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THIS IS IT

映画:THIS IS IT あらすじ
※レビュー部分はネタバレあり

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 マイケル・ジャクソン。彼は1958年に生まれ、2009年6月25日に唐突にその人生の幕を下ろした。彼の駆け抜けた約50年の人生は波乱万丈だった。"キング・オブ・ポップ"と呼ばれ、音楽界に不動の地位を築き上げた天才は、一方で興味本位のゴシップ報道に絶えず心を引き裂かれた悲劇の人でもあった。

 マイケルにまつわる真偽入れ乱れる数々のエピソードの中で唯一確実なことは、彼の人生は全て音楽に捧げられていたということだ。だから、マイケル・ジャクソンがいったいどんな人であるのかを知りたければ、テレビや雑誌ではなくてマイケルの音楽にこそその答えを求めるべきだ。それ以外に選択肢はない。

 「THIS IS IT」。 この映画はその答えのひとつを示してくれる。

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 2009年6月23日、アメリカ・ロサンゼルス。マイケル・ジャクソンはロンドンでの50公演を控え、ステイプルズ・センターでリハーサルに励んでいた。曲は「They don't care about us」。

 マイケル・ジャクソンは1996年の3度目の世界ツアー以来、大規模なライブを行っていなかった。そのマイケルが復活を期したのがロンドン公演だ。この公演はマイケル最後のステージ・パフォーマンスになると予想されていた。2009年1月に発表されたロンドン公演のチケットは5時間で即日完売し、マイケル・ジャクソンの人気がいまだ衰えを見せていないことを証明していた。

 リハーサルにも熱が入り、ライブの流れに沿って曲とパフォーマンスを流しながら最終チェックが行われている。そんな矢先のことだった。マイケル・ジャクソンが心肺停止・意識不明で緊急搬送されたとの一報が入る。この不幸な知らせは嘘ではなかった。マイケル・ジャクソンは帰らぬ人となった。ロンドン入りを8日後に控えた2009年6月25日の出来事だった。

 マイケルが「THIS IS IT」にかけた思い、そして、ロンドンで実現できなかったマイケルの夢。映画になった「THIS IS IT」はそのマイケルの夢を一つのかたちにして私たちに見せてくれる。マイケルの個人的な記録として撮影したというリハーサル映像に、ライブで使用される予定だった映像やCGを交えて再現された「THIS IS IT」の世界へ今、旅立つ。



【映画データ】
THIS IS IT
2009年・アメリカ
監督 ケニー・オルテガ・マイケル・ジャクソン
出演 マイケル・ジャクソン


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Got Be There(1972年1月24日リリース)

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Ben(1972年8月1日リリース)


映画:THIS IS IT 解説とレビュー
※以下、ネタバレあり

★永遠の輝きを

 2010年、年明け最初に観た映画が「THIS IS IT」。それにふさわしい価値ある2時間でした。「THIS IS IT」はマイケル・ジャクソンのライブ・リハーサルを記録した映像から構成された映画。彼の音楽にかける情熱、愛情。完成されたライブではなく、リハーサルだからこそ、マイケルの素の人柄が浮き出して見えてきます。

 マイケル・ジャクソンは今回のロンドン公演を「最後のカーテン・コール」と言っていました。これを最後にステージ・パフォーマンスからは引退するつもりだったのかもしれません。年月を経ても、マイケルは今回のライブにかつてと同じクオリティを求めていました。マイケルの言葉を借りれば、「最初のレコード」通りの音楽を求めていたのです。「観客のイメージ通りの」音楽。マイケルはそれを目指してステージを作り上げていきました。

 だから、リハーサル映像を見ると、既視感を感じるかもしれません。各曲に使われる演出やパフォーマンスは今までにマイケルがこなしてきたワールドツアーのインスピレーションをそのまま生かしたもの。しかし、単なる焼き直しではありません。彼は同時に、新しいアイデアをステージに加えようとしていました。CGを使用し、曲のオープニングに新しいバリエーションを加えてバックダンサーとの一体感を高め、観客により進化した壮大なステージを見せようとしていました。

