何かを判断し、それを独断で抹消することは許されないもの、というのが私の結論です。


ウォッチメン


 初めてみたとき、ウォッチメンたちの区別がなかなか大変だったので、映画に出てくるウォッチメンの面々の紹介を一応書いておきます。
ご興味のある方はどうぞ、お読みください。

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【コメディアン】
 もっとも初期から活動し、初代ナイトオウルや初代シルク・スペクターとも活動を共にした。数々の歴史的事件に関与し、ケネディ暗殺に関わっていた(彼が引き金を引いた)こともオープニングクレジットで明かされている。
 また、本編ではベトナム戦争への参加も描かれている。
暴力的解決手法を好み、初代シルク・スペクターを強姦しようとしたことがある。
非合法化後も政府の管理下でヒーロー活動を継続。映画冒頭で殺害される最初の被害者でもある。

【ロールシャッハ】
 トレンチコートに帽子、白黒の常に変動する模様のマスク。そしてそのマスクは常に異臭を放つという。極右雑誌を愛読し、トルーマン大統領とその業績を賞賛する。非合法化された後も、非合法的にヒーロー活動を続ける。
 絶対的な正義を信奉し、決して妥協はしない。マスクの白と黒が混じり合うことはなく、灰色になることはないのがその象徴でもある。また、「マスク以外は何も必要ない」というくらいにマスクには固執している。                               映画中でも描かれる事件をきっかけに、「犯罪者を生かしておく、今までのスタイルは甘かった」と語る。1人の女性が殺された事件で40人もの人間が見て見ないふりをした事件とも相まって人間に対して強い不信感を抱いている。

【ナイトオウル(2世)】
 父は銀行家で、初代ナイトオウルでもあった。引退後は父の遺産を元に静かに生活している。ただ、自宅地下に自作の道具を多数保管しており、未練を感じさせる。
事件解決手法は至って紳士的。人間的な不信感はなく、その正義感にも疑いを見せない。                        
 伝統的なヒーローに最も近い外見。

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【シルク・スペクター(2世)】
女性のヒーロー。母親が初代で、15歳でヒーローの座を継ぐ。幼いころからヒーローになるための特訓をした母親とは感情的なしこりもある。非合法化後は引退して、Dr.マンハッタンの恋人として基地で生活をする。

【Dr.マンハッタン】
1950年代前半に科学実験の失敗で全身が粒子状に分解されてしまった。全身が青く発光しており、正体不明であるが一応、彼の人間としての意識は生き残っている。非合法化後も政府の管理下でヒーロー活動を続ける。
特殊の倫理観を持ち、人間の生死には関心が低い。映画中でもその特殊性を示すエピソードが多数あるが、そのひとつはベトナム戦でのコメディアンの殺人行為の傍観であろう。                                                彼の特殊な能力はアメリカがソ連に対して圧倒的優位を保つ要であり、その能力はソ連の核戦力の99.5%に相当する。彼の失踪(火星への逃避)を原因としてアメリカはその優位を失い、ソ連はアフガニスタンに侵攻し、核戦争の危機が現実化した。

【オズマンディアス】
ヴェイト社社長にして、「世界一の天才」と言われる頭脳を武器に難事件を解決した元ヒーロー。今は引退して、実業家として莫大な財産を築き、各地でチャリティー活動を行う。エジプト文明を愛好する文化人でもあり、南極に自分の基地を所有する。コメディアンの次に襲撃される。

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 なかなかの変わり者ぞろいですよね。
 この映画は「ヘンタイしか出てこない」、かもしれない。

 ひと癖もふた癖もあるヒーローばかりで、一人として100%正義の味方、伝統的なヒーローと言える人はいません。
 ラストまで見ればわかりますが、「一人も」、いません。

 その人間味がウォッチメンの魅力なのです。

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↑ニューヨーク,マンハッタンの高層ビル街

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アメリカン・サイコ

映画:アメリカン・サイコ あらすじ
※レビュー部分はネタバレあり

クリスチャン・ベール主演でおくる、アメリカ現代社会を鋭く風刺するブラックコメディ風味のサスペンス。アメリカン・サイコって本当にクリスチャン・ベールが演じる殺人鬼のことだけなのか?

 周りの人間も十分にアメリカン・サイコの素質はあったりする。そこが怖い。

 1980年代のNY。パトリック・ベイトマンは投資銀行に勤めるエリートサラリーマン。

豪華なマンションに住み、婚約者もいて、何不自由ない裕福な暮らし。秀でた頭脳に完璧なルックスと美しい肉体。もちろんそのためには肌の手入れや筋トレを欠かさない。
 
 しかし、彼にはもう一つの顔があった。そう、彼は人を殺さずにはいられない性癖をもっていたのだ…。

アメリカン・サイコ


 クリスチャン・ベールとレオナルド・ディカプリオが主役を巡って競合したが、監督の強い要望でベールに決まった。クリスチャン・ベールの方があってるかも…ディカプリオでは童顔すぎて冷徹でストイックな感じが出ない気がする。

 また本作はジャンル的にはサスペンスながらも、ブラックコメディを基調としているので、その意味ではベールは適役。ディカプリオが演じるとリアリティが出すぎてまた別の作品になった可能性がある。

 クリスチャンベールは『マシニスト』という映画では1年間眠っていない不眠症のガリガリ君を演じたり、後の『バットマン・ビギンズ』では筋肉ムキムキになったり、と肉体改造に忙しいことでも有名。

アメリカン・サイコ


 いずれにしても、ストーリーは秀逸。脚本も素晴らしく、全体的にはコミカルなタッチで、見て損はしない、と思います。

 特に映画の最初の方で展開される「名刺バトル」は有名なシーン。

 主人公および周辺の友人たちの滑稽さが象徴的に描かれています。あまりの可笑しさに何度も見直してしまいました。

 スーツのブランド、食事をするレストラン、名刺などなどカネと見た目で競う愚かさを風刺する、この映画の象徴的なシーン。



【映画データ】
アメリカン・サイコ
2000年(日本公開2001年)・アメリカ
監督 メアリー・ハロン
出演 クリスチャン・ベール、ウィリアム・デフォー、ジャレッド・レト、クロエ・セヴィニー


アメリカン・サイコ


映画:アメリカン・サイコ 解説とレビュー
※以下、ネタバレあり

★映画を貫く現代人の病理

 斧で殺害したり、チェーンソーで殺害したり…アメリカ田舎町でのサイコホラーの道具立てがNYという都会のど真ん中で、スーツを着こなす主人公によって使われる演出がなんともセンスを感じさせます。

 また、最後のシーン。結局主人公は一連の殺人行為にもかかわらず、なんと逮捕されずに終わります(本人は捕まりたいと思っているにも関わらず)。

 それは、都会人の「無関心」という病理によるものです。

アメリカン・サイコ


 友人も弁護士もパトリック・ベイトマンや被害者ポールの名前と顔を一致させて覚えていないことが終盤のシーンで明らかになっています。

 具体的にはまず
1, ポールと殺害日以後にロンドンで一緒に食事をしたとの友人の証言

2, パトリックはポール殺害後にロンドンに行っていないという事実、

3, 証言をした友人はパトリックの名前を誤っている(そのうえ、誤りに気がついてもいない)ことから、友人はポールを誰か別人と勘違いしていたことが(観客に対しては)ラストで明らかになります。

 弁護士は関わりたくないので、パトリックの殺人の告白には聞く耳を持とうとしません。

 友人の証言の誤りは写真を見せるなどして調査すれば明らかになるだろうと思われるのにバレないのは探偵のいい加減な捜査の現れでもあるのでしょう。

アメリカン・サイコ


★主人公パトリックは殺人を本当に行っていたのか

 この映画の結末には実はパトリック・ベイトマンが全ての殺人を行っておらず、ポールの殺害を除いては妄想だったとする見解もあります。

 しかし、友人や弁護士がパトリックの名前を誤っていることの説明がつきません。全部妄想なら、何度も出てくる名前を混同するシーンは不要だからです。                                 
 また、ポールのマンションを再訪するパトリックをマンションの管理人の女性が事件なんて何もなかった、と言って追い払うシーンが「妄想説」の根拠にされますが、それは違います。

 実はここにも無関心の病理が働いています。

 管理人にとっては不動産の価値が下がるような事実…その部屋が実は殺人があった部屋であること…が知れたら、一等地の超高級マンションの価値が下がります。

新しい買い手に買い叩かれるでしょうし、今の入居者からも不満が出かねません。裁判になって、賠償金を請求されるかも。

殺人事件があったことは、彼女としても詮索されたくない、葬るべき事実なのです。

アメリカン・サイコ


 女性の背景で、壁から床まで全てをはがして塗り直しや壁紙の張り直しをする作業員が映っています。
 単なる転居後の掃除でそこまでするでしょうか。           
 また、「二度と来ないで」という言い方は普通、友人の住所を訪ねて来ただけの者に対して言うセリフではありません。

 殺されたポールに関係する人物がやってきて新しい入居者に真実が判明することは好ましくないので、きつく言い渡したのでしょう。          
  以上から、やはりポールの部屋が殺人現場であったことが推察されます。

 友人の無関心、弁護士の無関心、探偵の無関心、マンション管理人の無関心が絡まって、ポール殺害事件をはじめとする一連の殺人事件は闇の中ということになったのでしょう。

 あり得ない?でもこれはキツイ社会風刺コメディなので、そういう結末でもいいのです。

アメリカンサイコ




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アイ・アム・レジェンド 別エンディング

映画:アイ・アム・レジェンド 別エンディング あらすじ
※レビュー部分はネタバレあり

 ウィル・スミス主演。というか、ほとんど半分以上はウィル・スミスの一人芝居だ。あとは犬のサム。

 アイ・アム・レジェンドには劇場公開されたのとは違う別エンディングがある。こちらのエンディングは実にいいと思うので、こちらをぜひ観てほしい。以下のレビューでアイ・アム・レジェンドの別エンディングを詳しく取り上げる。

アイ・アム・レジェンド 別エンディング


 この映画、テレビで予告編を見て、すごく気になっていた。そこに映るニューヨークは空っぽだから。だれもいない、そんな空っぽの大都市に一人の男(と犬)。

 なんで、なんでとこの不思議なシチュエーションに興味がわく。なぜ、NYは廃墟になってしまったのか?ひとりで都市にのこされたらわくわくするなあ。

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 さて、冒頭のシーンではTV映像が流される。その番組では一人の学者がインタビューを受けていて、癌を治す画期的な薬を開発したと発表している。そして、画面には「A few years later」の文字が。

 映し出された数年後の世界では男ひとりだけ。彼はどうやら医学者のようで、自宅の地下は研究室。マウスに何やらウィルスを注射して薬剤の開発にいそしんでいる様子。

 そして、一匹のマウスを見つける。そのマウスは病気に感染していなかったのだ。



【映画データ】
アイ・アム・レジェンド 別エンディング
2007年 アメリカ
監督 フランシス・ローレンス
出演 ウィル・スミス



アイ・アム・レジェンド 別エンディング 解説とレビュー
※以下、ネタバレあり

 うーん、第一印象の感想はお金をかけたゾンビ映画!
 予告編でゾンビの存在を一切匂わせないというのもなかなかうまい宣伝方法。                        

 前半がほとんど主人公一人だけ(犬のサムはいるけれど)、というのもグループが多いゾンビ映画では珍しいし、ゾンビを治療しようとする発想は面白いですね。

 正確には彼らは人間でゾンビではありません。一度死んで生き返ったわけではないからです。彼らは癌の薬を飲んで、その副作用で今のような姿になったわけだから、ある意味、人間です。でも、分かりやすい言い方なので、ゾンビといわせていただきます。感染者というべきかしら。

アイ・アム・レジェンド 別エンディング


 主人公は噛まれても感染せず、空気感染もしないのだから、彼らに対して免疫を持つ自分の体を使って治療薬を開発していたのでしょう。

 回想シーンから察するに、主人公は軍関係の科学者または軍医で、治療薬の開発自体はゾンビ化が爆発的に広まる前から行っていたようです。                   

 そして、その実験は成功しかけていました。罠を仕掛けて捉えた女性のゾンビは血清を注射されて人間らしくなってきていたからです。

 しかし、最後はゾンビのボスに迫られて、再び、ウィルスを注射して元の状態に戻してやることになりますが。

★劇場非公開版のラスト

 本レビューのラストは劇場公開版とは異なります。

 劇場公開版では、女性に将来の希望となる血清を託して主人公は死ぬことになり(ゾンビのボスに殺される)、脱出した女性と子供は血清を携えて他の生存者を捜して旅立つというもの。

 この場合、将来的には、ゾンビ化した人間は治療される可能性があることになります。

アイ・アム・レジェンド 別エンディング


 非公開版だと、治りかけていたゾンビの女性を脅されて元のゾンビに近い状態に戻してやります。そして、血清の開発をやめて、他の生存者を捜しに行くことになります。

 このラストだと、主人公は血清を開発をやめたか、後回しにしているので、血清は映画のラストに至っても完成できていません。
 
従って、ゾンビ化した人間は放置されることになります。この場合はゾンビと人間の共存の道を選ぶことになるのでしょうか。

 実は、タイトル的には劇場版が正しいです。

 『I am legend』とは自分自身が伝説である=免疫のある自分の体から血清を造り出すことに成功し、ゾンビ化した人々を救って人類の希望になった男を意味するからです。

アイ・アム・レジェンド 別エンディング


 監督は最初の撮影では非公開版のラストを撮り、このラストで行くつもりだったが、あまりに主人公が弱々しいということで、前述のラストになったとか。

 確かに、血清も完成していませんし、ゾンビたちも放置なので、ハッピーエンドではありますが、主人公が大活躍というわけではないかもしれません。

 でも、あとで書くように、こちらの方が、映画としては見るべきメッセージが含まれていると思います。

以下、それを考えてみます。

★主人公の勘違いと劇場非公開の別エンディング

 主人公はゾンビ化した人間たちが感情を失い、知能も低レベルとたかをくくっていました。その結果、罠にかかって犬を失い、治療していた女性を取り返しにやってきたゾンビたちの襲撃を受けることになります。

 実際のところ、彼らには知性があり、集団生活をしていて、愛憎悲哀の感情があります。彼らは主人公が思うのとは違って、人間的な部分が残っています。
(ここが公開版との一番の違い)

 そんな彼らからすれば、罠を仕掛けて仲間を連れ去った男は、愛する人を誘拐した犯人であり、治療の必要があると決めつけて妙な薬を注射した傲慢で勝手な奴、そしてばんばんゾンビを撃ち殺す敵ということになるのでしょう。

アイ・アム・レジェンド 別エンディング
↑ニューヨーク,マンハッタンのバッテリーパークシティのオブジェ。「ベルリンの壁」

 
 そもそも、彼らは主人公を食べに襲撃してきたわけではありませんでした。自己防衛をしていただけ。

 主人公が建物の中で襲われたのも、誰でも家の中に勝手に他人が入ってきたら追い出すのと同じで、恋人を誘拐したやつの家に取り返しに来るのもまた当然であるとも考えられます。

 この見方変われば立場も変わるという相対性。

 自分にとっては善の行為も相手にとっては憎むべき行為なのかもしれないのです。もはや、彼らは治療さえ必要とは思ってはいないのでしょう。

 ゾンビ化した人間がいまや多数派で、むしろ、いまだ人間のままの主人公たちの方が異端の存在になっているからです。何が普通で、何が異常なのかも実は社会の多数が基準になっているという事実がそこにはあります。

 主人公もそれを悟るからこそ、薬が効いて治りかけていた女性をゾンビに戻し、ニューヨークを後にするのです。ゾンビを人間と同様の一つの生命体として受け入れ、共存の道を選ぶことになります。


 このように見てくると、この別エンディングの示す結末が深い示唆を伴うことが明らかになってきます。いままでのゾンビ映画とは一線を画すところがこの映画にはあるのではないでしょうか。

アイ・アム・レジェンド 別エンディング


 しかし、多くの観客が目にするだろう劇場公開版ではゾンビどもは主人公を始めとする人間を殺してしまう恐ろしい奴で、治療薬で救ってやらなくてはならない見下げるべき対象物になってしまいます。

 この結末では、やはり、ゾンビは人間と対等ではない、下等なものとして扱う意識が働くことになります。

 これでは、いままでのゾンビ映画とどんぐりの背比べ。ゾンビはシューティングの的になりさがってしまいます。ラストに妥協してしまったことが残念です。

アイ・アム・レジェンド 別エンディング

 
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アンダーグラウンド (1995)

