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映画レビュー集> 『は行』の映画

ブラック・スネーク・モーン

ブラック・スネーク・モーン あらすじ
※レビュー部分はネタバレあり 

 サミュエル・L・ジャクソン演じる農夫とクリスティーナ・リッチの演じるはすっぱな娘がひょんなことで出会うことで始まるドラマ。
 
 アメリカ南部のとある田舎町。

 ささやかながら農業を営みながら敬虔な信仰を持って暮らす初老の老人、ラザラスと恋人が軍に志願して寂しさに耐えきれない少女レイが出会うことから物語が始まる。

 ラザラスは妻が去ってから、築き上げたささやかな幸せが音をたてて崩れ去り、孤独な毎日を送っていた。一方のレイは幼いころのトラウマが元となってセックス依存症になっていた。

 いつものように男を求めて祭りに出かけたさきで暴力を振るわれ、道路に倒れていたところをラザラスに介抱される。それが2人の出会いだった。



【映画データ】
ブラック・スネーク・モーン
2006年 アメリカ
監督 クレイグ・ブリュワー
出演 サミュエル・L・ジャクソン,クリスティーナ・リッチ,ジャスティン・ティンバーレイク


ブラック・スネーク・モーン


映画:ブラック・スネーク・モーン 解説とレビュー
※以下、ネタバレあり

 心に深い傷を負う少女と孤独な老人を繋ぐブルース。

 ブルース・ミュージシャンのサン・ハウス(1902〜1988)のインタビュー映像が象徴的に使われる。彼のメッセージはラザラスのメッセージそのもの。

 サン・ハウスのかわりにサミュエル・L・ジャクソンがその歌声を聴かせてくれる。

 全体的な印象はこれぞ、ミニシアター系という映画ですね。依存症を抱える人とそれを癒そうとする人、でもその人も傷を抱えていて…という構図。

 完璧な人なんていなくて、皆が抱えるそれぞれの痛みに喘いでいる。誰かに傷つけられながら、その傷をいやすのもまた人間であって、お互いに依存しながら癒されていく。                 

 よくある脚本に見えますが、この作品を心にのこる異色のものとして良作としているのは、全体を通して流れるブルースの調べ。

 そして完全にうまくはいかないだろうこれからの日常。それでも希望があるのは2人がお互いに支え合っているから、でしょう。

ブラック・スネーク・モーン


 最近は性依存症を扱った作品が増えてきました。ドキュメンタリーも含めて複数観ましたが、ドラッグを扱う映画同様にこれから増えていきそうです。                        
 
 ハリウッド俳優でもこの病気を告白して、治療に臨んだ人たちが何人かいますね。マイケル・ダグラスやデヴィッド・ドゥカブニー(『Xファイル』のモルダー役)など。クリントン前大統領もそうです。

 性依存症はアルコール依存やドラッグ依存と同様の依存症で病気の一つとして認知されつつあるものの一つです。この病気になる原因には虐待経験や過度の社会的ストレスが挙げられています。

ブラック・スネーク・モーン


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バニラ・スカイ

映画:バニラ・スカイ あらすじ
※レビュー部分はネタバレあり

 バニラ・スカイ。この映画では、トム・クルーズがマンハッタンに住み、フェラーリを乗り回すプレイボーイのハマり役で主演。『宇宙戦争』で見せた中途半端な労働者役は頂けなかったが。
 ぺネロぺ・クルスの可憐さ、愛くるしい、という言葉がぴったりのかわいらしさ。そして、女の激情を見せるキャメロン・ディアスの2人の女優がきっちりと脇を固めている。

 バニラ・スカイはスペイン映画、オープン・ユア・アイズ(1997年)のリメイク版。ぺネロぺ・クルスはリメイク前の『オープン・ユア・アイズ』でもバニラ・スカイと同じ配役を務めている。

 バニラ・スカイの解説とレビューでは、ラストまでの流れを解説、バニラ・スカイに込められた意味まで明かします。

バニラ・スカイ

↑バニラ・スカイというと、こういう色の空をいう.


 父の出版会社を継ぎ、富も名声も得たディヴィッド。端麗な容姿が自慢の彼はつきあう女性には事欠かない。今、つきあっているジュリーも美人だが、彼は遊びだと割り切っている。

 そんなある日、ディヴィッドは一人の女性、ソフィアに一目惚れしてしまう。彼女はブライアンの紹介でパーティに来たのだった。

 しかし、その心変わりをジュリーが見抜くのは早かった。ディヴィッドを隣に乗せ、怒りにまかせて運転するジュリーの車が暴走し、ついに事故を起こしてしまう。

 ディヴィッドは辛くも一命を取り留めるものの、顔に大きな傷跡が残ってしまった。
 衝撃を受けるディヴィッド。そして、次第に夢と現実を彷徨うように。彼のなかでその境が曖昧になっていく。 



【映画データ】
バニラ・スカイ
2001年・アメリカ
監督 キャメロン・クロウ
出演 トム・クルーズ,ぺネロぺ・クルス,キャメロン・ディアス 


                           
バニラ・スカイ


映画:バニラ・スカイ 解説とレビュー
※以下、ネタバレあり

★バニラ・スカイのラスト

 まず、ディヴィッドは事故の後、その当時できる限りの整形手術を受けます。しかし、その手術にも限度が。
 ついに彼はかつての顔を取り戻せないことを知ります。

 そこで、彼は顔の整形手術ができるようになる未来まで自分を低温保存する契約をLE社と結びました。さらに、低温保存中には夢を見させるオプション契約をしています。

 そして、そのあと、低温保存され、150年後に目を覚ましました。

 したがって、最後にOpen your eyes…といって起こす女性はソフィアでもジュリーでもありません。ジュリーは事故で死亡しましたし、ソフィアも150年後には存命ではないでしょう。

 LE社の人間か、150年後に受けた整形手術先の看護師か、それとも新しい恋人か。
 
バニラ・スカイ


 ディヴィッドとソフィアが現実に会ったのは、3人でクラブで飲み、帰宅途中に別れたのが最後でした。

 ソフィアを失った悲しみとブライアンへの嫉妬から絶望したディヴィッドは深夜の街の路肩で倒れ込みます。その後、ディヴィッドは低温保存され、それ以降は会社が夢をディヴィッドに見させた、ということになります。
 
 精神科医は実在しません。精神科医には家族がいる設定でありながら、名前が出てこないのは夢の中の人物である証拠です。
 この精神科医は狂言回し、話の進行役でしょう。ただし、重要なのは精神科医はディヴィッドの過去を思い出させる役回りを果たしていること。
 彼がディヴィッドに語らせたのはソフィアへの真実の愛でした。

 女性との付き合いを遊びでしか捉えられなかったディヴィッドが知ったのは愛というもの。夢から目覚めたディヴィッドは眠りに就いた150年前の彼とは何かが変わったはず。

 恐らく、150年後の世界では手術は可能になっているでしょう。これから始まる未来の世界で、彼は今度こそ幸せを掴めるでしょうか。

 と、ここまでが模範解答的な解説。公式見解的な解説だと思います。

バニラスカイ

↑タイムズ・スクエア. 映画の冒頭でトム・クルーズが無人のタイムズ・スクエアを疾走していました. かなり印象的なシーン.

★もう一つのバニラ・スカイ、ディヴィッドが失ったもの。

 バニラ・スカイ。ソフィアとディヴィッドの幸せは夢のなかのひとときだったという実に切ない恋であるわけです。
 が、ひとつ、気になることがあります。

 ディヴィッドは外見、とりわけ自分の顔が何より大事な男です。

 ディヴィッドは低温保存されて夢を見ていたわけですが、そのディヴィッドは、元通りになったはずの顔が崩れることを始終気にしていますし、鏡に映った自分が事故後のめちゃめちゃになった顔になっているのを見て取り乱すこともしばしば。

 そもそもが、150年もの間、自分を低温保存するようにLE社と契約したのも、将来に整形手術を受けてかつての容姿を取り戻すため。

 さらに、現実の世界に戻るためにビルの屋上から飛び下りるディヴィッドは、顔が崩れたままなのですが、飛び降りた先は150年後に目覚める自分。そして、彼は発達した整形手術で自分の顔を取り戻せるでしょう。

バニラ・スカイ


 ディヴィッドが自分の外見に絶対の重きを置く価値観は事故前とビルから飛び降りた後と比べても、結局変わっていません。
 彼は会社の支配権を失い、友人を失い、ソフィアを失う。

 ディヴィッドがそれらを失ったのは友人やソフィアが彼に対する態度を変えてしまったせいでしょうか。彼は、周りの人間が変わってしまったと思ったかもしれませんが、それは違う。

 ディヴィッドがそれらを失ったのは彼自身が変わってしまったからです。

 ソフィアはディヴィッドの顔が事故の後遺症で歪んだから急に態度が変わったわけではありません。そもそも、ディヴィッドとソフィアは事故前に数えるほどしか会っていないのです。

 デートにブライアンと共に来たのも別にディヴィッドを嫌ったからではありません。ほとんど会ったことのないディヴィッドの誘いだったから、3人の共通の友人でディヴィッドの親友であるブライアンを連れて来ただけのこと。

 かつてのディヴィッドなら一度で女性を虜にできたのでしょう、しかし、今の彼は違います。つまらなそうに酒を飲み、ダンスフロアで踊るソフィアを眩しそうに眺めるディヴィッド。

バニラ・スカイ


 ソフィアの態度を曲解してしまったディヴィッドはブライアンに辛くあたりました。こんなとき、ソフィアが一緒にいて楽しいのは残念ながら、ディヴィッドではなく、ブライアンです。

 ソフィアとブライアンの仲が深まっていくのを感じたディヴィッドは激しい嫉妬を感じました。そして、この後、LE社に低温保存され、夢に落ちていくのです。

 ディヴィッドが事故によって失ったのは、完璧なルックス。
 ところが、自分の顔に絶対のプライオリティを置くディヴィッドにとって、あのルックスを失うことは人生を失うと同じ。

 完璧だった顔を失った彼はたちまち自信をなくし、自分の殻に引きこもってしまいます。女性たちから賞賛のまなざしを浴びたかつての顔はもうなく、代わりにあるのは人目を引く好奇のまなざしを集める崩れた顔。

 外見に対する周囲の目を気にするあまり、偏屈になっていくディヴィッドはガードを固め、自分の外見のために自ら心を閉ざしていきました。そして、頑固で偏屈になっていくディヴィッドから次第に周囲の人々が離れていきます。

 そんな人心を失った彼を会社から追い出すことは造作もないこと、ブライアンとソフィアは2人の道を選びました。

バニラ・スカイ

↑早朝のニューヨーク,マンハッタン


★ディヴィッドに必要なもの

 ディヴィッドは、事故が起きたことに責任が全くないとは言えません。
 ジュリーが起こした事故はもちろん、彼女に大きな責任があります。しかし、事故前のディヴィッドはジュリーをまったく思いやる気持ちがありませんでした。ディヴィッドを愛していたジュリーを遊びだと割り切ってつきあっていたためにジュリーは酷く傷つきました。

 ジュリーは、父から継いだ会社の社長の地位、金、たぐいまれな容姿、と何でも持っていた完璧なディヴィッドの「美人のガールフレンド」というアイテムの一つに過ぎなかったのです。

 ディヴィッドのなかではジュリーはいつでも誰とでも交換可能なアクセサリー。ジュリーはディヴィッドのステイタスを支える「物」にすぎませんでした。

 ディヴィッドの心ない自己中心的な振舞いがジュリーの暴走につながりました。あの事故はディヴィッドの自業自得という一面があります。

 なのに、夢のなかに出てくるジュリーは完全にディヴィッドの幸せを邪魔する悪魔のような扱い。

 ジュリーの存在はディヴィッドに、自分の顔がめちゃめちゃになった過去を思い出させるトラウマ的な存在に映っているように見えます。ディヴィッドにとって、ジュリーは罪悪感の対象でもあるかもしれませんが、同時に恐怖の存在になってしまっているのです。

バニラ・スカイ


 ジュリーを見て、畏怖している間はディヴィッドはまだ、自分というものが見えていません。

 自分の人生をめちゃめちゃにし、顔を傷つけた女、としてジュリーを見る気持ちが先に立つためにディヴィッドはジュリーに萎縮してしまうのです。

 ディヴィッドには最後まで、ジュリーに真正面から向きあう時間がありませんでした。ジュリーと向き合うということ、それはひいては、自分自身の今までの生き方に向き合うということでもあったはずなのですが。

 ジュリーという女性は事故以前のディヴィッドの生き方を象徴する人でもありました。彼女と決別し、かつ、その存在を過去の自分として受容することでディヴィッドはもう一つ成長することができたはずです。

 ジュリーとディヴィッドの和解を綺麗に描けなかったことはバニラ・スカイの最大の欠点になっています。

 このまま、150年後の将来の世界で目を覚まして完璧な顔を取り戻す人生。または、目を覚ました先が自分のベッドの上で、LE社も低温保存も夢。ディヴィッドのいるのは現在の世界のままで、顔も傷ついたままかもしれません。

 いずれにしても、今のディヴィッドに本当に必要なのは、人の羨む完璧なルックスではないでしょう。

バニラ・スカイ

↑バニラ・ビーンズ. 天然由来のもっともポピュラーな香料だ. ラン科の植物バニラが原料. バニラの香りを濃縮した物がエッセンスやオイルになる.


★バニラ・スカイの意味とディヴィッドのラスト

 バニラ・スカイ。バニラ=Vanilla の意味はいろいろです。

 純粋な恋愛感情、まっさらでなにもないこと、そして、香りづけのバニラ。

 純粋な愛はソフィアへの恋愛感情のこと、そして、まっさらで何もない空はこれから始まる無限の可能性のあるディヴィッドの人生。
 そして、香りづけで使われるバニラの意味は?

 舐めてみたことありますか?バニラ・エッセンスやバニラ・オイル。
とても、甘美な香りです。ふんわり甘くて、うっとりさせる匂い。でも、舐めると苦い。とてもいい味とは言えません。

 幼いころに興味半分、キッチンに入りこんで舐めてみたんですが、とても苦かった。それ以来、バニラ・エッセンスというと、あの甘い匂いとともにかすかな苦みを舌に覚えます。

 甘美な恋には苦い思い出がつきもの。これは、ディヴィッドのソフィアとのつかの間の愛とその別れのこと。真実の愛は、ときにお互いを傷つけるもの。

 痛みを感じない一方通行の恋愛しかしてこなかったディヴィッドが知ったのは、ほろ苦さをもった、真実の愛、というわけです。

 今のディヴィッドに必要なのは、本当の愛というもの。ビルから飛び降りた先に何があるのか、もしかしたら、また夢の世界かも。人生は夢から醒めた夢なのかもしれません。

 この世が夢か現実か定かでなかったとしても、ディヴィッドという人生を生きるのはディヴィッド。そして、彼の上に広がるのはバニラ・スカイ = これから始まる新しい人生なのだから。

バニラ・スカイ




順序どおり50音順で下って来て、ようやく『な』に到達しました。見てくださる皆さま、本当にありがとうございました。励みになります。

いったん、あ行に戻りまして、スティーブン・キング原作のホラー『1408号室』を取り上げたいと思います。

追記:1408号室アップしました。こちら
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ハピネス

映画:ハピネス あらすじ
※レビュー部分はネタバレあり

 初めてみたときは度肝を抜かれた。あらすじも見ず、タイトルから甘いラブ・コメディでも想像したから余計に。
 ハピネスの冒頭は一見、恋愛映画要素たっぷり。でもその冒頭エピソードの落ちだけでもこの映画が普通じゃないことにピンとくるはず。 

ニュージャージー州に住むトリッシュは精神科医の夫ビルと息子の3人暮らし。平凡だが幸せな生活を送っている。ヘレンは流行作家だが、最近はスランプ中。一番下の妹ジョーイは移民が通うクラスで英語を教える仕事をしながら暮らす独身の女性。

 三姉妹は一見、何ごともなく毎日を送っている。しかし、そこにはそれぞれが気がつかないほころびがあったのだった。

ハピネス


 ハピネスは人間の抱えるさまざまな問題を扱っているが、中でも中心的に取り上げられるのは小児性愛、ぺドフィリア。

このテーマ自体は、アカデミー賞作品賞受賞作『アメリカン・ビューティー』(1999年)でも取り上げられている。アメリカン・ビューティーでは幼い少女に欲望を抱く男、そしてアメリカ中流家庭の崩壊が描かれていた。

 ただし、ハピネスはアメリカンビューティーの1年前に公開されている。アメリカン・ビューティーと扱うテーマに共通性はあっても、ハピネスは極限を行くストーリー展開が恐ろしいほど面白い。ハピネスはアメリカン・ビューティーよりもかなりエッジの利いたストーリー展開なのだ。その割には観終わった後の何とも言えない満足感が心憎い。

 ちなみに最後に流れるのは「ハピネス」のメロディ。マイケル・スタイブとレイン・フェニックスらによる「ハピネス・バンド」による素敵な曲だ。

 フィリップ・シーモア・ホフマンが欲求不満でイタズラ電話がやめられないの屈折した男を演じているのにも注目。ホフマンは『カポーティ』(2005)でアカデミー主演男優賞を受賞した実力派俳優ですが、ハピネスでは嫌悪感を感じてしまうほどの役にどっぷりはまった演技を披露。



【映画データ】
ハピネス
1998年・アメリカ
監督 トッド・ソロンズ
出演 シンシア・スティーヴンソン,ジェーン・アダムス,フィリップ・シーモア・ホフマン,ディラン・ベイカー
カンヌ国際映画祭 国際批評家賞



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映画:ハピネス 解説とレビュー
※以下、ネタバレあり

 アメリカ社会風刺を指向する映画はもはや珍しくない。目新しさがなくなってくる中でも一つ抜けた存在感を放つ映画、それがハピネス。カンヌ国際映画祭で賞を受賞していることを後から知って、ちょっとびっくり、そして納得でした。

 ハピネスが異色のブラックコメディであることには間違いありません。ハピネスを超える出色の映画にはなかなか出合えないでしょう。映画としての完成度も高く、レイプ願望や小児性愛など、映画で面と向かって扱いにくい素材をうまく料理していると思います。                                
 ハピネスは3姉妹を中心にしながら話が展開していきますが、本当にいろいろな人たちが出てきます。

ハピネス


★精神科医のビルとカウンセリング

 冒頭のシーン。やる気が無さそうに患者の話を聞き流しているカウンセリング中のビル。トリッシュの夫でもあるビルは精神科医です。が、実は小児性愛者(ぺドフィリア、特にこの場合は少年性愛でしょうか)。

 カウンセリングをする側の精神科医ビルが、実は自分がカウンセリングを受けるべき患者の立場にあるのは皮肉なことですね。
カウンセリングが多用されるアメリカの事情も反映して、ビルの職業が精神科医になっているのでしょう。

 さて、ビルは息子の同級生を次々にレイプし、ついに警察が家までやってきます。ビルの逮捕も間近い夜、ビルは息子とリビングで二人きりで話をします。

 このとき、ビルは自分の犯した犯罪、そして自分の中にある欲望に初めて真正面から向き合うことになりました。それまでのビルは自分の欲望を満たすことに夢中になっていて、自分のしたことをまともに考えたことはありませんでした。

 ビルはもちろん、自分のしたことが社会的に許されないものであることを知っています。しかし、罪を重ねているうちは、その罪から自分を精神的に逃がそうとします。自分のしていることをまともに考えたら、罪悪感でいっぱいになってしまうからです。

ハピネス


 そうならないために、ビルは自分の犯した罪をできるだけ考えないように、罪を犯すことで得られる快楽だけを追求していたのでしょう。

 ビルが息子に向かって口にしたのは父が少年性愛者であるという事実でした。彼は自分が少年性愛者であることをひた隠しにしてきました。

 ビルが自分の性的嗜好を誰かに打ち明けたのはこれが初めて。ビルは息子に向かってショッキングな事実を次々に洗いざらいさらけ出します。

 息子の友達をレイプしたのは自分であるということ。1人だけでなく、2人もレイプしたこと。そして、その行為から快感を得られたこと。
 さらに、息子までも少年性愛の対象であったことも話しています。

 なぜ、ビルはここまで息子に話したのでしょうか。自分の息子にここまで言わなくても、と思った人も多かったでしょう。これはハピネスというこのブラック・コメディをもっと衝撃的な映画にするための演出でしょうか?

ハピネス


★ビルの告白と再起への希望

 この告白シーンはハピネスの名シーンだと思います。このインパクトの強さ、生々しさは他に類がありません。

 ただし、もちろんそれだけのシーンではありません。まず、息子の質問に父として真摯に応えようとした、ということがあるでしょう。

 ビルは、息子の2人の友達をレイプするというひどい裏切りをしてしまいました。彼は息子と父の間に秘密を無くして親子の絆をどうにか保とうとしたのです。

 そして、それよりももっと大きな理由がありました。ビルに自覚があったかどうか、定かではありませんが、本当の自分をさらけ出すということ、これは、何よりもビル自身の再生のための第一歩でした。

 頭の中で思っているということと、それを口に出して話すことでは、自分に対して与える影響に天と地の差があります。自分自身を言葉で表現する、それは自分を改めて構築するということです。

 自分について頭の中でぼんやりと思うだけではなく、自分の口でそれを話すということ。ビルは自らの性的嗜好を洗いざらい息子に打ち明けることで、ビル自身を見つめ直すきっかけを得ようとしていました。

ハピネス


 この場合、精神科医のビルは息子に精神科医の役割をしてもらっています。カウンセリングは相手に自分のことについて話すというよりは、実は自分に対して自分自身を語るという関係にあるのです。

 何らかの方法で、思っていること、考えていることを外に出すことは自分が思う以上に効果的。もし、今の自分に悩んでいたり、自分がよく分からなくなっているときはその思いを外に出してみることが大事なのです。
 けれど、そんな話をできる相手というのはそうそういませんので、日記を書く、などというのも一つの方法ですね。

 ビルには自分を見つめ直す時間が必要でした。ビルがずっと隠してきた秘密に自ら向き合うことができるならば、ビルにはこれからの希望がきっと見えることでしょう。

ハピネス


★希薄な人間関係 会社員アレンの場合。

 同じマンションに住む隣室のヘレンに恋愛感情を募らせ、満たされない欲望から見知らぬ女性たちにいたずら電話を掛けまくる会社員のアレン。
 彼は孤独と寂しさと一方的な恋愛感情をごちゃまぜにして、精神的に危うい状態です。

 結局ヘレンをあきらめて、アレンに好意を寄せるクリスティーナと仲良くなるアレン。ところが、クリスティーナに管理人が殺されたと聞くまで、アレンは殺人がマンションであったことすら知りません。

 これは事件が発覚していないのか、それともアレンが知らなかっただけなのか。

 殺人という事件がマンション内で起きても、発覚していないとすれば、マンションの管理人がいなくなったことに住人は誰ひとり気が付いていないということ。

 そして、仮に、殺人事件をアレンが知らなかっただけだとしても、このエピソードが伝えるのは、マンション内の人間関係がとても希薄で互いに無関心だということ。

ハピネス


 マンションという場所は現代の希薄な人間関係の縮図のような場所です。多くの人が壁一枚を隔てて住んでいるのに、実は両隣りに誰が住んでいるのかすら知りません。出入りも激しくて、ちょっと、顔見知りになってもあっという間に引っ越していきます。顔を見ても、同じマンションの住人かどうかすら分からない人もいるでしょう。

 挨拶するからと言って、その人を知っている、というわけでもありません。お互いが干渉しないように、お互いに深く入り込まないように気をつけているのが現代の近所付き合い。
 マンションは仕事から帰ってきて、寝て、また出ていく場所。隣に誰が住んでいようが構いやしませんし、興味もありません。

 本当に、希薄な人間関係。
 それはアレンとヘレン、クリスティーナがお互いを認識していないことからも明らかです。

 アレンはヘレンに一目ぼれだったので、ヘレンのことは知っています。ところがヘレンは電話でアレンの声を聞いても彼だとは気がつきません。
 一方、クリスティーナはアレンを気に入っていたので、アレンを知っています。ところが、アレンは自室に近い部屋に住むクリスティーナのことを知りません。

 極めつけは、アレンがせっかく仲良くなったクリスティーナはマンション管理人を殺した殺人犯だったということでした。

ハピネス


★こんなにも皆が求めるハピネスは今どこに?

 ハピネスという映画を決定づけているのは、ハピネスの個性豊かな3姉妹です。

 ハピネスの3姉妹が遭遇する出来事は、おかしくて、こっけいで、ちょっと変わったことばかり。それらの経験は彼女たちを傷つけ、かき回し、落胆させる。

 そして、彼女たちも完ぺきではなくて、トリッシュは夫がレイプ犯であることに気がつかないし、ヘレンはスランプに悩むあまりにレイプ願望を持ってしまうし、ジョーイは勤務先で出会ったロシア系の男にあっさり騙される。

 それでもただ一つ確かなのは、彼女たちが心から自分の幸せを求めているということ。

 三姉妹はハピネスの感触を一度は知っています。
 夫が逮捕されるまでのトリッシュの幸せな家庭生活。流行作家としてもてはやされ、充実したときを経験したヘレン。恋人と幸せだった時を過ごしたジョイ。

 彼女らは一度はハピネスを手に入れました。やっと掴んだと思った瞬間にするりと手のなかから抜けて行ったあの温かい感触を求めて、三姉妹はこれからもハピネスを追うのでしょう。

 彼女たちはそれぞれが懸命に生きています。ただ、ちょっとずつ、歯車が狂っているだけ。あと少しでハピネスが手に入るかもしれないのですが。

 いえ、あと少しでハピネスが手に入れられると思うから、ハピネスを求め続けるのかもしれません。

ハピネス


 ハピネス= 幸せとは何でしょうか。

 人が本当に求めている幸せとは自分の居場所であるような気がします。自分がそこにあるべきと思える場所、そこに安心を求められる場所。

 人は皆、ハピネスを求め、追いかける者。誰もが自分の居心地のよい場所を探し続けています。どこにその居場所を求めるかは人それぞれ。
 そして、もし、今その場所が自分にあるならば、それはとても幸運なこと。

 3姉妹のハピネスはもしかしたら、ヘレンやジョイ、トリッシュがいるということ、そして何があったとしても変わらずに3人で笑って話ができるということ、これこそがハピネスなのかもしれません。

 たぶん、いいところも悪いところも全部本当の人間の姿なのでしょう。ハピネスは全部が幸せ色ではなくて、ダークな部分を併せ持ったところにハピネスがある。悪いときを知っているから、幸せを感じるのでしょう。

 だから、ほら、ラストで大きなテーブルを囲むトリッシュやヘレンやジョイは皆笑顔なんです。
 
ハピネス
ハピネス
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バンド・オブ・ブラザーズ

ドラマ: バンド・オブ・ブラザーズ あらすじ
※レビュー部分はネタバレあり

各話あらすじはこちら→ここ

 バンド・オブ・ブラザーズは、スティーブン・スピルバーグとトム・ハンクスが製作サイドでタッグを組み、アメリカ民間ケーブルテレビ局HBOで放送された一大戦争ドラマ。

 第2次世界大戦、対ナチス=ドイツ戦線が舞台だ。アメリカ陸軍第101空挺師団第506パラシュート歩兵連隊第2大隊E中隊(通称:イージーカンパニー)の人間関係を軸に、前線に投下されてから彼らの終戦までの3年間を元隊員らの証言をもとに描く。

 バンド・オブ・ブラザーズは全10話。製作費120億円をかけ、映画に勝るとも劣らないクオリティの作品に仕上がっている。

バンド・オブ・ブラザーズ

↑アメリカ空軍.なお,バンド・オブ・ブラザーズの主役第101空挺師団はアメリカ陸軍.アメリカ軍・軍事情報センター提供.