 マイケルは自分に何が期待されているかを分かっていました。それは、年月を経てもなお輝きを失わないマイケル・ジャクソンが演出する“夢の世界”です。夢の世界では人間は年を取りません。観客は、かつての輝かしい若きマイケルの記憶を持ったまま、かつてのように、夢の世界に飛翔したいと願っている。従来からのファンも、新しくファンになった人も、ファンがマイケルのライブに求めるのはかつて見た夢の世界。

 実際には人間は年を取るので、その世界を維持することはとても難しいのだけれど、マイケル・ジャクソンは絶対に無理だとは思っていません。彼は常に、最初のレコードに収録した通りの音楽が創り出す世界を演出することに魂をかけていました。「THIS IS IT」のリハーサル映像を見れば、マイケルがかつてと変わらない身体を保ち、かつてと変わらないキレのいいダンス・パフォーマンスを見せている様子が分かります。このリハーサルのすぐ後に待ち受けていたロンドン公演「THIS IS IT」の舞台では、マイケル・ジャクソンの復活が確かに約束されていたのです。

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Off The Wall (1979年8月10日)

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Thriller(1982年11月30日リリース)


★愛、きっとそばにあるはず

 マイケルはスタッフとのミーティングで「世界に愛を思い出させよう」とスピーチしていました。愛とは何か。夫婦、親子、友人。人間同士の愛はもちろん重要です。人間同士の心通う愛があれば、この世界はもっと住みやすく、優しい気持ちが地球を包むはず。

 そのメッセージはマイケルが「Heal The World」などの曲を発表するなかでずっと追求してきたものだし、訴えてきたもの。そして、今回のライブではさらに「環境破壊」をキーワードに加えていました。"地球への愛"です。

 「4年で環境破壊を止めよう」とマイケルはスタッフにスピーチしていました。恐らく、マイケルはこう考えていました。「環境破壊も人が愛を忘れてしまっているがゆえに起きているのだ」と。個人個人が自分だけ良ければいいという個人主義・利己主義に走ってしまっているから、環境破壊によって日々の生活を脅かされている人間や動物たち、そして地球の悲鳴に気がつくことができないでいる。自分しか見えていない。ひどく近視眼的なこの世の中は他人に対する愛を失ってしまっている。その愛を思い出させるのが自分の役目だと彼は思っていたのでしょうか。

 マイケルのスピーチには「忍耐と理解」という言葉が出てきます。どちらもとても難しい言葉です。不快に思っても、反発したくなっても、その気持ちをぐっと抑え、相手の言葉に耳を傾ける。そうすることで、初めて相手を理解する可能性が芽生えてきます。

 忍耐と理解は愛の芽生えのきっかけになるもの。多くの人はこの行為の大切さを分かっていながら、実行できていません。愛とは相互理解なしには成り立ちません。寛容な心で、相手を理解しようとすることが今の自分にできるでしょうか。ついつい、自分の都合や感情、主張を優先してしまう日々は誰かを愛する心を忘れさせてしまうのです。

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Bad(1987年10月1日リリース)

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Dangerous(1991年1月1日リリース)

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HIStory-Past,Present And Future Book1(1995年リリース)


★相手を認めるということ

 完璧を求め、譲歩せず、素人には絶対分からない微妙なニュアンスの音程を気にするマイケル。彼はスタッフに細かい注文をつけます。しかし、彼は同時に、その注文が"文句"ではないことを同時に伝えます。

 「怒ってない、これは愛なんだ」。マイケル・ジャクソンはプロです。マイケルは「キング・オブ・ポップ」という敬称をいただくポップス界の王です。しかし、彼は同時に、スタッフもプロであることを認めていました。だからこそ、スタッフを頭ごなしに叱りつけたりはしません。スタッフの感性を尊重しつつ、遠まわしに自分のイメージとは違う点があることを伝えていきます。あまりに控え目な言い方なので、スタッフからは逆に、「もっとはっきり言ってくれ」と言われるほど。