あらすじ
※レビュー部分はネタバレあり

 戦争に明け暮れた近代ユーゴスラビアを背景に、戦争に翻弄される男女3人の数奇な人生を描く。

 ナチス侵攻下でパルチザンとして活動するマルコは自分の所属する抵抗組織に友人のクロを加入させる。マルコはその抵抗組織の主要メンバーとして頭角を現し、ナチス撤退後には次第に表社会でも政治家として台頭していく。

 一方で、マルコはナチス支配で迫害を恐れるクロ、マルコの弟を含む抵抗組織の全員を丸めこんで巨大な地下室に退避させていた。
 ナチス支配が終わっても、マルコは彼らにナチス支配の終焉を知らせようとせず、抵抗運動のためと称して、地下で武器の製造を続けさせていたのだ。

 ナチス支配後、新たに大統領に就任したチトー大統領の元、マルコはその側近として権力をもつようになっていた。そして、地下に幽閉した抵抗組織に密造させた武器を転売して、巨大な利益をあげていたのであった。                              

 しかし、強権をふるってユーゴを統治したチトー大統領の死により、再びユーゴスラビアは混乱に陥っていくのだった。                

マルコとクロの両者が恋焦がれる女優ナタリアを絡めながら、ナチス支配からユーゴスラビア紛争までを背景にマルコとクロの変転する運命を描いていく。



【映画データ】
アンダーグラウンド
1995年(日本公開1996年)・フランス,ドイツ,ハンガリー
監督 エミール・クストリッツァ
出演 ミキ・マノイロヴィッチ,ラザル・リストフスキー,ミリャナ・ヤコヴィッチ,エルンスト・ストッツナー


レビュー
※以下、ネタバレあり

 パルチザンを義賊として扱うこともなく、その盗賊・ごろつきとしての実体を描いていたり、記録映画に本作の登場人物を紛れ込ませたり、全体を通してユーモラスな表現が見られる。

 戦争映画ではあるが、全編を通してファンタジスティックな演出が多用され、明るい雰囲気すらあるのが面白い。戦闘場面はほとんどない。繰り返し使用されるユーゴスラビア民族音楽が印象的である。クストリッツァ監督は本作が2作目のパルム・ドール受賞。

★ユーゴスラビアの歴史

 ナチスの支配下では共産党組織がパルチザン活動を行っていた。そして終戦後は共産党がユーゴスラビアで支配政党となり、チトー大統領が就任。チトー大統領はそのカリスマ性で社会主義独裁体制を敷き、ユーゴスラビアにつかの間の平和をもたらした人物。社会主義体制下でありながらソ連とは独立の地位を保ちつつ、制限的に野党の存在を認め、言論の自由も一定の範囲で許した。不安定ながらも、内戦を回避したが、その死後は長い紛争の歴史となった。


【映画データ】
1995年 フランス・ドイツ・ハンガリー
監督 エミール・クストリッツァ
出演 ミキ・マイノロヴィッチ、ラザル・リストフスキー
カンヌ国際映画祭パルム・ドール賞
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運動靴と赤い金魚

映画:運動靴と赤い金魚 あらすじ
※レビュー部分はネタバレあり

 運動靴と赤い金魚。
 
 タイトルを聞いただけでふっとイメージが浮かんでどういう映画かな?と思わせる、センスのあるタイトル。

 運動靴と赤い金魚はイラン映画。普段目にすることのない、イランの庶民の暮らしぶりや生活が垣間見えて、その観点からも興味が持てる映画。

運動靴と赤い金魚


 この映画は、イランのとある郊外に住む小学生の兄アリと妹ザーラのお話。
 アリはある日、お使いに出かけた先で妹の靴をなくしてしまう。両親に失くしたことを言えないアリは妹と相談して交代で靴を履くことを決める。それからというもの、アリは待ち合わせ場所でザーラから靴を受け取っては学校に駆け込む毎日。            
 果たして靴は?助け合って暮らす家族の物語。

 とても地味な印象の作品だが、日常のちょっとしたことをうまく捉えて観客を惹きつけるところに監督のセンスと腕の良さを感じる。

 また、幼い兄妹の目線を通すからこそ、純粋に、ストレートに社会の現実が伝わってくる。派手さはないが、忘れられない心に残る作品。



【映画データ】
運動靴と赤い金魚
1997年・イラン

モントリオール国際映画祭グランプリ他3部門受賞
アカデミー賞外国語映画賞ノミネート

監督 マジッド・マシディ
主演 ミル・ファロク・ハシェミアン,バハレ・セッデキ,アミル・ナージ


運動靴と赤い金魚


★イランの文化

 イランはイスラム教に従った生活が求められる政教一致の社会。

 学校でも男女別の授業が徹底していて、女子は午前、男子は午後から授業になっているようです。また、赤い金魚はイランの正月のお祝い物。正月が過ぎるとそのまま家で飼う家庭が多いとか。
 
 また、砂糖はモスクで使われる宗教物で、キリスト教の聖餅にあたるようなもの。アリの父はこの砂糖をまとめて預かる任にあるようです。
 
 さらに、イランの女の子はあの幼い年齢でもパンプスに近い形の靴を好んで履くようです。スニーカーは男の子の履物で貧しい家庭にはとても高価なようです。

運動靴と赤い金魚


映画:運動靴と赤い金魚 解説とレビュー
※以下、ネタバレあり

★映画のメッセージ

 イランでは情報統制が厳しく、表現の自由がないことを考えると、監督が子供を主人公に映画を撮る理由が分かります。子供向けの映画ということにすれば、多少は無理がきくからでしょう。

 それでも、教訓たらしい子供用映画にならないのは監督の手腕。

 ラストシーン。池に座ってマラソンで疲れた足を冷やす少年。周りに寄ってくる金魚は頑張ったアリを祝福しているかのようです。

夜には父から靴が兄妹にプレゼントされることでしょう。アリが妹に結果を報告するシーンの直前にちらっと写される父の自転車の荷台には2人分の靴が…。

運動靴と赤い金魚


 3位になりたかったのになれないところがとってもリアル。

 人生は全てが自分の思い通りにはならないけれど、それでもがんばった自分は決して無駄ではなくて、いつか願いはかなう。

 このメッセージは大人になったときにも忘れたくない素朴な思いです。

 この監督にはぜひ、いつか、一度は表現規制の枠にとらわれない作品を撮ってもらいたいと思います。

 子供を主役に据えて規制をかいくぐる手法で撮影された作品は他にも中国の作品などに見受けられる手法の一つとして、確立した感がありますが、どうしてもそこには限界があって、一つ抜けきらない感が否めません。

★映画の映すもの

 終始淡々としたタッチながら写される風景はときに残酷な社会の格差を示しています。
 
 父とアリが庭仕事を探しに都会へ出かけるシーン。

 狭い路地が入り組むアリたちの家の周辺とはけた違いに大きな道路。その道路沿いにそびえたつ高層マンション。それを過ぎると、広々とした敷地に立派な門構えの大きな家々。嫌みなく移ろう映像にはまぎれのない、埋められない格差があります。

 そして、妹のザーラが自分の靴を履く少女の家に行くシーン。物陰から眺める彼女の眼に映ったのは、盲目の少女の父。

 もしかしたらザーラの家より貧しい家庭なのかもしれません。自分の両親をみて、その苦労を知っているザーラはついに、靴を返してほしいということはできませんでした。
 
 さらに、マラソン大会出走まえにちらっとアリが視線を他の子供たちに向けます。そこには、お金持ちたちの子供の姿。スポーツウェアに運動靴を身につけ、母親が同行して来ています。

運動靴と赤い金魚


 それでも、アリの家族には新しい希望があります。それは子供たち。

 アリの父は格差に対してそんなに疑問を持っていないのではないでしょうか。

 貧富の差を当然のことと受け止めていて、何の疑問もなく毎日を過ごしているようにみえます。アリの父が教育がないために、庭仕事のセールストークも満足にできず、宗教に熱心な人に描かれているのは偶然ではないでしょう。

 彼はまぎれもなく、旧世代に属する人なのです。

 でもアリはそうではない。少なくとも、今回の経験を通して、自分の置かれている境遇とアリのような運動靴ごときに苦労しない子供たちとの差を身にしみて感じたはずです。

運動靴と赤い金魚

 
 新しい世代は教育を受けていて、新しい価値観を持てる世代。社会に何か問題があるとしたら、その存在をまず認識しないことにはまず、問題は解決しません。
 
 そして、疑問を持つには学問の力が必要。
 
 アリやザーラは勉強を熱心にしているし、実際にも優秀みたいですね。今の境遇を抜け出す力がきっと二人にはあるはず。

 社会を変えるのはそんな子供たちの世代なのです。そして、アリを祝福する赤い金魚は、アリだけではない、頑張る子供たち皆の前途を祝福しているのです。

 社会変革を願う、監督の隠れたメッセージがここにあるような気がします。

運動靴と赤い金魚





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エンゼル・ハート

映画:エンゼル・ハート あらすじ
※レビュー部分はネタバレあり 

 若きミッキー・ロークが主演。最近復活してきましたね。なかなか味のある演技をなさる俳優になってました。もうごたごたは片付いたのかなぁ。

 そのミッキー・ロークが演じるのは探偵。追うのは訪ね人。エンゼル・ハートとというタイトルから連想されるのとは裏腹の暗めの映像が観る者に光と影の印象を残す。

 解説とレビューではエンゼルハートのストーリー展開を詳しく解説していきます。

エンゼル・ハート


 1955年。私立探偵のハリー・エンゼルは、弁護士を介してルイ・サイファーという男から仕事の依頼を受ける。

 その内容は、戦前に人気歌手であったジョニーという男を探してほしいというものであったが、ジョニーは戦争に従軍後、精神を病んで精神病院に収容されているはずであった。

 そこで、病院に行ってカルテを見せてもらうが、そこには退院したとの記載が。そこでハリーはカルテに署名した医師を訪ねて行くが…。

 ハリーを次々と襲う事件。彼は真相に到達できるのか。ミステリー・サスペンスの潮流を変えた記念碑的作品。



【映画データ】
エンゼル・ハート
1987年・アメリカ
監督 アラン・パーカー
出演 ミッキー・ローク、ロバート・デ・ニーロ



エンゼル・ハート


映画:エンゼル・ハート 解説とレビュー
※以下、ネタバレあり

★『エンゼル・ハート』の影響

 この作品を観て、1987年にこの「本人落ち」の作品が出ていたのかということにまず驚かされました。この手の落ちの作品は「ユージュアル・サスペクツ」(1995年)「シックス・センス」(1999年)で趣向を変えつつ、さまざまなバリエーションで用いられています。
 
 本作品は主人公の精神構造に決着するストーリーを採用しつつ、サスペンスミステリーとして完成された初期の作品でしょう。ストーリー・映像・演出・音楽…全てが高い完成度で出来上がっています。

エンゼル・ハート


 先に述べたようにこの作品が後進の作品に与えた影響は「落ち」だけではなく、その映像・演出も同様です。
 
 回る換気扇・昇降するエレベーターの光と影、黒と白の対照、薄汚れた下町の道端で規則的に刻まれるタップダンスの靴音、踊る少年の絡み合って倒れてしまいそうな足元のクローズアップ。
 
 こういったシーンは一見、何の関係もないように思えます。
 
 それでも観客は何かあるのではないかという不安感を拭いきれず、言いようのない焦燥感や不安感に胸を満たされたまま一気にラストまで引っ張られていく。

 このような映像は(特に換気扇のシーンは良く見る)本作以降の作品に多用され、類似の場面が登場しています。
 
エンゼル・ハート


★ジョニーとハリー

 それではストーリーを見てみましょう。ジョニーの体を持つジョニー&ハリーの二重人格ということですよね。以下、詳しく解説していきますが、最終的な結論はそういうことになるでしょう。

 ハリー・エンゼルとルイ・サイファーという名前、そしてタイトルの『エンゼル・ハート』とを考え合わせれば英語圏の人なら特にぴんとくるのかも知れません。今では、ここまで名前でヒントを出すと落ちがばればれですね。
 サイファーという名前は『マトリックス』でも使われています。

 映画のストーリーに従うと、
1, ジョニーは戦争前に悪魔と契約し、人気歌手になります。そして、

2, 悪魔との契約から逃れるために偶然見かけた若い軍人の心臓を食ってジョニーはハリーの記憶と人格を得ます。

 このときにジョニーとしての記憶は奥底に隠蔽されてしまいます。そして、
3, 負傷して復員し、顔を整形し、新しい記憶に基づいて、ハリー・エンゼルと名乗って新しい生活を始めます。

ジョニーがハリー、その逆もまた真なので、いつまでたってもハリーは真相に近付けず、ぐるぐる真実の周りを周回していたわけです。

エンゼル・ハート


★ジョニーと悪魔の契約

 ジョニーが悪魔と契約するに至るのはなぜでしょうか。
 
 恋人の占い師マーガレットは、人間の手のミイラを鏡台の小箱に入れていたことから、悪魔崇拝者であったのでしょう。それをきっかけに悪魔の力に魅入られたと思われます。

 そして、その悪魔との契約から逃れるために黒人でブゥードゥー教の巫女であり、エピファニーの母親である愛人の力を借りることにします。それは、儀式により心臓を食って、ジョニーが新しい人格と記憶を得るというものでした。

 そして、復員後は新しい生活を始めることに。
 
 ところが、悪魔は、整形や他人の記憶と人格の乗っ取りくらいではごまかされません。
 
 今はハリーとして生活する男がジョニーであることは百もお見通しで契約の履行を迫るべくハリーにジョニーの捜索を依頼する…。というわけ。あえて、本人にジョニーを捜させるのは悪魔流のジョークというわけなのでしょう。

 あとは人格崩壊の過程をを見てみたい、そして、その苦しみをジョニーに契約から逃げた罰として与えてやりたい、ということでしょうか。

エンゼル・ハート


★人格の統合

 最後に、ハリーは自分こそがジョニーであると気が付くことになります。
 隠蔽されていたジョニーとしての人格はハリーがジョニー探しを依頼されたことで完全に目覚め、ジョニーは、ハリーに自分の存在を知られないように殺人を繰り返して真実を知る者を抹殺していました。
 
 ハリーはそんなジョニーとしての人格から逃げようと、自分こそがジョニーであることを頑強に認めようとしません。しかし、最後に、刑事にエピファニーを殺したことを詰問され、「人を殺した」ことを認め、自分がジョニーであることを認めます。
 
 その瞬間に人格は一つにまとまり、一気に今までの殺人の記憶が戻ってきます。そして、エレベーターを降りていくジョニー(ハリー)。行き先は?魂はルシファーのもとに、肉体は殺人犯として電気椅子に行くことになるのでしょう。

エンゼル・ハート


★なぜ、この時期にジョニーを連れに悪魔が来たのか
 
 なぜ、終戦後何年も経って、ルシファーはジョニーを連れに来たのか?
 
 なんででしょうね。

 ずっと探していてやっと見つけ出したのでしょうか?でも、ジョニーのごまかしを見破るくらいですから、それもどうでしょうね。
 ひとつ考えられるのは、これも悪魔なりのジョニーに対する制裁であるということ。
 
 なぜ、これが制裁なのか?