 バンド・オブ・ブラザーズの登場人物は全て実名。
 リアリティを出すため、あえて無名の役者を用い、元隊員の証言がドラマの先後に挟まれているなど、ドキュメンタリータッチのノンフィクション戦争ドラマとしての要素を強くしている。

 特に、バンド・オブ・ブラザーズ全話ではないが、ある特定の人物にフォーカスし、その人物の視点を通して描かれているなど、終始、戦場にいる一人の兵士の視線を通した第二次世界大戦を軸に描こうとする点が興味深い。

 バンド・オブ・ブラザーズ製作に当たっては、毎日16時間×2週間の練兵訓練を役者に施し、寝泊まりも軍舎のなかという徹底的な役者のトレーニングをし、撮影は9カ月、製作期間は1年半に及んだという。

 元隊員の証言によるエピソードにより構成されており、当時のアメリカ陸軍第101空挺師団第506パラシュート歩兵連隊第2大隊E中隊(イージーカンパニー)の活躍を描くものとして史上空前の規模の大作になっている。

バンド・オブ・ブラザーズ

↑イラク国内アメリカ軍駐留地上空より アメリカ軍・軍事情報センター提供


 日本のテレビ局でもたまにドキュメンタリードラマをやるが、比較対象にすらならないくらい完成度が高い。

 映画では時間的・題材的に描かれないだろうバンド・オブ・ブラザーズならではの描写が、ドラマに深い奥行きを与えている。
 詳細な感情描写ができるのは尺の長いドラマならではの魅力だ。

 バンド・オブ・ブラザーズは1話ごとにそこそこ完結したストーリー展開をとる。そして、各回ごとに監督は異なるが、第5話はトム・ハンクスが監督をしている。息子コリン・ハンクスが出ている回もあり、父トム・ハンクスの面影があるのですぐ分かる。

 コリン・ハンクスは小中規模のハリウッド作品に脇役なんかでたまに見かける俳優。「ブラック・サイト」という映画では技術者系のFBI捜査官の役で見かけました。

 2世ということで有利な点もあれば、苦労もあるのではなかろうか。今作では士官学校上がりの真面目で初々しさのある新任将校の役を好演。



【ドラマデータ】
バンド・オブ・ブラザーズ
2001年・アメリカ

製作・総指揮 スティーヴン・スピルバーグ、トム・ハンクス
監督 トム・ハンクス、デヴィッド・リーランド、デヴィッド・フランケル、トニー・トー、ミカエル ・サロモン他全8名
出演 ダミアン・ルイス,ロン・リビングストン,ドニー・ウォルバーグ,スコット・グライムス,マシュー・セトル他

エミー賞作品賞、ゴールデングローブ賞TVドラマ部門最優秀賞



バンド・オブ・ブラザーズ

↑イラク駐留アメリカ軍の一兵士 アメリカ軍・軍事情報センター提供


ドラマ: バンド・オブ・ブラザーズ 解説とレビュー
※以下、ネタバレあり

★総合評価

 バンド・オブ・ブラザーズの始まりは、意地悪な上官、仲間との人間関係、ノルマンディー作戦の降下作戦と戦争ドラマの鉄則的展開を押さえる見やすい展開。

 その後の連合軍の進撃についても、有名な戦闘を要所要所で押さえつつ、ドイツ侵攻、終戦まで特定の兵士にフォーカスした視点で進行していきます。

 出世に懸命な上官、無能で生き残ることしか考えておらず、部下を危険にさらす上官、責任感の強さから思い悩む上官、練兵訓練以来からのメンバーと新規補充兵の上下関係、次第に変化していく戦況と戦闘に対する意識の違い…。

 長時間に及ぶドラマで中だるみするかと思いましたが、後半に向かってはまた新たな展開があって、見飽きません。

バンド・オブ・ブラザーズ

↑イラク国内で作戦遂行中のアメリカ軍 アメリカ軍・軍事情報センター提供


★バンド・オブ・ブラザーズは愛国的か?

 アメリカ万歳の愛国心丸出しのドラマという評価がありますが、これは避けられないでしょう。

 主役級の兵士は勇敢で、ひるみもせず、もちろん逃げもしないように描かれていることが多い。一方、ドイツ軍兵士の描写はほぼゼロに近く、妙に無個性的で、人形のようにバタバタ倒されるシーンもあります。

 ただ、このドラマは個人の証言によるものなので、基本的に焦点があてられる人物は復員後に証言をし、現在も生存している方です。

 なので、その方の立場からすると、大半の戦闘が顔の見えない敵に向かって射撃や砲撃によって戦うものであり、白兵戦はそれに比べては少ないことを考慮すれば、ドイツ軍側の描写が遠景にとどまることは当然かもしれません。

 戦争を現地で戦う兵士は相手のことをリアルに想像して「敵も人間なんだ」と思ったとたんに戦意が低下するものです。
 ドイツ軍兵士を悪魔のように考え、また教育されていたことでしょう。

 その当時、アメリカ陸軍兵士だった方の当時の立場や当時の思考に立って見れば、ドイツ軍兵士もこういう風に見えていたのかと理解できます。

 証言による再現ドラマであり、第2次世界大戦の主観的な見方の一つであるという理解でいいのではないでしょうか。          

 また、そんなに弾が当たらないのか、主人公補正かと思うような場面がありますが、本人は無傷で生還しており、証言しているわけですから、その通りだったのでしょう。

 事実は小説より奇なり、といいますが、その通りのときもあったのでしょう。

バンド・オブ・ブラザーズ

↑イラク駐留アメリカ軍の一兵士 アメリカ軍・軍事情報センター提供


★暴かれる戦争犯罪

 旧ナチス領の各国ではナチスに協力した者に報復行動にでる一般市民、そして公になるユダヤ人強制収容所の実態が映されます。

 破壊される街並み、奪われた平穏な生活、解放されても市民同士に残る、埋まらない戦争の傷跡。

 戦争が終わっていくにつれて知るのは失ったものが目に見えるものだけではない、ということです。
 
 こういった戦争犯罪に当たるような行為については、まさに戦争の暗部の暗部であるとしか言いようがありません。

 こういった行為が現実にあったのか、なかったのか、そういう議論は今となってはもはや水掛け論でしかありません。

 しかし、だからと言って、そういった戦争犯罪が全くなかったということはできないでしょう。

 少なくとも、バンド・オブ・ブラザースで描かれている戦争犯罪のうち、ユダヤ人収容所の存在など、客観的にその行為の証拠があるものについては、そういった忌むべき行為がされたということを否定してはならないでしょう。

バンド・オブ・ブラザーズ

↑アウシュビッツ強制収容所,正面からのポピュラーなショット.なおバンド・オブ・ブラザーズで出てきた強制収容所はアウシュビッツではありません.

 犠牲者の数や、収容所での実際の待遇など、死亡者数や収容状況が誇張されている、と主張されることもあります。
 それが間違っているという根拠はありませんので、その主張を否定はしません。

 しかし、誇張されているにしろ、そうでないにしろ、相当数の方が収容所で命を落としたという事実、そのことを忘れて議論をしてはならないと思います。

 強制収容所の問題について議論するとき、問題にすべきはその虐殺の規模や収容状況の良しあしではありません。

 そういう忌むべき行為がなぜされたのか、なぜその行為が社会的に黙認されてしまったのか、そういう根幹的な部分を問題にするべきです。

 また、ユダヤ人が主にナチス=ドイツ政権下で迫害の対象になりました。
 しかし、これはユダヤ人に対して世界があの時はすまないことをした、と謝り続ければいい、という話ではありません。

 あのときはユダヤ人でした。次は誰でしょうか。
 人種迫害という問題は人類全体に普遍化できる問題なのです。

バンド・オブ・ブラザーズ

↑アウシュビッツのバラック.江戸長屋のように同じ形のバラックが収容所内部に立ち並ぶ.バラック内部は収容者の作業場や寝る場所になっていた.

 今も各地で起きている紛争に人種迫害のない紛争というものはありません。

 少し前ならコソボ紛争やルワンダ紛争、インド=パキスタン紛争、イスラエル=パレスチナ紛争。イラク戦争でイラクは大混乱していますが、イラク国内にも主にイスラム教宗派に起因する民族対立構造があります。

 歴史を見渡しても、大なり小なり、人種間対立が戦争や地域紛争の引き金を引いてきました。

 人種というのは実に難しい問題です。昨日まで仲良く話していた隣人が次の日には迫害者になっていたという1対1の個人レベルで起こる問題なのです。
 人種というのは必ずしも国籍や科学分析で決まるものではありません。

 生物学的には同じ人種といってよくても、科学的要素以外に文化的要素が非常に大きく人種アイデンティティに作用します。
 すなわち、人種は血統や肌の色だけでは決まりません。

バンド・オブ・ブラザーズ

 
↑アウシュビッツのバラック内部.最高で3人まで寝られる.三段「ベッド」とは言いがたい粗末な木の棚.
 


 親の人種アイデンティティ(親が自分がどの人種と思っているか)や、宗教、同一宗教でもどの宗派に属しているか、生まれた場所はどこか、住んでいる場所の地理的位置(北か南か東か西か)、社会的地位、育ってきた環境、経済力など、さまざまな社会的要素や個人的理由が入り混じってその人の人種帰属意識を決定します。

 本当に人種の差というものはその人一人ひとりの意識の差に過ぎないと言っていいもの。
 しかし、そのわずかな差が生みだしてきたのは、あまりにも多くの悲劇でした。

 ユダヤ人強制収容所の悲劇を単なるユダヤ人差別の歴史に押し込んで理解するだけではその悲劇から何も学ぶことはできません。
 何も学ばなければ、人間は知らず知らず、今度は自分が加害者になるかもしれません。

 人種差別に端を発する紛争や、戦争のなかで起こる人種迫害・大量虐殺は実に些細なきっかけでも起きうるということ。
 それを忘れてはならないでしょう。

バンド・オブ・ブラザーズ

↑アウシュビッツ強収容所の内部.内部の施設や部屋については、いまだ何に使われていたか,分かっていないところもある.ポーランドにある恐らく最も有名な収容所,現在は誰でも観光客として訪れることが可能です.

★バンド・オブ・ブラザーズは戦争賛美か?

 バンド・オブ・ブラザーズは生存者の証言に基づいて、それぞれが体験した「証言者の戦争」をリレーする形である視点による第2次世界大戦を再構成してみせました。

 新しい戦争作品の境地を開いたものといえ、時間をかけても視聴する価値はあるでしょう。

 ただ、バンド・オブ・ブラザーズはあくまで、アメリカ側の証言という意味で作られたドラマです。 一つの視点に立ち、そこからの掘り下げができるドラマではありますが、それゆえの限界はあります。

 このドラマが戦意高揚ドラマだとか、で、偏って戦争を好意的に見るドラマだとか、と批判することは簡単です。
 なおさら、戦勝国のアメリカが作るドラマでは戦争に肯定的な立場が取りやすいので、その要素が強いかもしれません。

 しかし、バンド・オブ・ブラザーズを始めとするアメリカのドラマやハリウッド映画に限らず、映画やドラマで戦争を描こうとすれば、少なからずどちらかの立場によらずにはいられません。

 全くの無色透明の立場というのはあり得ない。

バンド・オブ・ブラザーズ

↑イラク,バグダッドにて アメリカ軍・軍事情報センター提供


 ただ一つ、このドラマの内容や元隊員たちの証言を見て、戦争を賛美していると考えるべきか、といえばそれは否でしょう。

 訓練を共にしたかつての仲間は目に見えて減っていく。前線膠着の場面に至っては一身一退の攻防に疲れ果て、低下していく士気。 

 最初のエピソードでは意欲満々で戦争に対する自らの活躍に胸をはせていた兵士たちが、実際に前線に配置されてからは過酷な現実を知り、終戦に向けて次第に疲労していくのは明らかです。

 休暇で兵士たちの士気が目に見えて回復したり、連戦に次ぐ連戦で沈鬱な雰囲気になっていったり、終戦を目前にして危険な作戦に躊躇する様子。
 
 米国軍兵士が美化されている部分がないとはいえないものの、必ずしも無欠のヒーローとして正当化されているとは言い切れません。

 また、描かれているのはイージーカンパニーの仲間たちだけではありません。

 アメリカ軍兵士やフランス人によるドイツ人捕虜の殺害、占領先での略奪行為など、要所要所に戦争の狭間で起きる問題が描写されています。

 このような描写を入れれば、証言をしたイージーカンパニーの生存者からはもちろん、米国民の一定の視聴者層からは非難が出ることは容易に予想できたでしょう。

 それにも関わらず、こういったシーンを入れたのはスティーブン・スピルバーグやトム・ハンクスといった製作サイドがこのドラマをイージーカンパニーの単なる再現ドラマを作ろうと考えたわけではないことの証です。

 ひるがえしていえば、戦争の現実を描こうとする意識の表われだと言えます。

バンド・オブ・ブラザーズ

↑イラクの市街で指名手配している旧フセイン政権関係者のポスターを張る駐留米兵 アメリカ軍・軍事情報センター提供

★戦争映画のススメ

 多面的な視点で戦争を見てみたい場合は各国の戦争映画をいろいろと見るのが面白いでしょう。

 各国が独自の視点に立って個性的な戦争映画を作っています。イタリア・ドイツ・フィンランドなどなど。

 特に、ムッソリーニが枢軸国側として賛歌したイタリアはムッソリーニ政権の崩壊後、内戦状態に近い状態を味わい、他国の戦争事情とはかなり違う特殊な事情を抱えていました。

 内戦を経験したということは、自国民の間に2分する感情を残すということ。単純に戦争に負ける以上の傷跡が国民に残ったことでしょう。

 それぞれの国で、それぞれに思い入れのある第二次世界大戦の歴史が垣間見えて、面白いですね。

 いずれにしても、戦争が残す爪痕は大きい、特に自国が戦場になった場合は。それだけは確かなようです。

バンド・オブ・ブラザーズ 各話あらすじ,作戦の解説

バンド・オブ・ブラザーズ

↑アメリカ国内基地にて アメリカ軍・軍事情報センター提供
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バンド・オブ・ブラザーズ 各話あらすじ,作戦の解説

ドラマ : バンド・オブ・ブラザーズ
※以下各話のあらすじ各作戦の解説です。
全てネタバレしています。



バンド・オブ・ブラザーズ 解説とレビューはこちら



バンド・オブ・ブラザーズあらすじ,解説

↑アフガニスタンにて アメリカ軍・軍事情報センター提供


第1話「翼のために」(Currahee)

アメリカの基地で降下兵として厳しい訓練を受け、イギリスのアンブローズ基地に配属されて前線に向かうまでを描くバンド・オブ・ブラザーズの導入部分。

E中隊はパラシュート部隊であるが、降下傘兵は訓練中の事故死も多いうえ、前線でも危険な任務に就くことから特に陸軍精鋭部隊として強化されました。

優秀な志願者を募るために、特別手当が強調されたりもしました。
現在、自衛隊でも降下一回について特別手当が出ます(6650円、第二次世界大戦中は1200円程度)。

それほど落下傘降下には危険が伴うもの。

空挺部隊の急襲部隊としての性質上、着地地点は敵陣の背後や敵陣のど真ん中になるうえ、降下する場所が足場の悪い沼地かも知れないし、岩場や崖の迫る狭い場所かも。

予備傘が開かないかもしれないし、悪天候で雨が降り、風が吹く中の降下かもしれません。着地時の骨折、木や建物に引っかかることによる縊死などの事故も多くありました。

実際、ノルマンディー降下作戦でも多くが戦わずして海に落下して溺死したり、木に引っ掛かって縊死しています(首を吊って窒息死)。

というわけで、日常的にビルの3階から飛び降りるのが苦にならない人なら参加できるかもしれません。

バンド・オブ・ブラザーズ

↑イラクアメリカ軍駐留キャンプでのトレーニングの様子. アメリカ軍・軍事情報センター提供


第2話「ノルマンディー降下作戦」(Day of Days)

ついに来たD-DAY。降下作戦が決行される。
イギリスのアンブローズ基地を飛び立ち、フランス・ノルマンディーへ。

【ノルマンディー上陸作戦】

ノルマンディー上陸作戦は 1, 海からの上陸軍と 2, 空からの空挺部隊 の2方面からノルマンディーに上陸する作戦でした。

イージーカンパニーは空挺部隊なのでもちろん空からの上陸部隊。

空挺部隊は海からの上陸部隊に先んじてノルマンディーに降下し、砲台などを破壊してできるだけ上陸部隊の犠牲を少なくするという任務を負っていました。

ところが、降下地点が大きくぶれた上、フランス上空の通過時間が12分と短すぎました。そのため、空挺部隊はバラバラの地点に降下してしまい、合流に苦労しました。

バンド・オブ・ブラザーズでは結構あっさり合流していますが、実際は部隊が四散してしまい、合流できずに作戦実行に移ることが困難だった部隊もあるようです。

バンド・オブ・ブラザーズ

↑イラク・バグダッド.ボールを現地の少年にあげようとしているアメリカ駐留軍兵士 アメリカ軍・軍事情報センター提供


第3話「カランタン攻略」(Carentan)

隊員たちが集結してきて、戦車隊の進路確保のためカランタン市街の確保を目指します。市民の歓迎を受け、実際になかなか進軍できないということはしばしばあったようです。

第4話「補充兵」(Replacements)

カランタン攻略後、新たな任務が下されます。

ついに来ました。マーケット・ガーデン作戦。簡単に説明しておきます。

【マーケット・ガーデン作戦】

連合軍の史上最大の失敗といわれる作戦です。(9日に及ぶ作戦の詳細は映画『遠すぎた橋』を参照してください。→ここ マーケット・ガーデン作戦の全容をかみくだいて解説しています。)

オランダ=ドイツ国境沿いの橋3か所に空挺部隊が降下して橋を押さえ、地上部隊が南から北に向かって進撃して前線を形成し、オランダを一気に解放する作戦でした。
これにより、クリスマス前のドイツ降伏が見込めるといわれていました。                                    
さて、イージーカンパニーは一番南部の橋の降下作戦を任されます。
ある意味運が良かった。当時は前線が南にあり、北に行くほど敵陣深くなるため、危険でした。

実際に最北部に降下したイギリス空挺部隊は全滅。これを中心に描いたのが映画『遠すぎた橋』です。
マーケット・ガーデン作戦の中止が決まったのちにイージーカンパニーは彼らの救出に向かうことになります。

それはさておき、イージーカンパニーが確保するように命令を受けた橋のある街で彼らは大歓迎を受けました。
事前情報でもドイツ軍の守備は手薄とのことだったので意気揚々と橋に向かいます。

果たして待ち受けていたのはドイツ軍の攻撃。
たちまち敗色濃厚になります。そして、撤退。初めての敗戦でした。

 この回で取り上げられるのは補充兵。旧来の仲間は8割方が負傷・戦死して補充兵が送られてきていました。彼ら補充兵と旧来のメンバーとの関係にご注目。

バンド・オブ・ブラザーズ,あらすじ,解説

 
↑イラク,バグダッドで監視活動中のアメリカ駐留軍 アメリカ軍・軍事情報センター提供


第5話「岐路」(Crossroads)

第5回はトム・ハンクスが監督。この回だけ、時系列をいじっています。昇格したウィンタースの回想が時折混じるという構成です。

ウィンタースは大隊の指揮官になり、前線指揮から離れます。

冒頭ではマーケット・ガーデン作戦の後始末。

マーケット・ガーデン作戦で最北部に降下したうえ、作戦中止で壊滅的被害を受け、撤退がままならないイギリス空挺部隊を救出に行く。
なんとか成功。(なお、イギリス空挺部隊全員は救出できず、残りはドイツ軍に捕虜に取られてしまった。『遠すぎた橋』参照)

5話の残りと6話7話はバルジ作戦。バルジ作戦はナチス=ドイツ軍の最後の大反撃。
ドイツはこれに負けると後がないので大攻勢を仕掛け、ついに連合国の前線を一部で突破します。

簡単にバルジ作戦を解説しましょう。

【バルジ作戦】

作戦内容は第二次大戦初期のフランス進攻作戦の焼き直しです。

フランス=ドイツ国境のアルデンヌの森を電撃突破して連合軍に攻勢をかけるという作戦。情勢を有利にして和平交渉に持ち込みたいヒトラーの思惑による作戦決行でした。

この作戦に対してはナチス=ドイツ幹部からは反対論が強く出ていました。しかし、ヒトラーが押し切ってバルジ作戦決行となったようです。

結果は、当初は成功。連合軍を後退させ、ドイツ軍は進撃できました。しかし、そこから先は力負け。物資と人的資力に勝る連合軍は圧倒的な物量で押し返し、膠着状態にまで押し戻します。

そこから再度連合軍を撃破する力はもうドイツ軍にはありませんでした。結果的にはこれがドイツ軍全体としての最後の総攻撃になりました。

さて、わがイージーカンパニーは休暇中でしたが、ドイツ軍進撃の一報により前線復帰。
バストーニュへ向かいます。バストーニュに向かう途中ですれ違うぼろぼろになった兵士たち。
彼らは真っ先に奇襲をくらってかなり手ひどくドイツ軍にやられた部隊です。

イージーカンパニーは第2陣として戦地に赴くのでその意味ではラッキーでした。休暇で士気も高い中、ドイツ軍との戦闘が始まります。

バンド・オブ・ブラザーズ,あらすじ,解説

 
↑イラク・バグダッド市街掃討作戦中のアメリカ駐留軍 アメリカ軍・軍事情報センター提供


第6話「衛生兵」(Bastogne)

さてさて、高かった士気もどこへやら、だんだんと疲労の色を濃くする兵士たち。

ドイツ軍とは散発的な戦闘。大戦闘でなくても死傷者は出ます。

そのたびに走り回るのは衛生兵。大変な仕事です、体力的にも精神的にも。
そんな衛生兵の一人に焦点をあてて、彼の視点からアルデンヌの森の攻防戦を描きます。

よく、ニュースで「各地で散発的な戦闘が起きており、治安情勢は悪化しています」なんてフレーズが使われますが、こんな感じなんでしょう。
散発的というと軽く聞こえるけれど…。

【衛生兵って?】

一般兵士の中から志願または任命により、応急手当の知識を得て衛生兵になる。軍医とは別物で、実際には医学的知識なんてないも同然の者も多い。医師の資格があれば軍医として後方勤務が可能。           
第二次世界大戦中の国際規約によって、衛生兵は武装を許されない代わりに、攻撃は許されないことになっていました。

でも、そんなの理想論!てなわけで、衛生兵は狙い撃ちにされたりして、とても危険な任務でした。(もちろん非武装なんてナンセンス。)

そもそも戦闘中や遠くからの砲撃に区別なんて付きませんしね。

余談ですが、このころには負傷させることをメインに兵器開発がされるようになっています。なぜなら、1名負傷させると負傷者を運ぶために元気な兵士が抜けるので戦力減退を図れるから、死んでしまうよりも負傷の方が好都合。

バンド・オブ・ブラザーズ,あらすじ,解説

 
↑イラク国内,ある都市で民家捜索をする駐留アメリカ軍 アメリカ軍・軍事情報センター提供


第7話「雪原の死闘」(The Breaking Point)

さて、前回は全く戦線が移動しませんでしたが、今回は前進命令が出ます。でもドイツ軍も後がないのでかなりの反撃があるでしょう。

死闘が予想される中、新任のダイク中尉はコネでやってきた実戦経験のないエリート軍人。

ダイク中尉は負傷するのではないかと戦々恐々です。前線に立って銃撃の嵐を浴びるなんてもってのほか。
とてもじゃないが、恐ろしくて前線になんて立っていられません。

しょっちゅう後方に行ってしまい、前線に戻ってこないダイク中尉は困った上官。挙句の果て、戦闘本番でも恐怖で身動きできません。

ついに、ダイク中尉の上官ウィンタース大尉は指揮官交代を命令。
おみごと、バルジ作戦は終了しました。

このなんとも情けない、エール大出身のダイク中尉はこの戦いで実戦経験を積んだことになったのでしょう、この後、ちゃんと昇進。
将軍の補佐官にまでなります。

まあ、人生必ずしも、苦労した者が報われるものではないですね。

第8話「捕虜を捉えろ」(The Last Patrol)

もう終盤です。飽きるくらい長かったバルジ作戦。
一転して終戦のうわさが飛び交うバストーニュ後のイージーカンパニー。

今回のメインキャストはアメリカ国内訓練時代からのメンバー、ジョーンズ少尉。
しかし、旧来メンバーの彼を迎える仲間の目の冷たいこと…。

なんせ、彼は負傷して前線を離れており、あの辛かったバストーニュを経験していないため、かの過酷なバルジ作戦を経験した同僚からは遠い存在になっていました。

補充兵は経験を通して仲間として受け入れられていったことと反対ですね。旧来のメンバーでも経験を共有していない者には連帯感がなくなっている。

ジョーンズ少尉はかつて所属した隊から転属になってしまいますが、そこにやってきたのは士官学校を出たての新任将校。

新任将校として初めて前線に着任した彼は実戦経験を積まないまま、戦争が終わってしまうことに焦りを感じています。

あの無能なダイク中尉もそうですが、昇進のために実戦経験は必須。

じつのところ、そろそろ皆終戦が近いことを感じていて、内心無事に帰国したいという思いが強くなってきています。

そこに飛び込んできたのは、河岸を挟んで睨みあうドイツ軍から捕虜を取る作戦。

ところが、古参の兵士たちはもう生きて帰ることを優先したいと思っていて、作戦の実行を命じられることに不満たらたらです。
一方で、ジョーンズ少尉と新任将校は作戦の参加に乗り気。

トム・ハンクスの息子さんのコリン・ハンクスはそう、この回で登場です。トム・ハンクスもセリフ2つくらいの上級将校役で前半に出ています。

バンド・オブ・ブラザーズ,あらすじと解説

 
↑イラク国内民家の家宅捜索をするアメリカ駐留軍 アメリカ軍・軍事情報センター提供


第9話「なぜ戦うのか」(Why We Fight)

ようやくドイツ軍の大半が降伏。

この回からイージーカンパニーは本格的な戦闘から解放されます。

戦闘がないとなると部隊の雰囲気ががらりと変わってバンド・オブ・ブラザーズじゃない、別のドラマ見てる気分になってきます。

さて、命じられたのは郊外の森の偵察任務。ドイツ軍の残党がいないか調べてこいと言われて向かった先には…。

第10話「戦いの後で」(Points)

終わりです。ドイツは降伏しました。3年の長きにわたった対ナチス=ドイツ戦線の終結です。

残すは日本のみ…。イージーカンパニーの視線は太平洋戦線に目が向きます。

なぜなら、当時のアメリカは徴兵制で退役は点数制でした。(1973年ベトナム戦争終結とともに徴兵制は廃止。)部隊所属期間が基準に満たず、点数が足りないイージーカンパニー所属兵士は日本への転戦が予定されていたのです。

今のところ、イージーカンパニーはオーストリアに駐留しています。
ヒトラーの別荘を占領し、思い思いにくつろいでいる中で飛び込むドイツ降伏の一報。

そして、待機時間を経たのちの日本の降伏。日本に行く必要はなくなりました。

その後、隊が解隊され、全員が帰国できることに。
あとは、帰国した者たちのその後が語られて長かったバンド・オブ・ブラザーズのドラマもおしまいです。

バンド・オブ・ブラザーズ 解説とレビューはこちら

バンド・オブ・ブラザーズ,あらすじと解説

↑アメリカ空軍.イージーカンパニーは陸軍です. 軍事情報センター提供


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ファイト・クラブ

映画:ファイト・クラブ あらすじ
※レビュー部分はネタバレあり

 ファイト・クラブのエドワード・ノートンはハマり役、ブラッド・ピットはワルっぽさが最高。
 2大スターが競演する映画、ファイト・クラブ。90年代の映画のなかでも、ファイト・クラブは屈指の傑作といえる映画だ。

 人を苦しめる孤独と、心に潜む暴力的な衝動、そして自己破壊。誰もが持つ心の闇。その深層心理を見事に描きだす。

 「解説とレビュー」ではファイト・クラブの結末、ファイト・クラブの「暴力」とは?、主人公に名前がない理由、ラストに映るブラッド・ピットのヌードの意味など、2つに分けて詳しく解説していきます。

ファイト・クラブ 解説とレビュー後半はこちら





【映画データ】
ファイト・クラブ
1999年・アメリカ
監督 デヴィッド・フィンチャー
出演 ブラッド・ピット,エドワード・ノートン,ヘレナ・ボナム=カーター



 主人公は金融関係の仕事をし、裕福な生活をしている金融関係のサラリーマン。気に入った家具を通販で買い揃え、都会のど真ん中の高層マンションに住んでいた。

 一方で、仕事は目が回る忙しさ。上司とのあつれきやすれ違い、仕事の日常的なプレッシャーに耐えかねてもいる。

 そんな彼の楽しみは一風変わっていた。
 "がん患者の会"や"アルコール依存症患者の会"などのグループ・カウンセリングに出掛けては時間を過ごし、会員と交流することが唯一の安らぎだったのだ。

 ある日、彼が出会ったのはタイラーという男。

 タイラーは主人公の男とは対象的な性格で、野性的で乱暴なところのある男だった。喧嘩に強く、女性にもてるタイラーに彼は自分の理想を見るようになる。

 タイラーは「ファイト・クラブ」というクラブの主催者でもあった。
 ファイト・クラブとは、その名の通り、殴り合いのファイトを目的に結成されたクラブ。毎日、深夜に開催されるファイト・クラブに主人公も参加するようになる。

 昼間はスーツを着て会社のデスクに張り付いていなければならない。

 しかし、夜に男たちの集うファイトクラブは全く違う場所。
 そこは腕っぷしの強さがものをいう世界だ。お互いがお互いを本気で殴り合う。

 初めて知る、新しい世界。主人公は次第にファイト・クラブにのめりこんでいく。

【映画データ】
1999年・アメリカ
監督 デヴィッド・フィッシャー
出演 エドワード・ノートン,ブラッド・ピット,ヘレナ・ボナム=カーター

ファイト・クラブ


映画:ファイト・クラブ 解説とレビュー
※以下、ネタバレあり

 ファイト・クラブではエドワード・ノートン演じる主人公の名前が最後まで明かされません。なので、以下の「解説とレビュー」では便宜的に"ノートン"と俳優名で表記します。
 なぜ、名前がないのかについても書いていきます。

★ファイト・クラブの結末

 恋人のマーラと手を取り合って震動するビルの最上階にたつノートン。
 2人はどうなったのでしょうか?

