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映画レビュー集> 『か行』の映画

カオス

映画:カオス あらすじ

 武装強盗団が銀行を襲撃し、停職処分中のコナーズ刑事が呼び出される。なんと、立てこもる犯人から直々の指名があったというのである。 
 そこでコナーズ刑事は説得にあたる一方で、突入の準備を進めることになる。はたして犯罪の全貌を明らかにできるのか。



【映画データ】
2006年 アメリカ
監督 トニー・ギクオ
出演 ジェイソン・スティサム、ライアン・フィリップ


映画:カオス 解説とレビュー

 普通のサスペンス、刑事もの、アクションありの娯楽映画。個人的には1年もしたら見たことすら忘れそうな作品。だが一般受けはするでしょう。
 ストーリー的に破綻なく、きれいに最後まで落ちが付いているし、完成された作品としてお勧めはできます。映画を見慣れた人だとひょっとしたら、結末が読めるのではないでしょうか。

 主演のジェイスン・スティサムはトランスポーター・シリーズに出演するいまが旬のアクション系の俳優。外見的にもブルース・ウィリスの後釜に見えるのは私だけ?相棒の新人刑事にはライアンフィリップ。以外にもこの人は有能。

カオス


 この映画っって女っ気がなかったような?
とりあえずは安心して観られるサスペンスアクション。

 一応この映画はカオス理論に基づいているとのこと。カオス理論とは「不規則・複雑な現象であっても最終的には簡単な方程式で説明できる」という理論。
 いろいろな要素が最後に一本にまとまるのは映画としては当たり前で、これができてない映画は破綻している、といわれるのだから、別にカオス理論持ち出すまでもない…と思うが。



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キャスト・アウェイ

映画:キャスト・アウェイ 解説とあらすじ
※レビュー部分はネタバレあり

 国際運送会社大手のフェデックスに勤めるチャック・ノーランド。

 常に効率よく、早く、短い時間で荷物を届られるように従業員に発破をかけて、社用機で飛ぶ出張先にも自らストップウォッチ入りの荷物を送って時間を計るほどの徹底ぶり。

 仕事も充実していたし、結婚を考えている恋人のケリーもいて、不満のない人生だった。

キャスト・アウェイ


 ある日、社用機でいつものように出張に出かけるチャック。ところが天候が怪しい。目を覚ますとそこは南太平洋の無人島だった。

 単なるサバイバルものではない、大人のための『15少年漂流記』。かの小説では一回りもふた回りも大きく成長して帰ってきた少年たち。

 大人が無人島で暮らしたときに何が得られるのか…極限状況におかれた人間が最後に得られたものとは…。

 たまにこの映画見たくなります。観て損はしない映画です。映画の前半と比べて、後半で一気に痩せるトム・ハンクスにご注目。役作りで体を作る役者は多いですが、1本の映画ロケ期間内でこの変化はすごいなぁ。役者魂ですね。



【映画データ】
キャスト・アウェイ
2000年 アメリカ
監督 ロバート・ゼメキス
出演 トム・ハンクス


キャスト・アウェイ


映画:キャスト・アウェイ レビュー
※以下、ネタバレあり

 とにかく時間に縛られて、それの時間をどれだけ短縮するかにあくせくする現代人。短い時間で同じ仕事量をこなせることが評価されるのが現実。その評価基準に何の疑問を感じない人々。

 そんなときでも、ふとした瞬間、地元に帰ったとき、訪れた旅先で、いつもと違う時間の感覚をふと感じる瞬間がありませんか。

 その体験を究極的に経験することになるのが、チャックの無人島での4年間。
 チャックにとっては必死に生きた4年間。話し相手はウィルソンだけ。ケリーだけを生きがいに一生懸命に文字通り一日一日を刻み、命からがら戻ってくるチャック。

キャスト・アウェイ


 けれど現代の時間の流れは速い。
 
 チャックにとっては長い4年もこちらの世界ではあっという間の4年。ケリーは結婚して新しい家庭があり、子供までいる。失意の中でケリーと別れる決心をするチャック。
 
 彼は戻ってきてから最初の仕事に取り掛かります。そう、4年前に島に流れ着き、開けずに残した一つの荷物。届けに行った先は広い草原の中の一軒家。

 留守だったために戸口に残した荷物には「遅くなりました」とのメモ。一本道を引き返して再び交差点へ。

キャスト・アウェイ

 
 さあ、これからどちらに行こうか。

 そこに差し掛かる赤い車。中から声をかけて来た女性は3つの道の行き先を教えた後、残り一本の道の行き先は「カナダ。何もない所よ」。
 
 そして、チャックが選んだ道は…。
 そう、「何もない」、舗装もない道だった。

 彼にとってはあの女性との出会いを選ぶ道であり、新しい未来を選ぶ道。これまでひた走ってきたエリート社員としての未来の見える道ではなく、何が起こるか分からない舗装されていない砂埃の舞う道。

キャスト・アウェイ


 冒頭でも出てくるこの四ツ角。かつてのチャックなら迷わずアスファルトで舗装された道を選んだでしょう。でも今のチャックが選んだ道は、未来ははっきり見えないけれど、希望が見出せる道だったというわけです。

 きっと彼女との未来がチャックにはあるのでしょう…冒頭シーンでも出て来た彼女の家らしきゲートの上の名前はラストシーンでは片方なくなっています。彼女はどうやら独身になったようですね。

 私たちもときに思い出したいですね…行き詰ったときに。常に道は開けていて、生きていてこそ、行き先は自由に選べる。自分の思う方向へ…。

キャスト・アウェイ

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ギャング・オブ・ニューヨーク

映画:ギャング・オブ・ニューヨーク あらすじ
※レビュー部分はネタバレあり

 マーティン・スコセッシ監督とレオナルド・ディカプリオによる骨太な人間ドラマ。1840年代から1860年代南北戦争のころまでの激動の街、ニューヨークを描く。

 ギャング・オブ・ニューヨークの主眼はアメリカ移民の歴史を描くことにある。その歴史を動かした人間たちが移民だった。

 民族・宗教・家族愛・恋愛・愛国心。全ての要素を織り込んで展開するアメリカ南北戦争前の時代。それを一度に描き上げたギャング・オブ・ニューヨークはスコセッシ監督が何十年もの間、温めてきた企画の映画化である。

ギャング・オブ・ニューヨーク

 
 「ホワイト・ニガー」と呼ばれて、黒人同様の差別を受けるアイルランド系の移民とWASPの衝突が繰り返され、流血事件が頻発していた。
 
 主人公アムステルダムの父親はアイルランド系デッド・ラビッツのリーダーであった。しかし、WASPで構成されるネイティブズとの抗争で殺され、孤児となったアムステルダムは孤児院で育つことになる。

 そして、時は流れ、成長した青年は街に戻ってくるが、そこは父を殺害したネイティブズのリーダーが牛耳っていた。アムステルダムはその組織に入り、次第に頭角を現していく。

ギャング・オブ・ニューヨーク


 ギャング・オブ・ニューヨークは脚本や演出がしっかりしており、往時のニューヨークの雰囲気が堪能できる。いい映画だが、舞台背景になじみがないせいか、日本ではあまり評判にならなかった。

 ラストシーンの情景変化が素晴らしい。何度も繰り返し見たくなる。ラストの曲はU2が提供しており、さすが、アイルランド出身のグル―プだけのことはあるか。

 U2は出身国アイルランドの歴史にちなんだ楽曲もいくつか発表していて、本作のエンディング「The Hands that Built America」もその一つだ。

 ギャング・オブ・ニューヨークで描かれるWASPとの対立を経たアイルランド移民の時代が終わり、次に来るのはイタリア系移民の増加である。そして、1890年代。時代はイタリア・マフィアの時代へと移る。

※WASP…アングロサクソン系プロテスタントの白人のこと。アイルランド系移民はカトリック。



【映画データ】
ギャング・オブ・ニューヨーク
2001年 アメリカ
監督 マーティン・スコセッシ
出演 レオナルド・ディカプリオ、ダニエル・デイ・ルイス



ギャング・オブ・ニューヨーク

↑アイルランドのケルティッククロス。十字架に丸い円がつきます。これはケルト教がキリスト教化された名残。写真は上部が欠けています。今でもニューヨークの一部の地域など、墓石にこのクロスをみることができます。


映画:ギャング・オブ・ニューヨーク 解説とレビュー

※以下、ネタバレあり

 ギャング・オブ・ニューヨークのラスト、最後の決闘の場面。徴兵暴動でお流れになり、あれあれ、とがっかりされた方もいたのかな、と思いますが、そのような展開になる理由がちゃんとあります。

★親子の愛

 ギャング・オブ・ニューヨークには様々な愛が描かれていますが、軸にあるのは親子の愛です。特に、ネイティブズのリーダー、ビルと、アムステルダムの親子類似の関係には非常に注目されるところでしょう。

 アムステルダムにとってはビルは父親の仇であり、復讐を果たすため、その命を狙って、ビルの組織に加入したはずでした。

 しかしながら、当初は組織のボスと下っ端の上下関係に過ぎない二人の関係は次第に変化していきます。

 ビルの暗殺未遂事件の際にとっさに身を呈してビルの命を救ったことに象徴されるように、次第に親子に似た感情を抱くようになっていくのです。

ギャング・オブ・ニューヨーク


 ビルは「俺には息子がいなかった」といいます。今はいるのだ、という気持ちが暗示されているように聞こえるセリフですね。

 そして、アムステルダムは父の仇としてのビルと、父親としてのビルを同時に見ることとなり、その狭間で感情的に揺れ動くことになります。

 しかし、そこで、そのままビルとの関係を続けることは周囲が許しません。

 アムステルダムは、かつてのデッドラビッツの残党で、ビルに与しない立場の者からはデッド・ラビッツを再結成するように発破をかけられます。

 ビルはビルで、ジョニーからアムステルダムがヴァロン神父の息子であり、ビルの命を狙っていると密告を受けます。

 そこで、ビルとしてはいくらかわいがっていたアムステルダムであっても組織の秩序を守るために、アムステルダムを殺さざるを得ない情況になっていくのです。

 それは、ふたたび運命が回り始めた瞬間でもありました。

ギャング・オブ・ニューヨーク

↑ケルトのクロスはいろいろなバリエーションがある。見た目にデザイン性が優れているので、現在でもアクセサリーのデザインでよく見かけますね。

★なぜビルは一度暗殺に失敗したアムステルダムの命を救ったのか

 さらに、ギャング・オブ・ニューヨークのドラマに深みを与える解釈があります。それは、既にビルはアムステルダムがヴァロン神父の息子であることを知っていたというものです。

 となると、ビルとしては既にに知っていた事実ではあるが、密告を受けた以上、組織のボスとしてその事実を確かめざるを得なくなるのです。

 しかし、もしかしたら、アムステルダムは復讐の念を捨てたかもしれない。

 そこで、それを確かめるために、ジェニーを立たせて、きわどくナイフ投げのショーをして見せ、さらに、デッドラビッツを倒した日に感情的な演説でアムステルダムを煽ったのでしょう。

 果たして、アムステルダムはビルにナイフを投げました。やはり復讐心は消え去ってはいなかったのです。

 ビルの目的は果たされました。後はアムステルダムを反逆者として処刑すればいいのです。今、彼を放てば、再び復讐を果たしにやってくることは歴然としているからです。

ギャング・オブ・ニューヨーク
↑現在のニューヨーク,マンハッタンの高層ビル街。


 しかし、ビルはそうはしませんでした。その後のアムステルダムの行動は非常に挑発的なものになり、ビルは暗殺者を仕向けることになりますが、命令する彼の目には涙が。                               
 そう、彼にはアムステルダムを殺すだけの意思も気概もなくなっているのです。こう考えると、最後の見せ場と言うべき決闘の場面についてすんなりと納得できます。

 最後の決闘。しかし、徴兵暴動と砲撃の開始により、決闘に至ることはありませんでした。もうもうと舞う視界を遮るほどの砂埃が舞う中で、あっさりとビルはアムステルダムに殺されて最期を迎えることになります。

 一連の流れからは、息子のように愛したアムステルダムに殺されることを意図的に受容したと考えるべきでしょう。

ギャング・オブ・ニューヨーク


★ディカプリオがアムステルダム役というキャスティング

 童顔すぎてとてもじゃないが、ギャングの首領には見えない?

 確かにそれはそうかもしれません。
 
 でも、ギャング・オブ・ニューヨークはギャングの抗争を描く、というよりは、アメリカのアイルランド移民の歴史を背景に、ビルとアムステルダムの関係を主題に描いた作品です。

 そこで、アムステルダムはいかにも、な狡猾で残忍なイメージの、ギャングにぴったりな男ではだめなのです。
 
 アムステルダムは悩み、迷いのあるギャングなのです。

 父の仇と分かっていながらも、いつしか芽生えたビルに対する、父に対するような親愛の情と板挟みになって復讐に踏み切れない、そんな優柔不断さをもつ性格を演じる必要があります。

 というわけで、ディカプリオは適役だったと思います。

ギャング・オブ・ニューヨーク
↑ブルックリン橋。ラストシーンに出てきた橋。


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CUBE キューブ 

映画:CUBE,キューブ あらすじ
※レビュー部分はネタバレあり

CUBE,キューブ


 ふと目覚めると正方形の部屋にいた。
 
 部屋には前後左右上下に6か所のハッチ(小さい扉)が付いている。そのハッチを開けると隣の部屋にも同じ形状の部屋があり、やはり6つのハッチが付いている。さらに部屋にはトラップがあり、うかつに進むと命を失うようだ・・・。
 
 果たして、出口はあるのか…。極限状態における人間の精神状態と独特のCUBEというシチュエーション。新しいスリラーのジャンルを確立した作品。

 評判通りの面白い映画だ。
 CUBEとは一個一個の部屋のことを言い、この一辺が4.2mの立方体が積み重なって一つの集合的な立方体を形成しているらしい。そしてその集合体の外壁は一辺130mの立方体で、両側約8.4mを空けている(立方体内に立方体がある)。

 さあ、内部の立方体の集合体には立方体の部屋がMAX全部でいくつあるでしょう?                         