 最後のシーン、エピファニーの子は目が光っています。それはエピファニーの子供、すなわち、ジョニーの孫は悪魔の子だからです。

 エピファニーは父親は誰かという質問に曖昧に答えていますが、父親は悪魔だったのでしょう。ルシファーは子供が生まれて成長が確実になるのを待ってジョニーを連れに来たというのはどうでしょう。
 
 せっかく生まれたジョニーの孫も悪魔…と分かったジョニーの心境はどのようなものでしょうか。

エンゼル・ハート


 ちなみに、冒頭で突然出てくる犬と猫、そして死体。この死体は単なる演出です。恐らく浮浪者か誰かの死体です。

 これは心臓を食べられた若い軍人の死体ではありません。なぜなら、彼は戦後には既に死んでいます。彼が死んだのは戦前または戦中。冒頭の死体の映像は戦後です。

 さらに、ジョニーの死体でもありません。心臓を食べたのはジョニーです。軍人からは心臓を頂いただけで、軍人の体を乗っ取ってハリーになったわけではありません。
 あくまで、体はジョニーのままです。

エンゼル・ハート
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アメリカン・ヒストリーX

映画:アメリカン・ヒストリーX あらすじ
※レビュー部分はネタバレあり

 エドワード・ノートンとエドワード・ファーロング主演、アメリカン・ヒストリーX。
 アメリカ社会の病理を描いた社会派の怪作であり名作。特筆すべきは、人種差別問題を過去の出来事としてではなく、現在の出来事として描く衝撃だ。

 KKKや燃える十字架は本当に過去の問題のなのか。
 
 そして、アメリカン・ヒストリーXの「X」の意味するものは無限の希望か、絶望か。

アメリカン・ヒストリーX


 カリフォルニアの高校に通うダニー・ビンヤードはある日、校長に呼び出される。その原因は彼の提出したレポート。ヒトラーの手記、『わが闘争』をテーマにするものだった。

 ダニーはスキンヘッドにし、部屋はハーケンクロイツ(ナチスの鉤十字)がでかでかと飾られている。彼はネオナチのグループに属し、校内では黒人の同級生と険悪な関係にあった。

 そんなダニーの様子に校長は気が付いていた。そして、彼に、改めてダニーの兄、デレクについてのレポートを出すように命じる。タイトルは「アメリカン・ヒストリーX」。

 デレクは刑務所に服役していたが、今日出所の予定だ。服役前の彼は白人至上主義者でネオナチのリーダー。黒人を殺して逮捕されていた。弟のダニーは兄を尊敬していたのだった。

 父親の死。差別と偏見、怒り、そして憎しみ。振るわれる暴力。
図らずも、ダニーとデレクのたどった軌跡、アメリカン・ヒストリーXはアメリカの憎しみの連鎖を象徴するものになっていた。

 憎しみの連鎖を描き出した秀作。アメリカン・ヒストリーXは人種差別やネオナチに対する非難を超え、人間の本質をえぐり出すことに成功している。



【映画データ】
アメリカン・ヒストリーX
1998年 アメリカ
監督 トニー・ケイ
出演 エドワード・ノートン、エドワード・ファーロング



アメリカン・ヒストリーX

↑アメリカのネオナチを自称する白人グループ。2,3人の小グループから民間武装組織の体裁をとる1万人を超える大規模なものまで多数存在する。

映画:アメリカン・ヒストリーX 解説とレビュー
※以下、ネタバレしています。

★アメリカン・ヒストリー「X」

 X。XYZのXですが、なぜ、アメリカン・ヒストリーXなのでしょう。
Xは辞書で引くとローマ数字、数学の変数などいろいろな意味が出てきます。

 アメリカン・ヒストリーXのような人種差別を扱った映画の場合、黒人の姓名の姓の方を意味するものとして使われることが多いです。これは、奴隷時代に黒人が字を書けず、Xと署名したことに由来します。

アメリカン・ヒストリーX
↑キング牧師の記念碑


 新興国アメリカの建設期から南北戦争を経たのち、キング牧師やマルコムXの公民権運動。長い年月をかけた人種差別の解決への努力の歴史です。

アメリカが並々ならぬ時間と熱意を持って、この問題に取り組んできたことは間違いありません。

 その象徴が2009年1月20日のオバマ氏の大統領就任でしょう。

 その一方で、近年は、ネオナチや極右勢力、そして一部のキリスト教原理主義や超保守主義、国粋主義や白人至上主義が融合して過激派としての活動を再活性化する試みが注目されています。

 彼らのリクルート先は、失業や貧困に悩む若い白人です。

 若い彼らは就職難や貧しさに対して怒りを溜め、吐き出す先を求めています。

 彼らの苦い感情を移民や有色人種に向けさせ、利用するのは実に効率的なリクルートです。

アメリカン・ヒストリーX


 アメリカン・ヒストリーXの主人公はやはり怒りを持つ青年です。

 アメリカ中流家庭に生まれ、、真面目に授業に取り組む高校生だった彼はなぜ、ネオナチに属し、白人至上主義を取るようになったのか。

 公民権運動当時に比べて、人種差別に対する派手な社会運動はなりをひそめました。その陰で、枯れることなく流れ続ける差別感情がむくむくと頭をもたげるときがあります。

 本作はそのうごめきを捉え、表層だけでは理解できない、人種差別の本質的な構造を描きました。

 従って、Xにはアメリカ社会史の裏歴史、表立って描かれない歴史というような意味合いもあるのでしょう。

 人種差別をテーマにする作品の中でも、心の奥底に潜む差別感情の下地を描く映画としてアメリカン・ヒストリーXは特異な作品だと思います。

アメリカン・ヒストリーX
↑KKKの典型的な衣装。階級が上がると色ものになったりする場合もある.これはKKK全盛期のころの写真


★刑務所仲間のラモントと「黒人」

 さて、この作品には取り上げたい場所がいくつかありますが、一番本質をついている場所は物語の中盤。

 刑務所の中でデレクが出会った黒人のラモントがシーツを被り、KKKの真似をして叫んでみせます。

 「黒人を憎め!今日も明日も黒人を憎め!黒人ってどんなやつだっけ?まあ、いいや、なんでもいいからとにかく憎め!」

アメリカン・ヒストリーX

↑現代のKKK活動家。背後には南軍旗が。かつては、第28代アメリカ大統領のウィルソンも会員だったほど、政界・経済界に浸透していた。現在でもKKKのパレードが残る地域がある。(残念画質ですみません)

 これは「憎悪」の構造を適確に言い表しています。

 服役前に白人至上主義者だったデレクは黒人をはじめとした有色人種を徹底的に差別し、暴力さえいといませんでした。

 しかし、その憎悪の対象は「ラモント」という黒人ではありません。
 彼らが憎んでいたのは「黒人」や「アジア系」という生き物。

 そこには個人を識別する要素はなく、人間が無個性にカテゴライズされています。

 彼が憎んだのは「黒人」、それは父を殺した黒人から生まれた想像上の、記号としての黒人たちでした。

アメリカン・ヒストリーX

↑骸骨(南北戦争時代の北軍兵士)の背後は南軍旗。南北戦争時代の南部の象徴であり、現代では人種差別や白人至上主義の象徴である。南部では今でも根強い人気があり、星条旗の代わりに使う者も少なくない。

 父を殺されたデレクの感情は強いパワーを持って、彼をネオナチ組織に入会させ、最後には殺人を犯させました。

 そして、周囲にデレクの増幅された憎しみが伝染していきます。

 デレクの憎しみは、ネオナチのメンバーにはデレクのカリスマ性を核にした結束力を与えました。

 しかし、彼の行動と犯罪は母を追い込み、妹との関係には亀裂を生じさせました。

 そして、ついにもたらされたのは究極の結末。弟の死だったのです。

★兄弟が白人至上主義者になったわけ

 弟のダニーは兄を慕っていました。そんな兄が刑務所に収監されてしまい、頼るものがなくなってしまったダニーの取った行動は、在りし日の兄の姿を真似ることでした。

 頼りにしていた兄が突然、いなくなってしまったダニー。兄のしていたことや考えていたことを真似すれば兄のようになれる。

 意識してかどうか、ダニーは兄と同じ思想と行動をとるようになります。

 ダニーがそうしたのは、兄を尊敬しているからですが、それだけではありません。その理由を探るため、兄、デレクを考えてみましょう。

アメリカン・ヒストリーX
↑アメリカの民主党のシンボルマーク。「家庭的で誠実」の意味がある。


★父の死とデレクの心

 デレクが父の死後、ネオナチに傾倒したのは何故でしょうか。

 確かに、父は黒人に殺害されました。そして黒人への怒りに燃えたデレクが白人至上主義に傾倒した…という説明は正当ですが、彼の心理を完全に捉えたものではないでしょう。

 彼が感じたのは怒りだけでしょうか。
 それよりも大きな感情が彼にはあったはず。

 それは喪失感です。

アメリカン・ヒストリーX


 穏やかで平和な家庭から突然消えてしまった父親。

 消防士として、危険から人命を助けるという勇気ある職業に就く父親をデレクは尊敬していました。

 それに、彼の言動にはデレクの考え方に少なからず影響を与える力がありました。
 それは食卓で二人が教師が黒人文学を授業で扱うことについて会話するシーンからもうかがえます。

 心に空いた大きな穴。支えてくれる者を失った頼りなさ。デレクは埋めようのない寂しさと不安を感じたでしょう。

 そこで出会った、ネオナチの組織。

 彼らを束ねるキャメロンは父と同じ年代で、自分を見込んでくれる、頼れるリーダーです。

 そして何よりも、人種差別を叫び、アジア人の店を襲撃し、組織の仲間と騒いでいるときには父親を失ったという心の隙間を感じずにいられるということ。

 デレクが組織に求めたのは思想に共鳴した、というよりは、そこに自分の居場所と安心感を求めたからでした。

アメリカン・ヒストリーX
↑星条旗のオーロラカラーバージョン。


 ここに、ダニーがデレクの姿を追った理由があります。

 父が死に、頼りにしていた兄のいない喪失感。

 兄が父の死をきっかけにネオナチに傾倒したように、弟ダニーも兄が刑務所行きになったことで組織によるべを求めたのです。

★受け継がれる人種差別

 高校生のころのデレクと父親の食卓での会話。父親はさらりと黒人文学に対する偏見をのべ、アファーマティブアクションの不当性について語っています。

 アファーマティブ・アクションの妥当性については諸説あるでしょうが、少なくとも、黒人教師が黒人文学を二・三取り上げたからと言って、すぐにそれが偏向教育だとする父親の発言は明らかに黒人への差別意識が見て取れます。

 ところが、父親にはそんな意識はないでしょう。彼には自分の発言が差別的であるとの認識はないはずです。

アメリカン・ヒストリーX
↑オバマ大統領の支持者バッジ


 白人の差別意識といってもさまざまです。

 デレクのように武装闘争も辞さないとして、実際に犯罪行為を行う者、あるいはレストランから追い出すとか、野次を浴びせる、もしくは電車で有色人種の隣には座らないなど、公には判然としない差別までいろいろあるでしょう。

 差別が意識的か否かは別として、それらの人に共通するのは程度の差はあれ、ある人種を自分より劣った者として見る態度です。

 デレクの父親は、息子の学ぶ文学が何であれ、根本的に黒人の教師が白人の生徒を教えるという関係自体について不満を持っています。

 それなのに、息子が黒人教師をほめたことが気に入らなかったのです。そこには、黒人が白人の上に立つなんて好ましくないことだ、と思う意識が潜在的に働いています。

 彼はネオナチでも、白人至上主義者でもありません。彼は、消防士として社会的名誉あるれっきとしたアメリカの一市民です。仮に、生前に息子がネオナチに加入していたら父は息子を止めたでしょう。

アメリカン・ヒストリーX


 ここに、アメリカ社会の人種差別の根深さがあります。

 一見、差別意識がなく、本人もその自覚がないのに、その根底に脈々と流れる白人優越主義の考え方です。

 なにせ、本人が無意識なので、考え方や行動が差別的であることにも気がつくことはありません。

 なぜ、白人優越主義的だと気がつかないのでしょうか。

 それは、彼の父、または母、もしくは親戚や周囲の人々もまた同じだからです。繰り返される世代交代となくならない差別意識の負の連鎖がここにあります。

アメリカン・ヒストリーX


★人種差別は他人事?

 人種差別はアメリカに限った事ではありません。民族紛争はその極限の表象ですが、もっと身近なところにも差別は潜んでいます。

 自分の属するアイデンティティーに誇りを持つのは良いことです。

 自分のよって立つものがあるということは人間に安定をもたらしますし、人間社会はアイデンティティーを同じにする者たちの集まりによって発展してきました。

アメリカン・ヒストリーX


 しかし、誇りを持つことと、他の人種または国の人間を見下すことは同義ではありません。

 この違いは分かっていても、つい混同してしまいがちであることは否めません。

 その間違いを防ぐには、何よりもまず、それが誤っているという認識を持つこと、そして、相手を知ろうとする姿勢です。

 デレクのように「黒人」と相手をカテゴライズしてしまった瞬間に扉は開かなくなってしまいます。

 アイヌ民族の同化政策、同和問題もしくは在日韓国・朝鮮人の方々、日本とアジアの国際関係を考えて、この『アメリカン・ヒストリーX』を引き直して見るとより身近な問題として捉えられるのではないでしょうか。


アメリカン・ヒストリーX



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1408号室

映画:1408号室 あらすじ
※レビュー部分はネタバレあり

 1408号室。そこに泊まった者に訪れるラストは死。
スティーヴン・キング原作のホラー1408号室。解説とレビューでは1408号室を2回に分けて結末までのすべてを解説します。
1408号室解説とレビュー続きはこちら

1408号室


 オカルト作家のマイク・エンズリン。

 超常現象のうわさを元にいわくつきの場所に行くなど、次の本のネタになるものを探していた。プライベートでは妻とは離婚寸前の状態。娘を亡くしてからというもの、ふたりにはすれ違いが目立っていたのだ。

 その彼がある日、一葉のはがきを受け取る。

 そこには「1408号室にはいくな」というメッセージがあった。たちまち興味を惹かれた彼はすぐドルフィンホテルの1408号室に行くことを決める。

 1408号室を電話で予約しようとしても、ホテルは1408号室の宿泊を拒否、それでも出向いたマイクを待っていたのは支配人のオリンだった。

 オリンはマイクを説得し、1408号室には行かないように告げる。その部屋に入った者は1時間と持たずに死ぬというのだ。オリンの必死の説得にも関わらず、1408号室に泊まることをあきらめないマイク。ついにマイクは鍵をうけとるのだった。

 果たして1408号室で襲いかかる数々の怪奇現象。彼は無事1408号室を抜け出すことはできるのか。ラストまで目が離せない衝撃の展開。



【映画データ】
2007年(日本公開2008年)・アメリカ
監督 ミカエル・ハフストローム
出演 ジョン・キューザック,サミュエル・L・ジャクソン,メアリー・マコーマック



1408号室


映画:1408号室 解説とレビュー
※以下、ネタバレあり

★ラストはこれです。

 さて、ラストが気になる1408号室。

 結論的には、マイクはあの部屋から抜け出せませんでした。あの部屋から出て来たのはもう一人のマイク。
 本当のマイクはあの世へ連れて行かれてしまいました。

 マイクの妻は最後にそのことに気がつきました。

 レコーダーから流れてくるのは夫と死んだはずの娘の声。そして、二人であの世に行くことを約束するマイクの声でした。妻に聞かれたことに気がついたマイクの表情はどこか不敵です。むしろ、レコーダーの録音を妻に聞かせたかったかのようです。

 彼を装っているのは何者でしょうか。
 それは悪魔です。1408号室に来るようにマイクを装ってパソコンを通してしきりに妻をおびき寄せようとしていたのもマイクのふりをした悪魔でした。

1408号室


★1408号室という場所は何のためにあるのか?

 1408号室は何のための場所だったのでしょうか。この場所の理解にはキリスト教の思想が強く影響しています。

 マイクは信心深いキリスト教信者ではないことは確かです。無神論者かもしれません。

 娘の死に際しても、妻と娘が天国の話をしているのを聞き、くだらない話をするな、と妻にいうほどです。
 マイクは神はおろか、いわくつきの1408号室のことさえ信じていません。オカルト作家でありながら、マイク自身は一切、超常現象を信じていません。

 キリスト教では、「信じる者は救われる」、と説きます(ヨハネの福音書3章)。この文章の主語は主イエスを指します。

 人間は死を恐れます。その恐れにつけ込むのが悪魔です。悪魔は死を恐れる人間の弱さに目をつけて、人間を誘惑します。死ぬ前にもっと楽しいことをしようとそそのかすわけです。その結果、人間は数々の悪行をこの世でしでかします。

 ならば、最後の審判を恐れて、人間がやけくそでこの世で悪いことをしないように、誰かが罪を被ればいいわけです。
 その罪を被って死んだのはイエス・キリスト。

 マイクは何も信じるものがありませんでした。もちろん、天国を信じていない以上、主イエスの存在も信じていなかったでしょう。

 イエスを信じる者は、その罪をイエスが背負うので審判を受けずに天国に行くことができます。しかし、マイクはイエスを信じていませんから、この世の所業には自分の身をもって償わねばなりません。

 1408号室ではそれまで自分がやってきた所業がすべて白日のもとにさらされる場です。少しでも心に弱みがある者はそこを突かれます。

 1408号室はあの世とこの世の境。審判を受ける場であり、地獄への入り口でした。

1408号室


★1408号室のカウントダウンは何のため?