 結論としては2人のいたビルも爆破されました。2人は死にました。

 直前で爆弾を解除していた?とも思われます。
 が、解除が失敗したか、まだタイラーがノートンによって消される前ですから、解除された爆弾をタイラーが修復したものと思われます。

 タイラーはノートンの後から結末の舞台となったビルの最上階に来ていますしね。

 エンドロール直前、ラストの映像も、ひどく画面が揺れ、最後に映像がブレて、途中でシャットダウンするようにして映画が終わっています。
 その時にビルが崩壊したものと考えるのが素直でしょう。

 死の直前、ノートンはマーラとの「愛」を知り、そして死んでいったのです。

ファイト・クラブ


★ファイト・クラブは暴力賛美?

 現在ではファイト・クラブはカルト的人気を誇る映画として根強い人気があります。しかし、ファイト・クラブ公開時は暴力的だとこきおろされ、散々な興行収入でした。

 ファイト・クラブが公開時に暴力的だと非難された理由の一つは、映画中で行われるファイトの様子。

 確かに、ぶん殴られて血が飛び、痛みに顔をゆがめる様子は、銃で人をばんばん撃ち殺す映画よりはるかに痛々しい感情を映画を観る者に呼び起こします。
 やはり、このファイト・クラブという映画は暴力行為に賛同し、暴力の助長を含意するものなのでしょうか。

ファイト・クラブ


★『気が済んだか、サイコ野郎』

 本当にファイト・クラブが暴力行為に賛同する映画であるのなら、幾つかの矛盾が生じることになります。

 まず、エドワード・ノートン演じる主人公が一人のファイト・クラブの会員をめちゃめちゃに殴り潰すシーンです。

 ここで、ファイト・クラブが暴力を指向するクラブならば、ノートンはファイトに勝利した勇者として称えられなくてはならないでしょう。

 しかし、タイラーはノートンに対してそっけなくこう言います。『気が済んだか、サイコ野郎』。

 そして、ファイト・クラブの他の会員たちも白けたような、冷たいよそよそしい雰囲気に包まれています。

 そこには暴力で不満を爆発させたノートンに対する非難が込められていました。

 なぜ、ノートンは非難されたのでしょう?
 なぜ彼らは殴り合うのでしょうか?

 それはファイト・クラブの目的が「自己破壊」にあるから。

ファイト・クラブ


 昼間の閉鎖的で規則的な生活。

 毎日同じ時間に起きて、同じ時間に家を出る。会社に行って仕事をがむしゃらにこなす。そして家に帰る。その繰り返し。まるで鎖でつながれた犬のように、同じところを周回して回っているような生活。

 そんな昼間の生活で生きている実感を感じられない者たちが、夜な夜なファイト・クラブに集まり、本気で殴り合う。

 生きることはこんなにも痛いのだ、こんなにも感じられるものなのだ。殴られると痛いから、それが分かるのです。

 殴られれば痛みを感じる。殴られてできた傷口がうずく。傷口からは血が流れる。次の朝には殴られた顔が腫れ上がっている。あざが体のあちらこちらにできている。

 ファイト・クラブに来る者たちは、殴り合いで傷つき、痛みを感じ、自分の体にキズがつくことで自分が生きていること = 「自分がこの世に存在していること」を実感するのです。

 決して、彼らは他人が傷つき、痛がるのを見て満足しているわけではない。

 彼らは痛みを感じ、自分の体についたファイトの痕跡を見ることで充足感を味わうのです。

ファイト・クラブ


 結論、ファイト・クラブの暴力性は自己の内側に向けられたもの、すなわち内面的暴力性です。

 ノートンがタイラーに頼んでわざと硫酸をかけさせ、やけどを負ったり、タイラーに殴ってくれと懇願して自分の顔を殴らせていることからも、それが窺えます。

 しかし、前述のファイトはノートンが一方的に相手を叩きのめし、さらに殴り続けたにすぎません。
 そこには「殴られる」という要素が欠けています。

 そうなってしまえば、もう単なる「暴力」です。
 ノートンの行為はファイト・クラブでされるべき行為ではありませんでした。

 すなわち暴力が他者に向かっていたことがファイト・クラブの趣旨に反する行為であり、それが皆を唖然とさせた原因だったのです。

ファイト・クラブ


★ハッピーエンドでない結末

 また、暴力を肯定し、それを社会に対して行使することを肯定する映画であるならば、ファイト・クラブの主宰者であったノートンが恋人と幸せを手にした瞬間にビルが崩れ落ちるようなラストであってはならないはずです。

 しかし、ラストではノートンは結局、自分が創設したファイト・クラブによる爆破計画により死亡する結末になっています。

 仮に、ノートンが死亡しないという解釈をとるにしても、ノートンは爆破計画を止めようとしています。

 確かにノートンは「タイラー」としてビルの爆破計画を立て、これを遂行しようとしていました。

 しかし、結果的に計画を止められなかったとしても、最後に「タイラー」ではなく、主人公自身の人格でファイト・クラブの計画を止めようとしていました。

 このことからも、暴力行為を肯定する映画であることは否定できるでしょう。

1, ファイト・クラブの暴力性が自分に向けられたものであったこと、
2, ノートンが爆破計画を止めようとしたこと。

 以上2つの理由から、ファイト・クラブが暴力行為に賛同する映画であるなどという批判はナンセンスです。
 むしろ、ファイト・クラブは暴力的表現で自己主張する行為を批判する映画であると見るのが当を得ているといえます。

ファイト・クラブ


長くなるので、ここで前半の「解説とレビュー」を終わりにします。
ご面倒ですが続きをご覧ください。

続きでは以下の内容について書いていきます
続きはこちら

★なぜ、ファイト・クラブはビル連続爆破を企てたのか?

★★主人公はなぜ、グループカウンセリングに通っていたのか?

★★★なぜ、ファイト・クラブの主人公には名前がないのか?なぜ、舞台になる都市名が伏せられているのか?

★★★★ラストに映るサブリミナル映像。ペニスとブラッド・ピットのヌードの秘密。

映画:ファイト・クラブ 解説とレビュー続き
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ファイト・クラブ 続き

映画:ファイト・クラブ 解説とレビュー 続き
※以下、ネタバレあり



映画:ファイト・クラブ 解説とレビューの続きです。
ファイト・クラブ 解説とレビュー前半はこちら



 ファイト・クラブではエドワード・ノートン演じる主人公の名前が最後まで明かされません。なので、以下の「解説とレビュー」では便宜的に"ノートン"と俳優名で表記します。
 なぜ、名前がないのかについては下の方に書いています。

ファイト・クラブ


★外に向かったファイト・クラブの暴力性

 それにしても、なぜファイト・クラブはビルの連続爆破を企てたのでしょうか。

 ビルの爆破計画は、それまで自分に向けられることで満足していたファイト・クラブの暴力性が、次第に外に向けられ始めたということの象徴です。

 すなわち、内面的暴力性から外面的暴力性への変化。なぜ、このようにファイト・クラブは変質していったのでしょうか。

 それは、ファイト・クラブで殴り合うだけでは物足りなさを感じるようになったから。

 彼らは痛みを感じることで生を感じることができましたが、それはあくまでも夜のファイト・クラブという狭い世界の中だけ。

 だんだんそれでは満足できなくなってきます。

 昼間の社会では相変わらず。ノートンは、会社の歯車の一つにしかすぎません。

 ファイト・クラブに熱心に通うようになってから、ノートンは服装は乱れ、態度もふてぶてしくなりました。
 そんな彼は、変わり者扱いされて今では会社のはみ出し者になっています。

 ノートンが会社でもそれと分かるようなあからさまな態度を見せたのは、目立つ態度を取ることで周囲から注目されるから。

 会社でノートンに向けられたのは非難の視線だったかもしれません。それでも、彼はその視線に満足するものを感じていました。

 確かに、褒められることで注目されたわけではないけれど、少なくとも、何も自分に関心が向けられなかった前よりもずっとましでした。

 自分はここに「いる」のだ、ということ、自分という存在を知ってほしいという思い。

ファイト・クラブ


 また、ファイト・クラブに行くようになって自分は強くなった。少なくともノートンはそう思っていました。

 人は自分が強くなったと感じると自分に自信がついてきます。
また、自信がつくと、自分が強くなったと感じる。ノートンはまさに、その通りの状態。自分に自信を持つようになってきていました。

 ところが、上司を始め、周りはノートンのファイト・クラブでの活躍を知りません。ノートンはあくまでもノートン。周囲にとって彼はやはり、会社のただの一社員に過ぎません。

 上司はいつも通りにノートンをノートンとして扱います。
 ところが、ノートンは自分に自信がついていて、今までどおりの扱いをされることに我慢がなりません。
 それで、上司に反抗的な態度を取り、仕事を投げ出します。

 こんなにも強い自分を分かってくれない昼間の世界の人間たち。
 次第にファイト・クラブの外の世界にも「自分」を出したいという欲求が高まってきます。

 この世界の人間たちに自分の存在を知らしめるにはどうしたらよいか。

 そこで思いついたのは、ビルの連続爆破計画でした。

ファイト・クラブ


★ノートンは何を求めていたのか?

 ノートンは自分の「存在」を知らしめるため、ビル爆破を計画した、と先ほど書きました。

 自分が「存在する」、とはどういうことでしょうか。

 たとえば、友人と自分が2人で席に着き、自分が話し始めたとしましょう。

 相手が他の方を見ていたり、心ここにあらずで、明らかに自分の話を聞いていないことが分かると、そのとき話している人はふっと孤独感を抱くものです。

 ノートンはまさにこの状態。自宅は高級マンションに高級家具。快適な生活ですがひとり暮らしの生活で恋人も友達もいない。

 会社に行けば周りに人間はたくさんいますが、誰もノートンに関心を払わず、彼に興味すら持ってくれません。皆、自分の仕事にきりきり舞いで、他人のことに注意を払う暇などないのです。

 では、人間が自分の存在を他人に認識してもらっていると感じるのはどんなときでしょうか。

 それは、他人が自分の話を聞いてくれるとき、自分の話に共感してくれるとき。

 相手が自分の話を聞いていることが分かると、人は安心するものなのです。

 それは相手が話を聞いてくれるからだけではありません。
 相手の反応を通して、相手が話をしている「自分」を認識していることが分かるからです。

 つまり、人間は他人を通して自分の存在を認識するのです。

ファイト・クラブ


 だからノートンは"依存症患者の会"や"がん患者の会"なるものに通っていたのです。

 グループ・カウンセリングの参加者たちはノートンの作り話を聞き、涙を流し、話が終われば拍手で迎えてくれます。

 ノートンには話を聞いてくれる人が必要でした。彼は話を聞いてくれ、共感してくれる存在を求めていたのです。

 グループにいるのは見知らぬ他人ですが、それでも構わない。
 自分の話を聞き、あいずちを打ちながら聞いてくれる人間がいるというだけで十分なのです。

 グループ・カウンセリングが終わったあと、ノートンは体格のいい男とお互いの話をいい話だったとたたえあいながら抱き合っていました。

 これも、自分の存在を確認したいという心理がなせるもの。他人との接触はやはり自分の存在を感じる源になります。

 これが殴り合いに変わっただけ。

 ファイト・クラブの「暴力」は「グループ・カウンセリングに通うこと」、「抱きしめ合うこと」の代わりなのです。

 そして、最後には「暴力」は「愛」に変わりました。

 愛とは相手に共感するということ。お互いを思いやるということは相手の存在を自分のなかで認めるということ。

 つまり、「愛」とは主人公が最後まで求めた、自分の存在を確認する手段の最終形でした。

ファイト・クラブ


★結末直前、ペニスとブラピのヌードのサブリミナルはなに?

 日本公開時にはモザイクがかかっていたとの話ですが、ファイト・クラブの結末。
 ビルが崩れていくシーンが終わってエンディングクレジットに移る直前にブラッド・ピットのヌードと男性器のアップがサブリミナル的に入れられています。

 なぜ、このショットが入ったのか。単なる監督の気まぐれではないでしょう。

 男性器については、恐らくはペニス=セックス=愛の象徴、としての意味があると思われます。
 これはすなわち、主人公が最後に掴んだマーラとの愛のこと。

 次になぜ、ブラッド・ピットのヌードか?

 ブラッド・ピット演じるタイラーは主人公の理想形。ファイト・クラブのセックス・シンボルです。
 となれば、映画ファイト・クラブの文脈においては、「タイラーのヌード」は「最も男性的な姿」。

ファイト・クラブ


 タイラーはその姿を消しましたが、タイラーはあくまでも主人公の一部。
 主人公の人格の中に併存し、主人公の男性としての面をつかさどる存在です。

 タイラーは主人公の一人格であるわけですから、このヌードは主人公のヌードでもあることになります。

 つまり、ラストに映るのは主人公のヌードとペニス。
 これは主人公の「男性」を表すとともに、この映画そのものの「男性」をかなり強調させるメッセージです。

 ここにはセックスこそが最も愛を感じるとき、自分を感じられるときなのさ、というような意味があるように思います。
 つまらない世の中でも、セックスをしているときは自分の存在を感じられる、というような。

 ファイト・クラブは自分の「存在」を求めて彷徨う主人公のシリアスな物語。
 ヌードとペニスのショットはシリアスな映画を真面目に見ている観客をまぜっかえしてやろうというような遊び心ではないでしょうか。

 思えば、タイラーは斜めに構えたところのあるふざけた感じの男でした。
 主人公の中にあるタイラーの一面が最後の瞬間、少しだけパッと混じったのかもしれません。
 
 そして、タイラーは主人公の意識下の存在になり、それまでのように主人公の意識から分離することはできなくなったことの象徴的表現でしょう。

ファイト・クラブ


★エドワード・ノートン = 「?」

 ファイト・クラブではエドワード・ノートン演じる主人公の名前、物語の舞台となる都市名が明らかにされません。

 エンドクレジットではエドワード・ノートンの役名が「Narrator」とされています。
 「ナレーター」とはそのまま、日本語のナレーター。話の語り手、話の進行役といった意味。人名ではありません。

 なぜ、エドワード・ノートンの役名や都市名が明示されないのでしょう?

 「ナレーター」は日々のうっ屈した不満を自己内に蓄積させた結果、「タイラー」という別人格を生み出しました。

 「タイラー」こと、ナレーターが実質的にはファイト・クラブの設立者・運営者であったことは事実です。

 これはノートンが二重人格であったという結末の重要なヒントでした。

 都市名が明かされなかったのはモデルになったウィルミントンがロケを拒否したという事情もありました。しかし、仮にロケが可能であったとしても、都市名は明かされなかったかもしれません。

 ファイト・クラブでは意図的に特定が可能な名前や場所の名称の使用を避けているように思われます。

 なぜなら、役名や都市名を明かさないことで、「ナレーター」という存在が誰か個人を指すものではなくなるからです。

 特定がされないことで、ファイト・クラブの「ナレーター」は現代人一般の孤独を代表する存在として普遍化されたのです。

ファイト・クラブ


★さいごに

 ファイト・クラブは90年代最後の傑作。ストーリーはもちろん、エドワード・ノートン、ブラッド・ピットら俳優陣の演技も最高です。

 エドワード・ノートンはこういう癖のある映画に好んで出演しているけれど、何を見てもハズレがなくて、俳優として本当に一流。

 出演作は必ずチェックしたい俳優のひとりです。

ファイト・クラブ


お読みいただきましてありがとうございました。

これからも、魅力的なレビューが書けるようにがんばっていきます。
応援よろしくお願いします映画レビュー集,映画のあらすじと詳しい解説,批評

ファイト・クラブ 解説とレビュー前半はこちら


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フィフス・エレメント

映画:フィフス・エレメント あらすじ
※『解説とレビュー』はネタバレあり

リュック・ベッソンの究極の娯楽映画、それがフィフス・エレメント。ブルース・ウィリスはセクシーだし、ミラ・ジョヴォヴィッチは超キュート。

映画は楽しむもの! そんな当たり前の原点に返らせてくれるSFアクション。

 『解説とレビュー』ではじつは楽しいだけじゃない、奥行きのあるフィフス・エレメントの世界をご紹介しています。

フィフス・エレメント


2214年、ニューヨーク。すっかり未来都市化したこの都市には統一宇宙連邦政府の本部がおかれ、世界の指揮をとっている。

そのトップであるリンドバーグ大統領は正体不明の物体が地球に接近していることを知り、統一宇宙連邦軍にミサイルを撃ち込ませるが、逆に反撃されてしまう。

そこに現れたのはコーネリアス神父。彼はリンドバーグ大統領に謁見し、正体不明の物体について説明する。

コーネリアス神父によると、それは"5000年に1度やってくる邪悪な物体"で、撃退するにはモンドシャワン人の持つ4つの石が必要であるという。
そして、地球を救うためにモンドシャワン人がその石を持って地球に向かっていると大統領に報告する。

しかし、そのモンドシャワン人の宇宙船は武器商人ゾーグの操るエイリアンにより撃墜され、4つの石はどこかにいってしまう。

フィフス・エレメント


タクシー運転手のコーベン(ブルース・ウィリス)は元統一宇宙連邦軍のエリート。
妻に逃げられ、狭いアパートの一室でペットの白い猫と共に暮らしている。

そんなある日、空から美しい少女が降ってきた。

コーベンのタクシーに激突してきた彼女はリールー(ミラ・ジョヴォヴィッチ)。
人間の言葉が分からない彼女に対してコーベンは身振り手振りで会話を試みる。

リールーは統一宇宙連邦政府から追われていたため、コーベンはとりあえず、彼女をコーネリアス神父の元に連れていく。

リールーは何者か?
地球は正体不明の物体により破壊されてしまうのか?

 平凡な生活を送っていたはずのコーベンは予想もしなかった運命に巻き込まれていく。



【映画データ】
フィフス・エレメント
1997年・アメリカ,フランス
監督 リュック・ベッソン
出演 ブルース・ウィリス,ミラ・ジョヴォヴィッチ



フィフス・エレメント


映画:フィフス・エレメント 解説とレビュー解説とレビュー
※以下、ネタバレあり

 実にお気楽、それ以上でもそれ以下でもないフィフス・エレメント。
 観終わった後に印象に残るのはオレンジ色の明るい世界。

 ミラ・ジョヴォヴィッチの髪が鮮やかなオレンジ色だし、ブルース・ウィリスの服もオレンジ。そのほか、セットにもオレンジ色を基調にした暖色系カラーがちりばめられています。

 そんな画面を126分も見ていれば、映画が終わってもその色が目に残ってオレンジのフィルターをかけられたような気分。

 結末を超簡単にまとめると、4つの石とは火・水・土・風の要素を表し、リール―が5番目の要素=elementだったというもの。
 そして、リールーとコーベンの愛によって邪悪な物体は避けられ、地球は救われる。

フィフス・エレメント


 単純 ! しかし、映画とは楽しいもの。

 これこそ、映画 ! と言いたくなるような楽しい作品であることは間違いありません。

 衣装や未来都市の街並み、室内のセット、そしてエイリアン。
 全てカラフルで、どこかおもちゃのような感触のある作り。

 エイリアンは皆着ぐるみで、それがまた何ともいえずいい。
 決して見ていて情けなくなるような出来ではありません。逆に存在感がありますし、フィフス・エレメント独特の造形と色彩です。

 衣装デザインがファッション界でかの有名な ジャン・ポール・ゴルチエJean Paul Gaultier だというのもまた、お洒落なセンスの源なんでしょう。

フィフス・エレメント


★愛は地球を救う

 フィフス・エレメントで中心にあるのは「愛」。「愛は地球を救う」。

 まず、リール―が地球を救う5番目の「要素」であるわけですが、彼女は地球の歴史を見て人類を救う価値が本当にあるのか悩み始めています。

 彼女が心変わりすれば、地球は救われません。

 彼女は5番目の要素として地球を救うのに不可欠の要素だからです。
 そこで、コーベンは彼女に人類には救う価値があることを説得します。

 それは人間には「愛」があるということ。
 「愛」があるから、人類には価値がある。

 そしてコーベンはリール―に、彼女を愛していると告白し、二人の愛のちからで地球は救われるのです。

 さて、この場合の愛はコーベンとリールーの男女の愛ですが、コーベンは人間の「愛」についてもっと普遍的に語っています。
 リールーへの愛はその一つとして表現しているのです。

 すなわち、人間を救う愛、人間を価値あるものにする「愛」とは世の全ての愛情関係を指すということ。

 リールーが人間をすくうかどうか迷ったのは戦争の記録フィルムを見たからでした。

フィフス・エレメント


 戦争で殺し合う人間たちの姿、捕虜となり強制労働させられたり、占領地で民衆が首をつるされたりする写真が連続で写されていくシーンがあります。

 このシーンだけ、白黒。それまでオレンジ色の温かさに包まれていた観客の目を覚ませるシーンです。

 徹底的な色彩転換と急に生々しくなる画面。
 これは明らかにフィフス・エレメントに仕込まれた意図的な場面転換です。そして、フィフス・エレメントのメッセージはこの瞬間に決まっている。

 "愛が地球を救う"なんて安っぽいキャッチフレーズですが、その愛には実はすごいちからがあるのだ、ということ。
 これがフィフス・エレメントのすべてです。

 戦争には「愛」が存在しません。
 戦争とは本質的に人間同士が殺し合うもの。

 戦地では、顔を見たこともない、顔も見えない敵と殺し合う、血で血を洗う戦闘が待っています。
 戦争には愛は存在しない、存在しえないのです。

 愛がないから戦争が起きると言うのは安直ですが、少なくとも、戦争には愛がないことは確か。
 それをリールーは敏感に感じとっていました。

フィフス・エレメント


★敵は人間にあり

 さて、フィフス・エレメントで石を横取りし、地球を滅亡の危機に追い込む敵は実はエイリアンではなくて、エイリアンを操る人間の武器商人ゾーグ。

 敵は武器商人、なんてリアルなんでしょうか。

 現実の戦争でも武器商人の暗躍は問題になっています。
 ニコラス・ケイジ主演の「ロード・オブ・ウォー」なんて映画もありました。

 また、武器商人のゾーグの外見はヒトラーをデフォルメしたもの。ナチスドイツの総統ヒトラー + 武器商人。完璧な悪役ですね。

 武器商人のゾーグはエイリアンを配下に置き、彼らを操って統一宇宙連邦軍を翻弄します。

 現実の戦争でも武器商人は裏方。決して自ら銃を撃つわけではありません。

 しかし、裏で、小型銃火器や重火器、大型ミサイルから果ては戦闘用ヘリコプターや戦闘機まで売りさばき、戦争の勝敗の帰趨を決めるとさえいわれる事実上の大きな力を持っています。

フィフス・エレメント


 武器商人のゾーグは自ら4つの石を手に入れ、権力を欲したことによって自滅していきます。

 しかし、現実の武器商人はカネの出せるほうに売ります。
 多くの場合、武器商人が取引するにあたって、政治的要素などは考慮されません。

 彼らは「商人」ですから、あくまで権力ではなく「カネ」が目的なのです。

 したがって、民族浄化を掲げて大量虐殺をやるといった問題のある国家に対しても平気で銃火器を売りさばきます。

 国家がこういった国家と取引をすると、国際問題となり、国連での非難決議や経済制裁のおそれなどさまざまな厄介な問題に対処することを考えなくてはならないでしょうが、武器商人にはその心配はない。

 しかし、商人は違う。例え、道義的に問題があったとしても、国際社会に非難されたとしても、関係ないのです。だってカネはカネだから。誰から、どんな取引で受け取ったとしても、カネの価値は同じ。


 さらに問題なのは、もっとも世界で取引量が多く、もっとも世界で一番多くの人を殺しているのは小型銃火器。ミサイルではありません。

 この事実が示すのは多くの人が目に見える距離、手の届く距離で殺されているということ。

 その距離は小型銃火器で撃ち殺すにはちょうど良い距離ですが、同時に、殺す相手と歩み寄り、コミュニケーションをとることが可能な距離でもあるわけです。

フィフス・エレメント


★やっぱり愛は地球を救う

 果たして、愛のちからはこのような場面でどのような解決策をもたらしてくれるでしょうか。

 「愛」というのは抽象的ですが、「愛」というのは相互に理解し合うこと。

 何世代にも渡って散発的な戦争が続き、政治的に具体的な解決策が取れない状況にある紛争地においてはこれは唯一取ることのできる解決策でもあります。

 世界各地の紛争地では、にらみ合う双方の国民を引き会わせてお互いのコミュニケーションを図り、お互いを知るということから和解を始めるという試みがなされています。

 実は、武力紛争終結後の住民の和解が一番の難題です。
 何年にもわたって殺し合ってきたわけですから、お互いに親や子、親戚といった肉親を殺されています。

 真に和解するには、まずは話ができる関係にならなくてはなりません。
 そのためにはやみくもに自分の主義主張に取りつかれることなく、相手の話に耳を傾け、分かろうとする努力が必要です。
 その繰り返しを続けるうちに、相手も自分の主張を聞いてくれるようになってきます。

 受容と寛容の精神。

 それも「愛」に含まれるでしょう。
 ラストシーンのコーベンの言う「愛」はこのような愛を指した言葉であり、リールーへの愛はその象徴的表現として使われているのです。

フィフス・エレメント
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プライベート・ライアン

映画:プライベート・ライアン あらすじ
※『解説とレビュー』はネタバレあり

 スティーブン・スピルバーグ監督作品としてあまりにも有名なこの映画。

 特に冒頭20分のノルマンディー上陸作戦オマハ・ビーチ戦の描写はそのリアリティーで賞賛を集めた。

プライベート・ライアン

↑ノルマンディー上陸作戦を決行後,戦闘がひとまず終結. その後展開を始めた連合軍. アメリカ軍軍事情報センター提供.

 プライベート・ライアンを初めて観たのはおそらく中学生のころ。オマハ・ビーチ戦はあまりに強烈で、本当に「痛い」と感じるほどだった。

バリー・ペッパーを知ったのはこの作品から。この後は彼の出演作もいろいろと気にするように。お気に入りは『25時』。日本未公開だが、『スノーウォーカー』という映画もいい。

 オマハ・ビーチ戦の、あまりに生々しい記憶があったので、その後放置していた。ようやく見直したが、やはり、名作。

 本作から3年後、「バンド・オブ・ブラザーズ」という10話に及ぶドラマが同じくスティーブン・スピルバーグとトム・ハンクスの共同制作により製作されている。

 これはノルマンディー上陸作戦のもう一方を描くもの。
 空挺部隊を主役に据え、ノルマンディー上陸作戦からドイツの降伏、そして終戦までを描いたドラマだ。

 ライアン上等兵の所属していたのと同じ、空挺部隊の兵士を描いたという意味ではもう一つの「プライベート・ライアン」ともいえる。

 元空挺部隊隊員の証言を元に構成されたノンフィクション・ドラマとしてこちらも秀逸。→『バンド・オブ・ブラザーズ』                            
 プライベート・ライアンの『解説とレビュー』では"1人のために8人が命をかけたその意味とは何か"、そして、"アパム伍長のプライベート・ライアンにおける存在意義"について解説しています。

プライベート・ライアン

 ↑D-Day当日にノルマンディー上陸を待つ連合軍. アメリカ軍軍事情報センター提供. 