 マイケル・ジャクソンの謙虚な人柄は彼の訴える愛のメッセージをより力強いものにします。誰かや何かを愛するにはその誰かや何かにも愛されなければならない。愛とは一方通行の感情ではありません。相互に愛し、愛されることこそ、本当の愛。「キング・オブ・ポップ」の称号にあぐらをかくことなく、常に、自分を支えてくれる人々と一緒にあろうとしたこと。相手を思いやるこの心は全て愛につながっていきます。

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BLOOD ON THE DANCE FLOOR HIStory In The Mix(1997年5月1日リリース)

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Invincible(2001年10月1日リリース)

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Number Ones(2003年11月18日リリース)


★ゴシップの嵐の中で

 マイケルの訴える愛は"寛容な心"、"思いやりの心"と言いかえることができるでしょう。彼はすさまじいゴシップの嵐の中を生きてきました。マイケルが白人になりたがって特殊な美容治療を受けているのではないか、整形をやり過ぎて顔面が崩壊するのではないか、性的嗜好に問題があるのではないか、ジャネット・ジャクソンと同一人物ではないか。

 あまたの報道には、まったくマイケルに対する好意や彼の人格への配慮はありませんでした。ただ、マイケルを奇人・変人として扱っただけ。世間は児童虐待を疑われた「マイケル・ジャクソン裁判」や「尋常性白斑病」というマイケルの病気を面白おかしくネタにしていました。

 「尋常性白斑」とは、皮膚の色素生成機能がうまく働かず、皮膚がまだらに白くなる病気のこと。この病に罹患したマイケルは、当初、色の濃いファンデーションを使用して病部位を隠していましたが、症状が悪化するにつれて白いファンデーションを使わざるを得ず、次第に見た目が白人のようになっていったのです。彼自身はブラックとしての意識を常に持っていました。93年にこの病気を告白した後、「ブラックであることに誇りを持っている」と語っています。また、「Black or White」という曲を歌うとき、肌の白くなったマイケルが"Black"の部分で自分を指し示す映像が残っています。

 しかし、心ない欧米メディアの報道や、それをそっくり拝借して報道する日本を始めとした各国のメディアによって、マイケル・ジャクソンはあたかも怪物であるかのように描かれ、その人物像は歪められて、世界中に拡散していきました。

 相手を思いやる心がもう少し世間にあったなら。お金目当てでマイケルの厚意につけ込み、あの手この手で近づいてくる心ない人たち。マイケルは激情を直接的に言葉で表明することはありませんでした。彼は怒りや失望を音楽に込めることを選択します。生前最後の「THIS IS IT」リハーサル曲となった「They Don't Care About Us」。この曲にはマイケルが訴えたかった彼の辛さと痛みが込められています。

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Michael Jackson The Ultimate Collection(2004年11月1日リリース)

THIS IS IT Live In Concert in Bucharest The Dangerous Tour(2005年7月26日リリース).jpg

Live In Concert in Bucharest The Dangerous Tour(2005年7月26日リリース)

THIS IS IT Michael Jackson 25th Anniversary of Thriller(2008年2月1日リリース).jpg

Michael Jackson 25th Anniversary of Thriller(2008年2月1日リリース)


★I Love You

 2001年に生涯最後となったアルバム「Invincible」を発売してから、2009年1月にロンドン公演を発表するまでの約10年間はまさに、「失われた10年」と言っていいでしょう。その間には性的虐待疑惑による逮捕・起訴、そして無罪という出来事がありました。

 すさまじい精神的重圧にさらされながらも、その中で復活を期したマイケル・ジャクソン。完全復活の矢先に亡くなってしまったことは無念としか言いようがありません。世間の人は移り気です。マイケルの死もやがて記憶の一片となり、彼の生きた波乱の人生も歴史の波間に飲みこまれていくかもしれません。

 しかし、マイケルの音楽は不滅です。マイケルの音楽には時を超える力があります。マイケルの音楽からうかがわれる彼の世界観は、単なる音楽にとどまらないあまりに多くのものをこの世に残してくれました。マイケル・ジャクソンと同時代を生きた人も、後進の世代も、マイケルの音楽や残された映像を通して、彼の人生を知ることができます。