 1408号室のカウントダウンは地獄への扉が開くまでの時間。
 それまではこの世とあの世が入り混じる時間です。

 最初はマイクも完全にこの世にいました。空調を治しに来た黒人男性と喋っていますし、パソコンを通して妻とも話しています。

 しかし、次第に悪魔の力が強くなってきて、この世から引き離されて行きます。そして見るのは、パソコンを通して妻と話すもう一人の自分。それは悪魔。

 次に見るのは病院にいる自分と妻。娘を病気で亡くして以来、ぎくしゃくしていた彼女が自分の元に駆けつけてくれたという幸せ。
 マイクが心の中で求めていた妻との和解でした。再び1408号室に戻った彼は今度は亡くした娘に会います。

 彼女への愛情がマイクの心を満たした後に訪れる現実はやはり、娘が死んでいるということでした。娘はマイクの腕のなかで砂となって流れ去ります。

1408号室




★★1408号室 『解説とレビュー続き』に続く★★
長くなるので、分割します。御面倒ですが飛んでください→ここ
続きでは
★なぜ、カウントダウンが終わったあとに再びカウントダウンが始まったのか?
★★サミュエル・L・ジャクソン演じるホテル支配人オリンは何者?
★★★宗教映画としての1408号室
★★★★1408号室の心理描写
★★★★★1408号室というタイトルの意味
を考察します。

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1408号室 続き

映画:1408号室 解説とレビュー
映画:1408号室 解説とレビューの続きです。どうぞ。
※以下、ネタバレあり



前半を読みたい方はこちら


1408号室

★なぜ、カウントダウンが終わったあとに再びカウントダウンが始まったのか?

 神はそのひとり子(イエス)をお与えになるほどにこの世を愛してくださった。
 それは御子(イエス)を信じるものが、一人として滅びることなく、「永遠の命」を持つためである。

 上は聖書の一節です。

 「永遠の命」ですが、これは不老不死ということを意味するわけではありません。人間には必ず死が訪れます。それを避けることはできません。
 ただ、イエスを信じる者は天国という美しい場所で新しい人生を生きることができるということです。

 一方、マイクのような無神論者は自分の罪を背負って死にますので、審判では地獄行き。マイクが経験し、観客が共に見た60分は始まった地獄の片鱗にすぎません。

 マイクにとっての一番の地獄は娘の死という苦痛を永遠に経験し続けることです。何度も娘を失うという経験を繰り返すという恐怖です。

 もっと娘が生きているうちに愛してやることができた、と思う罪悪感と取り返しのつかない後悔を何度も繰り返し味わうことを想像してみてください。

 マイクに与えるべき苦痛は娘の死を繰り返し与えること、すなわちマイクにふさわしい地獄は無間地獄。また始めから娘の死という結末に向かって進む60分を味わうという無限ループなのです。

 マイクは1408号室を燃やして、この悪夢を断ち、マイクを探して1408号室に来ようとしている妻を巻き込まないようにすることを決意します。
 途中、何度も繰り返される、「生きながら焼かれる」という文字。それはマイクの最期を暗示していました。

1408号室


★サミュエル・L・ジャクソンは何者?

 ホテルの支配人オリンは悪魔か?というわけですが、そうではありません。彼は1時間ともたずに人が死ぬことを知っていましたが、その部屋に泊まろうとする者を必死に止めようとしていました。

 キリスト教では悪魔は死であるといわれます。
 悪魔は自分の最高の持ち味が人間に死をもたらす力であることを知っています。オリンが悪魔であるなら、その部屋に泊まりたいと言う者を止めることはしません。

 支配人オリンはその真逆、神の側です。彼はこの世とあの世の境にいる最後の神の使者です。1408号室に入ろうとする人間を間際で引きとめ、救おうとする神の意志の現われ、それが支配人のオリンでした。

 天国を信じあの世を信じる人間は、1408号室に死をもたらす邪悪な力があると聞けば自然と悪魔を連想します。

 従ってそう簡単に死人が出るいわくつきの部屋に行こうとはしないでしょう。あれだけ支配人が止めるのに、それでも行こうとする人間は目に見えるものしか信じていないことが明らかです。

1408号室


 キリスト教では神を信じさえすれば、死の間際であっても主イエスに救われます。すなわち、死と生の境界線上にある1408号室に向かう者に対して、あなたは神を信じますか?という最後の質問をする役割の人間でした。

 支配人オリンは、1408号室の掃除をさせていたと言っています。それを自分が見張っているから大丈夫なんだ、とも。

 掃除をしていたというのは1408号室が決して不必要な場ではなかったという証。それは審判が行われる場所であるからです。
 そして、支配人が見張っていると大丈夫な理由は、彼が神の使者であるので、悪魔を見張ることができるからでしょう。

 それでも、掃除をした者が目を失ったとオリンは言っていました。
 いわくつきの1408号室に入って室内の掃除を引き受けようという者は程度の差はあれ、神や天国を信じている者ではなかったでしょう。

 マイクに呼ばれて1408号室に空調を直しに来た黒人の男は部屋に一歩も入ろうとしませんでした。
 目を失った者は不信心者でしたが、オリンがいたのでどうにか命は助かったのです。

1408号室


★マイクに残された最後の救い

 マイクのこの世でのラストチャンスは部屋にあった聖書。

 マイクはろくに読みもせずに投げ出しました。そして、二度目に開いたときには文字が消え、白紙になっていました。
 もはや、信じるには遅すぎました。あの世への扉は開いてしまっていたのです。

 キリスト教ではこの世で神を信じず、一度悪魔の手に落ちても、地獄で改心した者が信仰を持てば、そこで神が救ってくれます。

 マイクは娘への愛の深さを改めて知り、妻への愛をも再確認しました。また、白紙ではあったけれど、一度投げ出した聖書を再び手に取っています。
 そこには神への思いが芽生え始めていることが見て取れます。

 彼が神に救われる余地は多いにあると思われます。

1408号室


★宗教映画としての1408号室

 1408号室。決して入ってはいけない地獄への入り口。

 誰もが経験があるのではないでしょうか。開かずの部屋、秘密の部屋。子供のころ、なんとなく怖くて行けなかった部屋。学校や家に一つはそういう場所ってありませんでしたか。
 
 小学校の4階にひとつだけあった部屋。真っ暗な物置で、バタンと閉まるドアがとても分厚くて重いんです。たぶん防火扉になっていたんでしょう。
 高学年になって学校行事の準備で出入りするようになるまでは怖かったですね。その恐怖感を懐かしさとともに思い出させてくれる映画でした。

 さて、1408号室はやたらにキリスト教関連の説明が多かったのですが、アメリカ発のハリウッド映画にはキリスト教の影響がかなり強い映画が多くあります。

 ターミネーターやマトリックス、最近ではキアヌ・リーヴス主演のコンスタンティンもそうです。必ずしもキリスト教の背景がなくても理解できる映画もありますが、1408号室はそうはいきません。

 そもそも無神論者と思われる男が主人公に設定されています。そして、神を信じないがゆえに地獄を見させられ、挙句の果てには悪魔に体を乗っ取られてしまいます。
 一方では、その男が改心して信仰に目覚めていく兆候も織り込んであります。
 ホラーの体裁をとりつつ、キリスト教の思想にそった宗教映画のようなストーリーになっています。

 マイクを1408号室に入れるか入れないか、マイクを改心させられるか…1408号室は神と悪魔の綱引きの場でもあります。

1408号室


★1408号室の心理描写

 1408号室は命の危険を感じるような、手に汗握る恐怖感は伝わってきます。しかし、まだ幼かった娘を亡くした父親の痛切な痛みや身を切られるような哀切の感情が分かりにくくなっているように感じました。

 ラストの方で悪魔の仕業とはいえ、娘の幻影と再会して抱きあうシーン。

 娘を亡くして傷ついた父親としての表情や妻とうまくいかずに孤独になっているマイクの表情を前半部でもっと出した方が良かったでしょう。ラストの娘との再会シーンとのギャップで泣かせるほどの感動を与える演出ができたと思います。

 この映画はホラーとしての要素とスリラーとしての要素と父と娘のドラマとしての要素といろいろ詰め込んでいますが、どれかに軸足をいまひとつ置ききれておらず、中途半端な印象を受けます。

 一つのジャンルに置ききれない要素を入れることもいいですが、どれかに主軸を定めないと、ホラーとしてみても、人間ドラマとして見ても不満の残る完成度になってしまいます。

 死と生の境界線を描く映画としてはユアン・マクレガー主演のステイという映画もあります。ステイではNYのブルックリン橋があの世への架け橋でした。この映画もおススメですね。ステイのレビューはこちら

 こちらの方は、神だとか悪魔だとかは関係しません。あくまでも、人間の精神構造や心理に注目しています。思わぬときに突然訪れた死を受け入れられない人間の心の叫びが痛いほどに伝わってくる秀作です。

 ステイは構成を凝りすぎて分かりにくい面は否めません。
 しかし、死に向き合った人間の心の複雑な動きを捉え、アーティステックに表現したという点で、ステイの方が心理描写が巧みだと思います。

 1408号室はホラーとして面白い部類には入ります。
 ただ、どうせ、父娘の関係や夫と妻の関係の回復をセカンドラインとして描くなら、もう少し器用な織り交ぜ方があったでしょう。
 そこに成功していれば『1408号室』は一押しの映画になっていたと思われます。

1408号室


★1408号室というタイトルの意味

 1+4+0+8=13。これが全ての意味だと思います。監督が言っていたとかの根拠はないので言いきりませんが、この他に思いつきません。

 13日の金曜日なんて言うホラー映画もありましたが、キリスト教圏において、13という数字は6と並んで嫌われる数字です。
 理由はなぜかよくわかっていませんが、イエスを裏切った弟子ユダが最後の晩餐で13番目の席に座っていたとか、悪魔が13番目の天使だとか(悪魔も一応天使なので)いろいろ言われています。

 キリスト教圏では13の付いたナンバリングを避けるほどなので、13は相当嫌われてますね。

 私は誕生日が13なので、あんまり悪魔の数字といわれるとがっくりなのですが。たまに、金曜日にもあたりますしね。

1408号室

 
↑赤いリンゴはイブとアダムの禁断の果実.特に聖書に『リンゴ』とは書かれていないが,リンゴが象徴的に使われる.


 以上、1408号室の解説とレビューでした。読んでくださった方、ありがとうございました。そして、お疲れさまです。

1408号室解説とレビュー前半はこちら


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アンドリュー NDR114

アンドリュー NDR114 あらすじ
※レビュー部分はネタバレあり

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 人間とロボット、そしてその境界線。人間になりたいという願いをもつロボットのアンドリューの生涯を通して、人間の心と命を見つめる感動作。

 2005年の春、マーティン一家にロボットがやってきた。アンドリューという名前をもらったこのロボットは日々の家事の手伝いや掃除、ベビーシッターなど何でも引き受ける便利なロボットだった。

 ある日、アンドリューはマーティン家の幼い娘・リトル・ミスのために、馬の置物を木で彫って作る。これをみた父親のリチャードはアンドリューに可能性を感じ、教育を施し、書物を与え、創作活動をさせるようになる。

 やがて、年月は流れ、リトル・ミスは結婚し、家庭を持ち、子供も生まれた。リトル・ミスの一家と幸せな日々を過ごしていたアンドリューだったが、彼は人間になりたいという気持ちを強く持つようになる。やがて、アンドリューは「自由になりたい」と思うようになるのだった。



【映画データ】
1999年・アメリカ
監督 クリス・コロンバス
出演 ロビン・ウィリアムス,エンベス・デイヴィッツ,サム・ニール,オリヴァー・プラット,ウェンディー・クルーソン,ハリー・ケイト・イーゼンバーグ



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アンドリュー NDR114 解説とレビュー
※以下、ネタバレあり

★人間になるために必要なもの

 人間になりたかったアンドリュー。彼はロボットでした。しかし、彼が望んだのは人間になること。でも人間になるには何が必要なのか。

 人間らしい外見 ? 味覚や痛覚を感じる神経 ? それとも、喜怒哀楽を感じる心 ?

 アンドリューは「神経系統が備わった」と喜びいさんでポーシャの元に駆けつけ、ポーシャにキスをしてくれるように頼みます。ポーシャのキスを感じることのできたアンドリューは喜んでいますが、その喜びは、キスの感覚を感じられたことに向けられたもの。ポーシャのキス、ポーシャの愛情を喜んでいるわけではありません。このアンドリューの態度にポーシャは「その他人行儀でバカ丁寧な態度はどうにかならないの ! 」

 アンドリューにはポーシャは婚約者がいる女性なので、その彼女に愛を訴えるなどということは合理的に考えてありえないことと考えています。アンドリューは心でポーシャを愛しつつ、アンドリューの頭に入っている陽電子回路の判断はポーシャに愛を伝えることは許されないと判断しているのです。

 そして、ロボットとして生まれついたアンドリューには頭脳がはじき出す、合理的で論理的な答えが全て。それに従うことに何らの疑いを抱いていません。それは外見を変え、神経系統を改良に改良を重ねて備えても同じ。アンドリューの思考回路は相変わらず頭におさめられた陽電子回路に支配されたままなのです。

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 ポーシャは「人間てむちゃくちゃなものなのよ」と言います。人間とは、合理的には計算できない生き物。なぜなら、人間には心があるからです。そして、その心のままに行動し、過ちを犯し、あるいは、その心に従った行動で望外の喜びを得る。

 人間とは陽電子回路で合理的に計算された通りの行動は必ずしも取らない。特に、人に対する愛情や感情的な部分の動きを100%予測することはできません。「心に従うことが大事なのよ」。ポーシャは「アンドリューには心がある」と言い、アンドリューに対して、自分の持つ心に素直に向き合うように求めます。

 アンドリューはポーシャの助言を受け入れ、自分の持つ心に正直になろうとします。ポーシャの婚約パーティを覗いたアンドリューはアンドリューの改良を研究してくれているルパートに「嫉妬している」と指摘され、自分に芽生える感情というものを初めて自覚します。その結果、分かったことはポーシャを愛しているということ。今度こそアンドリューはポーシャに真剣な愛を伝えることができました。

 「中も外も改良した」というアンドリュー。しかし、心を育んだのはルパートの改良のおかげではありません。それは今まで、アンドリューがしてきたことすべてから生まれた自然な感情の発露。心だけは技術や改良でどうにかなるものではありません。

 次のアンドリューのステップは人間として社会的に認めてもらうこと。ポーシャの愛を得、私生活の充足を得たアンドリューは次に社会的な認知を求めました。ポーシャはアンドリューを心から愛していてくれます。社会的にアンドリューが人間として認められず、ロボットだとして見られていたとしても、何らの不自由はなかったでしょう。

 しかし、アンドリューはあくまで、社会的にも人間でありたいと願い、世界議会に訴え出ます。「私を人間として認めてほしい」。しかし、訴えは聞き届けられませんでした。アンドリューはあくまでも「人工のマシン・ロボットとして分類する」との裁定が下ったのです。

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★人間として生きること、永遠の命を生きること

 それから長い月日が経ち、新たな問題が降りかかってきました。最愛の人、ポーシャが老いてきたのです。最初の主人リチャードの死に立ち会い、リトル・ミスの死を見届けてきたアンドリューには、いずれはそのときが来る、と分かっていたことですが、アンドリューは“老い”に抵抗しようとします。

 アンドリューはリトル・ミスを亡くしたとき、「僕の大事な人たちはいつか皆、逝ってしまうんだ」と嘆いていました。「辛いけど、事実よ」というリトル・ミス。しかし、アンドリューは「そうはさせない」と決意し、人工臓器の設計図を書き、ルパートに渡して開発をし始めていました。ルパートは既に開発された人工臓器よりすごいものができるとアンドリューの設計図を賞賛しました。ルパートは人工臓器の開発を進めた結果、今では、彼の会社は市内の一等地に大きな社屋を構える大会社に成長しています。

 しかし、ポーシャの反応は意外なものでした。彼女は永遠の命を拒否したのです。「老化防止薬を飲むつもりもないし、臓器を全部取り換えるつもりもない」。

 アンドリューはなぜポーシャが死を望むのか、理解できません。彼はかつての主人、リチャードの言葉を思い出します。「人間はときとともに成長する」。しかしアンドリューにとって時は無限に存在しています。命の尽きないロボットに寿命はありません。

 「君にとって時は違う意味を持つだろうな」。リチャードはアンドリューの永遠の生について、心配もしていました。永遠に生きるとはどういうことか。仮にアンドリューに心がなければ、永遠にいきたところで、何らの支障も生じないでしょう。アンドリューがそれに矛盾を感じたり、苦しみを感じることもありません。ただ、次々に自分の仕える主人が変わっていくだけ。

 しかし、一度、心を持った者が永遠の命を手にするということは、それだけ、「愛する人の死」という苦しみを数多く味わうということになります。愛する人が次々に死んでいき、常に後に残されるという苦しみ。