 1944年、ノルマンディー上陸作戦が決行され、連合軍はドイツ領フランスに侵攻した。

 オマハ・ビーチの激戦を生き残ったミラー大尉に米軍空挺師団のジェームズ・ライアン上等兵の救出を命じる指令が下される。

ミラー大尉は部下を8人引き連れてライアン上等兵の捜索に乗り出すことになった。

 しかし、空挺部隊はドイツ軍の対空砲火によって四散しており、ライアン上等兵の生死や所在は定かでない。

 そのうえ、ノルマンディー上陸後、間がなく、いまだ解放されていないドイツ占領下のフランス領に侵入しなくてはならないという危険極まりない任務であった。

 彼らの行く手には想像以上の困難が待ち受けていた。



【映画データ】
プライベート・ライアン
監督 スティーブン・スピルバーグ
出演 トム・ハンクス,トム・ハンクス,トム・サイズモア,エドワード・バーンズ,マット・デイモン,バリー・ペッパー,アダム・ゴールドバーグ,ヴィン・ディーゼル,ジョバンニ・リビシ



プライベート・ライアン

 ↑ノルマンディー上陸作戦前夜、作戦決行を待つアメリカ軍. アメリカ軍軍事情報センター提供. 


【簡単に分かる!ノルマンディー上陸作戦】

作戦決行日はD-Dayとも呼ばれる.ノルマンディー上陸作戦は連合軍がドイツ占領下のフランスに上陸するという対独戦線の突破口となった重要な作戦。『史上最大の作戦』とも呼ばれる。これに対比して、史上最大の失敗といわれる連合軍の作戦も存在する。詳しくはこちら
空挺部隊が先行してドイツ領フランスに空から侵攻し、先に海からの上陸作戦の障害になる砲台等を攻略しておき、続いて海から陸軍が上陸する手はずになっていました。

しかし、ドイツ軍の対空砲火が予想以上に猛烈であったうえ、フランス上空の通過時間は12分という短さ。

空挺部隊は海に降下して溺死するか、各地に四散してしまい、決められた集合地点に到達出来た兵士はごくわずかという状況であったといいます。

結果的には、空挺部隊は大半の任務の遂行に成功し、海からの上陸作戦も成功します。

上陸作戦も複数の方向から上陸作戦が決行され、もっとも激戦かつ多数の死傷者を出したのが本作で描かれるオマハ・ビーチでした。

プライベートライアン

 ↑D-Day当日. 上陸後,戦闘がひと段落し,負傷者の手当てをしている. アメリカ軍軍事情報センター提供. 


映画:プライベート・ライアン 解説とレビュー
※以下、ネタバレあり

 戦争映画というと国と国との戦争を描いたもので、集団戦闘シーンが思い浮かびがち。

 プライベート・ライアンでも、冒頭の20分間はノルマンディー上陸作戦のオマハ・ビーチの模様を丹念に描き出している。

 このシーンでは、目を覆いたくなるほどのリアリティと迫力のある大規模な戦闘シーンを見ることができます。

 しかし、プライベート・ライアンの最も褒めるべきところは戦争を個人のレベルで体感できる戦闘に引き直して見せたところ。

 主役級の兵士はミラー大尉以下8名のみ。

 それぞれの戦闘の様子が丁寧に描かれ、ラストのドイツ軍との攻防戦でも、各兵士の動向が把握できるほど最小化された戦闘場面の描き方をしています。

 そのため、自分がその場にいるかのような迫力が身をもって感じられる映画となりました。

 さて、プライベート・ライアンでは特にアパム伍長を取り上げてその内容を探っていきたいと思います。

 なぜなら、アパム伍長は観客の大多数を代表する存在だから。彼抜きではプライベート・ライアンを語ることはできません。

 アパム伍長はプライベート・ライアンの"隠れた主役"といってもいい存在なのです。

プライベート・ライアン

↑ノルマンディー上陸作戦前,待機中のアメリカ軍.イギリスだと思われる. アメリカ軍軍事情報センター提供.

★アパム伍長

 アパム伍長にいらいらしませんでしたか?

「早く階段を上がれば仲間は殺されなかったのに!」と思いました?
「早く弾丸を運べば弾丸切れにならないのに!」と思いましたか?

 数ある戦争映画のなかでもアパム伍長のような兵士は異色の存在です。

 アパムの存在は観客に焦燥感を抱かせる存在であり、その分、観客の印象に強く残る人。

 プライベート・ライアンを観ているときには観ている者をいらだたせる腹立たしい存在だったとしても、観終わったあとには「なぜ、アパムがプライベート・ライアンという映画に登場するのか?」という問いかけが残る。

 本当に不思議。

 なぜ、アパムのような人間がプライベート・ライアンに必要だったのか。
 その秘密を探ってみましょう。

プライベート・ライアン

 ↑D-Day直前のアメリカ軍.アメリカ軍軍事情報センター提供. 


 一度は捕虜に捕ったドイツ兵がまた、戦場に戻って来ました。
 彼は、自らの意思で自軍に戻ったのか、それとも、ミラー大尉らから解放されて最初に出会った部隊がドイツ軍だったのか。

 いずれにしても、そのドイツ兵は戦場に戻ってきていました。

 その後、航空支援により、形勢が逆転し、ドイツ兵を追い詰めたアパムは降伏し、一列に並んだドイツ兵に銃を向けました。

 そのなかに見つけたのは、一度は捕虜として捕えたあのドイツ兵。
アパムは彼を射殺し、残りのドイツ兵を逃がしました。

 アパムはなぜ、彼だけを殺したのか?

 一度は捕えたのに、連合国軍に投降せず、ドイツ軍として再び戦場に戻り、戦ったからでしょうか。

 もちろん、それはあるでしょう。
 しかし、ドイツ軍兵士が連合国軍兵士と戦い、味方を殺したことが憎いのなら、その場に一列に並んだドイツ軍兵士は皆同罪ではないでしょうか。

 なぜ、同時に投降していた他のドイツ軍兵士を捕虜として捕えず、その場から逃がしたのか。

 アパムはこの少し前に仲間を見殺しにしました。
 アパムは階上で格闘する音に怯えてしまい、階段を上ることができずに、結果として仲間をドイツ兵に刺し殺されています。

 ドイツ兵は「こうするしかない」といいながらナイフに体重をかけていく。ゆっくりと胸に刺さるナイフ、抵抗する仲間の米兵の声。

 決着がついたのち、仲間を殺したばかりのドイツ兵はアパムをちらっと見ましたが、彼の目の前をさっと通り過ぎ、階段を駆け降りて行きました。

プライベート・ライアン

 ↑ナチスドイツのメダル.これは社会福祉活動に対して与えられたもの. 


 アパムのこの経験がかつて捕虜にしたドイツ兵を射殺させました。すべては報復のために。

 アパムは何もできず、殺されそうな仲間を助ける時間も武器も十分にあったのに、ついに動かず、仲間をドイツ兵に殺されてしまいました。

 しかし、ミラー大尉らが捕虜にしたのち、逃がしたドイツ兵と仲間の米兵を殺したドイツ兵は別人です。

 ところが、アパムにとってその区別は、もうどうでもいい。

 アパムは、自分が怯えて動けず、そのせいで仲間がドイツ兵に殺されたという現実にどうしようもない憤りとやるせなさを感じていました。

 そして、目の前に無抵抗で並ぶドイツ軍兵士たち。
 アパムには全員を怒りにまかせて殺すような度胸はありません。

 しかし、そのなかに見知った顔がいる。かつて、捕えたドイツ兵です。

 あのとき、ミラー大尉らは射殺するかどうかを散々議論し、そのドイツ兵に自分の墓まで掘らせた末、投降するように言い含めてドイツ兵を解放しました。

 「彼なら、一度死んだも同然の人間じゃないか」。

 アパムにとって、報復の対象はドイツ軍の軍服を着た者であるならだれでもよかった。

 かつて捕虜にしたドイツ兵でも、仲間を刺殺したドイツ兵でも同じでした。アパムに射殺されたドイツ兵は仲間を刺殺したドイツ兵の代わりだったのです。

プライベート・ライアン

 ↑D-Day当日,連合軍に投降してくるドイツ兵たち. アメリカ軍軍事情報センター提供. 


 この場合のアパムの「報復」は非常に個人的なもの。

 「戦場で自分が期待された役割を果たすことができなかった」という自分に対する失望感と、そのせいで仲間が死んだという罪悪感。

 自らの中に溜めこんだうっぷんを晴らすため、アパムはドイツ兵を殺しました。

 一方、アパムの仲間を殺したドイツ兵は、階段でふるえていたアパムを見逃しました。

 なぜか。

 階上の室内での格闘では、ドイツ兵は自分が殺さなければ相手に殺されるという状況にありました。だから、殺した。

 しかし、アパムは武器こそ持っていますが、階段でぶるぶる震えて縮こまっている。そんなアパムはドイツ兵の生死に関係してこない。

 だからアパムは殺されなかったのです。

 しかし、アパムはドイツ軍兵士が全員降伏している状況下でその1人を射殺している。

 つまり、生きるか死ぬかの状況ではなく、絶対安全下でアパムは敵を殺しました。

アパムが仲間を助けに行けなかったのは、命の危険を感じて怖かったから。

 しかし、相手が無防備ならば、敵を殺すことができる。

プライベート・ライアン

 ↑フランス・ノルマンディーにあるドイツ軍戦死者墓. 


 アパムは卑怯な人です。

 アパムが仮に、階段で震えるアパムを見逃したドイツ軍兵士の立場だったら。

 アパムは階段で怯えている敵軍兵士をも、殺したかもしれません。

 なぜなら、アパムは臆病な人だから。

 階段にいる敵軍兵士は怯えているけれど、武器を持っている。彼を見逃せば後ろから撃たれるかもしれない。

 しかし、と思うのです。

 仮に、本当に戦場に送られたとき、人は「アパムのような行動をとることはしない」といえるのか、と。

 戦争という現実に"命のやりとり"をする場において、皆が「英雄」でいられるのか。

 自分の命の危険があれば味方を見殺しにし、自分の身が安全な場では敵を堂々と殺す。

 アパムの行動は、戦争という場におかれた人間の行動として責めることはできないのではないか。               

 戦争映画を見るとき、観客は登場人物に"活躍"を期待します。

 観客が期待するのは、自分の命を投げ出し、仲間の命を守ろうと行動する戦場の勇者。

 命の危険に怯え、仲間よりも自分の命を優先するアパムの行動は観客の期待を裏切ります。

 そこに観客はフラストレーションを感じるわけです。

プライベート・ライアン

 ↑ノルマンディー上陸作戦前に待機中のアメリカ軍. アメリカ軍軍事情報センター提供. 


 アパム伍長は臆病者であり、卑怯であり、仲間よりも自分を優先する人。

 ミラー大尉らは果敢にドイツ軍に立ち向かい、その高い技量と強い使命感をもって任務の達成に尽力し、そして散っていく勇気の人。

 ミラー大尉らの活躍が、彼らとは対象的なアパム伍長の存在によって、より強調されます。

 しかし、少し冷静になってプライベート・ライアンを観てみると、アパムという存在はボディーブローのように効いてくる。

 なぜなら、アパムがいることで、戦場に置かれた人間の本当の姿をまざまざと見せつけられていることに気がつくからです。

 戦場の兵士には「崇高な精神」と「無限の勇気」を無意識的に要求してしまうもの。

 しかし、アパムの存在は自分が兵士に何を求めているのかを意識させます。

 戦場に行ったら急に強い人間になるわけではない。なのに、つい、強い人間を期待してしまう自分に気がついてしまう。

 戦争映画に登場する兵士に"強者"を思い描く自分、そして、現実の戦争とのギャップ。

プライベート・ライアン

↑フランス・ノルマンディーにある連合軍戦没者の墓. 祖国に戻らず,ノルマンディーの地に埋葬された数多くの兵士たちがいた.

 プライベート・ライアンのラスト。迫りくるドイツ軍とミラー大尉らドイツ軍を待ちうける連合軍との攻防戦。

 観客はアパムの視点からその先頭を経験することが多くなります。
それはなぜか。

 多くの観客はアパムと同様、戦争での実戦経験がない人ばかりでしょう。観客は戦場に行ったとき、戦場で期待される"あるべき兵士"のようなパフォーマンスができるのか。

 あるべき兵士か、そうでないかの境目を、無意識的に人間という枠を超えて求めてしまってはいないだろうか。

 つまり、戦場で戦っている兵士も、祖国で会社勤めをする人間や、学校に通っている学生と同じ「人間」であるということを忘れてはいないかということ。

 ミラー大尉をはじめとする部隊の仲間は連戦を重ねてきた者たち。いわば「殺し慣れ」ているわけです。

 一方、突然に歴戦の兵士たちの中に放り込まれることになったアパムは、実戦の経験がほとんどない事務方専門の兵士。

 アパムの存在は"戦地という非日常"に日常の尺を持ち込むもの。

 これを思い出させてくれるのがプライベート・ライアンにおいての、アパム伍長という存在なのです。

プライベート・ライアン

↑アメリカ,ワシントンDC. アーリントン国立墓地にある無名戦士の墓. 戦争ごとに1体の身元不明の遺体を選び,その戦争の無名戦没者の代表として埋葬している. 1体を選ぶのはこの墓が慰霊碑としてモニュメント的性格が強いからである.
ちなみに、千鳥ヶ淵戦没者墓苑は引き取り手のない遺骨や,身元が不明である兵士の遺骨を全員について納めている. 納骨堂の性格が強い.


★1人のために

 1人のために8人もの命をかけて救出に行く必要があるのか。

 1人のために、8名の部下を引き連れ、ライアン上等兵の救出に向かうことになったミラー大尉。その任務が意義あるものなのか、それぞれがそれぞれの思いを抱いていました。

 上官として、部下の前で大げさに不平不満は言わないものの、ミラー大尉も内心は複雑な思いを抱えています。

 命令を下した軍上層部には、ライアン家では4人兄弟のうち、既に3人が死亡しており、全員戦死との訃報を母親に知らせることはできないとの配慮がありました。

 また、当時のアメリカにはヨーロッパとの戦争にアメリカが口出しをする必要はないとの議論が下火ではありましたが、なくなったわけではありませんでした。

 ノルマンディー上陸作戦を成功させたばかりの軍上層部には、世論に厭戦気分が広がらないようにする戦略的配慮があったのは当然です。

 これらの事情から、「ライアンを帰還させよ」との命令が下されました。

 空挺部隊の見知らぬ一兵士を、生死も定かでなく、彼がどこにいるかもわからない状況下で、帰国させるために連れ戻す。

 その任務のどこに意義があるのでしょうか。

彼らの任務に対する疑問は当然やる気にも影響してきます。

 空挺部隊の兵士が脇をぞろぞろと歩く横で、大量に缶に入れられた空挺部隊のドッグタグをざあっと机に空け、放り投げるようにして選別するミラー大尉以下、ライアン救出部隊の面々。

プライベート・ライアン

 ↑第2次世界大戦で使われたドッグ・タグ. 


 ドッグタグはタグが2枚ついた身元を判別するための認識票で、兵士が身につけているもの。

 兵士が死んだとき、そのうちの一枚を取っておき、一枚は死体に残します。

 その一枚が、今現在ミラー大尉らのもとにあるということは、もう持ち主は死んでいるということ。

 それを多くの空挺部隊兵士が行軍している脇で選別し、しかも、そのタグは彼らが所属する空挺部隊のタグ。

 同僚の死の記録、そのドッグタグを目の前で堂々と無造作に分別している者がいたら、どう思いますか?

 一体、この配慮のなさはどうしたことか。

 ライアン救出にかけるべき意義が見出せず、低調で緩んでいた空気がつい、ミラー大尉たちに無遠慮なことをさせたのでしょう。

 「祖国アメリカのために」尽くす用意はあるけれど、はたして、ライアンの救出がその目的にそぐうものといえるのか?

 ライアンをアメリカに帰還させるという任務は命の危険を冒してまでやり遂げるべき価値があるものなのか?

 その答えは、老ライアンがアーリントン墓地に墓参りにやってきたシーンが明らかにしています。

プライベート・ライアン

↑アーリントン国立墓地. 戦没者記念日には全ての墓に星条旗が捧げられる. アメリカ軍軍事情報センター提供.

 すっかり年老いたライアン。

 彼は墓に花輪をたむけ、涙を流しています。そして、その後ろには家族の姿が。ライアンの子供夫婦と、孫。

 ミラー大尉らが命を賭してライアンの捜索をし、帰国命令を受けたライアンは祖国に帰り、家庭を持ち、孫までいる。
 彼は今、幸せに暮らしているのでしょう。

 ミラー大尉らがライアン上等兵のもとにたどり着いたとき、「帰国するつもりなどない」と言っていたライアン。

 今は、ミラー大尉らの任務が自分の人生を大きく変えたことを信じて疑わないでしょう。

 ライアン救出という任務が、一見、無意味なように思えたとしても、ミラー大尉らがその任務を果たしたことで、人間1人の人生が大きく変わりました。

 「祖国のために尽くしたい」。ミラー大尉たちのその思いには直接的に応えられるものではない任務であったとしても、彼らが忠実に任務を果たしたことで、ライアンは祖国で新しい命をつなぎました。

 ライアンの子供や孫たち、次の世代はかつて行われたライアンの救出劇を、称えられるべき兵士たちの物語として語り継いでいくことになるでしょう。

プライベート・ライアン


 今、していることがはたして、将来どのような役に立つのか、それは未来になってみないと分からないこと。

 やっていることがあまりに馬鹿らしいと思えたり、あまりに小さな進歩に焦りを覚えたとしても、全てが将来につながっていく。

 その"将来"にあるものが何かはそのときになってみなければ分からない。

 けれど、そのときに振り返ってみると、あのときの小さな一歩が実は大きな一歩だったことに気が付くものです。

 1人のために。

 ミラー大尉らの任務は確かにライアンの未来を変える力をもっていた。

 その一事で彼らの任務とその犠牲はやはり、無駄ではなかったのだ、そう思えるのです。

プライベート・ライアン

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プラトーン

映画:プラトーン あらすじ
※レビュー部分はネタバレあり

 ベトナム戦争映画の先駆けとして絶大な存在感を誇る名作。ベトナム帰還兵でもあるオリヴァー・ストーン監督がリアルな戦争の真実を描く。

 今見ても絶対後悔しない。
プライベート・ライアン』と並んで戦争映画の双璧をなす映画。
 製作年を見て、そんなに前の作品か、と逆にびっくりするほど。古さは全然感じない。

 ストーリー展開を今あらためて見てみると、本当に戦争映画の"鉄則"を作り上げた作品だと思う。戦争スペクタクルとしての戦闘シーン、上官と兵卒との関係、隊内の人間関係…。『プラトーン』は戦争映画の原点だろう。

 また、プラトーンで描かれる民間人の虐殺・レイプ、部隊内での殺人やはびこる麻薬…ベトナム戦争の暗部を描いて、それまでの戦争映画とは違うリアリティーをプラトーンは観客に提示した。

 プラトーンはアメリカ国内で『地獄の黙示録』に続く第2次ベトナム戦争ブームを巻き起こすことになる。

 ベトナム戦争関連では、ロバ―ト・デ・ニ―ロの『タクシードライバー』もおすすめ。これは戦争映画ではなく、サスペンスだが、戦地から帰還した兵士の悲哀と病んだ心を巧みに描きだしている。

 『解説とレビュー』では以下を検証していきます。

 1,分かりやすい"善・悪"="エイリアスとバーンズ"に託された意味
 2,主人公クリス・テイラーの最後の選択
3,バーンズだけが"狂気"の人だったのか?

プラトーン
↑ワシントンDCにあるベトナム戦没者記念碑. そこに捧げられたテディー・ベア.後ろには戦争終結年1975年の数字が見える.
この記念碑にはベトナムで戦い,命を落とした兵士たちの名前が全て彫ってある. 初めて見た者はその長さに驚く. 全体写真は下部参照.


 クリス・テイラーは大学を中退してベトナム戦争に志願して戦地にやってきた。しかし、その現実は自分の想像をはるかに超える過酷なものであった。

 深いジャングル、湿度が高く、暑い熱帯気候は容赦なく体力を奪い、士気を低下させる。さらにジャングルは敵の姿を消し、夜には深い闇となる。

 カンボジア国境付近のアメリカ陸軍第25歩兵師団に配属された彼は散発的な戦闘を繰り返しながらジャングルを進軍していくことになる。

 彼らの敵は北ベトナム軍だけではなかった。

 小隊内は小隊長バーンズと班長のエイリアスが対立し、ただならぬ雰囲気であったのだ。バーンズとエイリアスはことごとく対立し、小隊内は二派に分断されていたのだった。



【映画データ】
1986年・アメリカ
プラトーン
監督 オリバー・ストーン
出演 チャーリー・シーン,ウィレム・デフォー,トム・べレンジャー,フォレスト・ウィテカー,ジョニー・デップ



プラトーン

↑ワシントンDCにある, ベトナム戦争戦没者の記念碑. 全長75m,高さ3m. 黒い壁はベトナム戦争戦没者約6万名の名前で埋めつくされている.年間約300万名が訪れる.

【ベトナム戦争ってなに?】

現在のベトナムは「ベトナム社会主義共和国」という1つの国です。しかし、1976年までは南と北の2つに分かれて戦争をしていました。それがベトナム戦争です。

当時は冷戦の真っただ中で、資本主義VS.共産主義の対立が激しかったことも頭に入れておいてください。つまり、アメリカVS.ソ連の対立です。

ホー・チ・ミンが建国した社会主義のベトナム民主共和国(北ベトナム)。これを認めないアメリカを始めとした資本主義国がベトナム南部にベトナム共和国(南ベトナム)を作りました。

そして、南ベトナム政府をアメリカを中心とした資本主義陣営が支援し、北ベトナムをソ連・中国を中心とする共産主義陣営が支援しました。結果、1960年前後から1975年に南ベトナムの首都サイゴンが陥落するまで戦争が続きました。

プラトーン

↑ベトナム戦争交戦国の概念図.


アメリカ軍は1956年ごろから小規模に関与。1961年に当時のケネディ大統領が軍事顧問団を派遣。1962年までには本格的な増派がされました。

その後、犠牲の大きさからベトナム反戦運動が活発化。ニクソン大統領はベトナムからの"名誉ある撤退"を掲げ、パリ協定(和平協定)の調印にこぎつけます。
1973年に撤兵が完了。約11年、戦争に本格的に参加していたわけです。

その後も、1975年のサイゴン陥落・南ベトナム敗戦までサイゴンに軍事顧問団を駐留させて南ベトナム政府を支援していました。

アメリカは結局、約5万8000名の戦死者を出しました。これは派兵された数の約1割強の人数です。

ベトナム側は南北を合わせて100万から300万人の人が死亡したといわれています。現在も枯葉剤や神経ガスで苦しむ人が多くおり、数え方によってばらつきがあります。正確な人数は分かっていません。



映画:プラトーン 解説とレビュー
※以下、ネタバレあり

★善の死

 プラトーンという映画は誰がどういう役回りを期待されているか、実に分かりやすく配置されています。

 班長エイリアスはこの映画の良心であり善の象徴だし、クリス・テイラーはアメリカ国民又は観客、小隊長のバーンズは悪の象徴です。

 あえていうと、交戦している北ベトナム軍もバーンズと同じ側かもしれませんが、プラトーンは敵を外に求めず、アメリカ軍の内部に置いているところが特徴的なのです。

 単純な構図化された戦争映画、といってしまえばそれまでですが、この映画はこのシンプルな構図を通して、ベトナム戦争という場を大胆に描き出すことに成功しました。

 プラトーンを観る者は、新兵のクリスの変貌を通して、ベトナム戦争の空気を実に新鮮に、生々しく感じ取ることになります。

 主人公のクリス・テイラーは血気盛んな若者です。

 大学生である彼は本来、徴兵が猶予され、ベトナム戦争に来ることはない階層の人間。それなのに自ら戦争に行きたいと志願して戦地にやってきました。

 クリスを後押しするのは無知と無知から来る勇気でした。

 当時、ベトナム反戦運動のなかには、戦場の実態を知る負傷軍人による反戦活動がありました。しかし、彼らの反戦運動は戦場の仲間を裏切るものであるかのように世間に捉えられてしまいました。

 結局、彼らの反戦運動は非常に冷ややかに世間に受け止められていたのです。ベトナム戦争の苦しい状況を憂う声はアメリカ国民に十分には届きませんでした。

 クリスは戦地の現状を何も知らずに安全な場所から戦争賛成を主張するアメリカ国民または、ベトナム戦争の米軍派遣を傍観しているアメリカ国民を指しているのです。

プラトーン

 
↑ベトナム共産党の広告. 現在,一党独裁体制を敷いている. 経済政策は中国を模倣し,市場経済推進の立場をとる.


 そして、バーンズはベトナム戦争の暗部を代表しています。

 バーンズのベトナム村民虐殺や、エイリアス殺害は戦地の兵士の追い詰められた精神の激昂状態の象徴的表現。そして、バーンズその人は、そういった行為に及んでしまう兵士の苦悩の姿でもあります。

 さらに、エイリアス。彼は善の象徴です。

 レイプしようとする仲間の小隊兵士を止め、バーンズの村民虐殺を止めさせ、バーンズの卑劣な行為を軍法会議にかけてやると告発の意思を示します。

 彼はプラトーンのベトナム戦争で、一筋の光明を示している存在でした。

 しかし、エイリアスは射殺されてしまいます。撃ったのはバーンズ。北ベトナム軍の進攻状況を斥候に出た先で、バーンズはエイリアスを狙い撃ちしたのです。

 このとき殺されたかと思ったエイリアスが、ヘリコプターを追いかけてジャングルから走り出してきます。

 力尽きて地面に膝をつく。両手を大きくかかげ、何かを仰ぐように視線を上に向けたエイリアス。そして、最期の瞬間。絶叫しつつ、顔を上に向け、両手を高く突き上げたまま崩れ落ちていく。

 彼は何を見ていたのか。もちろん、飛び立っていく味方のヘリコプターを見ていた、というのもあるでしょうが、あのように両手を大きく掲げる行為は無意識に神を意識しています。

 エイリアスは最期に、天を仰いで死んでいきました。

プラトーン


★悪の勝利

 エイリアスはバーンズに殺されました。善が悪に負けたのです。

 このとき、正義は死んだ。
 この戦争にはもはや救いがないことをエイリアスの死は暗示しています。

 神すら見放した地、それがベトナム。もはや、何があろうが、この先は暗黒しかありません。

 戦意に溢れてベトナムにやってきた新兵のクリスは次第に変わっていきます。

 想像とは全然違ったベトナム戦争。勇敢に戦い、英雄としてアメリカに帰還するはずが、今は、生き残ることに必死にならざるを得ない毎日。もう、戦功をたてる気持ちなどは吹っ飛んでしまっています。

 そして、エイリアスの死。彼の死はクリスを大きく変えることになります。エイリアスの存在はクリスのいる小隊に一つのラインを引いていました。

 それは、決して超えてはならないライン。

 しかし、彼が殺された今、その境界線はもはや曖昧なものになりつつあります。クリスはバーンズに明確な殺意を抱くようになっていました。

 確かにバーンズは卑劣な男です。しかし、バーンズの上官は事実に薄々気が付いていたとしても、バーンズを処分して、自分の経歴に汚点をつけるようなことはしないでしょう。

 また、エイリアスをバーンズが殺したことを告発して立証することは不可能に近いことです。

 しかし、ここで、バーンズを殺してしまっては、クリスはバーンズと同じ、ラインの向こう側に落ちることになります。

プラトーン

 
↑ブラッケンリッジパークの慰霊碑. "WE WILL REMEMBER VIETNAM",1975年5月7日と記されている.
アメリカ各地に慰霊碑があることからも, ベトナム戦争の社会に与えた影響の大きさをうかがい知ることができる


 もちろん、プラトーン、ここは映画です。
 バーンズをクリスが殺しても観客が納得できるようにいろいろと準備がしてあります。

 クリスが殺人という手段以外に取りうる全ての可能性は断たれています。しかも、クリスに殺される前のバーンズは北ベトナム軍の攻撃で瀕死の状態です。放っておいても死んだでしょう。

 しかし、バーンズがどんな男であれ、死にかかっていたとはいえ、それでも、クリスは彼の命をその手で断ちました。

 この事実は重いものです。

 愛国心と正義感に燃えてはるばるアメリカからやってきた青年が行きついたさきの地。

 それは、ベトナムという名の"地獄"でした。
 彼は、バーンズを殺したことで超えてはならない一線を越え、真実、地獄に落ちたのです。

 でも、それにクリスは「気がつかない」でしょう。エイリアスを殺害したバーンズをクリスが殺したことはクリスのなかで正当化されているからです。そして、その論理がおかしいことにはクリスは一生気がつかない。

 いえ、クリスはこれからの人生を、そのおかしさに「気がつかないよう努力し続ける」ことに費やす、という方が正確かもしれません。

 クリスがバーンズを「殺した」ということに自覚的になれば、クリスは一生その罪を負って生きなくてはならないからです。

 そうならないためには、この殺人をどこまでも正当化しなくてはならない。

 クリスにとってはどちらを取ってもいばらの道なのです。

プラトーン

↑シカゴにあるベトナム戦争戦没者の慰霊碑.