 「THIS IS IT」はそのきっかけにすぎません。そして、マイケルの音楽に触れた人の心には必ず何かが残るはず。マイケルの伝えたい"愛"は彼の音楽と同様、不滅なのだから。

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ツォツィ

映画:ツォツィ あらすじ
※レビュー部分はネタバレあり

 ワールドカップ開催国として注目を集める南アフリカ。その裏で、発展の恩恵を受けられず、取り残された者たちがいる。貧困・犯罪・エイズ―南アフリカの抱える深刻な社会問題を1人のツォツィ(チンピラの意)を通して描く。

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 南アフリカの旧黒人居住区、ソウェト。ここにはプレハブで作った小屋が立ち並び、昼間から暇を持て余した若者たちがたむろしている。ツォツィもその一人。ツォツィは仲間を従え、毎日のように強盗、窃盗を働いていた。ツォツィは必要なら殺人もいとわず、仲間ですら半殺しにするときがある。

 そんな彼の日常に思いもかけぬ事件が起きた。ある日、ツォツィはいつものように強盗を働こうと高級住宅街へと向かう。ツォツィは運転していた女性を銃撃して車を奪い取り、逃げ出すことに成功する。しかし、なにやら後ろの座席から泣き声がする。奪い取った車の後部座席には赤ちゃんがいたのだ。ツォツィは何を思ったか、赤ちゃんをソウェトの家へと連れ帰るのだった。

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↑南アフリカ・ヨハネスブルグのパノラマ写真。都市部は日本の都市とそれほど変わらないくらい発展している。


 2010年サッカー・ワールドカップの開催に沸く南アフリカ。かつてアパルトヘイト政策(人種隔離政策)に苦しんだかの国は急速な経済発展を遂げている。その一方で、南アフリカでは貧困層の固定化と拡大が進んでいる。旧黒人居住区には相変わらず黒人ばかりが住み、しかも極度の貧困にあえいでいる。基礎的なインフラも十分に整わないソウェトのような地域はその代表格だ。

 南アフリカ最大の都市、ヨハネスブルグを訪れると、日本と何ら変わらない、高層ビルの立ち並ぶ市街を見ることができる。その近代的な都市風景からは、ツォツィたちのような人々が暮らす地域があることは想像しにくい。

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↑南アフリカ共和国、ソウェト地区。バラックが立ち並ぶ。アパルトヘイト時代に比べ、何倍もの面積に広がった。貧しさはとまらない。

 旧黒人居住区であり、貧困地域として有名になったソウェトは観光で訪問することもできる。その際には、ガイドから治安状況について厳しい注意を受けることになる。外国人が1人でソウェトに行くのは少々勇気がいる。ソウェトでは傾きかけた掘っ立て小屋のような家々が立ち並び、入り組んだ道がその間を走っている。

 一方、そのソウェトを目前に望む小高い場所にはこじんまりとした、全く同じデザインの建て売り住宅がマッチ箱を並べたように整然と建ち並んでいる。さらに、ケープタウン市街に近接する地域では緑の美しい芝生を敷き詰めた、プールのある広い庭付きの大きな邸が建ち並ぶ。このような街では住宅街全体が高い塀で囲われ、出入り口では住民以外を通さないために警備員が立っている姿を見ることができる。

 まるで土地に線引きがされているかのように、貧困層、中間層、高所得者層が住み分けをしている。このモザイク模様をアパルトヘイト時代の地図に重ねてみるとある特徴に気が付くだろう。かつての黒人居住区がそのまま、現在の貧困層居住地なのだ。しかも、その範囲はアパルトヘイト時代よりも拡大している。

 ツォツィはそんな旧黒人居住区ソウェトで生まれ、育った人間だ。ツォツィや彼の家族の姿からは南アフリカの抱える深刻な社会問題が見えてくる。『解説とレビュー』では南アフリカの現状とツォツィの抱える問題を、ヨハネスブルグやソウェト地区の写真を交えて見ていこう。