 アンドリューはリチャードの死、リトル・ミスの死を経験して、その苦しみから逃れようと、人工臓器の開発にいそしみ、人間に永遠の命を与えようと研究を続けてきました。しかし、人間の体には限界があり、全てを入れ替えて生きることには無理があります。また、ポーシャのように、そのような延命を拒否する人もいる。人間は時とともに成長するから、限られた寿命であれ、その時間を生きるということに価値を感じます。

 しかし、その時が永遠に続くならば、それは単なる人生の延長、人生の無理な引き延ばしに過ぎない。人間としての尊厳とは、ただ生きていることではありません。自らの心で、意思を持って、生を望んで生きているということ。臓器を全部機械にしてまで生きるということは私の人生ではない。ポーシャは人間としての尊厳を持ったまま、死ぬことを望んでいました。

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★生きるということ 死ぬということ

 「自然の摂理」。ポーシャはその言葉で人間の生き死にについてアンドリューに説明します。「人間は一時地上に生きてそして死んでいくように定められてるの。それが正しいのよ」。アンドリューは人間になりたいと願って生きてきたロボットでした。そして、その通り、人間になるためにあらゆる努力を重ねてきました。しかし、人間の限りある寿命については、逆にロボットの持つ永遠の命を生かそうとしていました。

 ポーシャの言葉、そして、リチャードの言葉を思い出したアンドリューは永遠の命を放棄し、本当の人間になることを選択します。ルパートにさらに改良されたアンドリューは寿命を持つロボットとなりました。彼は30年から40年の寿命と告げられます、そのあいまいさに驚くアンドリュー。「それが人間と言うものなんだよ」というルパートもすっかり老けて、白髪の老人になっていました。

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★アンドリューの死

 果たして、年を取り始めたアンドリュー。再び、人間として認めてもらおうと世界議会に訴え出ます。かつて、「人間として認めてほしい」と訴えたアンドリューは今度は「ありのままの私の存在を認めていただきたい」と訴えました。今や、限りある命とともに人間となったアンドリューにとって、「人間として」認めてもらうのではなく、「ただ、今あるアンドリューと言う存在」を認めてほしいというように変化したのです。たった今、ここに存在するアンドリューはもはや人間以外の何者でもない。人間と何ら変わることのない存在である。アンドリューの存在を認めること、すなわち、アンドリューが人間であることの証明になる。

 「生きるにしても死ぬにしても人間としての尊厳を持ちたい」と訴えるアンドリュー。尊厳を求める心はやはり人間としての自然な感情の発露です。アンドリューでなくても、人間であるならば誰しも、認めてほしいという気持ちを持つはず。特に、限りある命を持つ者ならば、その時間を生きたという証として、自分の存在をきちんと認めてほしいと思う気持ちが強くなるものです。

 アンドリューは200年の人生を生き、そして、人間として認めるとの裁定を聞くことなく、その生涯を閉じました。しかし、世界議会の裁定はもう、アンドリューには分かっていたこと。例え、その裁定がアンドリューの訴えを退けるものだったとしても、ポーシャを始めとしたアンドリューに関わった人々にはアンドリューは人間だと分かっていました。愛する人の隣で、愛する人の近くで死を迎えること。アンドリューは最高の幸せを感じたまま、死んでいくことができたのです。

 ポーシャは生命維持装置のスイッチを切らせます。アンドリューの老いた手を握り、「もうすぐ会えるわ」とつぶやくポーシャ。「愛する人と天国に行ける」。アンドリューの言葉は現実になりました。

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★人間が人間であるための条件

 ルパートはアンドリューに人間そっくりの皮膚をかぶせる改良をする際にこう言いました。「このアップグレードは外観だけ、見た目だけのものだ。中身は何も変わらないまま。君がロボットであることに変わりはない」。

 人間らしい外見を持っていても、心がなければ人間ではない。どんなに人間そっくりの皮膚や目を持っていても、心がなければ、笑うことはないし、目が輝くこともない。それはただ、人間にそっくりな人形に過ぎない。それに、痛みや快感を感じる神経があったとしても、それを動かす心がなければやはり、ただの神経感覚のある人形にしか過ぎない。「人間のようなロボット」に過ぎない。

 人間にとって、一番大切なのは心です。表情や、感覚を動かすのは人間の心。その心は目には見えず、手にすることもできず、触れることはできない。それの設計図を書くこともできないし、それを部品で組み立てることもできない。けれど、心は確かに人間の中に存在していて、その心に従って人間は動く。ときには頭で考えて理性を働かせるときがあるけれど、人間の本質は心に従って動くことにある。

 例え、ロボットでなく、人間としてこの世に生を受けたとしても、心のない人はやはり人間とはいえない。そして、人間で心のない人はいない。人間かロボットかの境目はこの、心のあるなしで決まると言っても過言ではないでしょう。アンドリューが人間になるための条件とは、そのまま、人間が人間らしくあるための条件でもあります。

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★素敵な人生を送るということ

 リトル・ミスの大切なガラスの馬を壊したアンドリューは「修理すれば直りませんか」。そして、プロポーズしてくれたフランク以外に好きな人がいるけれど、その人とは結婚することは無理、だからフランクと結婚すると言うリトル・ミスに「人間というのは…」と言っていたアンドリュー。

 大切なものを壊したら、直せばいいということではなく、それの代わりはないということ、そして、ロボットのアンドリューを愛していても結婚できないから別の人と結婚するというリトル・ミスの愛が分からなかったアンドリュー。

 しかし、それから数十年も経った後に彼は人間の心を理解し、アンドリュー自身に存在する心を自覚するようになります。アンドリューは200年の人生を生き、200年かけて成長し続けてきました。リチャードから書物を与えられ、創作活動をするようになったアンドリューは自我に目覚め、自由を欲し、一人立ちし、やがて愛する人の元に居場所を見つけていきます。そして、人間として長い人生を終えました。

 人間の寿命は100年に満たないものだけれど、アンドリューの人生と人間の人生の密度は変わらない。アンドリューが見つけた大事なものと人間が見つけたい大事なものは同じです。アンドリューが200年かけて見つけたものを人間は100年足らずで駆け抜けなくてはならないから、人間はけっこう、忙しいのかもしれません。

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アリス・イン・ワンダーランド

映画: アリス・イン・ワンダーランド あらすじ
※レビュー部分はネタバレあり

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 アリスが不思議の国で経験した”2回目の”冒険を描く『アリス・イン・ワンダーランド』。『シザー・ハンズ』以来、もはやお馴染みとなった俳優ジョニー・デップと監督ティム・バートンのコンビが再び魅力的なファンタジーの世界へと観客を連れ出してくれる。奇妙で不思議、カラフルなアリスのワンダーランドをユーモアたっぷりに描き出す。

 幼かったアリスは成長し、美しい娘に成長していた。母は年頃のアリスを結婚させようとパーティに連れていくが、婚約相手と目される男性にアリスの心はなびかない。そんなアリスの前を横切ったのはチョッキを着た白ウサギ。アリスはウサギに導かれるようにして走りだす。

 アリスが訪れたワンダーランドは赤の女王が恐怖で支配する暗黒の世界だった。アリスはそこでイカれた帽子屋マッドハッター、消えるチェシャ猫、ちぐはぐな双子の兄弟など、愉快で奇妙な人々に出会う。芋虫の賢者アブソレムに引きあわされたアリスは自分が預言書の中でワンダーランドの救世主とされていることを知る。一方、アリスがワンダーランドに現れたことを知った赤の女王はアリスを捕えようと追手を放つのだった。



【映画データ】
2010年・アメリカ
監督:ティム・バートン
出演:ジョニー・デップ,ミア・ワシコウスカ,ヘレナ・ボナム=カーター,アン・ハサウェイ



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マッドハッター                     白うさぎ

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アリス                         チェシャ猫

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赤の女王(イラスベス)                  白の女王(ミラーナ)

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三日月うさぎ                      ヤマネ(マリアムキン)

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双子の兄弟、トウィ―ドルダムとトウィードルディー


映画:アリス・イン・ワンダーランド 解説とレビュー
※以下、ネタバレあり

★アリスの自立

 居並ぶ賓客たちの前でスカートをまくりあげ、足をのぞかせてマッドハッターの「自由の舞」を踊ったアリス。客たちはアリスの“はしたない“振舞いに唖然としていました。ワンダーランドから帰ってきたアリスはかつてのアリスではありません。アリスの迷える心は完全に晴れ、アリスの人生は180度変わったのです。「自由の舞」はアリスの決意を示す象徴的な行為でした。

 芋虫の賢者アブソレムに「本物のアリスじゃない」と言われ、「ごめんなさい、本物のアリスではないなんて」と謝っていたアリス。その彼女が確かに自分自身の足で歩み始めた人生の道。最初の一歩を祝福するように、旅立つアリスの肩に青い蝶が一瞬止まります。「こんにちは、アブソレム」。高く舞い上がっていく蝶を追いかけるようにしてアリスの目線が青空の高みに向けられていきました。アリスの自立です。

 2度目の”ワンダーランドの冒険でアリスが得たものとは何だったのでしょうか。そこに『アリス・イン・ワンダーランド』を読み解くカギがあるようです。

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★アリスの決断―ワンダーランドにて―

 アリスはハーミッシュ伯爵との結婚という”普通の幸せ”を望みませんでした。ワンダーランドに行った彼女は何度も選択を迫られ、そのたびに自分の決断を下してきました。この経験を経たアリスはすっかり変わったのです。決めるということは本当に難しいことです。どちらの選択が自分にとって正しいのか、それはやってみないと分からないからです。

 間違った選択をしたときの自分を考えたくはありません。また、どちらの選択をすべきか分かっていてもできないことがあります。それはまさに、「救世主」として白の女王を助けることを求められたアリスでした。アリスはジャバウォックと対決し、赤の女王との決戦に勝たねばならないことが分かっていながら、ジャバウォックとの対決を避けようとします。アリスは自分が預言された「救世主」であることすら否定し、このワンダーランドの世界は実在しない架空の世界であると考えました。

 頬をつねっても醒めない夢―そんなアリスが変わり始めるのはマッドハッターが囚われの身となってからです。赤の女王の城へと向かう決断をしたのはアリス自身でした。犬のベイヤードはアリスがマッドハッターを救いに行くという預言はない、とアリスを止めますが、アリスはききません。これはアリスが自分で下した初めての決断でした。

 アリスに対し、「君は誰だ?」と聞く芋虫の賢者アブソレム。「私は本物のアリスよ」。アリスは救世主として名乗り出る決断をし、そして、ジャバウォックとの対決後には元の世界に帰る決断をします。アリスは次々と決断を下して、運命を切り開いていきました。

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★赤の女王

 決断を下すだけなら赤の女王の決断は素晴らしく早く、そして簡潔です。しかし、彼女の決断は常に自己の利益のためだけのものでした。

 この点において、赤の女王の決断はアリスの決断とは対照的です。自分の利益だけを考えるなら、アリスは危険を冒してマッドハッターを助けに赤の女王の城へ行く必要はないし、ジャバウォックを倒すための剣を奪う必要もなく、救世主として命をかけてジャバウォックと戦う必要もないでしょう。

 しかし、アリスは常に自分のためだけではなく、他人のためをも考えて決断を下していました。一方、赤の女王は常に自分のためにだけ決断を下し、他人に“ムダな“愛情をかけることはありません。赤の女王が信頼していたのは愛ではなく「恐怖」なのです。

 「恐怖より愛が勝るかと」と進言するハートのジャックに対して、赤の女王は愛情を抱いてはいますが、そのジャックにしても赤の女王の期待に沿えなければ命は保証の限りではありません。例え、赤の女王がハートのジャックとの愛さえあればいい、そう思っていたにしても、赤の女王の人々に対する情け容赦ない扱いを見ていれば、赤の女王の愛情を信頼しきることには難しいものがあります。

 実際、白の女王に王位を譲り、他国に追放されるときになって、赤の女王とハートのジャックの間には真の信頼関係など存在しなかったことが明らかになりました。赤の女王はジャックとの間には愛情に基づいた関係があると思っていたかもしれませんが、赤の女王の振舞いを見ていたジャックにとっては女王との関係はその他の人々と同じく、恐怖が支配する関係に過ぎなかったのです。

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★アリスの決断―今、何をすべきか―

 「ママ、私は自分を見つけたわ」。アリスは父のしていた貿易ビジネスに携わることを決意します。アリスの父は先見の明のある有能な人でした。今は亡き父のようにビジネスにチャレンジしてみたいとアリスは思ったのです。

 人の生き方にはいろいろな道があるでしょう。アリスが捨てた「結婚」という選択肢もあれば、アリスの選んだ「仕事」という選択肢もあります。人がこの世界で生きていくには何かしら、自己実現のできる道が必要です。せっかく、この世に生まれたのだから、胸を張って、自分が生きたと言える足跡を残したい。

 選んだ道が間違っていたとき、何か落ち着かない感じがして、無性にいらいらしてしまうでしょう。アリスも上流社会の令嬢として、それにふさわしい服装や振舞い、そして結婚を求められたときにその感覚を味わっていました。何か、違う、でもどうしたらいいのか分からない。私が今、本当にするべきことは何なのか。

 幼いアリスはワンダーランドで素晴らしい経験をして元の世界に戻ってきました。それから10年以上が過ぎ、成長したアリスは生きる道を見失っていました。地位も財産もある(けれど胃腸が弱い!)ハーミッシュ伯爵と結婚するという人生が本当に素晴らしいものなのか。

 周囲の人々はそれが良いと思っているようだけれど、アリスには割り切れない思いが残っていました。それで彼女はハーミッシュ伯爵の前から逃げ出し、白ウサギを追ってかつて訪れたワンダーランドへと再び導かれたのです。

 長い人生の中で、人は決断を迫られる場面に遭遇します。その時に、周囲に流されず、自分の進むべき道を見つけることができるかどうか。アリスは今回、ビジネスという選択肢を選びました。しかし、この決断は全てではありません。今、現在のアリスにとっては、ビジネスという選択肢がベストであったということ。アリスにも、いずれ結婚という選択肢が見えてくるときがくるでしょう。

 決断をするときには、長い人生を見渡して長期的視野に立ち、決断すべきときもあるでしょうし、短期的な利益が優先する場合もあるでしょうが、いずれの場合にも、その時の"自分"を把握できていなくては良い決断はできません。

 自分自身を分析し、自身の能力や力に気が付くことができるかどうか。決まり切ったことをただ繰り返しているだけの毎日では、つい自分の能力の限界を低く設定してしまいがちです。リスクを取らない無難な人生は時として退屈すぎる人生になってはいないでしょうか。

 ワンダーランドに行ったアリスが勇敢な決断を下せず、受身の行動を取り続けていたなら、アリスは叔母のようになっていたかもしれません。「フィアンセを待っているの」と言う叔母は、いつか白馬の王子様が現われるという妄想を抱いていました。叔母にとってのワンダーランドはもはや妄想の世界です。なぜなら、彼女はただ待っているだけだから。叔母は自らのワンダーランドで自ら行動を起こすことはありません。

 アリスの生きる時代、女性は結婚して家庭に入ることが幸せとされていました。その既定路線から外れる道を選んだアリスのように、自分自身に正直になって今の自分にベストな選択をすること―そしてリスクを取ること―は簡単ではありませんが、目的が達せられたときに得られる喜びには大きいものがあるでしょう。

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★ワンダーランドは夢か現実か

 アリスは最初、ワンダーランドは夢でしかない、目が醒めれば消えてなくなる幻想の世界だと思っていました。これは半分合っています。一方で、「ワンダーランドは実在する」とマッドハッターに言いきったアリスも真実です。

 ハーミッシュの母と散歩しているときに2人の目の前を横切った白ウサギを見つけることができたのはアリスだけでした。ワンダーランドはアリスにだけ開かれたアリスのためだけの不思議な世界です。そして、ワンダーランドはアリスの迷える心が生み出した世界。アリスがハーミッシュとの結婚を迷っていなければ、白ウサギに導かれてワンダーランドに行くことはなかったでしょう。

 アリスはマッドハッターに「ワンダーランドを忘れるわけがない」と言いました。アリスは救世主としてワンダーランドを救いましたが、それはすなわち、自分の人生を救いだすための闘いでもありました。アリスはワンダーランドの救世主であり、かつ、自分自身の人生に対しても救世主として活躍したのです。

 アリスは変わりました。アリスを変えてくれたのはワンダーランド、そしてその世界の住人たちです。その彼らを忘れることなどアリスにできるわけがありません。アリスの創り出したワンダーランドはアリスの心の中にのみ、存在し続けます。そして、この先、またアリスが道に迷ったときは再びアリスのワンダーランドが新しいストーリーを用意して彼女を迎えてくれることでしょう。