★戦争の狂気

 エイリアスを殺したことでバーンズが非難されるならば、クリスも非難されるべき。

 そして、エイリアスを殺したバーンズが狂っていると言われるなら、クリスも狂っているのでしょう。

 さらに、バーンズにエイリアスを殺させたのはベトナム戦争ならば、クリスにバーンズを殺させたのもベトナム戦争です。

 戦争がなければ、バーンズもクリスも、このような行為をすることはなかったでしょう。

 バーンズもクリスも狂っているとするならば、究極的にこのベトナム戦争自体が狂っているというべきです。

プラトーン

↑ワシントンDCにあるベトナム戦争戦没者の慰霊碑.


 ベトナムに限らず、狂気のない戦争なんてあるのでしょうか。

 戦争が起きる理由、戦争をしなくてはならない理由、戦争をすることが今の国際情勢下でもっとも適切であること、いろいろな理由を付けて説明することはできます。

 それについて語れと言われれば、あらゆる理由を列挙して戦争の正当性を雄弁に語ることができるでしょう。

 しかし、どんな戦争であれ、人類の戦争の歴史においてただ一つ変わらないこと。それは、戦争という場においては、人の死を「数」でカウントすることが許されるということ。

 どんな人でも、どんな死に方であれ、戦争では「1」とカウントされます。命の重さは相対的に軽くなります。

 明日死ぬか、今日死ぬか。生死の境が曖昧な「戦争」という場所では、人をひとり殺すということに、それほどの気力は必要ではなくなっています。

 そのような状況下においては誰だって、バーンズになれるし、クリスになれるでしょう。

 戦争というもの、人が殺し合うということ、それが好ましくないと分かっていながら、ある状況下では、人類はそれはやむをえない手段だと許容するもの。

 いつか戦争はなくなるのでしょうか、それとも必要悪なのでしょうか。

 少なくとも、映画プラトーンでは戦争に対するメッセージは明らかです。

 プラトーンで善は死にました。

 絶対的正義の代弁者だったエイリアスが死んだとき、プラトーンのベトナム戦争から、神は消えたのです。

プラトーン

↑ワシントンDCにある, ベトナム戦争戦没者の慰霊碑. 夜はライトアップされる.


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フォッグ・オブ・ウォー マクナマラ元米国防長官の告白

映画:フォッグ・オブ・ウォー マクナマラ元国防長官の告白 あらすじ
※レビュー部分はネタバレあり

フォッグ・オブ・ウォー.jpg

 ↑映画のポスター。アメリカ版。


 マクナマラ元アメリカ国防長官に学ぶ11の教訓。
 さて、ベトナム戦争の責任者として悪名高い彼が何を語るのか。

 はっきり言おう。この映画は「偏っている」。
 しかし、"自己弁護"では片付けられない。「フォッグ・オブ・ウォー マクナマラ長官の告白」。『解説とレビュー』では、この映画の深層をぜひ、考えていきたい。

 ロバート・"ストレンジ"・マクナマラは85歳のときにインタビューに応えているが、年齢を感じさせない頭の回転を見せ、論理明快に自らの人生とその経験について語る。

 マクナマラというとベトナム戦争に飛びつきがちだが、この「フォッグ・オブ・ウォー」はマクナマラ氏の人生観を網羅した映画でもある。

 彼は第2次世界大戦中に兵役につき、対日本の焦土化作戦に関与してした。東京大空襲を実行した現場責任者のルメイの考え方、マクナマラ本人の考え方についても、子細に証言しており、興味深い。彼が原爆投下についても踏み込んだ考え方を示していることには感心する部分もあった。

 しかし、何といっても、この映画の主眼はベトナム戦争にある。
 マクナマラが国防長官として主導した戦争を齢80を超えた彼がどう語るのか? そして、その言葉を聞いた観客は何を感じ取るのだろうか?



【映画データ】
フォッグ・オブ・ウォー マクナマラ元国防長官の告白
年・アメリカ
監督
出演 ロバート・ストレンジ・マクナマラ



フォッグ・オブ・ウォー

 ↑ロバート・ストレンジ・マクナマラ国防長官の公式ポートレイト。 アメリカ国防総省提供。 


映画:フォッグ・オブ・ウォー マクナマラ元国防長官の告白 解説とレビュー
※以下、ネタバレあり

マクナマラ長官に学ぶ11の教訓

♯1 敵の身になって考えよ
♯2 理性には頼れない
♯3 自己を越えた何かのために
♯4 効率を最大限に高めよ
♯5 戦争にも目的と手段の"釣り合い"が必要だ
♯6 データを集めよ
♯7 目に見えた真実が正しいとは限らない
♯8 理由づけを再検証せよ
♯9 人は善をなさんとして悪をなす
♯10 "決して"とは決して言うな
♯11 人間の本質は変えられない

♯1 Empathize with your enemy.
   敵の身になって考えよ
♯2 Rationality will not save us.
理性には頼れない
♯3 There's something beyond one'sself.
自己を越えた何かのために
♯4 Maximize efficiency.
効率を最大限に高めよ
♯5 Proportionality should be a guideline in war.
戦争にも目的と手段の"釣り合い"が必要だ
♯6 Get the data.
データを集めよ
♯7 Belief and seeing are both often wrong.
目に見えた真実が正しいとは限らない
♯8 Be prepared to reexamine your reasoning.
理由づけを再検証せよ
♯9 In order to do good, you may have to engage in evil.
人は善をなさんとして悪をなす
♯10 Never say never.
"決して"とは決して言うな
♯11 You can't change human nature.
人間の本質は変えられない

フォッグ・オブ・ウォー マクナマラ長官の告白6.png

↑ジョン・フィッツジェラルド・ケネディ。1963年、暗殺。ジョンソン副大統領が大統領職を引き継いだ。ホワイトハウス提供。

フォッグ・オブ・ウォー

 ↑リンドン・B・ジョンソン大統領。ホワイトハウス提供。 


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↑カーチス・エマーソン・ルメイ。第2次世界大戦時、日本の焦土化作戦の責任者(当時は少将)を務め、後に空軍参謀総長になった。アメリカ空軍提供。

 この中で最もマクナマラ元国防長官らしいものは、「♯4 効率を最大限に高めよ」。

 この教訓は彼が現役の国防長官だったころ、いや、それより前、ハーバード大学の助教授をしていたころからの信念。彼はこの理念のもと、東京大空襲を始めとした日本本土の焦土化作戦の立案に関与し、終戦後は倒産寸前のフォード社を立て直し、フォード社の社長にまで登りつめました。

 その後はこの理念を掲げて、国防長官をケネディからジョンソン2代にかけて務めあげ、ベトナム戦争の指揮を執ることに。

 マクナマラ氏がその人生を駆け抜け、振り返ったときに学んだことは、「♯2 理性には頼れない」、と、「♯11 人間の本質は変えられない」。

 11の教訓はいずれも、マクナマラ氏の長い人生のなかで彼自身が学び取り、まとめたものですが、上にあげた3つが11の教訓のうちで、中核をなしています。

フォッグ・オブ・ウォー マクナマラ長官の告白

↑1945年、大阪空襲後の写真。日本の大都市、中規模都市はくまなく空襲の被害を受けている。毎日新聞社提供。

★東京大空襲とマクナマラの責任

 「フォッグ・オブ・ウォー」というと、ベトナム戦争に飛びつきがちですが、マクナマラ長官の告白は東京大空襲を始めとする日本本土焦土化作戦の立案についても及んでいます。

 注目すべきことは、彼は、この多大な犠牲を出した東京大空襲を始めとする日本各地の空襲について、ベトナム戦争を語るよりも率直に誤りを認めているということです。しかも、彼は原爆の投下についてまで言及し、「達成すべき目的に比べて釣り合いが取れているとは言えない」と述べています。

 アメリカの元高官がこのように過去の戦争について述べているということは、興味深いことです。

 確かに、当時のマクナマラ氏は作戦立案に携わる一軍人に過ぎなかったわけですが、それでも後に国防長官まで登りつめた人物が東京大空襲を始めとした各地の大空襲と広島・長崎の原爆投下について、その「行き過ぎ」や「やり過ぎ」を認めたということは貴重です。

フォッグ・オブ・ウォー

↑1945年ごろ、長崎・浦上天主堂付近の写真。アメリカ議会図書館提供。


 一方で、マクナマラ氏は周到な責任回避の論陣も張ることを忘れません。彼は、日本各地の空襲と原爆投下について「釣り合いが取れているとは言えない」と"評した"のみ。それが、自分の責任においての過ちであったとはいっていません。

 いわば、第三者的な立場からの客観的評価として、空襲と原爆投下について"論評"しているのです。

 マクナマラ氏は言います。「より多くの損失を生じるようにB29の爆撃高度を下げ、焼夷弾の使用を許可して町を焼き尽くしたのはルメイの指示だった」と。

 マクナマラ氏の当時の任務は彼の専門である"統計管理学"を駆使して、爆撃目標の効率的な設定をすることでした。「私の任務は作戦の分析と効率化だ。この仕事はいかに多くを殺すかではなく、いかに効率よく敵を弱体化させるかだ」。

 この言葉のレトリックにだまされる人は一体何人いるのだろう。誰が聞いてもおかしいと思うはずです。"敵の弱体化"などといえば聞こえはいいですが、マクナマラ氏の当時の任務を一言でいえば、「一発の爆弾をどこに落とせば、最も多くの損害を出せるか」です。

 言いかえれば、「一発で何人殺せるか」。

 確かに、市民の居住地を破壊しない戦略爆撃を前提として、空襲の目標地点を軍需工場や港湾施設、軍関連の施設とし、それを効率よく爆撃するための策を講じていたということは言えなくもないでしょう。しかし、当時行われた日本各地の空襲の規模はとても、ピンポイントの戦略爆撃という大きさではありませんでした。明らかに市民の犠牲を狙ったものだったのです。

 マクナマラ氏も、一晩で10万人が焼け死んだ東京大空襲の責任については、それを認めるのに必ずしもやぶさかではないようです。彼は東京大空襲を命令した責任者のルメイの言葉を引いてこう語りました。「ルメイは『負けたら我々は戦争犯罪人だ』と言ったが、その通りだ。彼も私も戦争犯罪をした。」

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 ↑東京大空襲。白く見えるのは焼夷弾で炎上している家屋。アメリカ空軍撮影、アメリカ議会図書館所蔵・提供。 


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↑東京大空襲後の中央区隅田川付近。1945年3月10日、米B29爆撃機340機が東京を空襲。死者10万、負傷者11万、家を失った者100万人に達した。B29による空襲はこれで終わらず、同年5月24日に250機、翌25日には250機が東京を再び空襲した。
★暗い過去

 これと対照的なのがベトナム戦争。マクナマラ元国防長官の口調はがぜん、重くなってしまいます。彼は自らに向けられたベトナム戦争の責任論について、遠まわしな趣旨の発言はしているものの、はっきりと言い切りません。

 また、直接的な質問、例えば「ベトナム戦争の責任は誰にあると思いますか」とのインタビュアーの質問には「ジョンソン大統領にある」と言いきりました。

 彼は自らに向けられた、「ベトナム戦争の責任を感じていますか」との質問には「もういい、何か言えば騒ぎを巻き起こすだけだ」と述べるだけ。

 第2次世界大戦での東京大空襲について、「戦争犯罪」と言いきった人物がベトナム戦争については口をつぐむ。

 この対照はどこからでてくるのでしょうか。

 マクナマラ氏はベトナム戦争について、強い権限を行使できる地位にいました。また、東京大空襲を始めとする日本の本土空襲については「やり過ぎだった」との評価がアメリカの研究者からも一定程度出されていました。

 一方、マクナマラ元国防長官はベトナム戦争で最終的には5万8千人のアメリカ兵を戦死させます。しかし、東京大空襲の損失は約54機のB29乗員のみ。比べものにならない数のアメリカ兵がベトナム戦争では死亡しました。

 東京大空襲の市民の犠牲については戦争犯罪と自ら認めて引き受けることができても、自分の愛する祖国・アメリカの兵士の命を多数失くしたことの重みはマクナマラ氏には引き受けがたいもののようです。

 日本人からしたら、東京大空襲でも日本人がいっぱい死んでるじゃないか、と思うかもしれませんが、残念ながら、人間の命は平等と言いつつも、自国民の命へのバイアスはかかるもの。マクナマラ元国防長官も例外ではないようです。

フォッグ・オブ・ウォー マクナマラ元米国防長官の告白16.jpg

 ↑ベトナム戦争の写真。アメリカ国防総省及びアメリカ軍提供。 


★枯葉剤の使用

 マクナマラ氏は枯葉剤についてインタビュアーに言及され、その責任を否定しました。彼の答えは責任回避に懸命になったものとなっています。彼によると、枯葉剤の使用について、「法律には禁止する文言はなかった」。法律には「どんな薬品は良くて、どれはダメとは書いていない」「違法ならば使用を承認することは決してなかった」「オレンジ剤(枯葉剤)の使用を承認したかは覚えていないが、あれは私が長官時代の出来事だった」。

 つまり、彼は、枯葉剤の使用を認めていたことを極力遠まわしな表現で間接的に認めつつも、その使用を禁じる法律がなかったことを理由に、当時、枯葉剤を使用したことを非難されるべきではないと考えているのです。

 しかし、法律に書いていなければ何をしてもいいのでしょうか?
 戦争において、何をして良くて、何をしていけないなどと、事細かに法律で定めて何の意味があるのか。国際法に使っていい薬品と、使ってはいけない薬品を分類し、ことこまかに化学式でも書いておこうというのでしょうか。

 たしかに、戦争についての一定の枠組みやルールを作ることは無意味ではありません。しかし、いざ、戦争がおこったときに、その規則が子細に守られているかをチェックすることは不可能です。そうならば、法に反しているかどうかはもはや問題にならず、頼るべきものは人の良心しかない。

 特に、枯葉剤の使用を国防省のトップであるマクナマラ元国防長官が把握していたのならば、それを止めるだけの時間も判断権もあったはず。戦争に前のめりになりがちな現場判断ではなく、要所で指示を出すべき国防長官が知っていたのならば、その良心が試される場面だったというべきです。

 マクナマラ氏は少なくとも、枯葉剤の使用については使用を認め、謝罪すべきでした。彼ほど頭脳明晰な人物が、当時、枯葉剤の使用が及ぼす結果に無知だったとは思えません。

 また、東京大空襲当時、無差別爆撃についてルメイに抗議したと先に述べていた人物が、枯葉剤の使用は非人道的ではないと判断したことに合理的理由は見出しがたいでしょう。彼なら、枯葉剤が市民の無差別爆撃に等しく、非人道的な行為であることを理解していたはずです。

 当時の判断が、やむにやまれぬものだったとしても、あれから数十年がたった現在、枯葉剤使用の非について認める姿勢が欲しかったと考えます。

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 ↑編隊を組んで枯葉剤を散布するアメリカ軍。アメリカ空軍省提供。 


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↑1969年6月26日、ベトナム・メコン川流域のジャングルで枯葉剤を散布するアメリカ軍の UH-1D ヘリコプター。アメリカ国立公文書記録管理局提供。

★マクナマラの落ちた罠

 かの頭脳明晰にして「人間コンピューター」の異名をとるマクナマラ長官が、ベトナム戦争での枯葉剤の使用を認めてしまったということ。

 結果として、アメリカ人ベトナム帰還兵も、ベトナム人も、その子孫も、枯葉剤の使用による障害に苦しんでいます。なぜ、マクナマラ長官は、恐らくは枯葉剤の及ぼす影響を知りつつ、その使用を認めてしまったのか。そもそも、なぜ、マクナマラ長官はベトナム戦争を止めることができなかったのか。

 マクナマラ氏は人生の最後の時間を迎えた今、こう結論付けています。「The fog of war. (戦争は霧の中)」。

 真っ白な霧の中におかれた人間は視界が狭くなります。せいぜい見えるのは隣の人間くらいか。手探りで進み、何かに突き当たってそれが何か初めて分かる。ベトナム戦争を手探りで進めたマクナマラ長官の場合は、当座当座の緊急手当としてどんどんアメリカ兵をベトナムに増派しました。

 最初、150名程度しかいなかったベトナムのアメリカ軍はマクナマラ氏の退任時には2万5千人の死者を出すまでになっていたのです。この深い霧の先には明かりが見えるはずと、期待をこめて前進し続けますが、光一筋すら見えず、どちらにすすんでいるのかすら、見失っていきます。

 一体、何のためにアメリカはベトナムで戦っているのか。当初は、アジア圏の共産化を防ぐことを目的に、南ベトナム政府の支援をしていた程度だったのに、いまや、南ベトナム政府ではなく、アメリカが勝利をおさめるために必死になってベトナム戦争に全力を傾けている。

 アメリカ国内ではペンタゴン(国防総省)の前で抗議の焼身自殺が起き、反戦デモが高じ、ワシントンでは5万人が終結。2万人がペンタゴンに行進し、ライフルを構えた兵士たちと小競り合いが起きる。

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↑マクナマラ元国防長官がインタヴュー中で言及していた、67年のベトナム反戦デモの写真。女性がペンタゴンの護衛任務に就くアメリカ軍憲兵に花を差し出し、デモンストレーションをしている。1967年10月21日撮影。

 マクナマラ元国防長官はまさに、霧の中で迷ってしまい、出口を見つけられなくなってしまったのです。彼は「全ての変化を読むことはできない」といいます。また、「判断力や理解力には限界がある」とも。この言葉はマクナマラ元国防長官の限界を示すもの。断定的な言葉こそなくとも、マクナマラ元国防長官がベトナム戦争を、どう考えているのかはインタビュー全体を通して伝わってきます。

 マクナマラ元国防長官はベトナム戦争について「間違いだった」と考えているのです。はっきりとは言いませんが、そう言いたいのだということは分かります。

 善意に解釈すれば、彼はベトナム戦争に対する責任があまりにも大き過ぎることを理解しているがゆえに、ベトナム戦争についての責任を背負いきれず、はっきりと責任を認められないのだと考えることができるでしょう。しかし、同時にそれはベトナム戦争の犠牲となったアメリカの兵士たちや大勢のベトナムの市民たちからの「逃げ」でもあるのです。

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↑1965年8月。南ベトナム政府の将軍とあいさつを交わすマクナマラ国防長官とウィリアム・C・ウェストモーランド将軍(アメリカ軍南ベトナム軍事援助司令部司令官)。

★理性、そして人間の本質

 マクナマラ氏は「人間には理性があるが、それだけでは不十分だ」と語ります。彼自身、才能に溢れ、有能な人物でした。ベトナム戦争当時のマクナマラ長官は、「理性」に絶大な信頼を置いていました。

 マクナマラ氏はかつて、ハーバード大学の助教授として統計管理学の専門家でした。その頭脳は先に述べてきたように、東京大空襲を始めとする軍事戦略の根幹を支えていたのです。その才能は確かなものでした。実際に、戦後、潰れかけていたフォードを見事に再生させた立役者はマクナマラでしたし、のちには社長にもなりました。

 国防総省に入ってからも、いくつかの失敗を重ねつつも、軍事費の合理化を進め、基地の縮小や、廃止、空軍と海軍の軍備共同開発などを行いました。中には失敗したものもありますが、マクナマラ元国防長官がアメリカ軍に持ちこんだ、効果対費用の民間企業経営的なコスト管理手法はいまだ、高く評価される点の一つでもあります。

 彼は、軍事という、「政治」に「経済学」「統計学」の観念を持ち込み、実践しました。政治という生身の人間がぶつかり合う世界にも、数字化された合理的な整理が可能なはずだ。マクナマラ長官は「分析と効率化」の旗手であり、実際にも、一部で成功をおさめたのです。

 マクナマラ長官は常に、「計算」していました。

 その計算はたいていのときはマクナマラの想定通りになりました。企業にいたときも、政治の世界でも。しかし、彼は戦争という"化け物"まで「計算」してしまったのです。これは大きな誤算を生みました。戦争は彼の思う通りには動いてくれなかったのです。彼はここに至って、世の中には「計算」できないものがあることを身をもって悟りました。

 マクナマラ長官にとって、「計算」によってはじき出された結果は指標とすべき「理性」そのもの。計算された数字による、合理的な裏付けのあるストーリーこそ、「理性」によって裏打ちされた、信頼できるストーリーのはずでした。

 ベトナム戦争に失敗し、国防長官の椅子を降りたマクナマラ氏は「♯2 理性には頼れない」ことを知り、その後の人生で、「♯11 人間の本質は変えられない」ことを知るに至ります。つまり、戦争は理性で計れず、戦争をするという人間の本質は変えられない、ということ。

 マクナマラ氏は、戦争がなくなると思うほど甘い考えを持ってはいないことをインタビューの中で表明しています。ベトナム戦争を遂行し、推進する役割を果たしてきたマクナマラ元国防長官。年月は彼を変え、マクナマラを「戦争を望まない男」にしていました。

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↑アメリカ・南ベトナム政府の首脳陣。奥からジョンソン大統領,ウィリアム・ウエストモーランド将軍,南ベトナムのグエン・バン・チュー国家元首とグエン・カオ・キ首相。1966年10月26日撮影。ホワイトハウス提供。

★年月は流れ、人間は変わる

 マクナマラ元国防長官は就任直後、ケネディ大統領にある進言をし、大統領はそれを拒否しました。それは、西側諸国への攻撃はアメリカへの攻撃とみなし、敵対国に対しては、場合によっては先制攻撃さえ辞さないとする文面を演説に入れるよう進言するものでした。

 また、マクナマラ長官はソ連に対しても、アメリカの核軍拡による圧倒的優位の確保を主張しており、"好戦的"な考えを持つ国防長官でした。数十年のときが流れ、そのマクナマラ元国防長官が、「核兵器の存在は世界を破滅させかねない」とこの映画のインタビューで述べています。この衝撃は大きいでしょう。

 かつての核優位論は放棄されました。今、マクナマラ元国防長官は「核兵器の2500発は15分で発射可能」であり、その発射命令が「ひとりの人間の決断にかかっていること」について「恐ろしいことだ」と述べています。

 冷戦が終結し、国際情勢は変化しました。今、大国同士が大型軍事兵器を振りかざしてお互いを威嚇し合う時代は過ぎ、冷戦期に比べ、大国同士が戦争に及ぶ可能性は激減しました。その意味では冷戦期に比べ、安定した国際情勢の時代を迎えています。歴史の流れを大きく俯瞰したとき、これは核軍縮を進める好機であるともいえるでしょう。

 大国が現実に行使する可能性のなくなった核兵器の存在はいまや、冷戦時代の遺物でしかありません。それどころか、核兵器を維持・保存するための莫大な管理費用はかつて核技術開発を競ったアメリカやロシアの重荷になっています。

 また、かつては核兵器を持つなどとは考えられもしなかったパキスタンやインド、北朝鮮やイランといった地域大国や紛争地域に技術が流出し、それらの国による核兵器の行使の危険の方がアメリカやロシア両国よりも、はるかに容易に想定できるという核の恐怖が新たに生まれました。

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 ↑1962年、ケネディ大統領とマクナマラ長官。ジョン・F・ケネディ大統領図書館所蔵。 


 マクナマラ元国防長官は老いてもなお、合理的で計算高い一面を見せます。マクナマラ氏はかつてキューバ危機を経験したという体験を話し、核戦争の恐怖について語りますが、核廃絶を訴える理由は、それだけではないでしょう。

 アメリカのように"きちんと管理できる"国だけではなく、核兵器が闇に隠れ、核兵器を隠し持つ国が増えて、核兵器が現実に行使される危険を払しょくできなくなったことに懸念を抱いているのです。仮に、冷戦時代のように、アメリカとロシアといった一部の大国のみが保有国だったならば、マクナマラ氏は核廃絶を訴えたかどうかは勘繰りたくなるところ。

 つまり、マクナマラ元国防長官にとって、かつての核配備・拡張論から核廃絶論への変化は"変化"ではないのかもしれません。マクナマラ氏が変化したのではなく、国際情勢が変化したということです。その国際情勢を分析し、「計算」してはじき出した結論が"核廃絶"。

 インタビューでは突っ込んでいませんが、かつての持論である核拡張論についてマクナマラ元国防長官にたずねたら、それも「その時代において正論だった」と返答するに違いありません。マクナマラ氏は理想論者ではない。現実をきちんと見据えている人です。単なる理想論から核廃絶を持ち出したわけではないでしょう。国際情勢の総合的判断から、核兵器はアメリカの利益となるかと冷静に計算し、分析して導かれた今現在の結果が、核廃絶だったのです。

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↑マクナマラ氏もインタヴューで言及していたキューバ危機。1962年10月18日、ケネディ大統領は駐米ソ連特命全権大使をホワイトハウスに呼びつけ、ソ連のミサイル配備に強い懸念を表明。写真はそのときの様子。10月22日にケネディ大統領はテレビ演説をしてその事実を国民に発表、ソ連を非難した。

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↑右がケネディ大統領、左がソ連のフルシチョフ首相。フルシチョフは10月28日にモスクワ放送でミサイル撤去の決定を発表。ケネディが国内の強硬論を抑え、フルシチョフがアメリカの条件をほぼ飲むという柔軟な対応を見せたことで、第3次世界大戦は回避された。写真は1961年に撮影されたもの。アメリカ国立公文書記録管理局提供。

★人間は探求をやめない

 「人間は探求をやめない。そして、探求の果てに元の場所に戻り、初めてその地を理解する」。マクナマラ氏は愛読するT.S. エリオットの詩書の一節を暗誦し、「ある意味で、今の私がそうだ」と付け足しました。

 マクナマラ氏は国防長官として、7年を務め、その後は世界銀行の総裁として13年の長きを務めました。アメリカという国を国防長官として中から動かし、世界銀行の総裁としてアメリカを外から眺め、世界を動かした。

 そして映画を撮った当時、85歳。マクナマラ氏が戻ってきたのはアメリカというこの愛すべき祖国です。マクナマラ氏は、自分がアメリカに与えた影響を良きにしろ、悪きにしろ、自分なりに消化して、自分なりに受け止めました。

 マクナマラ元国防長官はエリオットの詩にあるように「初めてその地を理解」したのでしょう。しかし、彼はいかに理解したかについて、はっきりと公言するのを拒みました。「ベトナム戦争について、語っても語らなくても非難されると? 」インタビュアーにたずねられたマクナマラ元国防長官はこう返答します。「その通りだ。私は語らない方を選ぶ」。

 あれから8年。ロバート・ストレンジ・マクナマラは93年の生涯を閉じました。ワシントンの自宅で睡眠中に死去していたということです。

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 ↑自由勲章。マクナマラ氏は1967年11月の国防長官辞任後に受勲。 アメリカ議会図書館提供。 


★マクナマラの自己弁護か、アメリカ民主党の"戦争浄化"か

 T. S. エリオットの詩にいう、マクナマラ氏の「探求の果て」に何があったのか。それを知る必要はそれほどないでしょう。答えはすでに出ているからです。マクナマラ氏はベトナム戦争について、数々の"間違い"を指摘しました。

 自らの責任については口をつぐみましたが、マクナマラ氏が指摘したベトナム戦争においての"間違い"とは全て彼の在任中の出来事。
 在任中に起きた出来事の責任がマクナマラ氏にあることは明白です。

 過去から何かを学ぶには"間違い"が認められているだけで十分です。あとは、それを生かせるかどうか。

 それとも、もう一度失敗しなくてはならないのでしょうか?

 1918年、ウィルソン大統領は第1次世界大戦を「戦争をなくす戦い」と呼びました。現実には第2次世界大戦が起き、またしても人類は殺し合ったのです。

 2001年の9月11日のテロの後、アフガニスタン・イラクで戦争を起こしたアメリカはマクナマラ長官の教訓、すなわちベトナム戦争の教訓を学ぶことができたのか。

 それとも、もう一度失敗するつもりなのでしょうか ?