【映画データ】
ツォツィ
2006年アカデミー賞外国語映画賞
2005年(日本公開2007年)・イギリス,南アフリカ共和国
監督 ギャヴィン・フッド
出演 プレスリー・チュエニヤハエ,テリー・ペート,ケネス・ンコースィ



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↑南アフリカ共和国はアフリカ大陸の最南端に位置する。


映画:ツォツィ 解説とレビュー
※以下、ネタバレあり

★ツォツィの舞台―未知の国、南アフリカ―

 南アフリカ共和国と聞いて何を思い出すでしょうか。

 アフリカ大陸の最南端に位置する国、2010年ワールドカップ開催国、悪名高きアパルトヘイト政策を敷いていた国、マンデラ元大統領。様々なキーワードが顔を出しますが、南アフリカと言えば、“アフリカの優等生”といわれる国であることも確かです。

 かの国は、近年目覚ましい経済成長を遂げており、成長率は2005年に5%を越えています。さらに、不動産価格は上昇し、大型ショッピングモールが次々に建設され、自動車販売台数も急激に増加していて、自動車産業界の熱い視線を集めています。

 日本でも外貨投資が盛んになってきていますが、一時、南アフリカの通貨であるランドを買うのが流行したときがありました。当時、投資の相談カウンターに行くと、推奨外貨投資先として、ブラジルなどの他、決まって南アフリカの国名が並んでいたものです。

 投資先を決めるときに考えるのは、まず、「リスク」です。アフリカに位置する南アフリカはアフリカ大陸にあるというだけで地政学的なリスクが大きいのです。アフリカ大陸は内戦や紛争に事欠かない地域。反政府勢力と言われる武装組織がない国が一体あるのか、という勢いで、内戦を繰り返してきた地域です。

 ざっと思いつくだけでも、コンゴ・ソマリア・ナイジェリア・スーダンにモザンビーク…。統一された政府がある国でも、何がしかの内戦の火種を抱えています。その中で、南アフリカには安定した政府があり、民主的な政権が存続していることは奇跡とも言えるでしょう。まさに、南アフリカはアフリカの優等生、アフリカの盟主、アフリカの地域大国なのです。

ツォツィ↑中央に幹線道路が見える。ヨハネスブルグ東部の光景。.jpg

↑中央に幹線道路が見える。ヨハネスブルグ東部の光景。


★もはや、これは戦争か―犯罪と戦う南アフリカ―

 ところが、です。南アフリカに内戦はありませんが、それに近い状況を演出しているものがあるのです。それがこの「ツォツィ」で取り上げられる"犯罪"です。映画中であまりにあっさりツォツィたちが人を殺すのを見てびっくりした方も多いのではないでしょうか。彼らはナイフや銃を常に持ち歩き、必要を感じたら容赦なくそれらを行使します。

 これは映画的演出ではありません。それを証明するのが南アフリカ政府が発表する殺人認知件数です。映画の公開された翌年、2006年には1万9千202人が殺されています。2007度は1万8千487件。人口10万人当たりに直して、日本と比較してみましょう。そうすると、南アフリカは10万人に40.5人が殺されており、これは日本の約40倍という数字が出てきます。これはもはや犯罪の域を脱しているとしか言いようがない数字です。

 しかも、南アフリカ政府は少しでも数字を良く見せようと、殺人未遂を除外して計算しています。国際的なルールがあるわけではありませんが、日本を含めた多くの国々では殺人未遂を含めて計算しているので、実際の数字は日本の40倍以上になること疑いなしです。

 別の数字と比較してみましょう。ベトナム戦争で亡くなったアメリカ兵の数は10年間で約5万8千人。1年平均約5千800人のアメリカ兵が死亡した計算になります。一方、南アフリカではその約3.2倍の約1万9千人が毎年、犯罪で殺されています。数字だけで見てしまえば、もはや戦争と犯罪の線引きが難しい状況にあることは間違いありません。

 ツォツィの生活手段は強盗です。では、そんなに強盗事件が多いのか、と言うところですが、殺人事件の件数を見れば推測できるように、強盗発生件数もけた違いに多い国です。日本では年平均5千件の強盗事件が起きているのですが、南アフリカでは年間20万件をくだりません。ケタ違いに多いのです。これを人口あたりに直すと、日本の120倍の強盗事件が起きている計算になります。