 死の罠は壁面に格納されていて、発動させずに通過するか、発動させてもよけられればその部屋を通過できる。死の罠がない部屋もあるので、参加者はできるだけ死の罠のない部屋をさがすことになる。

 そしてその罠のない部屋を見つけるための法則が各種展開されるが、初見で理解できる人は数学が得意な理系かなぁ。ほとんど分からなかった。分からなくても楽しめる映画ですが。

 監督はこれが初監督作品で、サンダンス映画祭を始めとした各地映画祭で話題をさらった。



【映画データ】
CUBE キューブ
1997年・カナダ
監督 ヴィンチェンゾ・ナタリ
出演 モーリス・ディーン・ウィント、デヴィッド・ヒューレット、ニ   コール・デボワー



CUBE,キューブ


映画:CUBE,キューブ 解説とレビュー
※以下、ネタバレあり

★続編と1作目の『CUBE』

CUBEの続編として『CUBE2』、『CUBE ZERO』が制作されました。
 2作目はストーリー的につながりはないし、監督・キャストも違います。
 実際にシリーズ全てを鑑賞してみましたが、2作目は1作目のグロさをUPしただけで新しさがありません。
 
 では、3作目はどうでしょう。
 
 3作目の『CUBE ZERO』は1作目『CUBE』の前日譚という位置づけです。なので、一部メンバーの名前が1作目と同じになっていますが、監督・キャストは違います。そして、3作目はCUBE建設に関わるストーリーが付け加えられています。

 が、そもそもCUBE自体のストーリー性は薄いので、どれほどの意義があるのかわからないですね。CUBEの生みの親で1作目の監督ヴィンチェンゾ・ナタリは、1作目でCUBEが造られた由来にほとんど触れていません。それよりも、このCUBEの面白さはCUBEの仕組みや脱出方法を考える方にあるのではないでしょうか。

 本作はシチュエーションスリラー、ゲームスリラーというジャンルの先駆けです。このジャンルでは、登場人物そのものよりも、登場人物の置かれた限られた環境設定、その舞台装置の面白さの方が重要になるなどいくつかの共通点があるといえるでしょう。

 同様のジャンルとされるものにSAWが挙げられます。SAWでは手錠で部屋の両端につながれた2人の脱出の可否が試されます。

 アイディア勝負なので、低予算作品が多いジャンル。人気が出れば、2作目以降が製作されるが駄作と評価できる場合が多いように思います。
 個人的には駄作というよりは、この手の作品の宿命で、舞台設定やアイディアが命なので、どうしても続編は使い回し・焼き直しになってしまうからだと思いますが。

CUBE,キューブ


★CUBEから脱出するためのルール
※以下は正しいかどうかは分かりません

 まず、数字が刻まれたプレートの発見及び参加者に数学の得意な者がいること、数学科学生の眼鏡のみ持ち込まれていることを踏まえて、数字が何らかの暗号であるとの結論に達します。

@素数理論
 罠のある部屋にある番号はいずれにも素数が含まれていることから導かれた理論。

A因数の数の理論
 各番号の因数の個数がトラップの有無を決定するというもの。因数の個数が1個ならそこは罠のある部屋ということになる。

Bデカルト座標の理論
 部屋番号が(123,456,789)ならば、(1+2+3,4+5+6,7+8+9)→(6,15,24)という三次元の座標を示すとの説。

 ここで、部屋の数が重要になる。先に述べたように一辺130mの外壁から両側の空間8.4m×2=16.8mを引く。130m - 16.8m = 113.2m。

よって、内部の立方体の一辺は113.2m,
これを各部屋の一辺4.2mで割り算すると 113.2m ÷4.2m = 26.95という数字が出る。

 すなわち、内部の部屋の集合体の立方体は一辺26個の立方体から成ることが分かる。

 以上から、26の座標がある部屋は内部立方体の一番端の部屋で、かつ座標も26以上は存在しないはずである。しかし、そこで、27という数字が見つかることからこの理論は崩壊する…。

 でも、座標を示すという概念の発見は重要であり、27番目の部屋は外界への架け橋になる部屋である可能性が生じることになった。

キューブ,CUBE


C順列組み合わせ移動の理論
 Bの座標はあくまで初期値を表わしていて、後に部屋が数字に従って規則的に移動しているとの説。

 仲間が死亡した部屋に再度戻った際に、隣接していた部屋がないことから展開された。

 ここから先は残念ですが、難しいので説明に自身がありません…。順列に従って引き算をするのですが、よく分かっているかどうか。以下は一つの考え方としてどうぞ。
 
 まず、(a,b,c, d,e,f, g,h,i)という座標は初期の位置がBの理論から(a+b+c, d+e+f, g+h+i)であることが分かります。

 次にCUBEが移動する位置は、
(a+b+c, d+e+f, g+h+i) + (a-b, d-e, g-h) = (2a+c, 2d+f, 2g+i)                
 さらにCUBEが移動すると、
(2a+c, 2d+f, 2g+i) + (b-c, e-f, h-i) = (2a+b, 2d+e, 2g+h)

 その次にCUBEが移動するのは、
(2a+b, 2d+e, 2g+h) + (c-a, f-d, i-g) = (a+b+c, d+e+f, g+h+i)

すなわち元に戻ることになります。

 つまりは、どのCUBEも3回目には初期位置にリセットされることになります。そして、27番目の外界へつながるCUBEに近い位置にそのときいれば外へ抜けられることになります。

 以上で、理論的説明は終わり。いかがでしょうか。

CUBE,キューブ


 でも、仮に、C順列組み合わせ方式で動いているとすると、CUBEがスライドするスペースが必要になるんじゃないの?

外壁と内部の集合体との間にはCUBE2個分以上の空間が空いてるから十分なのかな?

 内部の集合体と外壁にはCUBE2個分のスペースが空いてるのに、1個の架橋でいいの?

 謎が多い…のか、考え方が間違っているのか分かりません。もうちょっと数学を勉強しとくと、この映画楽しかったかな…。考えていると次から次へと疑問が湧いてきて飽きない映画です、CUBEは。


タグ:キューブ CUBE
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キングダム・オブ・ヘブン

映画:キングダム・オブ・ヘブン ディレクターズ・カット版 あらすじ
※レビュー部分はネタバレあり

 リドリースコット監督、オーランド・ブルーム主演の歴史スペクタクル。

 キングダム・オブ・ヘブン、天の王国。昔も今も人はその地を探して彷徨っている。

 止むことのない流血の地、イスラエル=パレスチナ戦争の発火点である聖地エルサレムがキングダム・オブ・ヘブンの舞台である。

キングダム・オブ・ヘブン


 12世紀、フランス。時は十字軍の時代。

 村で鍛冶屋をしている鍛冶屋のバリアンは妻子を失い、失意の底にあった。そこに、現れた一人の騎士。バリアンはその騎士に同行して十字軍に参加することになる。
 
 時のエルサレムはキリスト教徒である賢王ボードワン4世の支配下。キリスト教徒とイスラム教徒の共存の地でありながらも、常に一触即発の危うい均衡状態のもとにあった。

 対するイスラム勢力には伝説的な名将として名高い指導者サラディン。ボードワン4世とサラディンの両者によりエルサレムの平和は一時的にしろ、保たれていた。

 そんな情勢の中、エルサレムに到着し、王に謁見するバリアン。エルサレムで新たな生活を始めるなかでシビラと出会うのであった。
                                
 その一方で、宮廷内では権力闘争が激しさを増し、王を支える軍事顧問ティベリアスと王女シビラを妻にする宮臣ギ―の対立はイスラム教徒に対する軍事攻撃の可否をめぐって熾烈を極めるようになっていく。
 
 もはや、十字軍の騎士たちの狂気と欲望は抑えきれないものになりつつあった。

キングダム・オブ・ヘブン
↑3人の賢者はベツヘレムの星を見て、イエスの誕生を知った(聖書)


 キングダム・オブ・ヘブンは3万人ものエキストラを起用し、CG技術と当時の装備・衣装、そして舞台となる城壁などの高い再現度によって、驚くべき行軍のスケール及び迫力を演出することに成功している。                                  
 また、脚本は史実をもとに脚色されており、主人公バリアンをはじめとするボードワン4世やサラディンなどは実在の人物で、その人物考証も史実に基づく。また、エルサレムの籠城・防衛戦についても資料に基づく再現がされている。

 キリスト教徒、イスラム教徒ともに自己の陣営内の過激派勢力の対処に頭を悩ませ、両者ともにエルサレムの平和と両者の調和を望みつつも、戦争に至る経過を描いている。

 その点で、十字軍対イスラム教徒軍の戦いを描きつつも、人間ドラマとしても十分に楽しむことのできる、奥行きある歴史スペクタクルが完成している。

キングダム・オブ・ヘブン
↑3つの十字架はキリストが罪人とともに十字架に架けられたゴルゴタの丘の象徴

 
 本レビューで扱うのはディレクターズカット版であり、監督を始めとした製作陣が入れたいシーンが網羅された完全版であるので、劇場公開版よりもストーリー展開が深い。
 これから観る方にはディレクターズ・カット版をお勧めします。

 また、リドリー・スコット監督は代表作グラディエーターに象徴されるように、歴史巨編製作の第一人者であり、全体として本作においても映像美を極めた映画を完成させている。
 特に、バリアンの故郷のシーン。森の深遠な青緑がかった美しさは忘れられない。

 見て損はしない映画の一つ。

 あと、エドワード・ノートンが出演しているが、本人の希望により、クレジットには名前がない。公式プロモーションにも名前を出していないようだ。



【映画データ】
2005年・アメリカ
監督 リドリー・スコット
出演 オーランド・ブルーム,リ―アム・ニーソン,ジェレミー・アイアンズ



キングダム・オブ・ヘブン

↑エルサレム,岩のドーム.ムスリムの聖地,7世紀末に完成.


映画:キングダム・オブ・ヘブン ディレクターズ・カット版 解説とレビュー
※以下、ネタバレあり

★全体の印象

 なじみのない歴史背景を扱う作品だからでしょうか、キングダム・オブ・ヘブンの日本での興行成績は残念なものに終わり、評価も芳しくありませんでした。

 しかし、アメリカサイドの製作としては、イスラム教徒側のステレオタイプ的描写も少ないし、十字軍が正義の体現者であるかのような扱いもありません。
 割と両者対等に描かれており、善対悪の二元論に終わっていない点でも見る価値のある作品だと思います。
 
 ボードワン4世を初めとするキリスト教徒側の陣営の内紛や人物、イスラム教徒側について、もう少し、陣営内部を描いても良かった気はしますが、焦点はあくまでキリスト陣営側にあるだろうから省いたのでしょう。

 少なくとも、サラディンについてはそれなりに描写があって、戦闘シーンの実写とCGの融合は言わずもがな、人間ドラマとしても見応えがあります。

キングダム・オブ・ヘブン
↑サラディンを描いたもの。後世にいたるまでの名声を博した。


 それでは、以下キングダム・オブ・ヘブンのストーリーの詳細について多少引っかかるかな、と思う点がありましたので、書いていきます。

★なぜ、バリアンはシビラと結婚して王位継承者となり、ボードワン4 世を継ごうとしなかったのか。

 ここは、作品の面白さを決める大きな分岐点になると思いました。

 ここで、結婚してギ―らを抑え込めば、エルサレムの平和は継続して、イスラム軍とも戦闘をしなくてもよかったのではとも思えます。
 
 そう解釈するとバリアンはただの融通の利かない頑固者ということになり、その後の戦闘はバリアンのせいではないか!?