 それとも、すでに失敗しているのか。

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 ↑広島の原爆ドーム。 


 人間は過去に学ぶことが難しい生き物です。煮えたぎる湯に手を突っ込み、いつかと同じ火傷を負って、初めて過去に似たようなことがあったな、と思いだす。火傷の痛みはその人限りだから、別の人はその痛みを知りません。再び火傷をするときまで、沸騰している湯か、冷たい水かを知らずに、あちらこちらと手を突っ込む。

 マクナマラ氏は自らが負った火傷を「フォッグ・オブ・ウォー」という映画の形で世間にさらしました。彼にとって、これは大きな冒険です。インタビューによれば、彼は自分が「多くの人に口汚く非難されている」ことに自覚的だからです。しかも、映画の収録は回顧録の執筆と違って、自分の好きなようには編集できず、思うような見解が伝わらない可能性があります。

 だいたいが、世間が忘れようとしているベトナム戦争のことを、今さら思い出させて何になるのでしょう ? 再び、マクナマラ氏が批判の矢面に立つだけです。

 しかし、マクナマラ氏はあえて、それを覚悟して表に出ました。彼は"自己弁護""責任のなすりつけ"と言われることを承知の上で今回の証言をしました。

 なぜか ?
 それは彼が死んでも、映画は後世に残るからです。マクナマラ氏は回顧録も出版していますが、回顧録の読者よりも、より多くの観客が国を越えてマクナマラの映像を目にすることになるでしょう。彼はかつて自分が負った火傷のあとを見せることで、次世代のアメリカ国民が同じ轍を踏まないように期待したのです。

 マクナマラ元国防長官が愛したのはアメリカ。彼は愛するアメリカが再び火傷を負うことのないように期待していました。

 "ベトナム戦争最大の責任者"、"多くのベトナム市民を殺した殺人者"とマクナマラを片付け、この映画を"壮大なる自己弁護"と評するのは可能でしょう。また、ベトナム戦争の呪縛を浄化したい、民主党寄りのリベラル派映画と色付けするのも簡単。しかし、それだけで終わらせるにはあまりにももったいない。

 マクナマラ元国防長官が自らの汚点をここまでさらけ出して見せたのは彼がこの映画を見る人に学んでほしいと思っているからです。学ぶというのは、マクナマラ氏のような人になるということではありません。

 そうではなくて、戦争というものが、いかに引き起こされて行くものなのか、戦争がいかにして拡大の一途をたどるのか、そして、戦争を終わらせるということがいかに難しいものなのか。さらに言えば、自己の責任を認めようとしないマクナマラ元国防長官の姿は、その戦争の責任を取るということがいかに困難を生じさせるものなのかを知らしめてくれます。

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 ↑NASAで演説するケネディ大統領。右横の人物が当時副大統領だったジョンソン。NASA提供。 


★なぜ、マクナマラだけしか出ないのか、そこに映画のカギがある

 また、マクナマラ氏の証言のみで構成している点を批判するのはナンセンス。この映画をマクナマラ氏のベトナム戦争についての責任を明らかにし、それを追及する映画だと考えるのも間違いです。

 「フォッグ・オブ・ウォー」はベトナム戦争を客観的に検証する映画ではないし、ベトナム戦争を徹底的に弾劾する映画でもない。もちろん、ジョンソン大統領やマクナマラ国防長官を始めとする当時の政権首脳を擁護する映画でもありません。

 なぜ、この映画がマクナマラだけに集中して映像をまとめているのでしょうか。それを冷静に考えるべきです。

 マクナマラ元国防長官のインタビュー映像のほかに出てくるのは当時の記録映像やニュースなど、いずれも当時の記録物だけ。

 ベトナム戦争当時のホワイトハウス執務室の記録音声からは、ジョンソン大統領が次第にベトナム戦争に自信を失っていく様子や、マクナマラ国防長官がベトナム戦争に危機感を強め、ホワイトハウスでジョンソン大統領にベトナムの戦況に強い危機感を表明している様子が分かります。その一方、マクナマラ国防長官は記者団に向かっては、「戦況は好転している」などと答えているニュース映像が挟まれています。

 つまり、マクナマラ元国防長官は当時、ホワイトハウス内部ではベトナム戦争に強い危機感を持ちつつ、マスコミ相手の外部発表ではまったく逆の明るい見通しを語っていたことがここから分かります。

 この矛盾を欺瞞と言わずに何というのでしょうか。インタビューに応える老いたマクナマラを見よ。あれだけの犠牲を出しながら、その戦争責任というものがいかにうやむやにされるのかを見よ。

フォッグ・オブ・ウォー マクナマラ元米国防長官の告白

 ↑マクナマラ国防長官。1967年11月22日の閣議にて。 


  彼は半ば、ベトナム戦争を否定しつつも、自分が最大の責任者と言うべきベトナム戦争の責任を明確に取ることができないでいます。マクナマラのように、冷徹で合理的な男でも、責任を回避するためにあらゆる言語レトリックを駆使しているのです。

 現役の国防長官だったころにも、ホワイトハウスで語る本音と記者団に答えるマクナマラは別でした。年を取り、人生の総括をしようとカメラに向き合っている"今"というときにも、マクナマラはやはり本音を隠します。

 "現在の映像"をマクナマラのインタビュー映像だけに絞り、徹底的に過去の記録映像と対比させる。

 そこから浮かび上がるのは1人の"人間"です。
 マクナマラは人生から教訓を学んだと語ります。一方で、彼自身の深い部分には同じところが残っている。それは、ベトナム戦争に真正面から向き合いきれていない自分です。

 ほら、マクナマラ元国防長官は「♯11 人間の本質は変えられない」と言っていたではありませんか。彼の言葉通り、彼の本質も変わっていない。マクナマラに限らず、これから戦争の責任を追及されるべき人間もやはり、自分の戦争責任をなかなか認めようとはしないでしょう。

 人間が自分の失敗に向き合うということは自己を正当化しようとする人間の本性と向き合わねばならない。しかし、それを越えられる者は悲しいかな、ほとんどいない。人間というのはかくも、哀しい存在なのです。

 映画「フォッグ・オブ・ウォー」は、マクナマラという1人の歴史の証人を通して、「人間」そのものを浮き彫りにしたドキュメンタリー。
 "歴史から学ぶ"とはどういうことか、そして"人間の性"とは何か、という難問を映画を観る者に投げかけているのです。

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★おまけ。
フォッグ・オブ・ウォー マクナマラ元米国防長官の告白

↑1968年2月9日の閣議。中央がジョンソン大統領、手前がマクナマラ国防長官、奥はラスク国務長官。1967年11月1日にマクナマラ国防長官はベトナム戦争に関する覚書を提出。軍事行動の縮小を提言したが、ジョンソン大統領はこれを黙殺する。11月29日にマクナマラ国防長官は辞意表明し、その後、世界銀行総裁に就任した。

写真は辞任の約10月前に撮影されたものだが、マクナマラ国防長官が考え込んでしまっている様子をうまく写している。このころ、すでにジョンソン大統領とマクナマラ国防長官のすれ違いは深刻なものになっていた。アメリカ大統領行政府提供。
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ファニーゲーム・ファニーゲームUSA

映画:ファニーゲーム・ファニーゲームUSA あらすじ
※レビュー部分はネタバレあり

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↑「ファニーゲーム」の英語圏用ビデオジャケット。


 ナオミ・ワッツ主演、ミヒャエル・ハネケ監督作品。善良な家族の日常がむきだしの暴力にさらされ、崩壊していく様子を描く。どうしようもなく、不快指数の高い映画ですが、そこはミヒャエル・ハネケ監督の作品ならでは。

 「ファニーゲームUSA」はかつて撮った「ファニーゲーム」とほぼ同じ。ただ、キャストをナオミ・ワッツとティム・ロスに入れ替えただけ。ハネケ監督がなぜ、まったく同じ内容でハリウッド・リメイクをしたのか。

 それを考えつつ、『解説とレビュー』では「ファニーゲームUSA」を詳細に分析していきます。(このレビューは「ファニーゲーム」「ファニーゲームUSA」両方のレビューを兼ねています。以下ではリメイク版の登場人物名を使って表記していきます。)

 パーマー夫妻は息子を連れて別荘にやってきた。閑静な高級住宅街にある別荘で休暇を過ごすのだ。別荘に着くと早速、夫ジョージと息子はヨット遊びの準備へ。妻のアンは台所で夕食の準備をしていた。そこに、白い服を着た若い男が訪ねてくる。

 彼はポールと名乗り、近所のトンプソン夫人の使いで来たという。卵を分けてほしいというのだ。アンは卵を渡すが、彼はそれを落として割ってしまう。そうこうするうちに、ピーターというポールの知り合いの男がやってきた。そして、夫と息子が家に戻ってくる。これが「ファニーゲーム」の始まりだった。



【映画データ】
ファニーゲーム
1997年(日本公開2001年)・オーストリア
監督 ミヒャエル・ハネケ
出演 スザンヌ・ロタール,ウルリッヒ・ミューエ




【映画データ】
ファニーゲームUSA
2008年・アメリカ,フランス,イギリス,オーストリア,ドイツ
監督 ミヒャエル・ハネケ
出演 ナオミ・ワッツ,ティム・ロス,マイケル・ピット,ブラディ・コーベット,デヴォン・ギアハート



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映画:ファニーゲームUSA 解説とレビュー
※以下、ネタバレあり

★不快指数100% !?

 非道極まりない暴力と、それにさらされるがままの善き人間たち。吹きすさぶ暴力の嵐にさらされたあとに善意などはかけらも見当たらない。

 なぜ、この映画を見るとこうも不快に感じるのでしょうか。

 思えば、人がどんどん殺されていく映画は別に珍しいものではありません。「羊たちの沈黙」や「ハンニバル」などではかなりえげつない殺し方が出てくるけれど、「ファニーゲーム」では射殺もしくは、水中に投げ込まれるというもの。「ホステル」や「ソウ」・シリーズのように、真っ赤な鮮血が流れるわけでもないし、視覚的に痛みを感じるような、目をそむけたくなるようなシーンもありません。

 むしろ、人が死ぬ直接的な場面は出てこないと言っていいでしょう。「ホステル」や「屋敷女」などの流血をともなう映画を見るときに、その恐怖感を思い出してもう一度見ることをためらうということはあるけれども、「ファニーゲーム」を見るときに感じるような不快感、再び見るのをやめようと思わせる、この不思議な感覚は味わうことはありません。

 なぜでしょう。「ファニーゲーム」にしかない、この不快な気持ちの謎はどこにあるのでしょうか。それは、映画中で人が殺され続けるという理由だけではないはずです。

 「ファニーゲーム」は一言で言ってしまえば、2人組の青年たちに別荘地に住む無抵抗の家族が皆殺しにされていくお話です。身も蓋もない言い方をすると、皆殺しの物語なのです。赤裸々に語られる暴力。むき出しの暴力を前にして、人はここまで無抵抗なのか。

 そう、ここに、問題があるのです。「ファニーゲーム」を見る人に不快感を与える原因は、この凶悪な2人組の男ではありません。あまりに無抵抗で、情けないほど怯えきっているこの被害者家族の方に原因があるのです。

 彼らはなぜ、抵抗しないのか。なぜ、逃げないのか。なぜもっと合理的な行動を取れないのか。オリジナルの「ファニーゲーム」を見て、もう一度リメイク版の「ファニーゲームU.S.A.」を見ると結末が分かっているだけにさらにイライラが募ります。ここで逃げられたじゃないか、ここで助けを呼べたじゃないか。

 仮にこのように考えながら悶々として映画を見たとしたなら、それはきっと監督のもくろみ通り。この映画はイライラし、悶々としながら映画のスクリーンと格闘する映画なのだから。

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★イライラの原因はなに ?

 さて、映画の総評的な感想はここまでにして、さらに、「ファニーゲームUSA」を分析して行きましょう。なぜ、私たちはスクリーンと取っ組みあいたくなるようなイライラ感を「ファニーゲーム」に感じてしまうのか。

 端的に言いましょう。「ファニーゲーム」という映画が今までの映画と"違う"というところにイライラの原因があります。

 では、どう"違う"のでしょうか。

 映画には暴力はつきものです。暴力がなければ映画は成立しないといっていい。映画はその暴力を絶妙なパッケージに包んで売り出します。戦争映画、ヒーロー映画、ホラー映画、ミステリー映画…。何でもいい。テレビのニュースだって同じといっていいでしょう。現実に起きた殺人事件を面白おかしく報道する。今度の事件がいかに凶悪で、いかにサディスティックで…。

 そして、それを世の人々は消費する。喜んで迎え入れる。そして、映画の提供する暴力の恐怖感に酔いしれる。リビングでテレビを見て「ひどい事件だね」と言いながら、また日常生活に戻っていく。

 このような暴力の商品化には絶対に欠かせないポイントがあります。それは、映画の中の暴力性には必ず、何らかの形で"落とし前"がつけられるということ。悪人は罪を償うため、死ぬか、制裁を加えられるか、それとも逮捕されるか。あるいは、悪人に同情すべき事情が提示される。彼の生い立ちや家族がいかに哀しいものなのか、今までの生活がいかに苦しいものなのか。そして今はこんなに悔悛している。だから許してやってもいいですよね ? という具合に。

 つまり、観客には悪人が正義によって蹴散らされるか、もしくは悪を正当化する事情が提示され、悪が完全に野放しとなることはない。それが典型的な映画の展開です。暴力に何らかの砂糖の衣をまとわせて、それを「戦争」「ヒーロー」「ホラー」として売り出す。

 しかし、ミヒャエル・ハネケ監督はそれに疑義を唱えます。それらに何と言うタイトルがつけられていたとしても、その中身は皆同じ、「暴力」じゃないか。観客は派手に飾られた外見に惑わされているようだが、映画の中にある本質は「暴力」という共通項であることに気がついていない。それならば、ひとつ気がつかせてやろう、観客に中身の部分だけを味わわせてやろうじゃないか。

 そこで生まれたのが「ファニーゲーム」「ファニーゲームUSA」でした。

 こんなにも不快で、どうしようもなくむかつきを覚えるのが「暴力」というもの。この映画は、人が殺される、人が死ぬということはこんなにやるせないものなのか、その"むかつき"を観客に体験させてやろうというハネケ監督の「ゲーム」なのです。それでは、「ファニーゲームUSA」の内容に踏み込んでみましょう。

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★暴力と非暴力の対面

 ポールはパーマー夫妻に今から12時間後に君らは死んでるかどうか賭けをしようと持ちかけます。ところが、パーマー夫妻がどちらか選択する前に、ポールはパーマー夫妻が死ぬ方に賭けるとすでに宣言しています。「僕らは死んでる方に賭け、君らは生きてる方に賭ける。」そこで、相棒のピーターは「これは賭けにならない。」と口を挟みます。

 ピーターの言うとおり。これは賭けになっていません。なぜでしょうか。それはポールは「力」を所持する者だからです。ポールはパーマー夫妻に暴力を振るう力を持っている。そのポールがパーマー夫妻の死に賭けたということはポールは彼らを殺す気だということです。つまり、暴力を有するものが結果を左右できる「賭け」をしようといっても、その賭けは成立することはありません。

 暴力の前では何もかもが絶対的暴力にひざまずかざるを得ないのです。冒頭、別荘に向かう車内でランダムにオペラをかけて、オペラ歌手と曲名を当てるゲームをしていた車内のパーマー夫妻。そして、ヨットの整備をしていたパーマー親子。アンだけが家を抜け出して逃げようとするときに交わされる夫婦の愛。教養も、親子の愛も、夫婦の愛も。

 皆、暴力の前では役に立つものではない。

 ポールはピーターと一時、家を出て、パーマー夫妻に逃げる時間を与えます。そして、結局捕まえられたアンは家に連れ戻されるのですが、そのときにポールが言うには、時間を与えたのはゲームには「リスクがあってこそ楽しい」もので、「あんたらにもチャンスがなきゃつまらない」からだとか。

 このチャンスとかリスクというものもナンセンス。圧倒的なパワーを持つ者が公平、チャンスと言ったところで、結果は「力」を持つ者に決定されます。仮にチャンスがあるかに見えても、それは見せかけのチャンスがあるだけ。

 同じことは「権利」にもいえるでしょう。連れ戻されたアンがポールに突きつけられたのは、夫とアンがどちらが先に死ぬのか。ポールは、アンには「死ぬ順番を決める権利」と「何で死ぬかを決める権利」があるといいます。これは果たして「権利」といえるのか。

 ここでの関心事は夫とアンの死という現実です。死という結末は変えられないのに、その前段階の選択権をアンに与えて、そこで「権利」があるといえるのでしょうか。ポールのように「力」のある者は「権利」にもならない権利を弱者に与えて、チャンスを与えたり、公平を図ってやった気になっている。

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★手遅れ !

 また、アンは息子のジョージーが家の外に逃げ出したのち、夫妻の見張りに残ったピーターに「あなたたちには未来があるわ、誰にも言わないから逃がして」と涙ながらに頼みこみます。しかし、このときはすでにその段階は過ぎているでしょう。この青年たちが親子3人を皆殺しにするつもりなのは火を見るより明らかです。

 なんて、無力なのでしょう。この家族は最初は家に閉じ込められてさえいませんでした。最初は庭を歩きまわり、犬の死体を発見し、手足さえ縛られておらず、命令されるがまま、部屋を行き来することもできた。それが次第に、一部屋に閉じ込められ、アンは服を脱がされ、足を縛られ、最後には両手も縛られる。気がつけば、完全な監禁状態に置かれてしまった。

 じわじわと暴力がエスカレートし、彼らの自由を浸食していく。この家族はなされるがまま。抵抗すべさえ知らないかのように、ポールたちのなすがままです。やがて、彼ら家族はポールたちと交渉し始めます。「家を出てってくれ」、「こんなことをしてどうなると思ってるのか」、「友人がもうすぐ来るんだから ! 」。

 暴力を振るう力を持つ者と、その力を持たない者たちの差は埋めがたいものがあります。力を持つ者がその力をかざしながら非暴力と交渉するということは実際には交渉にすらなりません。それは交渉ではなく、恐怖の支配でしかない。暴力が本来、このように圧倒的な力を持っているにもかかわらず、映画の中の暴力は意図的に操作され、大逆転が起きたり、正当化されたりします。

 観客はそれが「暴力の偽りの姿」であることに気がつかないばかりか、それが現実だと考えているのです。だから、パーマー夫妻や息子のジョージーの情けない姿にイライラする。

 ここには虚構の暴力と現実の暴力を混同している人々の姿があります。虚構を現実と混同してしまっている観客は実はポールと同じ思考法に陥っているのです。

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★虚構も現実 ?

 ラスト近く、ポールは「虚構と現実」について延々と語るピーターに、「虚構も現実だ」と言い放ちます。彼によれば、「ウソが現実のように見えれば現実」なのだとか。観客は映画で現実であるかのように描かれるウソの暴力を現実のように考えています。そして、その既成の枠から外れる暴力の形にはイライラしてしまう。

 結末、ピーターは「人は予測するのはパニックを避けるため」だと述べています。映画を見る人々はまさにそれ。パニックを起こしたくないから、彼らは定型的な暴力、定型的な結末を求め、決まり切った暴力と恐怖に安心して酔いしれたくて映画を見るのです。

 ピーターは「現実と非現実は鏡を見ているようなもの」で、「いかに虚構の世界から現実の世界に戻るのか、そしていかに2つの世界を結びつけるか」が問題だと語ります。そして、その2つの世界は「コミュニケーションが不可能なんだ」とも。

 つまり、虚構の世界である映画の世界と現実に人々が暮らしている社会は本来全く別物ですし、分けて考えなければいけないものです。それを皆、分かっているつもりなのに、実は分かっていない。

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 この世の中に、純粋な暴力なんてないし、純粋な正義だってない。映画の中で出てくるようなものは現実には存在しないのに、無意識に人々は映画の思考を現実に持ち込んで、混同してしまっている。つまり、虚構の世界から現実の世界に戻れておらず、虚構の世界と現実の世界を一緒にして同時存在させてしまっています。

 本来"コミュニケーション不可能"な虚構と現実、この2つの世界を混同して一つにしてしまっているのだから、2つを結びつけなければならないという必要性も人は感じません。いつしか、虚構の世界に浸食され、虚構の世界に身を置いていることすら気がつかなくなります。虚構の世界から抜け出せなくなってしまうのです。

 虚構の世界に囚われていることすら気がつかない彼らは現実の世界に戻ろうとも思いません。むしろ、虚構の世界こそ、現実の世界だと思い込みます。そうすると、逆転現象が起きてしまいます。虚構の世界に住む人々からすると、現実世界は虚構の世界に見えてしまうのです。

 「現実と非現実は鏡を見ているようなもの」というピーターの言葉がここで効いてくるのが分かります。鏡の表と裏がくるくる回り、本来どちらが表でどちらが裏だったのか、分からなくなってしまったのです。

 ピーターの話の中に「ケルヴィン」という男が出てきます。ケルヴィンはこの世に2つの世界があり、片方が現実で片方が虚構であることを知ったといいます。そして、ケルヴィンは今、虚構の世界におり、彼の家族は現実の世界にいるとか。

 ケルヴィンは現実と虚構の区別がついてしまったがゆえに、家族のいる世界とは別の世界に行ってしまったのです。ケルヴィンは今まで現実だと思っていた世界が虚構の世界であることを知りました。しかし、彼の妻子は区別に目覚めていないから、いまだ虚構の世界に囚われたままです。ところが、妻子は今いる世界が現実だと思い込んでいるから、ケルヴィンのいる世界は虚構の世界に見えてしまうのです。

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★巻き戻せば生き返る…

 「大学で経営学を…」と話し出すピーター。そして、ポールはこちらを見て、つまり、観客に話しかけてきます。「皆さんはどう思います ? 」「もし皆さんだったらどっちに賭けます ? 」

 ピーターやポールには他の人生があるのか、彼らは凶悪な殺人者という役回りを演じている役者にしか過ぎないのか。

 「皆さんはどう思います ? このままあっけなく終わったんじゃ満足できませんよね ? 」彼らは観客の望む役回りを演じようとしています。彼らはこちらの欲求を満たそうと努力しつつ、「巻き戻し」をしたりする。そしてアンに反撃されて殺されたはずのピーターは生き返る。

 これは観客の期待を裏切りますが、彼らはこのときは観客の希望を聞いてはくれない。彼らは、彼らの力の及ぶ範囲でのみ、彼らの望む範囲でのみ、観客の要求に沿おうとするのです。

 彼らは虚構と現実が混じり合うこの混沌の世界の象徴的存在です。彼らは「ファニーゲーム」という虚構世界を演じる役者であり、現実に生きる者でもあります。虚構が現実が区別されない世界では彼らのような存在があったとしても、おかしくないのではないか ?

 ラスト、これ見よがしにこちらを見るポールはその虚実入り混じる世界を見せつけるかのようです。

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★"世界のアメリカ"の地で

 映画といえば、アメリカ・ハリウッドです。世界に輸出されるハリウッド映画は暴力の商品化を手掛ける王者。そして、虚構の世界と現実の世界を混同させる映画を売りだしています。そのハリウッドで、暴力の現実をあからさまに映し出す「ファニーゲームUSA」という映画を売りだしてみたらどうなるか。

 また、アメリカはその国力で世界を席巻する超大国です。その強大なパワーを使うということが世界の国々にどのような作用を及ぼすのか。白服のポールやピーターはアメリカと同じように絶対的な力を持って、哀れな家族の上に君臨します。哀れな家族には選択肢があるようで、実はない。どんな交渉をしても、一瞬チャンスがあるように見えても、それは見せかけにすぎず、パワーを持つ者だけが家族を殺すも生かすも自由自在に決定することができる。

 なんて馬鹿らしい(funny)な世界なんだ ! 映画業界を支配するハリウッドと、世界の王者アメリカ。そこで、むきだしの暴力を見せつける映画を作る。「ファニーゲームUSA」はミヒャエル・ハネケ監督の実験的試みであり、かつアメリカへの皮肉な思いがこめられた映画なのです。

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フリーダムランド

映画:フリーダムランド あらすじ
※レビュー部分はネタバレあり

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 わが子を連れ去られたと告白された刑事がその行方を追ううちに探り当てた真実とは何だったのか。アメリカ社会に潜む闇を告発する社会派映画。サミュエル・L・ジャクソン,ジュリアン・ムーア共演。
「フリーダムランド」の解説とレビューでは映画に込められたメッセージを分析・解説する。

 ニュージャージー州のアームストロング団地。ここは低所得者が住む、アフリカ系住民が大半の大型団地だ。ここを担当しているのは黒人刑事のロレンゾで、彼は地域の住民から信頼を得、白人刑事が踏み込みたがらないこの地域の捜査を担当してきた。

 ある日、病院に駆け込んできた白人女性が、アームストロング団地付近で黒人男性にカージャックされたと訴える。彼女の名はブレンダ。アームストロング団地内の保育所に勤務していた。ロレンゾが彼女に話を聞くと、4歳の息子コーディを連れ去られたと彼女が訴え始めたことから、大事件に発展する。

 事件現場のアームストロング団地は封鎖され、警察が住民を監視し、出入りを制限する事態になり、警察は黒人住民たちの反感と怒りを買い、激しい抗議が巻き起こっていく。

 コーディはどこに行ったのか。彼はまだ生きているのか。事件の真相は意外な方向に向かおうとしていた。



【映画データ】
フリーダムランド
2006年・アメリカ
監督 ジョー・ロス
出演 サミュエル・L・ジャクソン,ジュリアン・ムーア,イーディ・ファルコ



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映画:フリーダムランド 解説とレビュー
※以下、ネタバレあり

★フリーダムランドの告発

 フリーダムランドはブレンダの息子の誘拐事件を通して、いまだアメリカ社会に根強く残る人種差別の実態、そして貧困と親子関係の問題を告発しました。ロレンゾ刑事はコーディの行方だけではなく、アメリカ社会の闇をもえぐり出していくことになります。

 ロレンゾ刑事の探り当てたアメリカの闇とは何か、それを解き明かしていきます。彼は、ブレンダとコーディの親子の事件から何を見い出したのでしょうか。

★まだ、人種差別があるのか ?