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↑カラフルな街並みは重要な観光資源だ。観光客も多く集まる。


★頼れない南アフリカ警察―多すぎる犯罪―

 「ツォツィ」に出てきた警察の対応が何か変だ、と気がついた方はおられるでしょうか。赤ん坊を乗せたままのBMWを強奪された夫は「スラムに逃げ込んだのは確かなんだろ ? 」と言って、語気鋭く警察に捜査をするように強く要請していました。そのときの刑事の対応は「スラムには人が多いし、車の追跡もできないようなところだし…」。

 赤ん坊が生死不明のまま、行方不明だというのに、ずいぶん、のんきな対応です。車の発見場所はスラムを見おろす高台で、犯人はスラムに逃げ込んだか、スラムに住んでいる者であることは間違いありません。だとしても、邪魔になる赤ん坊はもう生きてはいまいと考えたのでしょう。これも南アフリカ警察の活動の実態をちらりと垣間見せるシーンです。

 個人的な経験になりますが、日本に住んでいて、一軒家で空き巣に入られたことが2度、住んでいたマンションの別のお宅に強盗が入ったことが1度ありました。空き巣でとられたのは現金15万円ほどと商品券のみ、という事件としては小規模な事件でしたが、警察が捜査や鑑識活動を行い、空き巣の事件では犯人も逮捕されました。しかし、これが警察の対応として国際的に、常識的な対応だと思ったら大間違いです。

 驚くなかれ、南アフリカ警察は"小さな事件"では大変に対応が鈍いのです。社会的に有名な人や有力者が事件に巻き込まれたのでない限り、強盗事件については原則、捜査はなし。現場に来てくれないことすらあります。これは決して、南アフリカの警察が怠惰な警察活動をしているというわけではありません。犯罪が多すぎて手が回らないというのが正確なところです。

 かつて、大型ショッピングセンターで強盗事件があり、強盗と警備員が銃撃戦を展開した事件がありましたが、警察官が到着したのはその1時間後でした。ちなみに、強盗に襲われるのは、自宅、レストラン、ショッピングセンターだけではありません。強盗団は教会にもやってきます。日曜日ともなれば、礼拝に多数の人が集まりますし、それなりの経済環境にある人がいることが見込めます。つまり、金目のものを強奪するには、「効率がいい」。

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★“要塞”のようなセキュリティ・システム

 こんな状態なので、一般の人々はどうするかといえば、できるだけ「防犯」するしかない。日本でよく言われるような、「防犯意識の啓発」などというかわいいものではありません。自動車強盗を防ぐため、防弾ガラス入りの自動車に乗り、低速では走行しない。できるだけ、夜間の外出を避け、外出するときはどうしても必要な時だけにする。夜に寂しい道を1人で運転するのは論外で、夜間の交差点ではできるだけ止まらない。

 玄関のカギを開けようとしたり、車庫に車を入れようと停車するときに襲われやすいので、門扉の開閉は全てオート式。ツォツィに襲われて車を奪われた女性は、車内にあった門扉を開閉するリモコンが故障していました。彼女がひどく焦ってドアベルを鳴らしていたのは、彼女がせっかちだからではありません。夜間に、女性が1人で車を停めていれば、強盗に襲われる可能性が高いからです。彼女が焦っていたのはいわば当然なのです。

 また、中流家庭ならセキュリティ・システムは設置することが常識です。日本の警備会社がよくテレビなどで宣伝しているセキュリティ・システムは、窓やドアの開閉や破損によって異変を察知し、警備会社に通報するシステムが主流です。しかし、南アフリカの警備システムはそれだけでは足りません。室内に赤外線センサーを張り巡らし、自宅の周りのフェンスや塀には電気を流すというちょっとしたものです。

 他にも、ツォツィが強盗に入ったとき、夫が鳴らした非常通報ボタンはキーホルダー式のものでした。日本の警備会社と契約しても、オプション契約しない限り、非常通報ボタンはキーホルダー式にはならないし、設置されるのは2〜3程度。一方、南アフリカの警備システムでは7つ以上の非常通報ボタンを設置することもざらだといいます。