 こうなると、多数の犠牲者を出したエルサレム籠城戦は映画のラストを演出する単なるご都合主義だ、ということになってしまいますね。となるとなんて脚本なんだ!ということでキングダム・オブ・ヘブンは駄作決定。 

 確かに、ストーリー展開上、ここで結婚してしまったら話が終わるということもありますが、それはさておき…。
 ここは結婚してしまえ!といった感想がありがちな箇所でもあるので、一つの見解を示して見ましょう。

 それは、キングダム・オブ・ヘブン、すなわち天の王国と呼ばれるエルサレムに対する価値観の違いであるとの説です。

キングダム・オブ・ヘブン
↑第一回十字軍のエルサレム攻撃の様子。中世の写本。

 
 主人公はもとは村の鍛冶屋です。なぜ、エルサレムに来たのか。それは@妻子を亡くした絶望とA父親が騎士であったこと、それにB父がエルサレムに息子を誘ったからです。

 つまりは、主人公は狂信的なキリスト教徒ではないし、エルサレムに対する思い入れがそれほど深くはない。父祖の代から血を流し、戦闘を繰り返しながらエルサレムを文字通り死守してきたシビラやボードワン4世とは違う。                 

 もとはと言えば、イスラム教徒の住んでいたエルサレムを無理に支配下に置き続けようとすれば、いずれはイスラム教徒の対決は避けられず、同胞であるキリスト教徒をも粛清しなくてはならなくなる。

 そうであるならば、いっそ、イスラム教徒の手にエルサレムを返すべきではないかと考えたというのです。

 これはこれで一理ありますね。

 十字軍に参加すべくはるばる欧州から馳せ参じた騎士たちは、正確に言うと、エルサレム現地のキリスト教徒とは一線を画しています。

 これは劇中にも描かれていますが、王の軍事顧問であるティベリアスと対立しているのは主に欧州から馳せ参じた騎士たちで、彼らのことを狭義の意味で十字軍と言います。

 彼らは、エルサレムを守るためにわざわざやってくるほどですから、血気盛んで、隙あらばイスラム教徒と一戦交えようと非常に好戦的です。

キングダム・オブ・ヘブン
↑第二回十字軍。一番戦果がなかったと言われる。バリアンたちの戦ったエルサレム陥落をきっかけに、次の第三回十字軍が結集した。
 

 しかし、エルサレム居住の騎士たちは長い戦いを経てきているので、現実的。イスラム教徒の軍隊と比べて、自軍が人数で劣ることを自覚して、融和的態度でイスラム教徒に臨むべきと考えています。

 よって、単純に言ってしまうと、ボードワン4世宮廷内の過激派とは、欧州からの参戦組を中心にする一派ということになります。

 ここで、主人公バリアンは欧州からの参戦組ではありますが、もとはといえば、フランスの村人であったわけで、戦争をしに来たわけではありません。
 また、父はボードワン4世の側近であった様子からすると、立場的には宮廷内の穏健派に近いことになるでしょう。

 そして、主人公の考え方は父の遺志をついで、エルサレムの調和を目指すところにあるわけです。となれば、エルサレムの地をキリスト教徒のものとして死守することにシビラほどの思い入れはないと考えても十分に納得できます。

 そうはいっても、バリアンとて、はるばるエルサレムに来て、自分の領地を持ち、苦労して開墾や灌漑をし、愛する人もいる地です。全く思い入れがなかったわけではないでしょう。

 そこで、バリアンの人柄が王位継承を断る決断に関係してきます。

キングダム・オブ・ヘブン


★バリアンの人柄

 バリアンは自分の正義に忠実な人でした。

 バリアンがギーら自軍の過激派を粛清したくないという自分の正義を貫いて結婚の話を断ったことは映画から最も簡単に分かります。もっとも一般的な解釈ですが、この一見もっとも単純な点に真義があると考えます。

 すなわち、ここで、バリアンが一時的に信念を曲げて国王になったとしても、ギ―らの粛清の後、サラディンとの危うい平和状態を保つことになります。

 しかし、第二、第三のギ―が現れることは避けがたく、サラディンも好戦的な勢力を抱えて、バリアンらキリスト教徒側と事情は同じ、いずれはイスラム教徒との開戦は避けられない…結局は同じ流血の事態が繰り返される歴史となるのです。
 
 もちろん映画中ではっきりと、イスラム教徒の手にエルサレムを返してしまえなどとは言っていませんが、少なくとも同じような歴史を積み重ねて血を流すことの愚かさを述べたかったのではないかと考えました。

キングダム・オブ・ヘブン
↑第三回十字軍

 
★じゃあ、最後の籠城戦はせずに降伏したらよかったのに?

 バリアンがイスラム教徒の聖地支配を半ば容認していたとすると、負けると分かっている映画のクライマックス、エルサレム籠城戦は避けられたのではないかとも思えます。

 これは一番痛いところですが、
1, ギ―が実権を握った後、イスラム教徒との戦闘が繰り返され、大敗北により多数の死者が出ていて、感情的に戦争をしないわけにはいかない空気が圧倒的になっていたことや、

2, 圧倒的に不利な今の地位ではエルサレム明渡し交渉を優位に進められず、民衆の安全確保の条件を取り付けるために必要な戦闘であった

との解釈がとれるでしょう。

 この籠城戦によって、少なくともこう着状態に陥らせ、不利な地位を回復したところがミソでしょう。

サラディンが名将であるならば、それでも交渉可能でったのでは?とも反論できますが、圧倒的に不利な地位の場合、
1, 交渉で得られる果実は少ないこと、及び、

2, イスラム教徒側にも過激派がいて、サラディンとしてもそれらの者の主張に配慮しなくてはならないことを考えると、

やはり、圧倒的不利な地位のままでの交渉は無益と判断したことに合理性はあります。

 まとめると
1, バリアンのエルサレムへの思い入れのボードワン4世・シビラとの違い
2, バリアンの信念、

以上の理由で一時凌ぎでギ―らを粛清して国王となることをバリアンは断ったのであると考えられます。

キングダム・オブ・ヘブン
↑エルサレム,嘆きの壁.ユダヤ教徒の聖地.


★バリアンにとっての天の王国(キングダム・オブ・ヘブン:KINGDOM OF HEAVEN)とは…?

 同じ歴史を重ねて愚かな戦いを続けることを拒み、国王になることを断ったバリアン。敗戦後は王族であることを捨てたシビラと共に祖国フランスの村に帰って来ました。

 そこに訪ねてくるエルサレムに向かうという従者を引き連れた騎士。エルサレムで戦った勇者を訪ねてきたというその騎士にバリアンは自分がそうだと名乗ることはありません。
 
 バリアンにとっては言うまでもなく村での堅実で平和な生活が幸福であり、国王の権力や宮殿の生活は幸福に値しません。

 騎士に対して口を閉ざすのは、エルサレム籠城戦が決して褒められるべきことではないこと…その裏にある数え切れないほどの犠牲者たち…を考えてのことであり、騎士の登場に暗示されるように、これからも続くであろう闘いと流血の歴史の重みを感じるからなのでしょう。
 
 ここで、バリアンがキリスト教徒の支配下にエルサレムを置くべきとの考えの持ち主でなく、自己の信念を貫いた人であったことが確実になります。

 仮にイスラム教徒の手からエルサレムを奪還すべしとの考えの持ち主であるならば、騎士に自分がそうだと名乗ったでしょうし、これから十字軍としてエルサレムに向かう者に激励の言葉一つもかけたに違いありません。
 
 そうしなかったのはあくまでもバリアンが自己の信念であるエルサレムの調和を願って、先のエルサレムでの戦争を戦ったことの表れなのです。

キングダム・オブ・ヘブン


★訪ねて来た騎士は何者?

 これはエルサレム奪還に向かうリチャード1世(獅子心王)でしょう。

 第3回十字軍によるイスラム軍との戦争が再び始まることをこの騎士の登場によって示していると考えられます。

 そして、究極的には現在にいたるまで続く争いに次ぐ争いの流血の歴史が続いていくことも…。

キングダム・オブ・ヘブン
↑リチャード獅子心王。ほとんど自分の国にいなかったが、自国での評判は高かった。しばしばイスラム教徒に対しては残酷な振舞いをしたといわれる。


★オーランド・ブルームとバリアン

 バリアンも実在する人物ですが、キングダム・オブ・ヘブンでは相当脚色されていると考えていいでしょう。

 実際にはギ―がサラディンと戦って散々な負け戦の末、ギ―自身がイスラム側の捕虜になった戦闘にも参加していました。

 そして、その際に脱出に成功し、サラディンからは戦闘に参加しないことを条件にエルサレムへの帰還が許され、戻ってくるが、結局エルサレム籠城戦の戦略・防衛線の構築に尽力したというのが史実です。

 映画中のバリアンは理想主義を絵にかいたような人物でリアリティがないなぁと思ってしまうのですが、平和と共存を望んだ人物としてメッセージを観客に伝えるために極限的にピュアな人物像にされていたと考えればいいでしょう。
 
 オーランド・ブルームはちょっと顔が美しすぎますね。これで鍛冶屋と言われても…由緒正しき御子息と言われた方がしっくりする…まあ、実際には騎士の息子だったわけですが。

キングダム・オブ・ヘブン
↑聖ゲオルギウス,第三回十字軍の守護聖人


 生きることの長さや重みが出ていない、この、ある意味無個性的な美しさというのは今回のバリアンの役柄に合っているのかもしれません。バリアンは現実に妥協してしまいそうな人間臭さのある雰囲気の俳優ではだめなのかもしれない。

 ちょっと現実離れ感が強すぎて、浮足立っている部分があるとも思います。
 しかし、この映画が題材とする、聖地を巡る絶え間ない争い、救いのない歴史的背景において、バリアンのファンタジスティックな存在は、唯一の支持すべき大義の体現者です。

 ならば、血なまぐさい歴史的背景とのバランス上、それくらいの非現実感があってもいいのかもしれないですね。

キングダム・オブ・ヘブン


【映画データ】
2005年 アメリカ
監督 リドリー・スコット
出演 オーランド・ブルーム、エヴァ・グリーン、リーアム・ニーソン
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ゲーム

映画:ゲーム あらすじ
※レビュー部分はネタバレあり

 マイケル・ダグラスが金持ちだが、毎日がつまらない会社社長を演じている。脇を固めるのはショーン・ペン。

 ゲームが始まる。

 会社経営者として莫大な富を手にしている男。仕事以外に楽しみはなく、家族とも疎遠ではないものの、当たり障りのない会話くらいしかできず、大きな屋敷に一人暮らしの孤独な生活。そんな毎日につまらなさを感じてもいた。

 ある日、弟から誕生日のプレゼントとしてCRS社の会員証を受け取ることに。その後、ふと見つけたCRS社のオフィスに足を運ぶと試しにゲームに参加するように誘われる。
 
 軽い気持ちで了承し、ゲームに参加することになるが、周りで次々と不思議な事件が起きるようになる…。

 ゲームの正体とは何か。何を狙っているのか。ゲームの出口に待ち受けるものとは…。

 スリラーの常識をひっくり返す、衝撃の結末。ゲームの仕掛け人に何度騙されたか数えてください。



【映画データ】
ゲーム
1997年・アメリカ
監督 デヴィッド・フィンチャー
出演 マイケル・ダグラス、ショーン・ペン



ゲーム


映画:ゲーム 解説とレビュー
※以下、ネタバレあり

★ゲームのラストはいかがでしょうか?

 まあ、まあ、という結末でしょうか。本当にあれでゲームは終わり?ハッピーエンドでいいのかしら?続編が作れそうですね…まあ、興行的にコケたのでそれはないでしょうが。

 車中で、銀行のIDやパスワードを電話で弁護士に全部喋ってますが、隣の女性が全部聞いてますよ…もう一度銀行口座の確認を…。

 なんせ、監督はあのフィンチャー監督ですから信用はできません…。

 深読みしなければ、ハッピー・エンドでしょうね。あの女性と幸せに暮らす、と。

 深読みすれば、彼女はCRS社員というだけでなく、本物の詐欺師で、電話で聞いたID等を使って本当に口座から金を引き出しているかもしれません。

ゲーム


★CRS社とゲームの目的

 このゲーム自体の目的は彼に今の生活…金はあるが、孤独で寂しい、そして父親の飛び降り自殺のトラウマから逃れない今の状態からの脱却をさせることにあります。

 だからこそ、彼は父親の形見の時計を売り払うし、最後にはビルから飛び降りるのです。そして、新しい自分を獲得することに成功しました。

 逆にいえば、よほど思い切ったことをしない限り、今の自分は容易に変えられないということなんでしょうね。

 最後に弟はゲームの領収書を受け取っているので、これでゲームはおしまい。後はゲームで出会った女性と幸せに暮らすというハッピー・エンド。という解釈は素直でよろしい。

 CRS社には悪意はないと見るべきでしょうね…なんせキリストCHRISTの略ですしね。


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コーヒー&シガレッツ

映画:コーヒー&シガレッツ あらすじ
※レビュー部分はネタバレあり

 ジム・ジャームッシュ監督作品、コーヒー&シガレッツ。

 いかにもありそうな微妙な会話が少人数で繰り返される短編集。コーヒー&シガレッツというタイトルをきくとあまり飲まないコーヒーが飲みたくなる。
 禁煙中の人はご注意あれ。

コーヒー&シガレッツ


 主にカフェを舞台に織りなされる10分程度のドラマのなかで、会話の機微から浮かび上がる人間関係・感情の交錯。観客は誰もがカフェの隣席にいる客になる。

 全11編から構成され、登場人物は1人か2・3人。

 一つの短編中に場所が移動することはなく、常に一つのテーブルをベースにコーヒー(たまに紅茶)及びシガレットが小道具となる。タバコも常に吸われるわけではなく登場人物が吸わない者であったり、禁煙中であったり。            

 総勢24人の登場人物がいるが、なかでもケイト・ブランシェットの演技にご注目。中盤の短編に登場する。

 第三話のイギ―・ポップとトム・ウェイツ(ともにミュージシャン)の組み合わせで取られた「カリフォルニアのどこかで」はカンヌで最高の栄誉を受けている。また、最後の小話をどう解釈するであろうか。 