 さて、アリス以外の人間はワンダーランドに行けないのかといえばそうではありません。私たち一人一人が心の中に自分だけのワンダーランドを持っています。そこには自分の知らなかった世界が広がっていて、自分だけが経験できる素晴らしい体験が待っています。

 ワンダーランドでは私たち一人一人が“救世主”です。今までその存在に気がつかなかったとしても、アリス・イン・ワンダーランドを観ることで自分の中にあるはずの自分だけの”ワンダーランド”を疑似体験できるのかもしれません。

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アバター

映画:アバター あらすじ
※レビュー部分はネタバレあり

 ジェームズ・キャメロン監督の長年の構想が実った渾身の一作。他作に先駆け、本格的に3D上映されたことでも話題になった。

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 元海兵隊員のジェイクは「アバター計画」に参加するため、死んだ兄の代わりとして急きょRDA(資源開発公社)に雇われ、惑星パンドラに派遣される。パンドラにはRDAが希少鉱石を求めて進出していたが、鉱脈が先住民族ナヴィの居住する地域にあるため、その開発をしたい人間と立ち退きを拒むナヴィが対立している状況にあった。ジェイクは同じく元海兵隊大佐でRDAの傭兵隊を率いるラング大佐に、ナヴィの立ち退き交渉を進めるため、ナヴィのスパイをするようにとの命令を受ける。

 科学者のグレースが率いる「アバター計画」は、ナヴィと交流し、ナヴィの研究を行うために計画されたものである。「アバター」とは人間とナヴィのDNAを融合して開発されたナヴィの姿をした体のことで、この体にDNAを提供した人間の精神をリンクさせて操作する。ジェイクの兄はアバター計画にDNAを提供していたのだ。兄の代理としてアバター計画に参加する弟のジェイクはこのアバターをが操作することが仕事だった。

 海兵隊時代に負傷したジェイクは脊髄損傷により車いすを使わないと動くことができない。しかし、アバターを操作している間は車いすなしで自由に動ける。ジェイクはアバターを使い、次第にナヴィの世界に入りこんでいく。



【映画データ】
2009年・アメリカ
アバター
監督 ジェームズ・キャメロン
出演 サム・ワーシントン,シガニー・ウィーバー,ゾーイ・サルダナ,スティーヴン・ラング,ミシェル・ロドリゲス



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映画:アバター 解説とレビュー
※以下、ネタバレあり

★高額の報酬―カネがなくては何もできない―

 自由に、思い通りに動くことのできるアバターを使いこなすジェイクは好き勝手に走り回ります。先住民族ナヴィの住むパンドラに来たばかりのジェイクは傲慢で自分勝手でした。ジェイクは「行きたくもない場所に行かされる兵隊」だったのです。

 アバター計画に無関心なジェイクが兄の代理としてこの惑星に来ることになったのは兄の代役になれる者が血縁者であるジェイク以外にはなかったからです。トミーのために作られたアバターはとても高価なものでした。ジェイクが代理になれば、「高価なアバターが無駄に」されることはありません。そこで、ジェイクに対しては破格の報酬が約束されました。ジェイクは元海兵隊員ですが、脊髄を損傷したために、今は車いすの身です。彼は高額の報酬を得て何をしようと思ったのでしょうか。

 ジェイクの直接の上司は科学者のグレースですが、ラング大佐にジェイクはナヴィのスパイをするように直接に命令を受けていました。ラング大佐はジェイクにその見返りとしてある条件を提示します。それは、地球に戻ったら、ジェイクに新しい脚を提供するというものでした。

 高度に医療が発達した未来の地球では、動かなくなったジェイクの脚は治療不可能なものではありません。ただ、ジェイクにはカネが足りないのです。わずかな軍人年金ではとても高額な医療費は払いきれません。

 RDAはそこに目をつけました。大金を払うことにすれば、ジェイクは医療費を賄うために必ずや、アバター計画に参加するでしょう。多少、無理難題を要求しても、欲しいもののあるジェイクなら意のままになるかもしれない。欲しい物のないナヴィと違い、脚の欲しいジェイクはそれが弱みでもありました。

 薬品も、道路も、学校も欲しがらないナヴィ。「何が欲しいのか、訊き出せ」と大佐はジェイクに命じます。見返りさえ与えれば、何でも手に入ると思っている大佐。ジェイクに対しても、脚を与えるという見返りをちらつかせておけば、自らの意のままに動くはず、と踏んでいました。ナヴィの研究など、まったく興味のなかったジェイクですが、高額の報酬という魅力には勝てません。再び、自由に歩けるようになるという希望をジェイクは見出すことができたのです。

 「地球に戻ればすぐ消せる」。大佐は顔に付いたわずかな擦り傷を気にしています。ジェイクが脚の機能を失っていることに比べれば、なんと些細な悩みでしょうか。カネがなくては治るものも治すことのできない人間社会は見返りがなくとも助けあうことを知るナヴィの社会とは対照的です。カネさえあれば、何でも手に入れられる社会は、カネがなければ何もできない社会の裏返しでもあります。大佐の一言は、人間社会の醜い部分を心ならずも象徴しています。

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★虚構の"共存"

 人間はナヴィを必ずしも完全に排除しようとはしていませんが、一方でナヴィを理解しようともしていません。ナヴィの居住する土地から希少鉱石を採取したいRDA(資源開発公社)にとって、ナヴィはカネにならない、むしろ、カネもうけを邪魔する厄介な生き物でしかないのです。

 また、科学者のグレースにとって、未知の生態を持つナヴィは研究の対象。"共存"といいつつ、そこにナヴィを真に理解し、共に生きようとする姿勢はありません。あくまで、ナヴィは研究・分析の対象であり、あるいは迫害の対象とされていました。人間の言う"共存"というフレーズはイメージを良くするための虚飾でしかないのです。

 ジェイクにとってのナヴィとは何だったのでしょうか。当初、彼は無関心でした。ナヴィがどうなろうが知ったことではないし、ナヴィと人間が争っていようがどうでもいいこと。ましてや、ナヴィがどのようにして生活しているかなどという研究には全く興味はありません。ジェイクにとっての至上命題は早く地球に帰って治療を受け、動く脚を手に入れること。

 ジャングルにグレースらとアバターの姿で出かけたジェイクは動物に重を向け、怒らせてしまいます。それだけでなく、ジェイクは動物を挑発しました。ジェイクにとって、車いすなしで自由に動くことのできるアバターの姿はとても爽快です。解放感に包まれ、気が大きくなったジェイクはとにかく、興味本位の奔放な態度を取ります。

 夜になり、獣に襲われたジェイクを助けてくれたのはナヴィのネイティでした。「ここに来なければ獣は死なずに済んだ」、ネイティはジェイクにそう言ってなじります。ジェイクの生で死んだ獣と同様、ジェイクたち人間が希少鉱石を求めてこの惑星に来なければ、たくさんのナヴィが殺されることはなく、森は焼き払われず、この惑星では平和な世界が続いていたかもしれません。

 人間の言う"共存"は一方的な見かたに立ったもの。ナヴィからはとても、人間が共存を望んでいるようには思えません。

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★"幼い"人間たち

 ジェイクはネイティに「愚かで子供、何も知らない」と非難されます。人間は本質的に子供なのです。手に入れたいものを欲しがって泣きわめく子供。泣いて、騒いでいれば、欲しいものが手に入ると思っている。

 人間は圧倒的な軍事力を備え、ナヴィの生殺与奪を握っているかのように振舞っていますが、その実、人間は神ではなく、この自然界の複雑な命の仕組みなど理解してはいません。ただ、欲しいものに対しては他の犠牲をいとわず、時に同じ仲間であるはずの人間の命さえ、犠牲にしていきます。人間は欲望に忠実なあまり、自然の摂理に対しても躊躇なく闘いを挑んでしまいます。そして、しばしば、人間は自然を征服し、思い通りに操っていると思い込んできました。

 一方、ナヴィは自然と共に生き、自然の真理を知っています。ネイティの言葉によれば、「エネルギーは借りているだけ、いつかは返すもの」。ナヴィは生物の間にあるエネルギーのネットワークを感じ、そのネットワークの一員として生きようとしていました。

 しかし、人間は違います。エネルギーのネットワークというものが存在するとするならば、人間は全ての生き物の上位に立ち、そのネットワークを支配しようとするでしょう。人間にとって、エネルギーとは分捕るものなのです。人間はそもそも、地球で足りなくなったエネルギーを補うためにこの惑星パンドラに来たのですから。足りなくなったら、他から奪ってきて調達する。そして、その手に入れたエネルギーは人間が全て消費してもよいもの、と人間は考えているのです。

 ナヴィたちの住むパンドラは今や、人間の支配下にありました。そして、ナヴィや鉱石資源の処分は本来、力で勝る人間の自由になるはずです。だが、それでは、あまりに酷だし、RDAの地球での評判が落ちる可能性がありました。そこで、ナヴィに温情を与えてやろう、と考えます。それはナヴィに見返りを与えて立退きの機会を与えるということでした。

 すなわち、「お情け」でナヴィを助けてやろう(命くらいは)、しかし逆らうならそうはいかないというわけです。"人間の欲"というむきだしの欲望をカモフラージュするためだけのナヴィとの"共生"。だから、土地を取られまいとしてブルドーザーの前に立ちはだかるナヴィをいきなり殺そうとしたりはしません。まずは彼らを催涙弾で駆逐するにとどめました。この措置はランダ大佐いわく、「人道的」だそうです。確かに、人間の思い通りになるはずのナヴィを助けようとすることはRDAからすれば人道的行為なのでしょう。

 この人間の思考回路には、自然は自分の思い通りになるものだという傲慢な思い込みが透けて見えます。自分が自然の一部だという考えはそこにはありません。人間を自然の上位概念として位置付け、人間は自然を支配できると考えているのです。

 この考えはRDAだけが持つ特殊な思考ではありません。ジェイクもそうでした。「アバター」において、RDAにもナヴィにもこれといった思い入れのないジェイクは、この世一般に存在する人間を代表する人間です。ジェイクはとりわけRDAの希少鉱石開発に賛同しているわけではなく、グレースのアバターによるナヴィの研究に傾倒しているわけでもありません。いきなり、連れてこられてパンドラという惑星に放り込まれたただの人間です。

 パンドラに来たころの彼の行動からは人間もまた、自然の一部なのだという意識は微塵も感じられません。彼は自然の一員として生きているという考えは持っていません。だから、面白がって獣を挑発し、ためらわずに銃をぶっ放します。獣からすれば、自らの領域を冒すジェイクの方が侵入者なのですが、ジェイクにその考えはありません。

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★資源が人間を殺す

 RDAがパンドラにやってきたのは、地球のエネルギー不足を補うためでした。現実の地球でも、エネルギー資源の枯渇が予測されて久しいのです。産業や技術の発展は人間に膨大な量のエネルギーを必要とさせました。その資源を取りこむため、地球上では争奪戦が行われているのです。

 アバターの世界では、人間とナヴィが資源の取り合いをしているわけではありませんが、エネルギー資源の開発を巡って人間と先住民族ナヴィが対立しています。しかし、地球上では人間と人間、あるいは人間ともの言わぬ自然界が対立しています。カネにものを言わせ、現地の住民の生活を破壊し、あるいは環境を汚染して鉱物資源を取りこんでいく手法は何も、アバターの世界だけの話ではありません。現実に地球上でも行われていることなのです。

 鉱物資源のある地域では環境汚染、紛争、汚職が深刻な問題になっています。この3点セットを見事に揃えているのはアフリカ大陸です。鉄鉱石、コバルト、石油、ダイヤモンド、金。鉱物資源は戦争を呼びます。利害対立が武力衝突に発展しやすいからです。政府は汚職にまみれ、一部の者による富の独占に反発する者たちが武装蜂起する。この繰り返しが泥沼の紛争を招いています。

 鉱物資源の開発を担うのは資金力のあるアフリカ以外の国々やその他アフリカ以外に本拠を置く企業です。彼らは採掘事業の中核を担い、初期投資を行い、現地政府にカネを流し、採掘資源の優先的取引権を得ます。アフリカ以外の地域に住む者も直接的に現地の紛争に関与しないとしても、間接的にはそれに手を貸していることになります。

 だが、多くの人々はそれを知らないでしょう。ジェイクのように、多くの人々は無関心です。毎日のように大量のエネルギーを消費し、消費しなければ今の生活を維持できないことは知っていても、そのエネルギーがどこから調達されているのかまでは知りません。

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★払うべき代償

 ジェイクのように、その場に身を置かなければ、人類は理解できないのでしょうか。今のエネルギー消費のもとで犠牲になっている者がいることを。それとも、想像力を働かせ、自分がジェイクだったら、と考えることができるでしょうか。

 映画「アバター」は人間も「エネルギーのネットワーク」の一員であることを理解するように訴えています。そして、私たちに、その意識に基づいた行動をするように、と期待してもいるのです。

 ネイティによれば、「命なる母は人間とナヴィ、どちらの味方もせず、命のバランスを守るだけ」だと言います。人間の暴走を止めるのは人間自身か、それとも「命なる母」でしょうか。人間自身が人間を止めることができず、「命のバランス」を突き崩すところまで事態が切迫してしまえば、そのときは人間は相応の覚悟をしなければなりません。

 人間自身が自制することができなかったとき、崩された命のバランスを取るために人間が払うべき代償は自ら節制したときに払う犠牲に比べて、はるかに大きなものになるでしょう。

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イングロリアス・バスターズ

映画:イングロリアス・バスターズ あらすじ
※レビュー部分はネタバレあり

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 アメリカ軍のアルド・レイン中佐はユダヤ系アメリカ人ら8人を率いてドイツ軍占領下のパリに潜入し、ナチス=ドイツの中枢を破壊するという任務を遂行することになる。選りすぐりの荒くれ者を率いてパリに乗り込んだレインはゲッペルス国民啓蒙・宣伝相らナチス幹部が列席するというナチス=ドイツ国策映画のプレミアに目をつけ、これに乗り込む計画を立てるが…。


 ブラッド・ピットとQ・タランティーノ監督による「イングロリアス・バスターズ」。ナチス=ドイツ支配下のフランスに潜入し、破壊工作を行う破天荒なアメリカ軍中佐をブラッド・ピットが演じる。クエンティン・タランティーノ監督ならではの小話が積み重なって結末に至る展開は健在。近年のタランティーノ関連作品に見られたクレイジーなストーリー展開はちょっと抑え気味。



【映画データ】
イングロリアス・バスターズ
2009年・アメリカ,ドイツ
監督 クエンティン・タランティーノ
出演 ブラット・ピット,イーライ・ロス,クリストフ・ヴァルツ,ダニエル・ブリュー,アウグスト・ディール



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映画:イングロリアス・バスターズ 解説とレビュー
※以下、ネタバレあり

★イングロリアス・バスターズの法則

 ちょっといい人、もしくはちょっと悪い人は死ぬ。とにかくあくどい、とんでもないヤツは生き残る。この法則が結末まで貫かれている映画。連合軍、ユダヤ人、そしてナチス=ドイツ側の人々。この中で一番最悪な「イングロリアス・バスター」は一体誰?