 映画が公開されたのは2006年。それから3年が過ぎた2009年にはアフリカ系の血を受け継ぐオバマ大統領が新しいアメリカの指導者になりました。オバマ大統領は表舞台で活躍する黒人の象徴的存在です。いまさら、声高に白人至上主義を叫ぶ者は目立って多くはありません。

 南北戦争時代、黒人は人以下の存在として扱われ、奴隷として売買されました。南北戦争に勝利し、一人の人間として市民権を得た黒人は、その後の長い闘争を経験することになります。公民権運動では黒人を差別する法律に挑み、法律を廃止させることに成功。公民権運動後は黒人を法律で差別するものはなくなりました。そして、その後は突出した大きなうねりはなく今に至っています。

 黒人は、アメリカ市民としての法的地位を確立し、法律も人種差別色をなくしました。それでは、人種差別はアメリカからなくなったといえるのでしょうか。ブレンダはどうなのでしょうか。彼女はアームストロング団地を犯人がいる場所として挙げ、騒動に発展するきっかけを作りました。結局、息子を誘拐されたというのは狂言だったわけですが、ウソをつく際にあえてアームストロング団地をを挙げたブレンダは人種差別主義者なのでしょうか。

 ブレンダは言います。「無意識に言ってしまったのだ」と。彼女は口から出まかせに事件を捏造するうちに、黒人男性がアームストロング団地という場所でわが子をのせたまま、車を盗んでいった、と言ってしまいました。

 無意識に。これは真実を鋭く指摘する言葉でもあります。彼女は決して、人種差別主義者ではありません。彼女の職場はアームストロング団地の一角にある保育施設です。彼女はその仕事を誇りに思っていますし、コーディを仕事場にも連れて行くことがあります。

 それは、彼女がコーディを預ける場所がないというだけでなく、コーディを黒人の同年代の子供たちと遊ばせることがいいとブレンダが考えたからです。それにブレンダの交際相手は黒人男性のビリーでした。しかし、その彼女がついたウソには明らかに黒人に対する特別な意識が働いていることは否定できないでしょう。

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★"見えない"人種差別

 ブレンダのように、自覚がないのに、差別してしまう。この無意識の感覚が特徴的なのが、現代型の人種差別です。

 人種差別は個人の心に潜りました。人間一人ひとりの奥底に。法律という形で公にあった差別意識は程度の差はあれ、個に宿ることになったのです。その意識はブレンダの言うように、無意識です。普段、自分にはそんな差別意識はないと思っている人もいるでしょう。そして、ふとした拍子にそれがむくりと頭をもたげます。今、問題となる人種差別は多くはこの個人レベルで働く"見えない"差別意識なのです。

 そして、それが組織で行動する場面にも、ふと顔を出します。職場や、学校、地域といったコミュニティーで起きる差別はその代表でしょう。組織は個人の集まりであり、個人が動かしているものです。あからさまな差別は組織による歯止めが効きやすいですが、個人レベルの密かな差別意識は、一定程度で一般的に共有されています。そのため、歯止めが効かず、半ば公然と差別的な行動となって現われてしまうのです。

 フリーダムランドでいえば、警察による団地封鎖がそうです。警察官に共有されている差別意識は、団地の完全封鎖という、集団行動をするときになって顕在化しました。最初から黒人ばかりのアームストロング団地に犯人がいると断定し、団地を封鎖して強硬な捜索をしようとする警察には団地に住む黒人に対する先入観がありありと見てとれます。

 組織行動で起きる差別はルールや規則という目に見える形で制度化されることは少ないもの。「暗黙の了解」という形が取られることが多いでしょう。皆、差別を肯定することはいいことではない、という一般的了解を元に行動しているからです。

 この、各人の心の底に潜った差別というのは、公民権運動のころのように、法律を廃止するように働きかけたり、スローガンを叫んでデモ行動をすることで対応できるレベルの問題ではありません。あとは、根気よく、個人の差別意識を取り除けるように、感情面、ソフト面でのケアをしていくしかないのです。

 近時、問題になる差別は個人レベルの差別意識に収束しています。この問題意識を共有する映画としてはエドワード・ノートン主演の「アメリカン・ヒストリーX」もその一つ。ただ、「フリーダムランド」は、「アメリカン・ヒストリーX」よりも、もっと普遍的な問題を提起しています。

 「アメリカン・ヒストリーX」の主人公は白人至上主義・過激派の活動に与していました。しかし、フリーダムランドでは、黒人コミュニティーに溶け込み、彼らと共に働き、彼らに受け入れられていた白人女性が根深い部分で持っていた差別意識が問題になっています。

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★世界はひとつ、のはずだけれど

 コーディの埋められていた現場に添えられたメッセージカードはこの事件の全てです。「私たちは同じ人間」。皆コーディの安否を心配する気持ちは同じです。団地の住民はコーディを探すことに反発しているわけではありません。アームストロング団地のみを標的にして強制的な捜査をすることに反発しているのです。

 「私たちは同じ人間」。フリーダムランドの随所にこのメッセージが出てきます。保育所の間仕切りに張られた子供たちの描いた絵は、さまざまな色で描かれた人たちが丸く円になっている構図だし、ブレンダが団地の黒人住民に侮蔑され、うちの子にもう会わないで、といわれる場面の壁面の落書きにはTOGETHERと書かれていました。

 この世界はひとつ。私たちは皆同じ人間。よくこういう言葉が使われますし、至極もっともな考え方です。それでも差別は無くならない。しかし、現代型の差別は法律で禁止しても、差別反対を叫んでも絶対に無くならない差別なのです。

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★愛と寛容と

 では、この差別を少しでも無くしていくにはどうしたらいいのでしょうか。南北戦争のころや公民権運動のころと違い、もはや明確な目標は掲げにくいのが事実です。

 フリーダムランドではロレンゾ刑事が神の存在を通した愛をしきりに説いています。これはキリスト教を絡めなくても、理解できること。異なる人種間で交流を持ち、話す、聞くということ。話せばお互いの人柄が分かります。相手がこういう人なんだ、ということが分かれば、そこには友情が生まれるでしょう。

 ロレンゾ刑事のいう愛とはこの場合、「寛容」のこと。人種が同じでも、気が合わない人はいるものです。人種でラインを引いてしまわずに、人種が違う相手でも、その話を聞こうとする心があれば、人は人種の垣根を越えて分かりあえる可能性があるのです。

 ブレンダは一方で、根深い差別の象徴ですが、その反面、寛容の心を持つ人でもありました。彼女の職場は黒人コミュニティーのなかにありました。ブレンダはその職場に誇りを持ち、息子のコーディと共に黒人社会に受け入れられていました。

 ブレンダが白人でも、人間であることは同じ。話す機会があれば、ブレンダがコーディを愛する母親であり、良き人であることが分かります。ブレンダは宝物だった息子のコーディと黒人の子供たちを遊ばせるためにわざわざコーディを連れてくるほど、黒人と白人を分け隔てしていませんでした。そしてもちろん、彼女は分け隔てなく黒人の子供たちを愛しました。

 保育所でブレンダに走り寄る黒人の子供たち、いなくなってしまったコーディを心配する幼い黒人の子供たちはいかにブレンダが良き人であったかを伝えてくれます。

 アメリカ建国以来の長い人種差別の歴史はときにアメリカを揺り動かす力を伴ってきました。そしてこれからもダイナミックな力を持ち続けるでしょう。しかし、人種差別という問題は常に単独では捉えられません。他の問題と複合して、複雑化した社会問題として提起されることになります。

 そのときに、社会はどう対応できるでしょうか。それとも、無視するのでしょうか。人種問題と複雑に絡むブレンダの事件のもう一方の面を見ていきましょう。

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★"見えない"子供たち

 ロレンゾはブレンダとコーディの悲劇をきっかけにして、息子との絆を再確認しました。強盗を働いて服役中の息子はロレンゾが家庭を顧みなかったことの代償です。しかし、もっとも重要なのは親子の愛ではありません。フリーダムランドがロレンゾに告発させるのは、貧困と家族という問題です。

 ボランティア団体の捜索で行った子供たちの収容施設跡地。立ち並ぶ廃墟には小さな靴や人形が転がっています。ここでは立ち入り調査が入るまで、何千人もの子供たちが虐待され、十分な世話をしてもらえずにいました。

 このような大規模な児童収容施設があり、実に多くの子供たちが酷い扱いを受けていながら、見過ごされていたという事実、そして、このような酷い施設にも関わらず、預けられてしまった子供たちがいたという事実。

 ふたつの事実が示すのは、貧困と家族の関係です。こんな町はずれの寂しい場所にある、大きな児童施設に預けられる子供たちの親がどのような暮らしをしていたかは想像がつきます。そして、そのような施設の存在や、施設内部で行われていた虐待問題が黙殺されていたのは子供たちが身寄りがないというだけではなく、彼らが社会の底辺からも外れた子供たちだったからではないでしょうか。

 彼らは"見えない"子供たち。この施設がなくなれば、地域社会がこれに代わる受け入れ施設を造らなくてはなりません。それにはお金も人手もかかります。いわば、地域はこの施設にいる子供たちを「社会のお荷物」として扱い、虐待される子供たちに気が付かずに済むように、まぶたを閉じ、見えないふりをしてはいなかったのでしょうか。

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★貧しさと愛情と

 コーディの存在はブレンダの人生を変えました。ブレンダに仕事を見つけさせ、彼女を強くして自立の道を歩ませました。
しかし、同時にコーディは彼女の負担にもなりました。コーディがいることで、彼女の生活はコーディが中心にならざるを得ません。自分の生活がなくなっていくことの精神的負担はブレンダのコーディに対する考え方を次第に変化させていきました。

 育児というのは実に手がかかるものです。一人だけでは到底無理な大仕事です。もちろん、立派にこなす母親もいるでしょうが、ブレンダの場合は、ブレンダを拒む家族を頼れず、わずか4歳のコーディを預ける先も、お金もなく、何よりも、彼女はシングルマザーで、働いて生活費の全てを自分で捻り出さねばなりませんでした。

 必死に働いたあとは、コーディの世話。時間的にも経済的にも楽ではなかったブレンダの暮らしは彼女を次第に圧迫して行きました。そして、ビリーと知り合い、何とか恋人と一緒の時間を作りたいと思ったブレンダは、毎日コーディに睡眠導入剤代わりの咳止めシロップを飲ませるようになります。

 ブレンダに家族がいれば、頼ることができたでしょう。ブレンダにお金があったなら、コーディを預けることもできたでしょうし、ベビーシッターを頼むこともできたでしょう。時間にも余裕ができ、心にも余裕ができたに違いありません。

 町はずれの施設に入れられて虐待を受けた子供たちとコーディはよく似た関係にあるのです。

 経済的に苦しい生活は時間を奪います。時間を奪われる生活は心をむしばみます。心がむしばまれれば生活が荒みます。犯罪に手を出し、家族は崩壊するかもしれません。家族内の人間関係もうまくいかなくなるのです。貧困と家族の問題はコインの裏と表のように、密接した関係にあるのです。

 ブレンダは自分の人生を変えてくれたコーディを死に至らしめた自分の責任を嘆いています。しかし、これはブレンダ一人の責任で終わらせてよい問題ではありません。いま、ブレンダ一人の責任に全てを着せてしまえば、ふたたび、第2、第3のブレンダが出てくることでしょう。

 また、これは親子の愛情の問題でもありません。ブレンダがコーディをもっと愛せばよかったという問題ではないのです。そもそも、ブレンダがコーディを愛していたことは紛れもない事実ですし、仮に愛情が全くなくなってしまっていたとしても、一度、愛情を取り戻せば全てがうまくいくというのは幻想でしかありません。

 愛があっても、貧しさがすぐ後を追いかけてくる。やはり、ブレンダはまたコーディに、仕事に時間を取られることになるでしょう。愛だけではどうしようもない問題というものもあるのです。

 これは個人の問題ではなく、社会全体の問題です。貧困と家族の問題は社会全体で考えていかなくては、絶対に解決の糸口は見つかりません。

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★フリーダムランドの真実

 " Freedom Land " とは、 自由の国・アメリカのこと。ある国を表現する際に、「自由の国」、という決まり文句が多用されるのはアメリカ以外にはありません。「自由」に価値の重きを置くアメリカならではの表現でしょう。

 「自由」という言葉は実に重いもの。権力者との闘争によって人民が勝ち取ってきた「自由」の権利は民主政治に取って不可欠の権利です。
しかし、自由の発展史において、国家が全くコントロールをしない放置された自由な社会は実は不自由な社会であることが明らかになってきました。

 人間の活動を全くの自由の下に放置すれば、必ず支配するものと支配される者、富める者と貧しい者に二極分化していきます。
貧しさは人間の両手を縛ります。貧しさは生活レベルを固定し、子供もまた、社会の同じ階層に固定されます。自由なはずが実は不自由を強いられる現実。貧しい者はどこまでも貧しく、その下限は止まることを知りません。

 このような状態は実は、自由とはいえないのではないか、自由の下でも、ある程度の社会的介入が必要ではないか、そう議論されるようになります。現代政治では、自由への介入を前提にして、どれだけの介入をすべきか、社会の最低ラインをどこに置くべきか、の議論をしています。

 アームストロング団地の住民とブレンダは社会の底辺境界線上の存在に振り分けられるでしょう。彼らをどのように社会の網目から取りこぼさないように社会保障を敷いていくのかが議論の焦点になっています。
白人と有色人種の経済格差、シングルペアレントと子供の問題。その2つの大問題が入り混じって起きたのが「フリーダムランド」の事件でした。

 全てを一挙解決するような名案は残念ながらありません。それがないからこそ、問題意識を持って皆できめ細かい議論をしていく姿勢が必要になってきます。「フリーダムランド」はその問題提起を試みた映画であったといえるでしょう。

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ブラックホーク・ダウン

映画:ブラックホーク・ダウン あらすじ
※レビュー部分はネタバレあり

ブラックホーク・ダウン

↑墜落した2機目のブラックホーク・スーパー64の乗員たち。作戦の約1月前に撮影したもの。アメリカ軍提供。


 1993年10月3日、ソマリア。アメリカ軍特殊部隊のタスクフォースがターゲットの捕獲作戦を決行した。たった30分で終わるはずの作戦はなぜ、失敗してしまったのか。

 アメリカ軍のヘリ・ブラックホークが2機撃墜され、18名のアメリカ軍兵士が死亡し、73名が負傷した。ソマリア側の犠牲は1000名以上に上るといわれる。

 アメリカ軍がこれだけの死傷者を出したのはベトナム戦争以後、これが初めてだった。この失敗から、90年代、アメリカ政府は、空爆を中心とする軍事行動を選択するか、紛争介入そのものをしないという選択すらするようになる。アメリカの国際戦略に大きな転機を与えるきっかけとなった作戦の全貌を描く。

『解説とレビュー』では、作戦の全容を図解で説明しつつ、作戦失敗の原因を分析。さらに、映画「ブラックホーク・ダウン」の内容について見ていく。

 そして、なぜ、予想外の大規模な戦闘に発展してしまったのかを理解するため、作戦決行前のソマリアの社会・政治状況を解説する。

 最後に、「ブラックホーク・ダウン」の後、ソマリアがどうなったのか、そして海上自衛隊の派遣の可否で問題になった"ソマリア沖の海賊"で有名になり、現在に至るソマリアの状況について見ていく。

 「ブラックホーク・ダウン」というと、デルタ・フォースと陸軍レンジャー部隊という精鋭が作戦に参加したのにも関わらず失敗した作戦、多数の犠牲者を出してしまった作戦、という点に目が行きがちだが、どうせなら、ソマリアとアメリカの関わり、そして、"失敗国家"ソマリアのその後についても理解しておきたい。



【映画データ】
ブラックホーク・ダウン
2001年(日本公開2002年)・アメリカ
監督 リドリー・スコット
出演 ジョシュ・ハートネット,ユアン・マクレガー,トム・サイズモア,ウィリアム・フィクトナー,エリック・バナ,サム・シェパード,オーランド・ブルーム



ブラックホーク・ダウン

↑UH-60ブラックホーク。

ブラックホーク・ダウン

↑作戦に参加した第160特殊作戦航空連隊(ナイトストーカーズ)の用いたAH-6リトルバード・ヘリコプター。アメリカ軍提供。

映画:ブラックホーク・ダウン 解説とレビュー
※以下、ネタバレあり

★「ブラックホーク・ダウン」作戦図解

 たった30分で終わるはずだった作戦とは ?

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 (1)デルタ・フォースがリトルバードで直接地上に降下、そのまま目標建物に侵入し、容疑者を確保します。

 (2)レンジャー部隊が4班に分かれて、4角にロープで降下、周囲の安全を確保します。隊員が全員降下したあと、そのまま、ブラックホークは空から援護します。
 
 (3)12台のハンヴィー隊が到着、全隊員とターゲット2人をレンジャーの基地まで連れ帰る、という計画でした。

 なお、映画では、作戦に参加したのはデルタ・フォース、陸軍レンジャー部隊、第160特殊作戦航空連隊(ナイトストーカーズ・SOAR)となっています。

ブラックホーク・ダウン

↑ハンヴィー。撮影場所はアフガニスタン。アメリカ国防総省提供。 


★作戦が失敗した理由

 なぜ、失敗したか ?

 原因はいろいろと考えられますが、まず、思ったよりも、アイディード将軍の手まわしが良かったこと。

 アメリカ軍の出撃情報は即座にアイディード将軍に伝達され、市街地のメインストリートの封鎖命令が下されました。映画でもタイヤを焼く黒い煙が映されていました。道路の真ん中でタイヤを焼いて、地上部隊の進行を妨害したのです。

 また、一般市民を民兵の前に押し出して人垣を作らせるなどの手法も取られました。このとき、アメリカ軍は機銃掃射して道を作ったと作戦に参加した当時のアメリカ軍兵士が回想しています。映画にもソマリア人の一般市民を撃ち殺すシーンがありました。

 アイディード将軍のあの手この手の妨害策が効を奏し、結果として、地上部隊の到着が遅れ、帰還する際にも待ち伏せに遭い、地上部隊から初の犠牲者を出してしまいました。一方、第2墜落現場に向かうハンヴィー隊は道に迷ってしまい、到着が遅れるという事態が発生。これは映画にも描かれていました。結果的には救出は間に合わず、機密保持のためにブラックホークを爆破することしかできませんでした。

 さらに、民兵がターゲットとなった建物に向けて素早く集められました。4角に降下したレンジャー部隊の4班は遮蔽物のない場所での民兵との戦闘を強いられた上、1人がヘリから落下するという不幸な事故まで起きてしまいます。

ブラックホーク・ダウン

↑ソマリアにて。左奥に見える白い☆はソマリアの国旗のマーク。国連平和維持軍の兵士も何人か。1992年撮影。


 加えて、実戦経験のある者が少ないアメリカ軍と戦争慣れしている民兵との経験値の差をあげることもできるでしょう。

 デルタとレンジャーの隊員はハンヴィーで撤収する計画でしたが、1機目のブラックホークが墜落したため、墜落現場に向かうように指示を受けました。当時、作戦に参加したレンジャー部隊のある隊員は、墜落現場に向かう途中、「デルタ(の隊員)に前進しろ、と言われたが、怖くて無理だった」と、帰国後のインタビューで答えています。このときは、デルタの隊員が先行し、行く手に潜んでいた民兵を制圧してからレンジャーの隊員を呼んでくれたそうです。

 以上から、アイディード派の民兵の数、抵抗力の過小評価、アメリカ軍の経験不足、地上ルートの検討不足が挙げられるでしょうか。総じて、緊急事態が起きた場合の対応策や代替案が練られていなかったように思われます。レンジャー隊員トッド・ブラックバーンがブラックホークから墜落するという事故が起き、既定の作戦計画から外れ始めたときに立て直しを図ることができませんでした。

 結果的に、1つのトラブルが波状効果をもたらして負の連鎖を引き起こし、損害が拡大していきました。失敗した決定的な原因を特定することはできませんが、少なくとも予想外の反撃に遭い、指揮を執ったウィリアム・ガリソン少将の言葉通り、「主導権を失った」ことは事実なのでしょう。

ブラックホーク・ダウン

↑モガディシオ上空を飛ぶスーパー64(2機目の墜落機)。この日被弾したのは4機。内2機が墜落した。アメリカ軍提供。

★手貸してやるか、CNNで国の崩壊を見るか

 「手貸してやるか、CNNで国の崩壊を見るか」。エヴァズマン軍曹は2つの選択肢を提示します。無政府状態で、騒乱状況が独立以来何年も続いている国があると説明され、単純にどうしたいか判断しろといわれたら、「手を貸すべき」であると、まず回答するでしょう。

 テレビを見ながら、国が崩壊して行くのを見ていればいいとは思いません。ソマリアやルワンダ、コンゴ。90年代にはアフリカで危機的な状況に陥る民族紛争が多発しました。ソマリアに国連平和維持軍を派遣したように、国際社会は積極的な介入をしようと試みていました。

 しかし、無残な失敗に終わったソマリアでの介入。この失敗のために、「ホテル・ルワンダ」で描かれたような悲劇が起きたといっても過言ではないでしょう。ソマリア介入とその失敗の後に勃発したルワンダでのツチ族とフツ族の対立に国際社会は及び腰になってしまい、ルワンダでは満足な対応をできず、ジェノサイドの血の嵐に国連平和維持軍は無力でした。

 「手を貸してやる」。ではどのように手を貸してやればいいのか。貸してやる、と言いますが、相手からすれば、差し伸べられた手は救いの手かもしれませんが、邪魔者の手かもしれません。重要なことは、当事者全員が歓迎してくれるとはいえないこと。

 それを十分に理解しないまま、国連平和維持軍が現地に展開すれば、必然的に反発が起き、反対勢力との武力衝突は避けられません。そうなれば、国連軍と地元民の間に感情的な対立が生じてしまうことでしょう。となれば、今問題になっているのは「手を貸すか、CNNで国の崩壊を見るか」の選択をすることではなく、手を貸すことを前提に、「どうやって手を貸すべきか」という問いなのです。

ブラックホーク・ダウン

↑ソマリアの子供たち。1992年撮影。


★仲間のために

 「最初の一発がかすめたら、政治も何もどうでもよくなってしまうんだぜ」といった兵士がいました。

 そう、最初の一発がかすめたら、その瞬間から、その地は戦場となります。そうなったら、何のためにこの地に来ているのかはまったく関係なくなる。誰のためにこの地にきているのかも。ただ、仲間と生き残るための命をかけた勝負が始まるのです。

 これは戦争の本質。ソマリアの紛争に他国が口をはさむべきじゃないという信念の持ち主であっても、混乱の中で暮らすソマリア人に同情的な者だって、相手が銃を持って撃ってきたら、ためらわずに撃ち返すしかない。軍はその場に派遣されたときから、命令に従って、その通りに動くもの。兵士の行動の結果に非があるとするなら、その責任は派遣決定をした政治家にも向けられねばなりません。

 だから戦闘を生き残った兵士は言います。「俺たちは仲間のために戦い続ける」。彼らが戦う目的は何か、具体的な思想や理想の実現のためじゃない。そうではなくて、もっと近接的な目的、身近で手が届き、自分の行動で左右できるものを目的にする。これはある意味、自分が一つの駒に過ぎないことを前提にした、思考停止的な考え方ともいえます。

 命じられた行動の是非を考えず、自分のしている行動を大局的な見地から考えることもない。自分は今何をしていて、何を目標に走っているのかすら、見えておらず、すべて「仲間のため」と説明づける。

ブラックホーク・ダウン

↑アメリカ兵とソマリア人の子供。1992年撮影。 


 しかし、それ以上のものを現場の兵士に求めるべきではないでしょう。彼らが、命令に従うか従わないかの余地があるなら別ですが、彼らは1人の兵士です。右を向けといわれれば右を向くし、白い猫が黒い猫だといわれれば、それは黒い猫なのです。彼らには判断や選択の余地はない。そんな彼らに、何らかの選択や判断を要求するのは酷です。

 アメリカの地元に戻ると、「なぜ、そんなこと(=戦争で戦うこと)をするのかって皆に聞かれる」と言っていた兵士。彼が何を求めて軍隊に入ったのであれ、軍に入ったのちは、彼に選択の余地はありません。ならば、考えない方が楽だし、考えてもどうしようもないことです。だから、彼は考えない。ただ、「仲間のために戦い続ける」と答える。

 しかし、軍を動かす権限を持つ者は常に、自分が何を目的として、何をするために軍を動かすのかを考えていなければなりません。戦争においては、個々の兵士の個人的な思考は停止され、彼らはただ、命令に従って転がっていきます。途中で、何かを巻き込んで、緊急停止すべきときでも、いったん坂を転がり出した玉はとまりません。その玉を止めるのか、それともそのままにしておくのかを判断するのは、政治家の役割。そして、その判断のミスは大きな悲劇を伴う。軍を指揮する権限を持つ者はその大きな力に相応する責任をも負うのです。

ブラックホーク・ダウン

↑1992年、ソマリアの首都モガディシュの人々と国連平和維持軍の兵士。


★たまたま英雄に… ?

 英雄になるのはなりたがってなるわけではなく、「たまたま英雄になってしまうんだ」。「ブラックホーク・ダウン」の結末の言葉です。

今回の戦闘では誰が「英雄になってしまった」のでしょう ? 死を覚悟で第2墜落地点に救援に向かったデルタ・フォースのゴードンでしょうか、シュガートでしょうか。それとも、同じモガディシオ戦闘で死亡した他16名のアメリカ人兵士たちのことでしょうか。彼らは死んだ後、その勇気を称えられ、アメリカの人々の賞賛を受けました。

 アメリカ軍に反発する一部のソマリア人にとっては、アメリカ軍そのものが、侵略者として嫌悪の対象なのですから、ゴードンらが英雄になることなどありえません。彼らにとっての英雄はアイディード将軍、そしてアメリカ兵にひるまず立ち向かった民兵たちということになるでしょう。

 また、民兵や戦闘に巻き込まれた市民を含め、ソマリア側の人々は約1000名が死亡したとされています(アメリカ軍の事後発表)。無関係の、ただ戦闘に巻き込まれた市民にとっては、アイディード将軍もアメリカ軍兵士もヒーローではありません。彼ら一般市民にとってはこの戦闘に英雄などはいません。

 結局、「英雄」とは相対的な概念に過ぎません。ゴードンらが英雄なのか、それに値するかは、人によって違う。アメリカ軍を支援するソマリア人や、アメリカ人にとっては、死んだアメリカ人兵士たちは英雄かもしれませんが、他方、そうとは考えない人々もいるのです。

ブラックホーク・ダウン

↑ソマリアの首都モガディシュの街を走るミニバン。


 英雄になるのか、それとも、英雄になってしまうのか。「ブラックホーク・ダウン」の結末、1人の兵士が「自ら英雄になろうとする人はいない」と語ります。

 一般的に「英雄」といえば、世間から尊敬され、賞賛される、世間の憧れの対象となる人物が思い浮かびます。しかし、ゴードンやシュガートの行動が英雄を目指して取った行動だったというなら、映画でも言われていたように、それは誤りです。ただ、彼らは彼らの信念に従って、自分が取るべきと考える最善の行動を取ったまでです。彼らはもちろん、ヘリの操縦士を助けるという目的を持っていましたが、究極的には、人間として、どのようにあるべきか、自分に対して、自分の考える正義を尽くしたのです。

 彼らの行為は必ずしも、合理的とは言えません。すぐに地上部隊が着く見込みが薄いことは警告されていましたし、何百人も集まってきているソマリア人を前に、デルタ・フォースとはいえ、たった2人で救援に向かうなど、自殺行為もいいところと言えたでしょう。

 損益で考えた場合、墜落したブラックホークの1人の操縦士のために2人が死ぬのは割に合わない。しかし、彼らは合理的な判断を越えて、自分の正義に熱情を傾けました。助けなくてはならないという信念に取りつかれたようなところがあったのかもしれません。

 彼らの行動を一般的に、兵士がとるべき模範的な行動とほめたたえることはできないし、適確な情勢判断をしたといいきることにもためらいを覚えます。命を賭した彼らの行動は100%完璧な活躍と褒めたたえることはできません。だから、彼らの行動を常に正義を行うヒーローのように持ちあげてしまえば、欠点が見えすぎて、その輝きは色あせてしまいます。

ブラックホーク・ダウン

↑1992年、ソマリアの首都モガディシュ。アメリカ軍兵士とソマリア人の子供。


 彼らの行動は自分自身の正義のための行動です。絶対的な正義のためにした行動ではないし、全面的に称賛されるべき、いわゆる「英雄」が本来取るべき行為であったかも定かではありません。

 ゴードンとシュガートの行動は、その具体的状況下においてのみ、輝きを放つもの。すなわち、アメリカ軍の兵士である彼らが、同じアメリカ軍の仲間を守るために命をかけたという文脈においてのみ、ということです。ゴードンやシュガート以外のモガディシオ戦闘で死んだアメリカ軍兵士16名も、当時のアメリカ政府が命令した作戦の遂行に命を賭けたという文脈においてのみ、賞賛されるものです。

 この場合の英雄とは、全方位から賞賛される人物のことではありません。誰かのために英雄になるのではないのです。誰かに尊敬されたいから英雄になるのではない。英雄になるのは虚栄心を満たすためではない。自分のすべきと考えたことに、命を賭けるほど、必死になったこと。その点を捉えて、人はこの戦闘に、「英雄」の存在を感じるのです。

 兵士の場合、自分の使命に対して必死になるということは命の危険を伴います。だから、そこにはドラマが生まれ、人々の感動を呼ぶのです。政治家が自分の信条に必死になったとしても、命を落とす確率は格段に低いでしょう。しかし、その真剣さは現地で命を張る兵士同様か、それ以上の緊張感と適確性が求められます。

 政治家は兵士の命を左右する命令を下すことができるのです。他人の命を左右しかねない命令を下すことができるというのは他の職業ではめったにないことです。その緊張感が失われたとき、また、新たな「英雄」を生んでしまうことになります。しかし、彼らがそのリスクに怯えすぎて、適切な時期に適切な命令を出すことができなければ、やはり犠牲を生むでしょう。それが、国連平和維持軍が撤退した後のソマリアです。

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↑装甲車両の銃座。イラクにて撮影。


 「ブラックホーク・ダウン」でアメリカ軍の兵士たちが英雄視されているのかどうか、それは必ずしも問題ではありません。アメリカを賛美し、勇気ある兵士の行動を称える映画なのかどうか。結末で語られる「仲間のために戦い続ける」という言葉や「たまたま英雄になってしまうんだ」という言葉、それのみを取り出してしまえば、「ブラックホーク・ダウン」は英雄譚であるようにも考えられます。