 最初の小話「変な出会い」が英語を母国語にしない者には少々わかりにくい。登場人物の一方がひどいイタリア訛りの英語でほとんど英語を聞いて理解できていないことが前提だからだ。この設定が分かっていないと何が可笑しいのか分かりにくい。



【映画データ】
2003年 アメリカ

カンヌ国際映画祭短編部門パルム・ドール賞(第三話)

監督 ジム・ジャームッシュ
出演 ケイト・ブランシェット、ビル・マーレイ、スティーブ・ブシェミ他



コーヒー&シガレッツ


映画:コーヒー&シガレッツ 解説とレビュー
※以下、ネタバレあり

★全体について

 全編を通した明確なストーリーはありません。会話の内容にリンクがないわけではないが、基本的には独立した短編集といった趣で、オムニバスとは言えないかもしれません。
 
 モノクロ映像がまた素敵。

 コーヒーの黒、カップ&ソーサーの白の対比と、テーブルの碁盤の目の白黒の模様。カップの円形と碁盤の目の四角形が、円と四角のアクセントをつけて画面を引き立てます。 

 この映画がすごいのは、出演者たちのさりげないしぐさや何気ない会話で成立していること。特に盛り上げどころがあるわけではないのに、飽きずにぼーっと見ていられるのが自分でも不思議な感覚。
 
 たぶん、こんなことあるなあ、という会話やその場の空気を自分の心にひしひしと感じるから。気まずい場面では、本当に自分も逃げ出したい気分になります。

コーヒー&シガレッツ

↑カフェでの一風景。左足がボードの上に。


★ケイト・ブランシェット

 ケイト・ブランシェットは一人二役でその演技の幅を見せてくれます。洗練された成功した女性とはすっぱで自由奔放な女の子。

 対照的な彼女たちの相手に対する気遣いや遠慮、妬みや卑屈な感情が見事に表現されています。
 気を使ったつもりが、実は、相手に余計に負担となっていたり、嫉妬の原因だったり…。

 最初は二役に気がつきませんでした。

コーヒー&シガレッツ


★ラスト
 
 ラストシーンで2人の老人の一人は眠っているのか、それともまさか亡くなった?
 「休憩時間が終わったら起こしてくれ」と眠っている老人が言っているところ、休憩時間の残り時間はちょうどこの映画が終わる時間にほぼ一致する。なので、この映画が終わるころには起きるのでしょうか。
              
 いま、ニューヨークではカフェやレストランでは、一般的にタバコが吸えないことは周知の通りなので、その意味ではカフェですぱすぱタバコをふかす映画の雰囲気は懐かしさを感じるのかもしれません。
 
 日曜の午後にのんびりとみたい作品。

コーヒー&シガレッツ
↑コーヒーバー。昼はコーヒー,夜はお酒を楽しむ。



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ガタカ

映画:ガタカ あらすじ
※レビュー部分はネタバレあり

 ガタカが描くのは近未来の世界。ここではすべての人間が「適正者」と「不適正者」に分類される。

 主人公のヴィンセントにはイーサン・ホーク。不適正者と判定されたが故の葛藤を繊細に演じ切っている。ジェロームにはジュード・ロウ。

 解説とレビューではヴィンセント・フリーマンとジェローム・ユージーン・モローの心の軌跡を、そして、なぜジェローム・ユージーン・モローがあの結末を選んだのかまで明かしていきます。
 彼があの方法でラストを迎えたことにも理由があるのです。

 ガタカの世界。
 ここでは人間は生まれたときに、寿命・将来かかる病気についてまで遺伝子分析により解析される。

 そこで、遺伝子検査をし、劣勢遺伝子を排除して「適正者」の赤ちゃんを人工的に生み出す方法が一般化していた。  

ガタカ


 主人公ヴィンセント・フリーマンは「不適正者」である。寿命は30年と言われていた。彼の幼いころからの夢は宇宙飛行士となって宇宙に行くことである。
 しかし、不適正者にはそのチャンスは皆無であった。

 ある日、ヴィンセントは、適正者のサンプルを用いて就職時の検査をごまかして、適正者として働く道があることを知り、ブローカーに接触する。

 赴いた先には車いすの青年ジェローム・ユージーン・モローがいた。彼は世界トップクラスの水泳選手でありながら自殺未遂により下半身不随になってしまったのだ。そこで、自分のサンプルを提供するかわりに、自分の生活を保障してほしいというのであった。

ガタカ


 ガタカは実に見応えのある映画だ。特に、ラストシーン、将来を約束されていたジェロームが失ったと感じている自分の将来と遺伝子を提供しているヴィンセントに対する心情には心に迫るものがある。

 ヴィンセントとジェロームの信頼と友情もガタカのテーマになっているといえるだろう。



【映画データ】
1997年 アメリカ
監督 アンドリュー・ニコル
出演 イーサン・ホーク、ジュード・ロウ、ユマ・サーマン



映画:ガタカ 解説とレビュー
※以下、ネタバレあり

 ガタカという映画に込められるのは人間の可能性への賛歌。

 身分の決められた階層社会で、遺伝子分析だけでは単純に分類出来ない人間の可能性を描いています。 

★ヴィンセント・フリーマン

 ヴィンセントは「不適正者」。それでも「適正者」の弟アントンに海で遠泳の勝負を挑み、勝利するヴィンセント。2回目の挑戦もやはり彼の勝利でした。
 ガタカ宇宙局にジェロームとして入り、念願のタイタン探査船乗組員に選抜されます。そして、打上げ。彼は宇宙飛行士としてタイタンへ飛び立って行きました。

 彼が示すのは人間にある可能性の存在です。
 それでも、多くの「不適正者」は「適正者」と競争なんてしません。

 赤ん坊から成長し、社会に出た人間は年を取るほど、自分にはめた既成の枠を超えた行動を取らなくなります。
 社会生活のなかで、他者と自分とを比較し、観察するうちに、自分の能力や性格、もしかしたら可能性までも、こうだ、と自分で自分に決めつけてしまうからです。

 前述の海での遠泳競争の場面でいえば、客観的に弟の適正者としての力と自分の不適正者としての力を頭の中で比べて結果を客観的に予測してしまいます。
 つまりは、やる前から負けるのが分かっている、と思うからです。

ガタカ
 

 それに、競争して勝ったところで、何か得るところがあるでしょうか。
 不適正者の就ける職種、できる生活は限られています。たとえ勝負に勝ったところで、適正者でない以上、適正者と同じスタートラインにすら立てません。

 こうして、自分ができることを制限していきます。やる前からあきらめが先に立ち、ああなるかもしれない、こうなるかもしれない、とやった後のことを考え過ぎてしまいます。

 そして、多数のオプションを頭に思い浮かべて最後に思うのです。
 失敗したら、それまでの努力が無駄じゃないか、と。
 そんな努力を徒労に終わらせるくらいなら、やらないでおこう、と。

 そして、いつしか、挑戦する、ということに憶病になっていきます。

 ヴィンセントは不適正者で、心臓が弱く、寿命は30年。
 彼には弟との水泳競争も、宇宙飛行士への夢も、挑戦する前にあきらめる要素はたくさんありました。

 そして、仮に、それらの挑戦をあきらめたとしても、誰も彼を責めないでしょう。彼は不適正者なのだから仕方ない。不適正者に生まれたのは父と母の過ちのせいなのだから。
 誰もヴィンセントを非難しないでしょう。

 それに心臓の弱さがあります。適正者と同じ運動やトレーニングをしたら心臓は持たないかもしれない。寿命より早く死んでしまうかもしれない。

 無理をして不適正者が死んだとしても、社会は冷たい反応をするでしょう。不適正者のくせに、無理なことをするからだ、なんて愚かなやつだ、たださえ短い寿命を縮める真似をするなんて、と。

ガタカ


 それでも、彼には夢がありました。
 幼いころから憧れてきた、宇宙飛行士になって宇宙へ行くという夢。

 ものごころがついて、自分が「不適正者」だと分かってもあきらめなかった粘り強さ。そして、ただ夢見るだけではなく、それを実行する行動力。

 加えて、自分より優れた適正者に卑屈になることなく挑む挑戦心。

 ヴィンセントには夢とそれを追いかけるバイタリティがありました。その力は彼の運命を変え、「不適正者」の壁を超えさせたのです。


ガタカ


★ジェローム・ユージーン・モロー

 一流水泳選手として適正者の中でもトップクラスの能力を持つジェローム。それでも自殺未遂を起こし、自ら下半身不随になってしまった彼。

 ジェロームはヴィンセントに自分の夢を見ていました。

 ジェロームは「適正者」で、そのなかでもトップクラスの遺伝子を持つ人間です。しかし、自分の能力を持て余した末に下半身不随の今の生活。

 彼は少なからず、今の自分に劣等感や失望感を覚えていたに違いありません。

 そこにやってきたヴィンセントという青年。ほぼ同年代のこの青年は「不適格者」。それでも、夢を語り、その夢のために適正者と偽ってまで、宇宙飛行士になる夢を果たしたいといいます。

ガタカ


 宇宙飛行士になるという夢はヴィンセントの夢です。しかし、彼が夢のために挑戦する姿はジェロームに何かをもたらしたはずです。

 ジェロームも下半身不随となった今、不適正者の彼と同じ立場にあります。もはや「適正者」としての仕事に就くことはかなわないどころか、車いすが手放せない不自由な生活。彼の自分に対するいらだちは随所で表現されています。

 ジェロームは自分の人生を失敗したものと感じていました。でもヴィンセントなら自分に代わって人生をやり直してくれるかもしれない、ジェロームはそう確信するようになっていたのです。

 ヴィンセントと暮らした長い年月。最後に、ジェロームはヴィンセントの体を借りて宇宙飛行士の夢を見、宇宙にいく夢を実現したのです。

 もう、彼に思い残すことはありませんでした。ヴィンセントなら、これからもジェロームとして彼の理想の人生を歩んでくれるでしょう。

 ヴィンセントが完全にジェロームとして生きていけるように、冷蔵庫に大量のサンプルをストックしました。そして、彼は死を選んだのです。

 このときも、ジェロームは考えます。死体が残ってはヴィンセントの正体がバレる、と。それで、死体が残らないよう、残ったとしても、身元調査が難しくなるように焼却炉に入って、焼身自殺をしたのでした。

 本当にヴィンセントのことを大事な友人と思っていたことが分かる、切ないラストです。

ガタカ


★挑戦する心

 知らず知らずのうちに自分の中に限界を決め、壁を作ってしまうことがあります。いつしか、そこにあるのが当たり前になってしまった超えられない壁。

 でも、その壁は以外に簡単に壊すことができます。なぜなら、そこに壁を作ったのは限界を決めた自分自身だからです。

 そこに壁がある理由を他人のせいにすることもできるでしょう。自分の育った環境や、周囲の人間。ああだったら、こうだったら、と何かと条件を付けてしまうこともできます。

 しかし、自分に挑戦しなければ、努力する気概も生まれません。
 自分の夢を実現するために、挑戦し続けたヴィンセントに学ぶものは多かったと思います。


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グリーンゾーン

映画:グリーンゾーン
※レビュー部分はネタバレあり

イラクに大量破壊兵器は存在するのか?マット・デイモン演じるアメリカ軍兵士が正義を求めて危険な真相に近づいていく。アメリカ政府の情報操作、そしてそれを煽ったメディアの責任を問う、社会派アクション大作。

 大量破壊兵器(MAD)の情報操作、そして、それに加担したメディア。グリーンゾーンのストーリーは、いずれもイラク戦争を巡って現実に起きた事件や事実を下敷きにしている。社会派映画としてのみではなく、真実を求めて奮闘するロイ・ミラー上級准尉を主人公に据えた、スリル満点のストーリー展開も魅力。

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イラク・フセイン政権が崩壊し、アメリカ軍がバグダッドに進駐してから数週間後。アメリカ陸軍に所属するロイ・ミラー上級准尉は部隊を率いて大量破壊兵器(WMD)の捜索にあたる任務についていた。部隊長が集まるブリーフィングで手渡される情報を元に、現地に向かって捜索を行うのだが、そのたびに、空振りに終わってしまう。しかも、狙撃されたり、銃撃を受けたりすることがたびたびであった。

ロイは情報源に対する不信感を募らせていた。この情報は正しいのか?そんなある日、CIAのマーティンがロイに接触してきた。ロイはマーティンに協力して、「WMDの真実」を探ることを決意する。



【映画データ】
グリーンゾーン
2010年・アメリカ
監督 ポール・グリングラス
出演 マット・デイモン,エイミー・ライアン,グレッグ・キニア,ブレンダン・グリーソン



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映画:グリーンゾーン 解説とレビュー
※以下、ネタバレあり

★大量破壊兵器(WMD)はあったのか?