★エマニュエル・ミミュー(ショシャーナ・ドレフュス)

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↑エマニュエル・ミミュー(本名:ショシャーナ・ドレフュス)


 ユダヤ人家族の生き残り。家族はハンス・ランダ中佐率いる親衛隊に殺され、エマはただ一人、命からがら逃げ出すことに成功した。復讐に燃え、経営する映画館ごとナチス=ドイツ中枢部の人間を吹き飛ばす計画を立てる。しかし、彼女に想いを寄せるフレドリック・ゾラに一瞬同情したところを返り討ちにされ、死亡。

★フレドリック・ゾラ

 ナチス=ドイツ親衛隊隊員でゲッペルスのお気に入り。人好きのする性格。エマに惚れているが、彼女に背中から銃撃されて瀕死の重傷を負う。エマを殺害後、死亡。

★アルド・レイン中佐

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↑アルド・レイン中佐


 アメリカ軍所属、8人のユダヤ系アメリカ人からなる隊を率いてパリに潜入する任務を担う。部下に対し、「ドイツ野郎」を殺す際には、「頭の皮を剥げ」と命じる(レイン中佐は部下に1人当たり100人のドイツ軍兵士の頭の皮というノルマを課していた!)。生かしておく場合には、額に鉤十字をナイフでぐいぐいと刻むのが流儀。

とんでもない外道、殺人者の名がふさわしい男。非情で冷酷な性格で、容赦しない。味方のドイツ人スパイのハマーズマークにさえ、必要ならば、拷問まがいの手を使って情報の真偽を確かめることもある。

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↑ブリジット・フォン・ハマーズマーク


★ハンス・ランダ大佐

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↑ハンス・ランダ大佐


 ナチス親衛隊の有能な幹部、「ユダ・ハンター」の異名を取る。逃げ出すショシャーナを見逃してやる気まぐれな面を持つ一方、アルド・レイン中佐にスパイとなって情報を流したドイツ人女優ブリジット・ハマーズマークを絞殺するという非情な面も持つ。

 見逃したユダヤ人の少女ショシャーナがエマニュエル・ミミューであることを見破るが、彼女のテロ計画をあえて見逃し、テロを成功させてアルド・レイン中佐との降伏交渉を優位に進めようとする。

 最後はアルド・レイン中佐によって額に鉤十字を刻まれることに。

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↑アルド中佐の部下、ドニー・ドノヴィッツ。通称”ユダヤの熊”


★不幸な二人

 ちょっといいところのある人は生き残れず、少しでも敵に甘いところのある人は死ぬ。逆に、アルド・レイン中佐のように、とにかく冷酷、敵に対して容赦なし、という人間は生き残ることができる。これが「イングロリアス・バスターズ」の世界。

 そんな生き馬の目を抜くような世界でも人間の感情は死に耐えることはありません。映画館主のエマとナチス親衛隊(SS)に所属するフレドリックの場合もそうでした。彼らの関係は悲劇だったのか、あるいは喜劇か。

「勇士を称える、といって殺戮ばかりが強調されるんだ。耐えられないよ」と嘆くフレドリックはショシャーナの家族を無残に射殺したランダ率いるSS部隊とは違うようにも思えます。

 しかし、彼らは人間と人間である前に、ユダヤ人とSSでした。家族を殺されたエマがフレドリックを見る目にはフィルターがかかっていました。エマの目にはフレドリックは憎むべき敵、憎まなくてはならない敵と映ります。エマは終始、ゾラを遠ざけ、彼の心に気がつかないふりをしています。

 「君の顔を見たら生き返ったよ」というフレドリック。このときのエマは少し、無理をしているようにも見えます。人間としてフレドリックに向き合ってしまったなら、素直で率直な彼にもしかして、心が傾いてしまいそうな不安があったからです。

 もうすぐでテロを起こすという大事な時に、タイミング悪く映写室に入って来てしまったフレドリックをエマは追い返そうとしますが、エマのテロ計画のことなど露ほども知らないフレドリックは出て行こうとしません。

 計画の実行には、部屋にいるフレドリックが邪魔なことは明らかです。それに、どうせテロが実行されれば、フレドリックがどこにいても彼の命は保証の限りではありません。ならば、エマはフレドリックをさっさと射殺してしまってもよいはずなのですが、エマはフレドリックを殺すことを躊躇していました。フレドリックがエマの起こした爆発に巻き込まれて死ぬのと、憎むべき敵とはいえ、彼の目の前で自ら引き金を引くのとは、天と地の差があります。

 フレドリックがなんとしても出ていかないと分かった彼女はようやく、射殺することを決意します。

 そして、背後から銃撃。エマは真正面から撃ち殺すことはできませんでした。それは、反撃されないため、という理由もあったでしょう。しかし、何より、エマは自分を愛してくれたフレドリックを殺害するという自分の行為を正視できませんでした。

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★結末へ…

 しかし、結局、フレドリックは即死しませんでした。フレドリックに息のあることに気が付いたエマは止めを刺すかわりに、床に膝をついてフレドリックの顔を覗き込みます。エマは一体、何をしようと思ったのでしょう。

 即、フレドリックを殺そうと思ったのではないことは確かです。もし、そうならば、フレドリックに息があることに気が付いた時点で彼に近づかず、引き金をもう一度引けば良かったのだから。

 しかし、エマは躊躇しました。瀕死のフレドリックを助けることはいずれにしろ、できなかったでしょう。どのみち、殺すしかないのに、エマがそうしなかったのは、人間として揺れ動く一瞬の同情の現れでした。

 一方、フレドリックは最後の力を振り絞ってエマを射殺しました。エマがフレドリックを憎しみの対象として見ていたとき、フレドリックはエマを愛情の対象として見ていました。最後、エマがフレドリックに一瞬の情を傾けたときには、フレドリックはエマに対して憎悪の感情を抱いていました。

 2人は見事にすれ違ってしまったのです。愛と憎しみ、この似て非なる感情は鮮やかなコントラストを見せました。時代と状況が違えば、2人は人好きのする者同士、気があったかもしれません。

 しかし、現実は違いました。エマとフレドリックは戦争と互いの社会的立場に邪魔され、かみ合わない感情の葛藤に揉まれました。皮肉にも、相手への愛情あるいは憎しみはエマとフレドリックに交代で訪れたのです。彼らはその末、愛と憎しみの狭間に落ちていきました。

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★イングロリアス・バスターズ"名誉なき野郎"

 ランダSS大佐は自身の頭脳に自信がありました。有能で、先見の明もある彼は、状況を的確に把握して、最後は自己に有利な展開を引き寄せることができるはずでした。

 しかし、詰めが甘かった。レイン中佐との降伏交渉、最後の最後になって、「今夜中に戦争を終わらせることができるなら」と条件を後付けされ、殺されてしまいます(ヒトラーが映画館で爆死したという事実はなく、戦争は今夜中には終わらない)。

 ランダは巧妙に振舞う男でした。彼が人助けをするときは、それが自分の利益になるときです。エマのテロ計画に勘付きつつも見逃したのは、エマの計画が降伏交渉に有利に働くと見込んでのことでした。ランダは冷酷な男です。しかし、ランダはレイン中佐とは根本的に違いました。

 アルド・レイン中佐は非情で冷酷、野蛮な振舞いを好みます。彼は正義のために戦うというより、「殺し」そのものに快楽を感じているようです。敵の苦痛や恐怖、そして死はアルド・レインにこの上ない満足感を与えてくれるのです。彼の目下の課題はいかにうまく「鉤十字」を敵の額に刻むことができるか。こんな男なので、彼の場合は「こうしておけばよかったのに」という場面がありません。

 アルド・レインはどの立場に立っても、常に「殺人者」であり続けました。彼はまさに我が道を行く男なのです。一方、ランダはレインのようなタイプの殺人者ではありません。ランダは殺しを後悔もしませんし、躊躇もしませんが、レインのように享楽的に、実に楽しげに殺す男ではありません。

 第2章「イングロリアス・バスターズ」で初めてアルド・レイン中佐が登場します。イングロリアス・バスターズとは「腐ったヤツら」「恥ずべきヤツら」、という意味です。名誉など、何もない男たち。

 この映画にはたくさんのイングロリアス・バスターズが登場しますが、この中の一番はランダ大佐らSSのことではありません。ランダの冷酷さをはるかにしのぐアルド・レインたちのことです。

 確かに、アルド・レインらが殺しまくっているのは悪名高き独裁者ヒトラーの率いるナチス=ドイツの兵士やSSであり、(しかも、ユダヤ人大量虐殺をおこなった!)レインたちがどれだけ残酷な方法で「ドイツ野郎」を殺していても(殴り殺して頭の皮を剥いでいても!)、それほど観客の正義感は逆なでされないかもしれません。

 しかし、ナチスだの、SSだのという属性を取り去れば、レインらの行為は戦争中とはいえ、どう見てもやり過ぎ、残虐極まりない殺人です。レインが「ドイツ野郎」を殺しているのはそれが楽しいから。戦争は人間の本性と、醜悪さを最大限に引き出す場です。レインという名誉なき男の魅力は戦争という場においてのみ、輝くことができるのです。

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★ハッピーエンドではない、アンハッピーエンドでもない…

 結末、レインとランダの対決はレインが勝利。しかも、エマのテロ計画も成功し、映画館は木端微塵に爆破されました。

 が、爽快感は微塵も感じる余地はありません。映画館を爆破する直前にスクリーンに大写しになるエマの巨大な顔、そしてエマの高笑い。まるで、悪魔に憑かれた女の狂気の高笑いのように聞こえてきます。

 ひどい笑い声です。迫害されたユダヤ人であり、家族を皆殺しにされ、自身も命を落としたエマは同情されてしかるべき人物のはずです。観客も、美人で頭もよく、復讐心に燃えるこの女性に感情移入していたでしょうし、彼女がまさか、あんな恐怖感を抱かせるような笑い方をするとは思っていなかったでしょう。そして、まさか死ぬとも思っていなかったでしょう。

 「鉤十字を刻むこと」や「ドイツ野郎」を殺すことに異様な執念を見せるレインと同様、エマもまた、「復讐」の執念に取りつかれた殺人者だったのでしょうか。

 第2次世界大戦を背景に、連合国軍、ナチス=ドイツ、ユダヤ人とくれば、だいたい役割は決まってきます。連合軍は正義、ドイツは悪、ドイツ人は加害者でユダヤ人は被害者という具合に、お決まりの役割分担があります。これまでの映画の世界において、この役割に互換性はないのが暗黙の了解でしたし、ドイツが犯した戦争犯罪を考えるとあってはならないはずでした。

 しかし、「イングロリアス・バスターズ」はこのデリケートな問題に一石を投じました。連合軍の中佐という殺人鬼、そして、復讐の鬼になったユダヤ人。従来、正義の側、被害者の側だった役割の人間に、"醜悪さ"という人間らしさを与えたのです。

 一見、従来からの役割分担は変わっていないように見えるし、変えていないように表面的に装ってはいます。しかし、その内実は違うということが、「イングロリアス・バスターズ」を見ているうちに分かってきます。

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★タブーに触れる

 「イングロリアス・バスターズ」にはゲッペルスの映画政策の説明というかたちを借りて、映画製作の現状を批判する言辞が出てきます。「ゲッペルスはユダヤ系映画会社を排斥した」。それは「ハリウッドの二の舞いを恐れた」からだというのです。

 裏を返せば、ハリウッド映画はユダヤ系に強く影響されているということになります。だから、ユダヤ人はいつまでも被害者でなければならないし、ドイツ人はいつでも加害者、連合軍は正義。なるほど、と思うむきもあります。

 しかし、これはユダヤ批判とみるべきではありません。むしろ、ドイツは残酷な加害者で、ユダヤ人は純真無垢な被害者、そして連合軍は正義というような、規定の範囲内でのみでしか性格づけをすることが許されない固定観念的な映画製作を揶揄したものとみるべきでしょう。

 人間の醜さというものは、いずれの人間にも、存在しているものですが、その醜さは国や人種といったその人間の属性によって濃淡がつけられるのではありません。各人の生き方や人柄からそれは判断されるべきです。ドイツ側だからといって無条件に醜悪な人間ではないし、ユダヤ人だからといって誰もが天使のように純真無垢な人間でもありません。それは迫害された経験を持つ美しい女性だって同様でした。

 「イングロリアス・バスターズ」は第2次世界大戦下という、登場人物の人間性が社会的な属性で判断されがちな時代をあえて選びました。そして、固定観念に反する登場人物を随所に配置して、観客が想像するストーリー展開をあえて裏切って見せたのです。

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★最高傑作!

 「イングロリアス・バスターズ」には、だれも、いわゆる"正義"を体現する登場人物はいません。この映画に出てくるアメリカ人もユダヤ人もドイツ人も、それぞれに観客の正義感を逆なでし、残酷で、何か、人間として醜い部分を持っています。「イングロリアス・バスターズ」で一番ましなのは誰か、という比較はできるかもしれませんが、この人が正しい、という人物は存在しません。

 多くの映画には善人が必ず1人はいるものです。その人に助けられて、映画の後味は良くなる。ところが、その頼るべきヒーローが「イングロリアス・バスターズ」には存在しません。だから、すっきりしない気分が残るのです。いわずもがな、ハッピーエンドはあり得ない映画です。

 結末、「俺たちの最高傑作だぜ!」と得意げなレイン中佐。一体、何が「最高傑作」なのでしょう。レインがランダの額に刻んだ鉤十字のことでしょうか、それともこの映画のことでしょうか。

 いずれにしても、最後の最後まで鉤十字を刻むレインの残酷な振舞いを見せられ、ランダの悲鳴を聞かされて結末を迎えた観客の気持ちは「最高!」とは言い難い気分。

 エンディングに呟かれるブラッド・ピットのこの一言は、全くもって皮肉なこと、このうえありません。ちょっと人を小馬鹿にしたような結末、さすが、タランティーノ映画、といったところでしょうか。

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アンブレイカブル

映画:アンブレイカブル あらすじ
※レビュー部分はネタバレあり

 シックス・センスで大ヒットを飛ばしたシャマラン監督作、アンブレイカブル。

 シックス・センスで主人公の精神科医を演じたブルース・ウィリスと再びタッグを組んだアンブレイカブルでは、平凡な男デイヴィッド・ダンが不思議な男、イライジャ・プライスの助言のもとに、自分の中に"何か"を見出していく様子を描く。

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 列車に乗っているデイヴィッド。彼の隣にやってきたのは見知らぬ美人。結婚指輪をはずし、ぎこちない会話をするデイヴィッドだが、彼女は席を立ってしまった。
 一方、自宅にいた息子のジョセフはニュースを見ていた。列車の脱線事故のニュース。彼は台所に張られたメモを見に行った。父が乗っているはずの列車だ。

 デイヴィッドが目覚めたのは病院のベッドの上だった。脱線事故で唯一生き残った乗客だったのだ。その次の日、車のワイパーに挟まれていたメッセージカードに気が付く。中には「あなたは今までの人生で何日病気にかかりましたか? 」と書かれていた。

 妻に聞いても、覚えてないという。彼自身も、5年間一回も欠勤したことがなかった。これはどういうことなのか。彼はメッセージカードに書かれていたアドレスの場所に行ってみることにする。




【映画データ】
アンブレイカブル
2000年(日本公開2001年)・アメリカ
監督 M・ナイト・シャラマン
出演 ブルース・ウィリス,サミュエル・L・ジャクソン



映画:アンブレイカブル 解説とレビュー
※以下、ネタバレあり

★結末までのあらすじ

 イライジャ・プライスを怪しい人間だと思ったデイヴィッドだったが、彼の心はイライジャの説く理論が気になってもいた。イライジャの言うとおり、この世のどこかに、漫画のヒーローのような人物がいて、その眠った才能を持つ男が自分かもしれない。

 息子は父のことを「強い人間だ」と思っている。「パパも普通の人間だ」というデイヴィッドの言葉を嫌がっている。妻とはやり直すことができそうだし、妻もゆっくりやり直せばいいと言ってくれていた。もっと、息子との距離を縮めたい。

 そこで、半信半疑ではあったが、自分の能力を試して見ることにする。イライジャに電話をかけ、「何をしたらいいか」をたずねる。イライジャのアドバイス通り、人の多い場所に行き、行きかう人々の意識を読む。さまざまな意識が流れ込んできた。道を歩く黒人にジュースをぶっかける人種差別主義者の白人の若者、酔いつぶれてベッドで寝込む女性を強姦しようとする男、そして誰かの家に強盗に入ろうとする男。

 デイヴィッドはターゲットを強盗をした男に定めることにした。その意識を読み取ったのは明るいオレンジ色のつなぎをきた清掃員の男だ。男の後をつけ、彼が帰りついた家に忍び込む。2階に上がると、女の子の部屋がある。この家はあの清掃員の家ではない。清掃員の男が押し込みに入った家に居座っているのだ。デイヴィッドは地下でこの家の住人である子供2人を発見し、解放する。そして、清掃員を探しているときにバルコニーから突き落とされ、真下のプールに落下。

 水はデイヴィッドが苦手なもののひとつだ。彼は幼いころに学校のプールで溺れて死にかけたことがあり、それ以来水は苦手だった。案の定、溺れかけたところに、誰かが棒を差し入れてくれる。それに捕まり、プールサイドに上がった彼は、さっき、彼が縄を解いて解放した子供たちが自分を助けてくれたことを知った。

 再び、デイヴィッドは犯人を追って家に侵入する。清掃員の背後から近付き、首を絞め、格闘の末に気絶させることに成功した。そして、縛り付けられていた母親らしき女性を解放するが、残念ながら、間に合わず、彼女は死んでいた。

 翌日、デイヴィッドのした救出劇は新聞に掲載された。妻と談笑しながら朝食を食べているときに息子が起きてくる。息子のジョセフに新聞を差し出し、デイヴィッドは自分のしたことを教えた。"正体不明のヒーロー、子供たち2人を救う"。息子はそれをみて嬉しさのあまり泣くのだった。

 そして、デイヴィッドは自分の才能を見出してくれたイライジャにあいさつに向かう。画廊では展覧会が開かれており、イライジャの母親も来ていた。イライジャのオフィスに案内され、握手を交わす。そのとき、彼の脳裏にはイライジャの意識が怒涛のごとく流れ込んできた。

 イライジャが飛行機事故を起こし、ホテルの火災を起こし、列車の脱線事故を起こしたという記憶。そして、壁に目をやると、メキシコで土石流など、様々な事件の記事がべたべたと貼り付けられている。

 デイヴィッドは全てを悟った。イライジャ・プライスは、デイヴィッドを探すために、今まで世界各地で大災害を起こし続けてきたのだ。そして、彼はついにデイヴィッドを見つけた。イライジャの仕組んだ列車の脱線事故の唯一の生存者だったデイヴィッドを。

 デイヴィッドはきびすを返し、イライジャのオフィスを出ていった。その後、イライジャ・プライスは逮捕され、精神病棟に収容されたのだった。

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★デイヴィッドは何者か?