 しかし、「最初の一発が掠めたら、政治も何もどうでもよくなってしまう」という言葉を考え合わせてみたとき、そこには、現地で戦う兵士と、本国で政治・外交を仕切る政治家、現実の戦争と机上の戦争の落差が見えてくるのです。

ブラックホーク・ダウン

↑モガディシオ上空をパトロールするアメリカ海軍のヘリコプター。アメリカ国防総省提供。


★混迷するソマリア

 今回の失敗した作戦、それに続くアメリカ兵の死体引きまわし事件と、大局的な国際支援戦略のあり方は本来、別次元の問題です。しかし、この事件をきっかけに、アメリカは軍を引き揚げてしまい、アメリカ軍主体の国際平和維持部隊は全面撤退を余儀なくされました。

 結果は、ソマリアは今に続く名高い「無政府国家」。秩序の崩壊した街では、武力がモノをいいます。市民は毎日、命の危険を感じて生きるしかなく、郊外には女性と子供、老人たちの避難民キャンプができるほどの治安の悪化を嘆くしかありません。このあまりに酷い騒乱状態が今も続いています。

 ソマリア問題は、平和維持任務を放棄して軍を撤退させた当時のアメリカを非難するだけでは解決できません。国連平和維持軍とはいえ、国連軍があるわけではなく、派遣されるのは加盟国の軍隊です。そして、平和維持軍の任務はときとして、戦争と何ら変わらない危険な任務となります。

 誰だって、自国の兵士がむごたらしく殺され、市中を引きずりまわされたなら、撤兵を決断する判断に誤りがあったとは言えなくなるでしょう。そこに、国連平和維持軍の主力をアメリカ軍に頼る現在の事実上のシステムの問題点があるのです。

 アメリカがこければ、平和維持軍全体もこけてしまう。また、平和維持軍の枠をはみ出るアメリカの勝手な行動を抑止することもできません。ソマリアでの今回の作戦もそうでした。アメリカはこのとき、平和維持軍の一員としてデルタとレンジャーのタスクフォースをソマリアに派遣したのではありません。

 当の特殊部隊の兵士たちがどう思っていたにしろ、彼らは平和維持軍の任務である「ソマリアの治安維持・物資配給の支援」のためではなく、「アイディード将軍の捕獲・抹殺」のために送り込まれたのです。その意味で、今回の作戦は国連の意図しないところでのアメリカの一方的な武力行使でした。

ブラックホーク・ダウン

↑ソマリアの子供たちと遊ぶ国連平和維持軍関係者。1992年撮影。


 確かに、国連がアメリカの一方的な行動に歯止めをかける力もなければ、アイディード将軍を抑え込む力もなかったのは確かです。しかし、この特殊部隊投入作戦の失敗がアメリカ軍全軍の撤退、ひいては国連平和維持軍の全軍完全撤退につながってしまい、結果的にはソマリアにおけるPKO全体が失敗してしました。ソマリアにはアイディード派の暴力的なやり口に閉口して、国連平和維持軍による治安回復に期待している人々もいました。

 「ブラックホーク・ダウン」でも、車両に置いていかれ、市内を走り抜けてきた兵士たちをソマリアの人々が迎えていたシーンがあったように。この出迎えのシーンは創作ですが、このような気持ちを持って迎えてくれた人々も確かにいたのです(マラソンさせられたことは事実です。彼らは置き去りにされて走らざるをえませんでした。モガディシオ・マイルと呼ばれるエピソードです)。

 しかし、作戦の失敗で、たとえ、アイディード派の反対勢力であれ、実力行使で自国の有力者の暗殺に踏み切るアメリカ、ひいては国連をソマリア人が大っぴらに支持することは難しくなってしまいました。アメリカの独断による特殊部隊作戦の失敗は、その作戦が失敗するだけでは済まない、甚大な影響をソマリアPKO全体に与えてしまったのです。

 その後、ソマリアはずっと放置され、見捨てられることになりました。何らかの手が差し伸べられない限り、ソマリアの混乱は果てしなく続くことになってしまうでしょう。

 ソマリアは「無政府国家」そして、近年は「海賊」で有名になりました。アフリカの一国家が無政府状態であることは世界、特に先進国にさほどの利害関係を持ちませんが、ソマリアが海賊の基地になってしまうことは世界にとって損害が大きいとみなされたのです。

 ソマリアには目立った鉱物資源もなく、先進国が介入に踏み切る利害関係や経済的な動機に乏しい国です。しかも、一度、"国連を追い払った"ソマリアは国際社会にとってできれば触りたくない古傷でした。しかし、そのソマリアから海賊が出没し、経済活動が阻害され、人命が脅かされるというなら話は別というわけです。

ブラックホーク・ダウン

↑右上の赤線円部分が海賊多発地帯のソマリア沖。正式名称はアデン湾。海上自衛隊も展開している。衛星写真。NASA提供。

ブラックホーク・ダウン

↑2001年創設の第150合同任務部隊。9.11後の対テロ戦争の一環として部隊が創設されたが、海賊被害の増加に伴い、海賊対策が主任務になった。ドイツ、日本、ニュージーランド、イタリア、アメリカが参加。アメリカ海軍提供。

 海賊の集団はソマリアに拠点を置いているといわれていますが、ソマリアには取締り機関はもちろん、法律もなく、裁判所もありません。現在は一応の中央政府ができましたが、ソマリア全土を完全に掌握しきっておらず、国内の治安維持すら満足に保てない状態です。

 また、主だった産業がなく、武器取引や略奪が外貨取得の主要手段となっている無法地帯で、海賊を捉えても、また次の海賊が台頭してくるだけ。まずは、ソマリアに安定した中央政府を作って国内の治安を安定させ、海からの取り締まりと内陸部での拠点の取り締まりと両面作戦を取っていかなくては、到底、海上治安の回復は望めないでしょう。

 皮肉なことに、国際社会から長年放置された「無政府国家」は「海賊」で再び、世界の注目を集めるようになりました。

 「ブラックホーク・ダウン」は確かに悲劇でした。しかし、その事件ばかりに目を取られ、"木を見て森を見ず"、になってはなりません。「ソマリアってひどい国だね」、で終わらせてはならないでしょう。その悲劇の先には見捨てられた失敗国家の現実が待ち構えているのです。

ブラックホーク・ダウン

↑ソマリア沖で船を乗っ取った海賊。中央の甲板に並ぶのは人質にされた乗組員。アメリカ海軍提供。


★ソマリアとアメリカ

 ブラックホーク・ダウンだけを見ていると、ソマリアとアメリカがいったいどういう関係にあったのかが良く分かりません。そこで、ブラックホーク・ダウンが起きてしまったこのモガディシオ戦闘の前に、ソマリアがどのような状況にあったのかを簡単に概観しておきましょう。

ブラックホーク・ダウン

↑ソマリアの地図。 薄いピンク部分がソマリアの国土。水色で区切った部分より左側が独立を宣言しているソマリランド(後述)。画像はアメリカ中央情報局(CIA)提供。

 ソマリアは変わった形の、直角に突き出した沿岸線を持つ国です。北部ソマリアはイギリス保護領とされて統治され、南部ソマリアはイタリアの信託統治領でした。第2次世界大戦後の1960年に北部と南部が統一ソマリアとして独立。

 しかし、誕生した中央政府は南部の民族を優遇する差別的な政策をとります。予算配分や大臣・官僚の登用、工業化の支援でも、北部は冷遇・圧迫され、北部ソマリアには不満がうっ積していきました。また、南部ソマリアも一枚岩ではなく、熾烈な権力闘争が続きます。

 独立から9年後の1969年にクーデターが起き、シアド・バーレが大統領になりました。彼は軍事圧政・人権侵害を大規模に行いながら、ソマリアを統治。隣国のエチオピアが親ソ連の立場をとったことに対抗するため、バーレ大統領はアメリカに急接近。アメリカ政府から大量の武器供与と資金援助を獲得し、権力基盤を強化しました。

 しかし、圧政を受けた北部ソマリアの不満がついに爆発。足元の首都モガディシオでも、北部とは別の勢力によるクーデターが起きます。ついに、1991年、バーレ大統領は追放されました。

 しかし、首都でクーデターを起こした勢力が、内部分裂。熾烈な権力闘争を繰り広げ、ついに武力闘争に発展。このときの片方の主力になったのが、アイディード将軍でした。結局、クーデター後に中央政府は崩壊したまま、ソマリア全土が内戦状態となります。

 日本でもかつて、武将が群雄割拠して全国統一を目指した戦国時代と呼ばれる戦乱の時代がありました。ソマリアはこのとき、まさに"戦国時代"に突入したのです。族長・氏族対立を基本とし、それにイデオロギー、宗教対立が重層的に加わり、武装勢力が群雄割拠する無秩序状態になります。

 南部のこの状況に愛想を尽かした北部ソマリアはクーデターの起きた年と同年の1991年、一方的な分離・独立を宣言。「ソマリランド」と称し、現在に至ります。ソマリランドは現在は南部に比べてはるかに治安が安定しており、外国人が訪問することも、危険ではありますが、可能な程度の状況です。

ブラックホーク・ダウン

↑ジョージ・H・W・ブッシュ大統領。1989-1993年1月20日までの任期を務めた。1989年撮影。アメリカ大統領行政府提供。

 国連は91年のクーデター・中央政府崩壊を受けて、92年から国連平和維持活動を開始。92年12月には、活動が強化され、ここで初めてアメリカ軍を中心とする多国籍軍が投入されます。大統領職の任期終了を1月に控えたブッシュ大統領(父)は、12月に海兵隊2万人を国連平和維持軍として派兵する決定をしていました。

 この平和維持軍の役割は、国連が行う物資配給を援護するというものでした。当時、モガディシオを牛耳っていたアイディード将軍が物資を横取りしたり、物資を受け取った人々を殺すなどの事件が多発していたためです。

 この活動は一定の成果を収めました。アメリカ軍を主力とする多国籍軍の展開はアイディード将軍にも、心理的威圧感を与え、ソマリアには武装勢力による連合政権が樹立されます。しかし、アイディード将軍は好機をうかがっていました。アメリカ軍はいつか撤退する。そのときになったら…と。そのチャンスはすぐに巡ってきます。

 92年12月から展開を始めた海兵隊は翌年・93年の春には撤退を開始したのです。半年にも満たない駐留でした。アイディード将軍が待ち望んだ瞬間です。彼は活動を活発化させ、モガディシオに残っていた国連平和維持軍及び、敵対する武装勢力への攻撃を命令します。

 そして一般市民には反米宣伝を開始。ライフラインの限られた社会では、満足な情報はいきわたらず、武装勢力が抱えるラジオ局の情報や、現地民同士のうわさや口コミがモノをいいます。アイディード派の宣伝はあっという間に浸透し、人々に反米感情が広がり始めました。

ブラックホーク・ダウン

↑ソマリア、モガディシオに展開した国連平和維持軍のパキスタン軍兵士。


 業を煮やした国連は93年の6月10日、アイディード派のラジオ局に強制立ち入り検査を実施し、アイディード将軍の影響力を削ごうとします。これに猛反発したアイディード将軍は連平和維持軍のパキスタン兵士24名を殺害、手足を切断しました。これを受け、国連のジョナサン・ハウ事務総長特別代表は2万5千ドルの懸賞金をアイディード将軍にかけると発表しました。

 ところが、これが逆効果。2万5千ドルといえば、220万円くらい。この懸賞金は安すぎる、ソマリア人をバカにしている、と人々が猛反発したのです。さらに、国連平和維持軍がアイディード派の一掃という目的を掲げて、大規模な掃討作戦を開始。アイディード派の幹部を狙って発射されたミサイルの爆発で50〜70名の一般市民が巻き添えになるという事態が発生しました。

 93年8月にはアメリカ軍のトラックが攻撃されて4人が死亡します。これをきっかけに、父ブッシュ大統領から政権を引き継いでいたクリントン大統領は特殊部隊を派遣することを決定しました。特殊部隊の任務は、以前派遣された海兵隊と違い、治安維持ではなく、アイディード将軍の捕獲が目的です。

 このころには、アイディード将軍は、自分が逮捕されたら、モガディシオ市民も殺されるといううわさを流していました。また、アメリカ人によりキリスト教に強制的に改宗させられる(ソマリアは大半がムスリム)、子供が殺されるというような反米宣伝を行っていました。

 そのような状況下、8月から9月にかけて首都モガディシオで特殊部隊は活動を進め、9月にはアイディード派幹部の1人を確保しました。そして、さらに幹部を逮捕しようと狙ったのが、10月3日、問題のブラックホーク・ダウンの日なのです。

ブラックホーク・ダウン

↑ソマリアの首都モガディシュにあった国連の施設。ドイツ・韓国・カナダの国旗が見える。


 ブラックホーク・ダウンの後に何が起きたか。アメリカは即時撤退。主力のアメリカ軍を失った国連平和維持軍は活動を維持できず、事件の翌年、94年に完全撤退を決議。95年3月にはソマリアから撤退完了。以降はソマリアはまったく援助されず、完全に放置されました。

 秩序回復、政権樹立への動きを見るには、その約10年後の2004年10月まで待たねばなりません。

 この2004年から連なる統一政府樹立への試みは2009年現在へと続いています。ただし、かなり足元がふらついている状態であり、予断を許しません。

 それに、10年以上に渡る内戦で国民の生活環境は荒れきっており、その状態から立ち直るには、中央政府をつくるという政治的努力だけではなく、電気・水道・ガスなど基本となるライフラインの整備、警察官や兵士を始めとする治安維持任務に当たる職員の拡充、そして、公務員の汚職をなくす必要があります。また、産業を育てて、工業化を進めるなど、経済面でも多くの努力が必要です。

 現在のソマリアは新政府の汚職がひどく、警察官や兵士が恐喝をしたり、市民を誘拐して金銭を要求するなど、公務員の職務意識が非常に低く、国家の基本的な部分が機能していません。兵士や警察官は武装勢力の民兵として活動していたときの意識が抜けていないのです。

 ソマリアにできた新政府が、新たな利権の温床となってしまえば、今までの武装勢力支配と何ら変わりがありません。いずれ、再び、争いが起きます。

 平和に、安全に生活をしたい普通の一般市民にとって、ソマリアの夜明けはまだまだ遠いといわねばならないでしょう。

ブラックホーク・ダウン

↑UH-60(ブラックホーク)。イラクのキルクークにて撮影。
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ホワット・ライズ・ビニース

映画:ホワット・ライズ・ビニース あらすじ
※レビュー部分はネタバレあり

 「フォレスト・ガンプ」を撮ったゼメキス監督のホラー・サスペンス。ハリソン・フォードとミシェル・ファイファーが湖畔の一軒家に引っ越してきた数学者の大学教授ノーマンとその妻クレアを演じる。仲むつまじく見える夫婦の仮面の下に何が隠されているのか… ?

 『解説とレビュー』ではノーマン・クレア夫婦の隣に住む夫婦の謎を通して、それぞれの夫婦の選択、そして「ホワット・ライズ・ビニース」全体を解説していきます。

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 クレアとノーマンは仲むつまじい夫婦だった。2人は数学者の夫ノーマンが父親から相続した湖のほとりに建つ家に越して来たばかりだ。娘は大学に進学して家を出て行ってしまい、今は夫婦だけ。妻のクレアは、夫が仕事に行ってしまう昼間は暇を持て余していた。

 越してきて間もなくある日、クレアは家で次々に起こる奇妙な出来事に気がつく。ドアが勝手に開いたり、ラジオやテレビの音が流れ出したり、水を張った浴槽の中に女性の顔を見たりするのだ。彼女は恐怖感を感じ、夫のノーマンにそれを訴えるが、ノーマンは取り合わない。

 さらに、クレアの家の隣に住む夫婦はどうも様子がおかしい。激しく口論することがたびたびで、ある日の夜には妻メアリーが家の外に飛び出してきて大声で喧嘩しているしまつだった。しかも、その後日、昼間に隣人の妻メアリーが庭に出てきて「夫が怖い」とクレアに訴えるのだった。

 クレアは思い余ってノーマンに相談するが、やはり、彼はクレアの訴えに取り合わなかった。クレアの家では一体何が起きているのか。隣家では何が起きているのか。やがて、クレアは恐ろしい秘密を知ることになる。



【映画データ】
ホワット・ライズ・ビニース
2000年・アメリカ
監督 ロバート・ゼメキス
出演 ハリソン・フォード,ミシェル・ファイファー



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映画:ホワット・ライズ・ビニース 解説とレビュー
※以下、ネタバレあり

★「ホワット・ライズ・ビニース」のラスト

 結末は単純でした。クレアは生き残り、ノーマンは水死。最後にノーマンの愛人・マディソンの墓に墓参りに行くクレアの姿で、映画は終わりを迎えます。

 夫ノーマンは浮気をした挙句、相手の学生マディソンとの別れ話がもつれ、マディソンに妻クレアを殺して自殺すると脅されました。ノーマンはクレアを本当に愛していたので、不倫相手のマディソンを拒み、彼女を殺害することを決意します。

 「マディソンが自殺した」とノーマンがクレアに言っていたのはウソです。マディソンはノーマンに殺されていました。
ノーマンは彼女を浴槽に沈めて水死させました。クレアを殺そうとした方法と同様の方法で殺したのです。

 最後、車で逃げるクレアにノーマンが襲いかかります。湖に転落し、水中で夫婦は格闘。ここで水中に潜んでいたマディソンはノーマンを湖の底に引きずり込み、クレアは命からがら逃げ出しました。

 ハリソン・フォードが悪役を演じたというのは珍しいことかもしれません。

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★ノーマンの不倫相手・マディソンはどんな人?

 彼女は意思が強い、自分の主張を持った人であったようです。だからこそ、ノーマンの別れ話をきっぱりと断り、死後にもゴーストとなって執念深くノーマンを狙ったのでしょう。

 マディソンはクレアを殺すと脅したとノーマンは言っていましたが、思えば、その話もマディソンを殺したノーマンの言葉ですから、本当かどうか分かりません。

 いずれにしろ、マディソンはクレアを少なくとも二度は助けました。一度目は浴槽でノーマンに殺されそうになったとき、次は川底での最期の格闘。ゴーストになってからのマディソンには、少なくともクレアを殺そうとする意図はありませんでした。

 マディソンとしては、ノーマンに殺され、自分の死体も湖に沈められている今、誰かに自分の存在とノーマンの裏切りを知らせ、自分の死体を見つけてもらうことが必要でした。なぜ、クレアのところにマディソンは現われたのでしょうか。

 それは、もちろんノーマンがいるから。ノーマンに対する復讐がマディソンの願いです。さらに、幸せなクレアとノーマンの生活を自分の存在を知らせることで壊せるから。マディソンとしては、クレアの家庭生活を破滅させ、ノーマンの命を奪うことができれば復讐としては十分です。湖の底に沈められた自分の死体の存在を知らせるにはクレアには生きて脱出してもらう必要がありました。

マディソンは善意のゴーストとは言えませんが、クレアに対しては、害意があるゴーストとも言い難いかもしれません。

さらに、ゴーストになったマディソンが、クレアたち夫婦に近づくには何かの媒体が必要なようです。最初はクレアがマディソンの家から持ち出したマディソンの髪の毛でした。その髪の毛はノーマンによって燃やされてしまったので、マディソンは次の媒体を必要とし始めました。

 次の媒体はクレアによって湖から引き揚げられた箱に入れられたペンダントでした。クレアはそれを身につけていたので、ノーマンに殺されそうになったときにマディソンがノーマンの行為を妨害することができたのです。

 また、マディソンが桟橋付近の水中や浴槽など、水に関連した場所に現れたのは彼女が水死させられたからです。家の中で起こるホラーものではバスルームというのは定番です。『仄暗い水の底から』(2002)、そのハリウッドリメイク版『ダーク・ウォーター』(2005)でも浴室はキーになる場所でした。

 水、というものは命の源であると同時に、人間の命を場合によっては奪うからでしょうか。バスルームは人間が裸になる場所なので、その無防備さが恐怖感を煽るのかもしれません。バスルームはホラーの定番アイテムとして欠かせないようです。

ホワット・ライズ・ビニース


★隣家の夫婦は何者?

 隣人夫婦、ウォレンとメアリーは何者だったのでしょうか。彼らは映画前半に集中して登場しますが、謎の存在です。隣人夫婦が行き違っていたのは本当です。メアリーが「夫が怖い、このままだと私も…」と言っていたことも、その後、一度メアリーは家から姿を消して、また2人が仲直りしたことも。

 あの家の夫婦もクレアとノーマンの夫婦のようになっていたのではないでしょうか。つまり、夫が何らかの重大な秘密をもっていたということ、妻がそれに気がついたということ、そして、2人がその秘密を巡って対立したということです。

 ここまでは2組の夫婦は共通の要素を持っていました。違ったのは秘密を知った妻の選択でした。

 ノーマンはクレアに、マディソンと不倫し、別れ話の末にマディソンが自殺したことを告白します。しかし、クレアはここでノーマンの説明に納得しませんでした。

 この時点で、マディソンの髪の毛は既に燃やされていました。ゴーストが出現する媒介物がなくなった今、マディソンのゴーストの出現を恐れる必要はなくなっていました。クレアはあえて真実を追うという選択をしなくてもよかったのです。しかし、クレアはノーマンを疑い、マディソンの死の真相を追うという選択をします。

 では、隣人夫婦、妻のメアリーの方はどうだったでしょうか。彼女は恐らく、夫ウォレンの知ってはいけない秘密を知り、喧嘩をした末にその秘密を2人で隠し、夫のウソの言い訳を受け入れたのだと思われます。クレアは真実を追い、隣人のメアリーは夫の言い分を受け入れました。

 2人の選択は結末の違いとなって現れました。クレアは家庭を失いましたが、ウォレンとメアリーの夫婦はこれまで通り、夫婦として生活をしていくでしょう。

 しかし、その生活は砂上の楼閣ではないでしょうか。妻メアリーが夫に殺されるという恐怖感を抱き、大騒ぎしたのは事実です。そんなに妻を怯えさせる夫の秘密とは一体何だったのでしょう。夫婦で大きな秘密を隠し通すことにし、その結論を無理やり自分に納得させても、今までと全く同じ幸せが得られるとはとても思えません。それを思うと、クレアの選択は間違ってはいなかったと思います。

 この隣人夫婦の存在は恐らく、クレアに間もなく訪れる選択のときを暗示していたのでしょう。すなわち、マディソンの死の真実を追うか、夫のウソの説明を受け入れるか、クレアがどちらかを選ぶときがくる、ということです。

ホワット・ライズ・ビニース


★隣人夫婦の秘密

 隣人の夫婦、ウォレンとメアリーが隠すことに決めた秘密とは何でしょうか。

 クレアが隣家を訪ねると留守でした。さらに落ちていたのは血の付いたミュール。加えて、夜に見たのは車に何やら重そうな荷物を積む夫ウォレンの姿。どう考えても誰かが死んだとしか思えないシチュエーションです。事実、クレアはメアリーが殺されたかもしれない、と夫に訴えていました。

 でも、メアリーは生きている。後のシーンで出てきます。まさかそれがメアリーのゴーストとは思えないし、クレアとノーマンがそろって幻影を見たとも思えません。クレアとメアリーは直接対面しているので、メアリーがそっくりさんと入れ替わったとも思えない。なので、殺されたのは妻メアリーではありません。

 では誰か、ということですが、死体はウォレンの浮気相手でしょう。メアリーは家の中に隠されていた愛人の死体に気がついたのだと思われます。だから、あんなに怯え、夫を恐れていたのです。「夫が怖い、このままだと私も…(浮気相手の女と同じように殺される)」、こうメアリーはクレアに言いたかったのです。

 最初のうちはメアリーとウォレンは大喧嘩をしていました。メアリーは怒りのあまり家の外に飛び出してしまうほどでした。しかし、口論をするのと怯えるというのは全く心理状態が異なります。ウォレンとメアリーが口論をしていたのは夫の浮気にメアリーが気がついたからです。メアリーは夫をなじり、浮気に対して激怒しました。そのとき、夫ウォレンは浮気相手と別れる、とでも言ったのでしょう。

 メアリーと仲直りしたウォレンはこう考えます。浮気がばれた今、浮気相手はやっとの思いで修復した夫婦関係を邪魔するものだ、と。そして、浮気相手を殺害しました。妻メアリーの怒りが怯えに変わり、一時的に家を出ていったのは、夫ウォレンが浮気相手を殺してしまい、その死体を見つけたからでしょう。

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★ホワット・ライズ・ビニースの意味

 What lies beneath = 何が下にあるのか、何が隠れて存在しているのか、という意味です。

 このタイトルが意味するのは一見仲むつまじい夫婦の裏にあるもの。それは、夫の浮気、そして殺人という秘密でした。また、隠された死体のことを指してもいるでしょう。さらに、ノーマンや隣人ウォレスの表向きの顔の下にあるのは人殺しの顔。

 クレア・ノーマン夫婦にも隣人のメアリー・ウォレン夫婦にも秘密がありました。ノーマンが浮気相手を殺害したように、隣人ウォレンも浮気相手を殺しました。この夫たちは共に大学教授で、ノーマンが大学で聞き込んできたウォレンの評判は虫も殺せないような人というもの。ノーマンだって、優秀な数学者で温厚な性格に見え、とても人殺しには思えません。

 一見平凡な夫婦に見える2組の夫婦。クレア・ノーマン夫婦だけでなく隣人夫婦の存在があることで、この物語はより一般化された意味合いをもつようになります。クレア・ノーマン夫婦の選択とメアリー・ウォレン夫婦の選択。信頼していた人の恐ろしい秘密を知ってしまったときにあなたならどちらの選択をしますか。

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★どうでしたか。

 映画全体として、秘密と恐怖が混じり合って醸し出す不気味さが全体を包む良作です。結末は手堅くまとめられていました。きちんと怖いところは怖かったし、前半のクレアとノーマンの幸せそうな夫婦が一転、ノーマンの抱える秘密を巡って殺し合ってしまうその落差も十分に描かれていました。

 惜しむらくは、ノーマンとクレアの過去がよく分からないということです。現在のノーマンはクレアとこんなにも仲が良いのに、なぜ、マディソンに走ってしまった時期があったのか。ノーマンの心情という点では、表現不足でした。それに、いくらマディソンが邪魔になったと言っても、殺害するに至るほどの切迫感が足りない気がします。

 また、クレアは自分が自殺未遂したことを忘れていて、次第に自殺未遂の記憶を取り戻していくわけですが、埋もれていた過去の記憶がよみがえってくるクレアの恐怖感や、圧迫感、驚きなどが感じられない展開でした。

 自分が自殺未遂をしたこと、そして、自殺未遂の原因は夫の浮気にあったということ。この2つの衝撃的な過去の事実をあっさりクレアが受け入れているように見えてしまっています。

 別に泣き叫んでほしいわけではありませんが、自分が自殺しかかっていたことを忘れてしまっていたなんて、かなりショッキングな出来事じゃないでしょうか。クレアが無理やり忘れようとしていた過去の辛い思い出をもっとしつこく盛り込んでも良かったと思います。

 また、マディソンが自殺したという夫の説明を受け入れるかどうかはクレアとノーマン夫婦の運命の分岐点でした。ここは夫の殺人を隠すことにした隣人夫婦との対比という意味でも、最も重要な選択をする場面だったわけです。が、その部分も引っかかりがなく淡々と進行してしまっていたので、惜しい部分です。

 さらっとした感情描写は自然ですんなり受け入れられてしまいやすいだけに、見せるべき重要なシーンは観客にここを見るべき、ということが分かるようにスローダウンして進行しないと、観客は気に止めることなく、スルーしてしまいます。

こうしてみてくると、ホワット・ライズ・ビニースは前半部分の展開が重すぎました。前半で隣人の妻、メアリーが恐怖にかられて必死でクレアに助けを求めてくる場面はかなりのインパクトがありました。その影響もあってか、夫のノーマンがかすんでしまっています。

 後半に一気に畳みかける展開を狙ったつもりだったのでしょうか。

 後半部分は、隣人夫婦が関心の対象の前半とは一転、クレアとノーマンの夫婦にスポットライトが当てられる展開です。ここがいってみればホワット・ライズ・ビニースのキモなので、後半は粘りのある丁寧な展開が欲しかったところです。

ホワット・ライズ・ビニースのユニークなところは隣人夫婦とクレア・ノーマン夫婦の対照的な選択を描いたことでしょう。隣人がいるかいないかではかなり映画への評価が変わります。この描写があることで、平凡すぎるサスペンスの線はどうにか脱しているのではないでしょうか。

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