 イラク戦争の開始に当たって、ブッシュ大統領はイラク・フセイン政権が大量破壊兵器を隠し持っているという理由を挙げました。これはイラク・フセイン政権の脅威を示すものとして大々的に報道され、アメリカ国民のイラク戦争開戦支持派を勢いづけます。

イラク戦争は開戦前、国民から80%を超える高い支持を集めました。しかし、フセイン政権崩壊後、アメリカ軍の捜索によっても、大量破壊兵器は発見できませんでした。現在では、大量破壊兵器、生物化学兵器、核兵器はイラクには存在しなかったという結論で固まっています。

 そうなると、開戦理由が嘘だったことになります。一体、どんな情報に基づいて、WMDの存在が確認されていたのか。

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★捨てられた大量破壊兵器(WMD)否定情報

 WMDが一向に発見されず、WMDが存在しなかったのではないかという見方が有力になってきたころ、ある事実が明らかにされました。

 それは、イラクに大量破壊兵器は存在しないという報告がイギリス政府情報機関やアメリカ政府の調査団によってなされていたという問題です。しかし、この報告は明らかされる前に政権内部で握りつぶされていたという疑惑が明らかになりました。

 結果、WMDの存在を確認する情報のみがイラク戦争開戦の是非を検討するときに提供されていた可能性が出てきたのです。開戦前に、WMDの存在を否定する文書が存在したという疑惑はアメリカのメディアで大きく報道され、一大問題に発展しました。

 なぜ、WMDの存在を否定する報告書が握りつぶされたのでしょうか?答えは簡単、ブッシュ政権において、イラク戦争は既に開戦ありきが既定路線だったからです。とりわけ、国防総省のドナルド・ラムズフェルド国防長官は熱心なイラク戦争開戦論者でした。ブッシュ政権の中でも、イラク戦争を一貫して支持してきた政権内の大物政治家です。当時の国防総省内はイラク戦争の開戦を否定することは許されない雰囲気だったことでしょう。

 その結果、イラク戦争の開戦につながる情報は重要視されますが、WMDが存在しないというような政策の見直しにつながる情報は疎んじられます。イラク戦争開戦の方針に反する報告書は国防総省の開戦支持派にとって、邪魔者でしかありません。結果、情報の"取捨選択"が行われ、WMDの存否について十分な検討がされないまま、イラク戦争の開戦が決定されたのです。

 「グリーンゾーン」では、国防総省のパウンドストーンがWMDの存在を否定する情報を掴んでいたにもかかわらず、WMDが存在するという虚偽の報告を行ったという展開になっています。パウンドストーンが個人的野心から情報を捏造したということになっているわけですが、現実のWMD情報の握りつぶしにはイラク戦争の開戦を支持する側から組織的な圧力が働いていました。

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パウンドストーンとロイ。


★パウンドストーンとアル・ラーウィ―イラク戦争前の交渉―

 本来、中立的な立場で情報を分析すべき官僚はいとも簡単に国防総省内の空気に流されてしまいました。彼らは保身を優先しました。クビになりたくなければ、長いものに巻かれろ、というわけです。

 また、パウンドストーンは情報を隠すけではなく、情報を捏造しました。パウンドストーンが情報を捏造した理由に彼の野心、出世欲があったのは事実です。省内で重用されたいパウンドストーンとしては、WMDが存在するという情報がどうしても必要でした。

 イラク戦争前、パウンドストーンはアル・ラーウィイラク軍総長に面会します。パウンドストーンはこのときの報告書にアル・ラーウィが「WMDの存在を明言した」との真実とは真逆の事実を記載しました。

 パウンドストーンがラーウィと会ったのはWMDの存在の明言を期待してのものだったのか、それとも、ラーウィとの面会を情報捏造のきっかけにするつもりだったのか、定かではありません。

 しかし、当時の状況として、アメリカ政府高官にイラク軍の高官がWMDもしくはWMD計画の存在を明言すれば、イラク戦争開戦のかっこうの口実を与えることになるでしょう。従って、アル・ラーウィがパウンドストーンにWMDの存在を公言することは期待薄だったはずです。

 パウンドストーンとしては、アル・ラーウィがWMDについて存在を否定しようが、なんと言おうが、「WMDは存在する」という情報を流すつもりでした。パウンドストーンはアル・ラーウィと面談したという事実がWMDが存在する可能性が高いという自らの報告の信ぴょう性を押し上げるものであることが分かっていたのです。

 また、パウンドストーンはアル・ラーウィに面会した際、イラク戦争が開戦に至り、アメリカ軍が占領した後、イラク軍を温存し、占領政策に当たって協力してもらうことになる、と約束をした可能性があります。アル・ラーウィはパウンドストーンの約束を信頼し、アメリカ軍占領当局の接触を待っていました。結局、その約束は果たされないわけですが。

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マーティン・ブラウンと話すロイ・ミラー。


★実在した"アル・ラーウィ"―生かされなかったWMD情報―

 イラク戦争が始まったのは2003年3月19日ですが、その前の2003年始めにフセイン政権の高官がイギリスの情報機関MI6に対して、大量破壊兵器が存在しないことを証言していました。

 証言を行ったのはタヒル・ジャリル・ハブシュという情報機関の長官で、1991年に核開発計画を断念し、1996年には生物兵器開発計画を断念したことを伝え、さらに、イラクと対立関係にある対イラン政策としてそうした大量破壊兵器を保有しているという印象を保持しようとしているだけだと説明していました。

 MI6の長官は直接ワシントンに飛び、CIAのテネット長官にこの情報を報告、さらにテネットはライス国家安全保障担当補佐官に報告しました。

 また、別ルートでも、WMDの存在を否定する情報が伝わってきていました。イラク外相のナジ・サブリやCIAが核兵器開発計画の中心的人物と認定した技師らがイラクに大量破壊兵器を開発する計画はないことを証言していたのです。

 しかし、これらの情報は全て破棄されるか、無視されました。イラク開戦約5か月前の2002年10月に行われた国家情報評価(NIE)ではこれらの情報には全く触れられていません。NIEに関わったある専門家は「イラク戦争を始めることが想定されていた。だからNIEもそれを念頭に作成されなければならなかった」と、恣意的な情報選択がなされていたことを認めています。

 「グリーン・ゾーン」でアル・ラーウィがパウンドストーンに伝えたはずの情報がアメリカ側へ伝えられていなかったように、現実にも、イラク戦争の大義を脅かす情報は遮蔽され、一般国民には全く伝わりませんでした。取捨選択された情報により、イラクの脅威はいよいよ強調され、世論は開戦へと傾いていったのです。

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↑IED(即席爆破装置)に対応する訓練を終え、イラク軍兵士に今日の訓練のフィードバックをしているアメリカ兵。2008年7月2日撮影。アメリカ空軍撮影。

★政府に敗北したメディア

 イラク戦争の開戦理由としてあげられた大量破壊兵器の存在。これについて、開戦前、大々的に報道を繰り返したのはアメリカのメディアでした。匿名の「米政府高官の話」が連日のように紙面に登場し、イラクが脅威となる兵器を隠し持っているかのように報道されていたものです。

 アメリカのメディアが報じた情報は各国メディアが取り上げ、さらに"イラクの脅威"は人々の心の中で増幅されていきました。

 ところが、状況は一変しました。いつまでたっても、肝心のWMDの現物が発見されません。イラク戦争前の報道は政府に対するメディアの敗北におわったともいえます。

 WMDの情報の信ぴょう性について疑いの声を挙げるロイに対して、上官たちはそっけない対応をしています。ロイの上司である大佐は「ワシントンはCNNを気にしてる」と言い、アメリカ政府がニュース報道に敏感になっていることを示唆しています。

 政府としては、国民に大きな影響を与えるメディアを利用したいとの思いと、メディアに掘り返されたくない問題を隠しておきたいという思いがあります。メディアとしては、政府から情報を得つつ、政府が伏せている情報を得て、いち早く報道したいという思いがあります。

 メディアが連日報道するWMDの存否はイラク戦争の根幹に関わる重大な政治問題でした。しかし、その報道の大勢は、イラクにWMDが存在するという報道一辺倒でした。ブッシュ政権の主張する通りの報道がなされていたわけです。WMDが存在するという根拠はすべて、政府発表や、匿名の「政府高官から」の情報提供によるものでした。

 しかし、本来、政府とメディアには緊張関係があってしかるべきです。

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↑パウンドストーンに"マゼラン"の情報を聞き出そうとするローリー。


★政府に利用されたメディア

 イラク戦争前、政府はメディアをうまく利用することに成功しました。メディアは"ブッシュ政府高官によると…"という匿名の情報提供に踊らされ、その報道を見た国民はイラクに大量破壊兵器が隠されていると思い込み、イラク戦争開戦支持派は見事、国民の多数派となります。

 メディアは見事に政府の広報機関と化してしまったのです。

「グリーンゾーン」ではウォールストリート・ジャーナル紙のローリー記者が登場します。彼女は毎日のように、パウンドストーンに付きまとい、政府高官が多数出入りするサダム宮殿に足しげく出入りして情報をかき集めています。

 パウンドストーンはローリーに対して""マゼラン""についての独占取材を許していました。もちろん、非公式にですが、情報を漏らすときにはローリーにだけ、話すという特権を彼女に与えたのです。

 さて、こういう場合、ローリーはどうすべきだったでしょうか。パウンドストーンはアメリカ政府の高官ですし、そのような立場の人間から情報を取れることなどめったない機会です。しかも、パウンドストーンは独占的な情報提供をしてくれる、という。

 熱心に取材していても、他社を出し抜くような情報が入ることはまれです。ウォールストリート・ジャーナル紙にとっても、ローリーにとっても、これは特ダネ中の特ダネだという結論に達したのは想像に難くありません。

 メディアは情報をとにかく早く、他社より優れた情報を報道したいと思うものです。これにつけ込まれたのが記者のローリーでした。ロイに"マゼラン"の情報源に付いて問い詰められたローリーは返答に窮しています。彼女は"マゼラン"に会ったことはなく、"マゼラン"の提供したWMDの情報に基づいた現地取材もしていません。

 「誰の差し金で嘘の記事を書いた?情報の確認はしたのか?」と追及するロイに対し、「政府高官から手渡された情報だから…」。彼女は情報の裏付けを取ることはしていませんでした。国防総省の高級官僚のパウンドストーンが情報源であるというそれのみで、流された情報に基づいて"マゼラン"の記事を書いていたのです。

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↑イラク・アルブ・サワット周辺で金属探知機を使って岩を調べるアメリカ軍兵士。IED(即席爆破装置)などのトラップが仕掛けられていないか調べている。2009年4月3日撮影。アメリカ軍・軍事情報センター提供。

★実在した"ローリー"―NYタイムズ紙・ジュディス・ミラー記者―

 ローリーのモデルとなった記者がいます。ニューヨーク・タイムズ紙の記者ジュディス・ミラー氏です。彼女はピューリッツァー賞を受賞したこともある有名な記者で、政界とも太いパイプを持ち、社内でも大きな影響力を持っていました。

 ジュディス・ミラーは「あるブッシュ政権高官の話」や「ある亡命イラク人の話」を情報源とする大量破壊兵器の所在に関連する記事を多数、タイムズ紙に掲載します。それらの記事によれば、イラクには大量破壊兵器が存在しているという事実は自明のことであることのように思われました。ジュディス・ミラーはイラク開戦派の急先鋒に立ったのです。

 彼女の書いた記事の中で最も有名なのは、「アルミ管」の話です。これは、イラクがウラン濃縮に使用するアルミ管を輸入したことを報じる記事で、彼女はこれがイラクの核開発計画を実証するものであると報じていました。この記事の衝撃は大きく、世論は一気にイラク戦争開戦へと動いていきます。ブッシュ大統領はこの記事を根拠にあげて、イラクに大量破壊兵器があることを言明する演説を行うほどでした。

 しかし、このアルミ管は大量破壊兵器の開発とは全く無関係であったことがイラク戦争後になって発覚します。連邦議会に提出された報告書の中でくだんの「アルミ管」は「無関係」と明記されました。このアルミ管は通常兵器、もしくはロケット・エンジンに使用される部品でした。

 ジュディス・ミラーの記事には多くの誤りが含まれていました。彼女は匿名の情報源から得た情報をそのまま、記事に書いていただけだったのです。彼女の記事が誤報の危険性を含んでいることを危ぶむ声はありましたが、社内で強い発言力を持つ彼女にタイムズ紙の編集部は歯止めをかけることはできませんでした。

イラク・ファルコン基地を出発する兵士たち。暗視スコープを通した写真。2009年4月12日撮影。アメリカ空軍提供。.jpg

↑イラク・ファルコン基地を出発する兵士たち。暗視スコープを通して撮影。2009年4月12日撮影。アメリカ空軍提供。

★止めを刺したCIA秘密工作員身元暴露事件(プレイム事件)

 さらにジュディス・ミラーに追い打ちをかける事件が起きます。2003年7月、駐ガボン大使であったアメリカ合衆国外交官ジョセフ・ウィルソンの妻バレリーがCIA秘密工作員だったという機密情報が暴露されたのです。イラク戦争開戦約4カ月後のことでした。

 司法当局の調査の結果、ホワイトハウス高官がリーク元である可能性が高まりました。このリークはイラク戦争を批判したウィルソンに対する報復だったのです。ジュディス・ミラーは記事にはしなかったものの、このリークを受けた2人の記者のうちの1人でした。

 2005年、彼女は情報源の証言を拒み、法定侮辱罪に問われて約3か月収監されたのち、情報源を明かしました。これだけみると、ジュディス・ミラーは報道の自由を体を張って守ったようにも思えます。しかし、彼女の明かした肝心の情報源が大問題でした。