 彼は、一種の超能力を持った人間でした。相手の意識を読むことができるのです。そして、相手の意識を読むのに特に何かをする必要はありません。ただ、その場にいるだけで、相手の意識が勝手に流れ込んでくるときがあります。

 イライジャに言われたとおり、ヒーローとして何かをしようと決意したデイヴィッドは、解決すべき悪を発見しようと、人ごみに立つことにしました。まず飛び込んできたのは、人種差別主義者、次に強姦魔。たしかにこれらも犯罪ですが、過去の記憶で、現在進行中の犯罪ではありません。

 デイヴィッドが探していたのは、たった今、進行している犯罪で、助けを待っている人間がいる犯罪でした。そこで、彼が発見したのは家に押し込みに入る男の記憶です。その記憶が清掃員のものだと分かった彼は家まで彼を尾行し、みごとな救出劇とあいなったというわけです。

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★イライジャ・プライスは何者か?

 彼は骨が折れやすい病気で、ヒーローのような活躍をすることはできません。逆にヒーローに守ってもらうべき弱き存在なのです。彼は漫画は実際の経験を漫画に描き直しているだけだと考えていました。自分のようなか弱い存在の対極の存在、つまり"ヒーロー"が実在するはずだという理論を立てたのです。これは自分のような弱い存在が地球上に存在する理由は、それを守る存在がいるから、という理論です。彼は自らの存在意義を未だ見ぬヒーローの存在に求めていたのです。この理論に沿い、彼は不死身の人間を探し続けました。

 普通に探すだけでなく、自ら大災害や大事故を引き起こして、生き残る者がいないか調べつづけていました。そして、ある日、彼が起こした脱線事故からデイヴィッドという男を発見します。そして、彼の予知能力を知ったイライジャはデイヴィッドが探し求めたヒーローであることを確信しました。彼はデイヴィッドに働きかけて、本当にヒーローとして活躍させることに成功します。

 イライジャ・プライスはヒーローがこの世に存在することを確信し、"ヒーローに守られる者"として、自分がこの世にいることの価値を確認しました。だが、イライジャはヒーローを探すために大量殺人を犯し続けており、ヒーローに敵対する存在にもなっていたのです。

 そこで、イライジャは自分という存在がヒーローの"敵"という存在になっていることにも気がつきました。"守られる者"としての存在意義を求めていたはずの彼が、"敵"としての存在意義をも有することになっていたのです。

 しかし、彼としてはそのどちらでも構いませんでした。彼にとって重要なのはこの世に自らの"存在意義"がある、というその1点に絞られていたからです。彼にとっては、いずれにしても、この世の中で自分が存在する意味があるということだけが重要でした。


 イライジャは言います。「コミックで最大の敵はヒーローの正反対」で、しかも、「元はヒーローの友達」だった人物だ、と。

 ヒーローの潜在的な才能の存在にヒーローを目覚めさせる役割を果たす友人も必要です。そして、何よりヒーローがヒーローであるためには、敵が存在しなくてはならない。倒すべき敵がいなければ、ヒーローは必要とされないでしょう。

 そして、敵となる人物が引き起こす犯罪がなければヒーローはその才能を生かす場はありません。つまり、ヒーローの存在には友人と敵の両方の存在が不可欠なのです。イライジャはこの役割の両方を果たすことに成功しました。

 イライジャのしたことは多くの人を殺したという点で大きな過ちを含みつつも、ひとつの真実を指し示しています。

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★自分自身を救ったデイヴィッド

 デイヴィッドはイライジャによってヒーローとなり、妻や息子との距離を縮めることができた。なぜ、デイヴィッドが妻と疎遠になっていたのか? 彼ら夫婦は決定的な喧嘩をしたとか、どちらかが不倫したとか、そういう理由で仲が悪くなっていたわけではありません。

 夫婦の中が冷えてしまったのは、デイヴィッドが今の生活に嫌気がさし、ニューヨークに行って新しく人生をやり直したいと思っていたから。

 なぜ、今の生活に嫌気が差したか。イライジャの言葉を借りれば、「すべきことをしていないから」。デイヴィッドは大学時代、フットボールのスター選手でした。しかし、彼の妻になったオードリーはフットボールは嫌い。彼女によると、フットボールなんて「暴力的で」「粗暴なスポーツ」だそうです。

 デイヴィッドは大学時代に起こした交通事故でけがなどはしていませんでした。新聞記事になった、「スター選手がケガ」というニュースはウソ。デイヴィッドは交通事故で怪我をしたとウソをついて引退したのです。何のため? それはオードリーのため、早く引退して家庭を持つため。オードリーはデイヴィッドにフットボールの選手であってほしくないと思っている、とデイヴィッドは思っていたのです。

 デイヴィッドはオードリーにもウソをつき通していました。彼女は夫とのデートで、「怪我するなんて望んでいなかった。あなたの才能は天が与えたもの。失ってほしくはなかった」と言っています。彼女はいまだ、夫の怪我がウソだとは知らないのです。

 デイヴィッドが「すべきことをしていない」と毎日感じ、そんな生活に嫌気がさしたのは、もう、プレーができなくなったから引退したのではなく、妻のため、家庭のために自分の選手生命を犠牲にしたと考えていたから。

いわば、今ある家庭の犠牲者になった、とデイヴィッドは自分のことを考えていました。だから、妻を愛していないわけではないし、息子を可愛がってはいるけれど、自分を犠牲にしたものの大きさを考えると、感情がさめてしまう。だから、妻とも、息子とも、距離を置いていました。

 しかし、イライジャに会ったデイヴィッドは自分の才能に気が付きます。相手の意識や感情を読み取ることができるという一種の特別な才能。この才能を警備の仕事に使うだけではなくて、才能を伸ばし、他のことに使わないか、というイライジャの誘い。

 デイヴィッドは選手を中途半端にやめたことで、息子に自分が誇るべきものがなくなったと感じていました。「普通の人間」になってしまった。何の取り柄もない中年の男。しかし、息子はそんな父に怒ります。「何でいつもそういうの!? 」

 彼はイライジャの誘いをとんでもないと思いつつ、これが、息子に誇れる父となるきっかけになるかも知れないと気が付きます。フットボールでは自ら挫折させてしまった才能を他のことで開花させる。

 結果は成功。「正体不明のヒーロー」として子供たちを救いました。彼はこれで息子に自分を誇ることができます。そして、彼は自分自身も救うことができました。フットボールを不本意にもやめてしまったことがずっと彼の心に傷を残し、挫折経験として記憶されていた。それを今回のヒーローとしての成功経験が上書きしてくれる。彼は息子だけではなく、自分自身をも救ったのです。

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★すべてイライジャの思い通り…
 
 ヒーローに人々は何を期待するか。それは、困っているときに助けてくれること。安心をヒーローに求めるのではないでしょうか。
 今回デイヴィッドの活躍で命を助けられた2人の子供たちはまさにそれ。典型的なヒーローに助けられた市民のパターンです。

 しかし、デイヴィッドは自分を救い、自分と家族の絆も救いました。そして、実は、イライジャも。

 イライジャはデイヴィッドに通報されて逮捕され、病院に隔離されてしまったではないか?とも思えます。

 でも、それはハッピーエンド。イライジャの望んだ結末です。思えば妙な話です。イライジャはデイヴィッドの特殊な能力を知っています。相手の意識を取り込むことのできる能力のことを。それならば、デイヴィッドといるときは秘密にしておきたいことを思い浮かべるのは彼に伝わってしまう危険があるので危険ですし、握手をするなどという直接接触する行為はなおさら危険。

しかも、今までに起こした事件の記事が壁にたくさん貼られているオフィスになぜ、デイヴィッドを連れてきたのか。これらの記事を見られたら、デイヴィッドに意識を読まれなくても何かおかしいと気がつかれる危険があります。

 ここまでくれば、答えはひとつ。イライジャ・プライスは自分が今までの大事故を仕組んだ張本人であり、ヒーローを見出した人物であることを、デイヴィッドに気がついてほしかったのです。

 イライジャ・プライスこそが、デイヴィッド・ダンというヒーローの生みの親であり、彼の友人であり、彼の敵でもある。イライジャ・プライスはここにいる。この地球上に確かに存在していて、彼のしたことが世界中に知れ渡り、彼のことは恐れられるかもしれないが、彼という人間の存在が認識される。「私のこの体にも意味がある。ヒーローの敵にはあだ名があるのを知ってるか? 」そう、これでイライジャは晴れてヒーローの友人であり、敵でもある"ミスター・ガラス"と呼ばれることができるのです。

 イライジャ・プライスの逮捕は彼自身が望んだことでした。「アンブレイカブル」のストーリーは最初から最後まで、イライジャ・プライスの書いたシナリオ通りの展開だったのです。

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★人間の孤独

 イライジャ・プライスには彼を誇りに思い、愛してくれる母がいました。また、立派な画廊を構えて商売もうまくいっている様子。しかし、イライジャはそれだけでは足りませんでした。それだけでは、自分のこの脆い体がこの世に生まれおちたことに対する説明が付かない。彼はこの考えに取りつかれ、自分の体がこの世に存在する理由を探し続けていたのです。

彼の考えは歪んでいる、確かにそうなのですが、それだけでは片付けられない人間の深層心理が潜んでいます。人間は常に他者に対して「承認」を求めます。確かに自分がここにいるという証、自分が意味あってこの世に生きているという証が欲しい。

 人間は常に孤独なのです。他人とは違うガラスの体を持つイライジャはとりわけ、強い孤独を感じていました。誰にも理解されないこの体は一生彼について回る。同じ苦悩を持つ者は少なくとも彼の周りにはいない。

デイヴィッドの活躍によって実証されたヒーロー理論によって、彼の存在意義は実証されたともいえます。イライジャは満足を得ることができたでしょう。自分がなぜ、この世に生まれ、そして生きているのか。この問いの答えがヒーロー理論では片付かないことは自明のことですが、では正しい答えが何かと問われれば、一朝一夕で答えの出る問題ではないとしか言うことはできません。

しかし、日々を懸命に生きている人間は常にこの問題に対して無意識的に答えようとしているといえるのではないでしょうか。もやもやとしたはっきりしない気持ちを抱えながら、自分の目標に向かって生きていくうちに知らず知らず、この問題に対する答えを用意できる日がくるのかもしれません。

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All pictures in this article belong to The Kobal Collection.
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イル・ポスティーノ

映画:イル・ポスティーノ あらすじ
※レビュー部分はネタバレあり

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 南イタリアの小さな島で暮らすマリオ。彼は漁師の息子だったが、親の仕事を手伝うわけでもなく、ぼんやりと過ごす日々を送っていた。

 ある日、村にチリから亡命してきた詩人パブロ・ネルーダがやってくる。祖国を離れ、一時の滞在先としてこの村を選んだのだった。

 彼は世界的な詩人であり、また、政治家でもあった。彼のよむ詩は女性たちから圧倒的な支持を得ており、世界中から彼のもとにファンレターが届く。マリオは町の郵便局に行き、彼の元に届く大量の郵便物を届ける仕事を得るのだった。

 毎日、ネルーダの元に赴くマリオ。二人は次第にうち解け、友情が生まれていく。

 ある一人の青年の目覚めと自立をユーモアを交えて描く美しい小品。



【映画データ】
イル・ポスティーノ
1994年,イタリア・フランス
監督 マイケル・ラドフォード
出演 マッシモ・トロイージ、フィリップ・ノワレ、
マリア・グラッツィア・クチノッタ、リンダ・モレッティ



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映画:イル・ポスティーノ 解説とレビュー
※以下、ネタバレあり

★マリオの詩

 マリオは小さな村で父親と二人暮らし。人はいい青年ですが、毎日は惰性で流れ、仕事もろくにしていません。

 そんな彼を動かしたのはパブロ・ネルーダ、そして「詩」でした。

 マリオはネルーダから詩というものを知ります。そして、ネルーダとその妻マチルデの愛情の深さから、愛というものに触れることになりました。何も知らなかったマリオの心には何かが沁み込んでいき、村のレストランの娘、ベアとリーチェに今までに感じたことのない心の響きを覚えるようになります。

それでも、彼はベアトリーチェに話しかけることすらできません。初めて聞いたのは名前だけ。その後は逃げるように出てきてしまいました。

 そんな彼が、ベアトリーチェに自分の思いを伝えるためには詩が必要でした。マリオはネルーダに詩を作ってほしいと頼みますが、断られてしまいます。そこでマリオはネルーダの詩を引用することにしました。ネルーダの詩の力はマリオにベアトリーチェへの恋心を伝える力を与え、ベアトリーチェに対してはマリオに恋させる力を持っていました。

 やがて、訪れる別れのとき。ネルーダは帰国の途につきました。新聞を通して伝わってくる彼の動静に、マリオは自分のことを話してくれるのではないか、と待ち続けます。しかし、届いたのは一通の手紙。荷物を送るように、という彼の秘書からの事務的な伝達事項でした。

 やりきれない思いを抱えたまま、ネルーダの住んでいた家に行き、言われたとおりに荷造りをしようとするマリオ。そこに残されていたのはかつてネルーダと吹き込んだ録音機の自分の声でした。

 ネルーダに促され、戸惑いながらも「島の美しいもの」としてベアトリーチェを語る自分の声に彼はネルーダが自分に残してくれたものを知ることになりました。

 それは、詩。ネルーダはマリオに詩を語る心を教えてくれていたのです。

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★愛する人、ベアトリーチェへの詩

 旅立ちのときまでベアトリーチェの詩をせがむマリオに、最後まで書いてくれなかったネルーダ。それは、マリオにしか書けないからでした。それからというもの。マリオは堰を切ったように自分の人生を駆け抜けました。村のあちらこちらを周り、「島の美しいもの」を録音機に吹き込みます。

 波打ち際の海の音や、茂みを渡る風の音、漁師の網の音など…彼は島のあちらこちらに詩を見出しました。

 詩をよむということ、それは、何かを通して自分を語るということです。マリオの場合は、島の自然を通して自分を語りました。そしてマリオは自分というものをはっきりと自覚するようになります。

 彼は変わりました。平穏だけれど、その日を過ごすだけだった人生から、生きているという実感の持てる人生へと自分を変えることに成功しました。

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★マリオの人生、そして、詩

 「詩は必要とする者のためにあるもの」。かつて、マリオがネルーダに向かって語った言葉です。

 マリオの詩をいま、必要としているのは貧困と過酷な労働環境に喘ぐ労働者たち。マリオがベアトリーチェへの愛を語るためにネルーダの詩を必要としたように、労働者たちはその苦しさを語るためにマリオの詩を必要としていました。

 そして起きた暴動。集会を止めさせようとした警察と集会参加者たちとの乱闘に巻き込まれたマリオは命を落としてしまいます。

 詩こそが、彼にベアトリーチェと息子パブリートという愛を与えました。そして、彼の死も。詩はマリオの人生を大きく変えたのでした。

 何も知らなくても、何も知ろうとしなくても、時間は流れ、一日は過ぎていきます。社会で何が起きているかに無関心であっても、そこには毎日の暮らしがあって、わずかの社会的変化で日々の生活が大きく変わることはありません。

 日々を暮らすということは、それはそれで大事なことなのだけれど、この世界に生を受けた一人の人間として、どう生きるべきか。彼はただそこに存在しているだけ、社会に存在する無数の人間の一人としてただそこにいる、という存在として生きるのか。

 「イル・ポスティーノ」はそんな無数のなかの一人にすぎなかったマリオが、自分を発見し、一人立つまでを描いています。

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