 彼女の明かした名前はルイス・リビー副大統領首席補佐官。彼女の政権内部への太いパイプが明らかになると同時に、彼女はこのリーク事件について社内の検証報道に非協力的な態度を表明します。ジュディス・ミラーはイラク戦争前から再三、ブッシュ政権の意向に沿った記事を書き続けてきました。「ブッシュ政権高官の話」に基づく大量破壊兵器の記事をよく書いていた彼女が今回の事件でリーク元がホワイトハウスであることを証言すれば、今までのWMD誤報記事の出所が明らかになり、彼女は重要な情報源を失います。

 結局、彼女が守りたかったのは報道の自由などという高尚な理念ではなく、彼女のWMD誤報記事について共犯関係にあるも同然のホワイトハウスでした。ジュディス・ミラーは社会的な批判にさらされ、ニューヨーク・タイムズ紙を去っていくことになります。

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★政府の犬

 なぜ、ホワイトハウスがジュディス・ミラーにリークをしたのかを考えてみるべきです。それは、彼女がブッシュ政権にとって都合のいい記事を書く記者だと思われていたからです。記者にとって、これほど不名誉なことはありません。

 もちろん、一般には知ることのできない情報を取ってくることは重要なメディアの仕事です。しかし、メディアは"政府の犬"であってはなりません。ましてや、政府のプロパガンダを垂れ流す宣伝機関であってはならないのです。メディアが果たすべきは、政府を監視し、チェックする機能です。

 2001年、アメリカでは9.11テロが発生し、多くの犠牲者が出ました。アメリカ本土でこれほどの大規模なテロが決行されたのは初めてのことです。アメリカは政府も国民もパニックに陥りました。

 そして、2003年3月。イラク戦争開戦のときです。アメリカは依然として"イスラムの脅威"に敏感でした。そんなときに、イラクの大量破壊兵器疑惑やフセインとテロリストとの連携の可能性がまことしやかに報道されたため、人々の恐怖感は煽られます。世論は一気にイラク戦争開戦支持へと傾いていきました。

 メディアはブッシュ政権の巨大な広報機関としての役割を果たしていたのです。

 政府の意のままに情報を垂れ流す報道姿勢は民主主義の土台を揺るがします。なぜなら、政府による恣意的なメディアの選択ができる状況を作り出してしまうからです。つまり、政府は都合のよい記事を書く記者やメディアを優遇して優先的に情報を流す一方で、批判的な記事を書くメディアを排除することができてしまいます。そうなれば、情報は偏り、メディアは政府に批判的な記事を書きにくくなってしまうのです。

 ブッシュ政権は9.11テロ後、テロとの戦いに挑む政権として高い支持率を得ていました。そうした政権を批判することにメディアは及び腰でした。また、9.11後は愛国心が高まり、アメリカが一致団結してテロに立ち向かわなければならない、という雰囲気があり、時の政権を攻撃しにくい雰囲気が醸成されていたのです。そこにつけ込まれた形をとったのがWMD報道でした。

イラク・バグダッドの夜間パトロールをする小隊。2008.1.26撮影。アメリカ軍・軍事情報センター提供.jpg

↑イラク・バグダッドの夜間パトロールをする小隊。2008.1.26撮影。アメリカ軍・軍事情報センター提供。


★報道しなくてもいいのか?

 本来、メディアはその影響力の大きさを自覚し、流す情報については十分な裏付け調査をすることが求められます。しかし、現実問題として、裏付け調査ができない情報というものがあります。匿名の「政府高官の話」などというのはまさにそれです。高度の国家機密に値する情報が正しいものかどうかなどはメディア一社の調査能力の範囲を超えるものです。

 しかし、十分な裏付けがないからといって報道しなくてもよいのかという問題があります。メディアが自粛してしまえば、国民はその情報の存在すらしらないままになってしまいます。確実な裏付けの取れる情報しか報道できないとなれば、流通する情報量は著しく少なくなりますし、メディアにニュースの恣意的な取捨選択をさせることも疑問です。

 結局、裏付けのない不確実な情報を一様に排除することはできません。そうなれば、メディアの報道する情報は総合的には信ぴょう性が低下することは否定できません。間違った情報が含まれている可能性があることを考慮しなければならないからです。

イラク・Al Jazeera砂漠での大規模な攻撃作戦で、家屋に突入するアメリカ軍。2006年5月22日撮影。アメリカ空軍提供。.jpg

↑イラク・Al Jazeera砂漠での大規模な攻撃作戦で、家屋に突入するアメリカ軍。2006年5月22日撮影。アメリカ空軍提供。

★報道の受け手としての心構え

 より、たくさんの情報を得ようとすれば、その情報が玉石混合になることは仕方がないことだとするならば、その情報を受ける側がその認識を持つことです。全てを真実だ、と考えず、もしかしたら、と疑う気持ちを持つ。

 イラクに大量破壊兵器が隠されているという報道が各社からされた場合、ならばすぐに戦争だ、と飛びつくのではなく、他に、開戦理由を支える、もしくは否定するどんな要素があるのかを情報収集し、それらを総合的に判断する力をつけることが必要でしょう。いろいろな要素を総合考慮していれば、要素の一つが間違っていたとしても、他の要素によって是正され、誤った結論に至る可能性が少しでも少なくなるからです。

 報道をうのみにして直接的に結論に飛びつくのではなく、ニュースから取得した情報は自ら思考する際の一材料として参考にする、という気持ちで報道に接することが重要になってきます。

イラク、反政府勢力の武器庫の探索任務中、非常線を張る間の警戒に当たる兵士たち。2007年4月2日撮影。アメリカ空軍提供。.jpg

↑イラク、反政府勢力の武器庫の探索任務中、非常線を張る間の警戒に当たる兵士たち。2007年4月2日撮影。アメリカ空軍提供。

★政府、メディア、そして民主主義

 ブッシュ大統領は2002年10月、開戦約5か月前の演説で、「イラク政府は炭疽菌などの病原体を、3万トン以上製造し、マスタード・ガス、サリン、VXなどの化学物質を数千トン製造している」「大量破壊兵器(WMD)の危険は米国および世界の国々にとって、刻一刻と増大している。我々はサダム・フセインが今日もWMDを持っていることを知っている」と述べています。

 また、2003年1月、開戦約2か月前の年頭教書演説では「サダム・フセインがナイジェリアから大量のウランを購入しようとした」という情報に触れ、イラクの脅威を強調していました。

 現在では、大量破壊兵器(WMD)の保有、ビン・ラディンとフセイン政権との連携はいずれも否定されています。2004年、アメリカ政府調査団はイラク国内に核兵器や生物化学兵器を含む大量破壊兵器は存在せず、具体的な開発計画もなかったと結論付けました。最終報告書は議会に提出されています。

 しかし、開戦前のブッシュ政権は大量破壊兵器保有の可能性、生物化学兵器の可能性、神経ガスが製造されている可能性、アルカイダやビン・ラディンのような国際的テロリストにそういった兵器が流れる可能性、とあらゆる「脅威の可能性」を並び立て、イラク戦争の開戦に突き進んでいきました。

 そのブッシュ政権を大いに後押ししたのは、ブッシュ政権の流す情報をそのまま報道したメディアでした。

 民主主義社会においては情報は命です。国民は提示された情報を元にして政策の是非を判断するからです。その根本にある情報が間違っていたならば、国民は間違った方向へと誘導されてしまうことになります。

 ブッシュ政権の行った「可能性」の積み上げは結果として、嘘の積み重ねだったことが明らかになりました。アメリカ政府の情報操作は、広く国民に正当な判断を問うべき民主主義の理念とは相いれないものです。

 「グリーンゾーン」でもたびたび、「イラクの民主化」というフレーズが強調されています。しかし、その民主化を先導すべきアメリカ政府が行った情報操作はとても民主的とはいえません。そして、メディア。一部の政府関係者から流される情報を「政府高官の話では…」と信用性が高いかのように書きたて、結果として根拠のない恐怖感をあおりました。

 メディアの発達した民主主義社会において、メディアは政府の発表する情報や政策を報道し、同時に、国民の意見を集約する、言論代表としての役割が期待されています。国民一人の声を政府に届けるのは大変ですが、メディア1社があげる声は国民1人の声の何百倍、何千倍にも相当するのです。

 その力の大きさを理解し、その責任を果たすことがメディアには期待されています。

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↑イラク軍・イラク国家警察と共に作戦に参加するアメリカ軍。非常線を張る間の警戒行動をしている。2008年12月15日撮影。アメリカ軍・軍事情報センター提供。

★安全地帯から

 グリーンゾーン。これはバグダッドに設けられた約10平方キロメートルに渡る安全地帯のことで、連合国暫定当局など政府機能の中枢やショッピングエリア等の商業区域があり、政府高官やメディアが多く集まる場所です。ここにはアメリカ企業の展開するチェーン店もあり、アメリカ本土と同じような生活ができるように配慮されています。

 一方、ロイ・ミラーの活動地域はグリーンゾーンの外側、レッドゾーンと呼ばれる危険地域。治安は極度に悪く、常に生命の危機にさらされる場所です。しかし、意思決定がされ、命令が下されるのはグリーンゾーンから。

 この映画の場合、グリーンゾーンとは「安全な場所」という広い意味で考えた方が良いと思われます。すなわち、バグダッドにあるグリーンゾーンだけではなく、ワシントンのアメリカ政府当局のことも意味しているのです。彼らは安全な場所から命令を下し、実行部隊であるロイらアメリカ軍を動かします。自ら命を危険にさらすことはなく、銃弾の雨をかいくぐることもありません。

 国防総省の高級官僚であるパウンドストーンは「グリーンゾーン」住人の代表です。彼は現場に出ることはありません。全て連絡網を使って命令を下し、実行させるのみ。もちろん、彼は文官なので、現場に出て銃を取ることは期待されていません。問題はパウンドストーンが現場に出ないことにあるのではありません。彼が現場を知らないことにあるのです。

 パウンドストーンは命のやりとりというものが一体どういう犠牲を伴うものなのか、頭では分かっているかもしれませんが、実感を伴って理解していないようです。

 「WMDなんてどうでもいい!」と言い放つパウンドストーン。では、そのどうでもいいWMDを探し続けていたロイらは今まで無駄な仕事に骨を折り続けてきたということになります。

 たくさんの兵士が、WMDの探索の任務中に負傷したり、命を落としたりしてきました。彼らの血は一体、何のために流されてきたのでしょうか。巻き添えになったイラクの市民の犠牲は一体、何のための犠牲だったのでしょうか。

イラク・バグダッドでイラク軍と合同作戦中、スナイパーがいないか警戒するアメリカ軍兵士。2007年6月27日撮影。アメリカ陸軍提供。.jpg

↑イラク・バグダッドでイラク軍と合同作戦中、スナイパーがいないか警戒するアメリカ軍兵士。2007年6月27日撮影。アメリカ陸軍提供。

★勝利は戦争を正当化するか

 「我々は勝ったんだ!」と言うパウンドストーンは、フセイン政権を打倒し勝利した以上、今さら、開戦理由の一つが誤っていたとしても、それが何だというのか、そんな小さなことは今さらどうでもいいことだ、と言いたげです。

 パウンドストーンの主張は開戦後、WMDの不存在が明らかになるにつれて、イラク戦争を推進してきた人々によって主張された内容を踏襲するものです。

 アメリカはイラク戦争に勝利したし、独裁者のサダム・フセインも排除した。今の問題は開戦理由の是非よりも、どうやってイラクを民主化していくかにあるのだ、というわけです。

 確かに、もう、フセイン政権は消滅してしまいました。開戦した理由に正当性があったにしろ、なかったにしろ、アメリカがイラクを放置するわけにはいかないのは事実です。

 しかし、イラク占領政策の問題とは別に、イラク戦争開戦に至った理由が誤っていた理由を検証する必要性が消えてなくなるわけではありません。サダム・フセインが独裁者だったのも事実です。しかし、その独裁者を戦争という手段で排除していいかどうかは別問題です。

 しかも、今回は大量破壊兵器(WMD)が存在する「可能性」があるという理由で戦争を始めました。アメリカ政府は"予防戦争"という近代国際政治にはない前例を作ったのです。結果としてWMDがあろうが無かろうが、WMDがあるという疑惑をもたれたが最後、アメリカが先制攻撃を仕掛ける可能性があることを今回のイラク戦争は明確に示しました。

 この予防戦争という新しい戦争の始め方が今後、どのようにアメリカ政府によって行使されていくのか。世界一の軍事力を持つアメリカが新たに作った"予防戦争"のルールは国際関係を考えていく上で重大な意味合いを持っています。

イラク・バグダッドでイラク人の少年の荷車に乗っかるアメリカ兵。2008年5月31日撮影。アメリカ空軍提供。.jpg

↑イラク・バグダッドでイラク人の少年の荷車に乗っかるアメリカ兵。2008年5月31日撮影。アメリカ空軍提供。


★誰も、政府を信じない

 「もう、だれも政府を信じない」と言うロイ。大量破壊兵器(WMD)を巡る一連の問題はアメリカ政府に対する不信感のタネを植え付けました。このWMD問題が植えつけた不信感はその後のイラク政策の失敗と相まって拡大していきます。

止まないテロ、増える犠牲者。暫定政府の樹立に向けた協議は難航し、アメリカ政府が想定していたスムーズなイラクの民主化計画はとん挫しました。

フセイン政権崩壊後のアメリカの占領政策は失敗でした。占領政策には水の確保、戦争で寸断された道路の補修などのインフラ整備や警察活動など、攻撃戦略よりもより多くの人員が必要です。しかし、アメリカ軍は人手不足でした。

「グリーンゾーン」でも、水を求める人々がロイらの乗る軍用車両に押し寄せ、道路機能が麻痺していました。市民生活の向上に手が回らなかった結果、いつまでたっても戦争で破壊された都市機能が復活せず、市民の不満がうっ積していきました。さらに、テロも頻発し、治安は悪化していきます。

治安が悪化すればするほど、現場では緊張感が高まり、現地のイラク人とのすれ違いや感情的な対立、さらに過剰な実力行使や無用な人身拘束を招きました。ロイらも初めてフレディに会ったとき、警戒感からフレディを地面に押し倒すなど乱暴な扱いをし、フレディは怒りをあらわにしていました。

 地元イラク人との連絡が円滑にいかないと有効な情報収集活動ができず、テロを防ぐことができません。アメリカ軍の犠牲者が増えるにつれ、人心はイラク戦争から離反していきました。「有志連合」と呼ばれた同盟国もイラクからの完全撤退を決定するところが出てきました。

 一方で、アメリカ軍の完全撤退に向けた計画は思うように進まず、イラク軍事作戦開始後、5年目となる2008年3月にはイラク戦争に対する支持率が31%まで低下し、不支持率は67%に達しました(CNN調べ)。

 開戦当初は70%を超える支持率を記録していたことを考えると、その急降下ぶりにはすさまじいものがあります。イラク戦争の支持率が急降下した理由は大量破壊兵器(WMD)がなかったということだけではありませんが、少なくとも、イラク戦争の意義に根本的な疑問を投げかけたWMD問題は国際社会に大きな禍根を残しました。

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↑戦闘終結宣言をするため、空母エイブラハム・リンカーンに降り立つブッシュ大統領。2003年5月1日撮影。アメリカ海軍提供。

★イラクでの勝利とは

 イラク戦争の開戦から約1カ月半後の2003年5月1日、ブッシュ大統領は空母エイブラハム・リンカーン上で戦闘終結宣言をし、事実上の勝利を宣言しました。

 確かにフセイン政権を倒すという目標は達成され、この点においては勝利したといえるのでしょう。しかし、アメリカにとっての正念場はこの後でした。戦闘終結宣言以前よりはるかに多くの死者をこの後の数年で出すことになるのです。イラクでの勝利とは一体何だったのでしょうか。

 WMDの脅威が嘘だったことが分かったのち、ブッシュ政権は窮地に追い込まれます。国連の経済制裁が解除されたのちに再びフセイン政権が「大量破壊兵器の開発に乗り出す意思はあった」と述べて、イラク戦争の開戦意義を強調しました。しかし、大量破壊兵器(WMD)という大義を失ったブッシュ大統領のイラク戦争は漂流し始めました。

 イラク戦争の目的として、WMDの脅威を取り除くというほかに、独裁国家イラクを民主国家として再生させるという「自由と民主化」が掲げられていました。イスラム圏に民主国家を誕生させることで、中東圏に民主化の流れを作り、ひいてはイスラムのテロの脅威からアメリカを守ることができるという考え方です。

大量破壊兵器がなかったことが判明した今、積極的にイラク戦争の大義を支える理由付けは「イラクの民主化」のみに絞られました。

独裁者からイラクを解放し、自由をイラク国民に与えること―イラクの民主化はWMD問題で打撃を受けたアメリカがイラク戦争の正当性を保つためにどうしても必要な目標になったのです。それ以降、イラクの民主化というフレーズはますます熱心に語られるようになりました。

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↑イラク・マムディーヤで最近の反政府勢力の活動の様子を現地の農家の人に聞くアメリカ軍兵士たち。2009年8月8日撮影。アメリカ陸軍提供。

★イラクの夜明け

 軍事力で圧倒的に勝るアメリカが軍事的にフセイン政権を倒すことができるというのは自明のことでした。しかし、イラクの民主化についてはそう簡単にはいきません。

 「圧政からの解放」、「イラクの人々に自由を」、と口々に語るイラク暫定当局の官僚たち。しかし、本当に、自由があるのか、本当に圧政から解放されたのか。

 乱暴に家屋に踏み込まれ、いきなり拘束され、真っ暗な独房へと放り込まれる。拷問まがいの尋問を受け、瀕死の重傷を負わされる。テロ行為の疑いの濃い容疑者とはいえ、民主主義国家であるならば、彼は命の危機に瀕するような扱いを受けてはならないはずです。また、イラク人と見ればテロリストであるかのように見なされて銃を突きつけられて身体検査され、地面にうつぶせに押し付けられる。住宅地の真中に突然やってきて、WMDの捜索のためとはいえ、大きな穴を掘り出し、付近は立ち入り禁止にされて道路は封鎖されてしまう。

 人々はアメリカ軍に怯え、恐怖感を持って暮さねばなりません。これでは恐怖の対象がフセインからアメリカ軍に交代しただけ。抑圧される状況に変化はありません。このような状況には民主主義のかけらも見出すことはできません。

 「民主主義にもいろいろな形がある」。パウンドストーンはこのように述べてイラクの状況を正当化していました。これが民主主義だといえるなら、民主主義は限りなく独裁に近い形をとることも許されることになります。しかし、強権的な政治手法を取るサダム・フセインを倒す目的で戦争を始めたはずです。ならば、独裁体制に親和性の高いこのような民主主義は選択肢から排除されねばなりません。

 独裁が許されないとして戦争をし、多数の兵士や市民の犠牲を払って得たのはフセイン政権と何ら変わらぬ強権国家だったというのでは犠牲者たちは浮かばれません。

 ブッシュ大統領は退陣間際、残り50日の任期となった2008年のインタビューで「イラクがWMDを保有していなかったことを事前に知っていたらイラク侵攻に踏み切らなかったのではないか」との質問を受けています。彼は「興味深い質問だ」と短い返答をよこしました。

 ブッシュ大統領が記者の質問に対して、あえてイラク戦争を正当化するこれまでの論理を繰り返さなかったことはとても"興味深い"ことです。

 WMD問題が華やかなりしころなら、ブッシュ大統領は「興味深い質問だ」と答えたでしょうか。この短い返答からはイラクの民主化に向かって意気込んでいたかつての勢いを感じることはできません。むしろ、果てない混乱が続くイラクの現状を踏まえた「戸惑い」が感じられます。

戦争の火ぶたを切った、時の最高司令官が戸惑いを感じるイラク戦争。一体、何のための戦争だったのか。根本的な疑問がわいてきます。

アメリカ軍の完全撤退は2011年末が予定されています。アメリカ軍が撤退しても、イラクでは新しい国づくりへ向けて手探りの日々が続くことになるでしょう。アメリカが目指した「イラクの民主化」が達成されるには、まだまだ苦難の道が続きます。


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↑イラク・バグダッドのSha'ab地区中央市場の統治権限の移譲を記念する式典。2009年1月3日撮影。アメリカ軍・軍事情報センター提供。

(参考資料・文献)
AFP通信・2008年12月3日「ブッシュ米大統領、イラク情報活動失敗が最大の痛恨事」
読売新聞・2004年10月7日「イラク大量破壊兵器、開発計画なし…米最終報告」
毎日新聞・2005年10月20日「米国 ミラー記者批判広がる CIA身元漏えい事件検証で」
IPS JAPAN・2008年8月17日「CIAは大量破壊兵器がないことを開戦前に知っていた」
熊谷 徹 「米国への不信―見つからないイラク大量破壊兵器」・週刊エコノミスト・2003年9月30日号
牧野 洋「ジャーナリズムは死んだか」現代ビジネス・2010年6月3日


イラク、偵察任務中に部隊の展開を見守るアメリカ軍兵士。2008年3月12日撮影。アメリカ空軍提供。.jpg

↑イラク、偵察任務中に部隊の展開を見守るアメリカ軍兵士。2008年3月12日撮影。アメリカ空軍提供。

All pictures from movie scenes in this article belong to Universal Studios.
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ゴシカ

映画:ゴシカ あらすじ
※レビュー部分はネタバレあり

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 ミランダ・グレイは女子刑務所の精神病棟に勤務する優秀な精神分析医だった。彼女はクロエという女性収容者を担当に持っていたが、ある日のカウンセリング中、彼女に悪魔にレイプされたという話を聞かされる。その夜、帰宅しようとミランダが車を走らせていたとき、道路の中央に立ちつくす白い服の少女に衝突しそうになった。彼女は慌てて車を停め、少女に話しかけるものの、そのまま意識を失ってしまった。

 次にミランダが目覚めたのは、彼女が勤めていた女子刑務所精神病棟の独房だった。診察に訪れた同僚の医師によると、彼女は3日間、意識を失っていたという。そして、彼女は夫殺しの犯人として収容されていることを告げられるのだった。

 誰が夫を殺したのか。そして、あのときの少女は何者か。患者として精神病棟に収容されたミランダの話を聞く者は誰もおらず、彼女は夫殺しの容疑を晴らすことができない。真相を追いかけるミランダを演じるのはハル・ベリー。そして、ミランダの患者クロエ役にはペネロペ・クルス。

 刑務所勤務の精神科医が、ある日殺人犯として収容されてしまう。私は異常ではないといえばいうほど、異常者扱いされるという恐怖。ミランダの夫を殺したのは誰か?ミランダか、それとも他の誰かか。本当にミランダは精神に異常をきたしているのか、それとも、何者かの策謀によって、彼女は精神病棟に閉じ込められたのか。

 謎が渦巻く前半の息詰まる展開に比べて、結末の展開がかなり強引なのは残念だ。



【映画データ】
ゴシカ
2003年(日本公開2004年)・アメリカ
監督 マシュー・カソヴィッツ
出演 ハル・ベリー,ロバート・ダウニー・Jr.,ペネロペ・クルス,チャールズ・S・ダットン,ジョン・キャロル・リンチ



映画:ゴシカ 解説とレビュー
※以下、ネタバレあり

★「ゴシカ」結末

 ミランダは4年前に夫が殺した同僚フィルの娘、レイチェルにのり移られ、夫ダグを殺害しました。そして、血文字で「NOT ALONE」という文字を壁に描きます。何が「一人じゃない」のか。当初は夫が殺した少女の数が一人ではないことを意味すると思われましたが、真実は、少女たちを監禁し、虐待した末に殺害した犯人がダグだけではないということを伝える血文字でした。もう1人の犯人とは、ダグの親友だった保安官のボブ。ダグとボブは少年のころからの知り合いで、少女をレイプして殺した快感が忘れられず、年月を経たのち、再び2人で犯行を行っていたのです。

 ボブは真実を知ったミランダを殺そうと追いかけます。しかし、ミランダに鎮静剤を打たれてしまい、朦朧とする意識の中でかつて殺した少女・レイチェルの霊を見、そのすきにミランダに撃ち殺されました。

 レイチェルはミランダの体を借りてダグを殺し、ミランダの力を借りてボブを殺したのです。憎悪の炎に身を焼かれていたミランダが再び現れることはないでしょう。彼女の願望はついに叶えられました。

 1年後、ミランダとクロエが街で再会している場面が映ります。クロエは新しい人生のスタートを切るようです。そして、ミランダは既に仕事を再開している様子。恐らく、心神喪失が認められて、夫殺しの容疑からは逃れられたのでしょう。ミランダは死んだレイチェルと交感したという現実を忘れたいようですが、クロエと別れたのちに、ミランダは再び見えないはずの男の子を見てしまう、という結末になっています。

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★Dr.グレイ

 ミランダ・グレイは女子刑務所精神病棟に勤務する精神科医です。彼女はクロエという義父を殺した女性を担当していました。クロエは時折、悪魔の話をします。ミランダはクロエの話が本当だとは思わず、悪魔にレイプされた話は義父を殺した罪の意識がもたらす妄想だと考えていました。

 ミランダは頭脳明晰な女性です。彼女の研究やセラピーの成果は高く評価されていました。一方で、彼女のセラピーは彼女が立てた仮説に沿ったものでした。患者の犯した罪や過去の経験、幼いころの家庭環境などから、患者の心理状態を分析し、セラピーで患者の様子を見て、ミランダの立てた仮説に当てはめていく。彼女のセラピーは患者よりも、自らの立てた仮説が主体です。ミランダの作ったストーリーに当てはまらない患者の話は切り捨てられ、捨象されていく。そして、ミランダの仮説になじむ話が、本当のこととして扱われる。

 多くの患者はミランダにとって都合のいい話をするようになりました。なぜなら、それ以外の話はミランダに信用してもらえず、妄想の話と断じられるからです。第三者に狂っていると言われ続ければ、果たして自分が正常なのか、それとも実は精神に異常をきたしているのかが分からなくなってきます。特に、刑務所の精神病棟のような閉鎖的な空間におかれ、生活を完璧にコントロールされ、薬漬けにされる毎日の中では、自分が今、いったいどんな状態にあるのか、分からなくなってくる。

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★クロエとミランダ

 しかし、クロエは違いました。彼女はミランダに対して自分のしている話が本当のことだという主張を曲げません。クロエはミランダにどんなに否定されても、自分の記憶に間違いはない、と主張しました。クロエはミランダにとって、厄介な患者でした。ミランダの仮説に乗ってこない患者は彼女にとって頭痛の種です。何とかしてクロエを誘導しようとしても、彼女は反発するだけ。ミランダは内心、クロエにうんざりしていました。

 もちろん、ミランダには、カウンセリングの方法に問題があるという意識はありません。また、自分が患者の話を聞いていないとは思っていない。さらに、ミランダ自身の望む結論にたどり着くように、クロエを誘導しようとしている自分自身についても、恐らく、ミランダには認識がありません。ミランダにとって、全ては、学術的な精神分析論に則って行われている研究の結果です。そのような理性的な分析で得られた話より、クロエの非現実的な話が真実であると考えることは絶対にできない。

 ミランダは、クロエが悪魔の話をする理由について、過去に原因があると思っていました。クロエは義父にレイプされ続け、その義父を殺したという過去があったからです。クロエはその罪の意識に苦しみ、後悔しているはず、という思い込みがミランダにはありました。しかし、実際には違います。クロエはミランダに言われるよりも先に、悪魔は義父のことではないと否定しました。クロエは義父について、「復讐してやった」と語ります。「止めるにはそれしかなかった」。これがすべてでしょう。これ以上、体を弄ばれないため、クロエは義父を殺した。クロエはそれについて、後悔などしていません。

 これまでミランダのセラピーで何度も、義父の話を繰り返されてきたクロエはミランダが何も理解していないことに腹を立てていました。ミランダに何を言っても、すぐに義父の話と結び付けられ、勝手に理屈を付けられ、解釈されてしまう。ミランダはクロエの話をそのまま受け入れることはなく、必ず自分で色を付けてから理解する。クロエはそれが不満でした。

 「私を異常者扱いする人間は信じられない」。「私を信じて」というミランダに対し、クロエは冷たく言い放ちます。話すら、満足に聞いてくれない人をいったい、どうやって信用しろというのか。

 クロエはミランダが頭では聞いてるようだけれど、心では聞いていないと非難していました。ミランダはすぐに分析をします。これまで研究してきた学術理論に則り、クロエの話を細かく切り刻んで、きれいに並べ直し、整理してしまう。クロエを受容しようとするのではなく、クロエを分析しようとしている。

 ミランダのこの態度は、彼女の別れ際の言葉にも現れています。「新しい発見があってセラピーが進んだわ」。ミランダにとって重要なのは、クロエが心を開いたかどうかということではなく、クロエが本当の話をしたかどうかということであり、義父を殺したという事実をクロエが受け止めているかどうかということです。

 実際には、クロエにとって、義父を殺したことは過ぎ去った昔のできごとでした。しかし、ミランダは過去にこだわる。それはクロエが語る全てに義父を殺した罪の意識が影響しているというミランダの分析が根底にあるからです。ミランダにとってはセラピーを"成功"させることが全てでした。そして、その"成功"とはミランダの仮説にクロエがのってくることでした。

 「新しい発見」と語るミランダにとって、クロエはただの研究対象でしかありません。「あなたの心は死んでる!」と叫び、暴れるクロエを刑務官に取り押さえさせるミランダに「私を信じて」と言われても、彼女の言葉に全く説得力はありません。

 しかし、白い服の少女と事故を起こしそうになり、記憶を喪失したミランダはすぐにクロエの心境を味わうことになりました。かつての同僚には殺人を犯した異常な女と思われ、何を話しても妄想だと否定されます。少しでも、感情が高ぶれば、刑務官が飛んできて拘束され、鎮静剤を注射されるという生活。ここは人間的な感情の表出が許されない場所でした。朝食には薬が投与され、全裸になって集団でシャワーを浴びさせられ、囚人服を着せられて独房に入れられる生活。非人間的な環境の中で、ミランダは次第に現実と妄想の区別がつかなくなっていきました。

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★闇

 少女を監禁し、性的虐待を加えていた夫ダグ。そして、ダグの親友であり、保安官のボブによるクロエのレイプ。同僚の医師フィル・パーソンズが隠していた娘の自殺という過去と、フィル自身の投薬治療。彼らは一見、何の暗い過去も持たず、今の生活に充足している人々であるように思えます。

 しかし、そんな彼らにはそれぞれに秘密がありました。外見からは分からない、心の暗い闇でした。

ミランダは悪魔の話をするクロエを妄想癖のある患者と手を焼いていました。クロエの言動は明らかに彼女が異常であるように思わせるものです。しかし、クロエの話は真実でした。そして、一見、まともな生活をしていて、傍目には満ち足りているように見えた人間たちの方が、よほど暗い秘密を抱えていたのです。

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★神様

 ダグはミランダに鏡に水をかけさせました。水をかけられた鏡には歪んだミランダの顔が映っています。そして、ダグは「クロエが見ているのはこれだ」とミランダに言いました。ダグによれば、ミランダは「クロエの鏡」。鏡であるミランダはクロエのあるがままを映し出す存在でなければなりません。

 しかし、ミランダは「歪んだクロエの姿」を写し出す鏡となっていました。ミランダはクロエの話を妄想と片付け、"妄想癖のあるクロエ"という像をクロエに提示していたからです。犯行を重ねていた張本人であったダグはクロエの話が嘘ではないことを知っていました。クロエの話を妄想と片付けているミランダに対し、クロエをそのまま映し出す鏡となるべきミランダ自身が歪んでいることをダグは指摘していたのです。

 ミランダはよもや、夫ダグがボブのレイプを黙認しているとは思いません。ダグはもちろんそのことを知っていて、ミランダがクロエの話を嘘だと決めつけていることを諭している。そして、もしかしたらミランダは夫の本当の姿さえ、正しく見ることができていないのではないか…。

 ダグは自分の役割をミランダに問われ、「神様」かな、と答えていました。神は人に恩恵を与える一方、ときに残酷です。ダグは全ての真実を知っていました。ダグは少女を監禁し、性的虐待を加える残酷な一面と、ミランダに真実へのヒントを与えるという"優しさ"の両面を持つ、あるいはそのように振舞える自分の立場に酔っていました。この精神病棟の幹部でもあるダグは今の状況を全て把握し、自らの好きなように動かすことができる。神に自分自身をなぞらえ、今の状況を全てコントロールできる自分は神の立場にあると思っていたのです。

 ミランダの言う通り、彼女には「鏡になってクロエを正しく映し出す」ことが求められていました。しかし、その「正しく」の内容が問題でした。歪んだ鏡の前に立つ人の姿を正しく映し出すためには二通りの方法があります。一つは鏡自体の歪みを直すこと。もう一つは、鏡の前に立つ人自身を、歪んだ鏡に映る不実の姿へと変えてしまうことです。これはミランダの選択していた方法でした。

 ダグが殺される前の彼女はクロエを正しい道へ戻さなければならないと考えていました。悪魔にレイプされた話をでっちあげ、義父を殺した罪の意識から逃避しているクロエを現実の世界へ連れ戻すのが自分の役目である、そうミランダは思い込んでいました。しかし、現実が見えていたのはクロエでした。クロエは義父にレイプされたことを自分なりに消化し、過去の事実として受け入れていましたし、彼女がこの刑務所でレイプされたという話は本当のことでした。クロエを変えるのではなく、鏡であるミランダ自身が変わらなくてはならない。そのことに彼女が気がついたのは、もっと後のことです。

 鏡は本来、人間の姿を反転させてそのまま映し出すものです。しかし、鏡が歪んでいれば、やはり鏡の前に立つ者の姿も歪んで映る。クロエの話をまともに聞こうとしないミランダはクロエの"歪んだ鏡"になっていました。

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★歪んだ鏡

 「娘は自殺したと思い込んできた」と語るフィル。彼は娘の姿を見たというミランダにレイチェルのことを語ります。娘が炎に焼かれて苦しむ悪夢を見ること、投薬治療を受けていること…しかし、フィルは最後まで娘の悪夢を否定していました。「私には意味があるとは思えない。ただの夢だ、妄想だよ」。ミランダが「(私があなたと)同じ夢を見ても?」と問いかけても、彼は無言で目を伏せています。

 現実に向き合うことは非常に難しいことです。特にそれが、肉親を失ったというような辛い現実であるときには。フィルは本当に娘が自殺したと思っていたのでしょうか。体中にキズをつくり、川に流されて見つかった娘が本当に自殺した、と。フィルは医者です。娘の死体を見て、まったく何もおかしいとは思わなかったのでしょうか。彼は娘が「自殺した」と信じたかっただけではなかったのか。その方が、残酷ではないからです。自分の娘がレイプされ、暴行されたあげく、川に死体を投げ捨てられたなどとは絶対に思いたくない。そして、襲い来る娘の悪夢。フィルは娘の死に何かがあると感じつつも、自分に嘘をついていたのではないでしょうか。

 彼は娘の幻影を見ることを極度に恐れました。娘のことを思い出すたびに、心が引き裂かれる思いがする。火に焼かれて苦しむ娘の姿を見ると、彼女の死の真相を追わなかった罪悪感がよみがえるからです。フィルは「救えなかった」と泣いています。一方で、娘の幻影は夢だと決めつけ、その意味については無意味だと否定する。

 娘の幻影が現れることに意味があることを肯定するならば、それは、娘には何か心残りがあるということを意味し、娘を苦しめている秘密があるということになる。フィルには、その秘密を追わずに済ませてしまっている自らの罪悪感を吐きだしたい気持ちと、娘の死の真相を否定したい気持ち、そして娘をその暴力から救えなかったことへの後悔が入り混じっています。そして、心をかき乱す娘の姿を忘れようと投薬治療に走る。

 真実を見ようとしないフィルの姿は、クロエを見るDr.グレイとしてのミランダに似ています。ミランダと同様、フィルは娘レイチェルの鏡にはなれませんでした。ミランダもフィルも、"鏡の前に立つ人"をそのままの姿で受け止めることはできなかったのです。フィルはレイチェルの幻影を妄想だと決めつけることで、苦しさから逃れようとしていました。

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★ミランダのプライド

「これでお仲間ね」というクロエに対し、「私は別よ」と答えるミランダ。しかし、現実はそうではありませんでした。クロエの言うとおり、「真実を話しても誰も信じない」という状況におかれ、信じてほしいと相手の言葉を否定すれば余計に異常と思われてしまうという世界へミランダは放り込まれました。そして、結末、クロエは未だ悪夢を見ると話し、もう、扉は閉じられないと話しますが、ミランダはやはり、自分は違うとクロエの言葉を否定します。

 ミランダは最後まで、クロエと異なるところがありました。それは、自分に対する強い自信とプライドです。自分が優秀な精神分析医であり、頭脳明晰な科学者であるという誇り。彼女は科学的に証明できない超常現象を認めることに高いハードルを感じていました。なぜなら、そのような現象を認めることはずっと彼女が身を置いてきた科学で説明のつかない領域を設定することになり、ミランダのイメージする科学者像にあるまじき思考を求められることだからです。

 今回の出来事も、"例外"と考えたかった。今回だけ、今回に限って、私は霊を見たのだ、ミランダはそう考えたかったのです。クロエは素直な女性です。義父にレイプされ、精神異常と診断されて、病棟に放り込まれ、そこでもレイプされ、挙句の果てに悪魔を語る妄想癖があると思われていた。クロエの、この尋常ではない苦労と不幸の経歴は彼女とミランダの態度の違いとなって表れていました。クロエは何事も否定しません。現実には起きるわけがないことが起きることもある。そして、起きていることが現実である、と。

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★結末

 ミランダはクロエと別れたのち、車道の真ん中に立ちつくす幼い男の子を発見します。その直後、男の子は車に轢かれ、消えてしまいました。跡形もなく忽然と姿を消した彼が生きた人間ではないことは確かです。その後、「ティムを探しています」と書かれた張り紙が近くに貼られているのが映ります。道路の真ん中にいた男の子はきっとティムなのでしょう。

 しかし、ミランダはこの張り紙を見ることなく、意を決したように足早に歩き去っていきます。彼女には、やはり、"見えている"。しかし、ミランダにそれを認めるつもりは今のところ、ありません。何も「見えなかった」。ミランダは自分自身にそう言い聞かせ、夜の街を歩き去っていきました。

 しかし、いつか、思うかもしれません。あの男の子はどうしたのだろうか。何を訴えたかったのだろうか、と。一度、レイチェルの幽霊に出会ってしまったミランダにとって、この男の子の存在と訴えかけを無視し続けることができるか。

 かつてのミランダなら、ありえない話、ときれいさっぱりこの体験を忘れることに努めたでしょう。しかし、彼女には変化があります。ミランダはクロエから「聴くこと」を教わったと話していました。

 「聴くこと」とは、相手の話をただ聴くというのみならず、相手の立場に立って共にそのときの記憶を追体験し、相手の立場や話を理解しようとするということ、それはすなわち、相手を受容するということです。ミランダは男の子を見てしまった。彼を無視することは彼に対する理解を止め、存在そのものを否定するということです。

 クロエとの関係により、「聴くこと」を学んだミランダが男の子を無視することができるでしょうか。

 ミランダは数日後にこの場所に戻ってくるかもしれません。あるいは、男の子がミランダの元へと現れるかもしれません。いずれにしても、クロエの言うとおり、「もう扉は閉じられない」のです。

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