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↑ソウェトの住民たち。


★南アフリカの労働者たち

 ツォツィは駅でホームレスの男性に出会います。彼は足を固定していて、車いすに乗り、物乞いをして暮らしています。彼につばを吐かれたツォツィは彼を追って駅の構内を歩いていきます。一方、ツォツィが追っていることに気が付かない彼はホームレス仲間に声をかけながら、車いすを押して進んでいきました。

 この男性はかつて金鉱山で働いていましたが、足をけがして以来、仕事はありません。そして、彼の顔見知りであり、駅の構内で何やら新聞らしきものを販売している男性にも、きちんとした生活の手段はないようです。

 ちなみに金鉱山というのはダイヤモンドと並んで南アフリカの白人層を狂喜させた大発見でした。1867年にダイヤモンド、1886年には世界最大級の金鉱脈が発見されたのです。鉱脈を開発するために、白人資本家は黒人社会を徹底的に破壊しました。それは、採掘の労働力を安価に、しかも大量に確保するためのものでした。

 結果、土地を失っい、低所得の労働者となった大多数の黒人は土地を所有できず、小作人となるか、鉱山労働者となる道を選ぶしかなくなっていきました。そして、これはアパルトヘイト政策の端緒にもなっていきます。

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↑アパルトヘイト時代、ソウェト蜂起で亡くなった息子を抱いて歩く母娘。アパルトヘイトが廃止されてからも、ソウェト地区の貧しさは変わらず、ソウェト地区の失業率は80%を越える。

★仕事がない

 さて、話がそれましたが、そもそも、ツォツィだって、20歳前後の青年です。ところが、彼の仲間を含めて、スラムにたむろしている人々は、まったくの無職か、盗品売買や車の窃盗、転売を仕事にしているようでした。

 昼間だというのに、スラムの飲み屋は満席で、昼からビールをあおる彼らはまともな仕事に就けないのか、それとも、就く気がないのか。彼らが個人的に今の生活をどう思っているのか分かりませんが、南アフリカの労働事情から問題背景を探ることはできるでしょう。

 まず、南アフリカの失業率は毎年40%前後で推移していることが挙げられます。南アフリカでも、日本と同様、年齢が高くなるほど、就職は難しくなります。高齢者の多い駅のホームレスたちは、再就職をすることはほぼ絶望的です。

 では、若いツォツィたちはどうでしょうか。そこで、給与水準を見てみましょう。外国人や富裕層の家に住み込みで働く家事手伝い、工事現場の作業員の給与は月給1300ランドが平均的な額。日本円にして約2万3千円程度です。そして、スーパーマーケットの店員や商店の店員など、読み書きや簡単な数字を扱えるレベルなら、高くて、月給5万4千円くらい。大企業の工場労働者なら月10万円から18万円くらいは所得があります。一方、大企業に就職した大卒者の給料は日本より多少安い程度にまで上昇します。

 さて、ここで問題が出てきます。ツォツィたちは大学はおろか、そもそも学校に行っていません。ツォツィの仲間のボストンはかろうじて、学校に行っていたことがあるようです。だから彼は仲間に「先生」と呼ばれていました。彼らに基本的な学力がないことは基本的な足し算すら満足にできていないことからすぐに分かります。賭け事をしているとき、足し算の正否を巡って言い争う場面が2度も出てきていました。

 つまり、彼らは、商店の店員を目指すことも難しく、給与の低い単純労働しか道はありません。そうなると、1日の拘束時間が長い割には生活するにも事欠くような安い給与しかもらえない仕事で暮らすしかなくなってしまいます。それなら、盗品の故買でもやっていた方が、よっぽど金になる。

 そもそも、失業率が40%を越えるような国において、まったく学のないスラム街の若者たちが超単純労働であれ何であれ、定期的に賃金のもらえる定職を持てるなどということは夢物語に近い話なのです。

 2004年の国連の推計によると、南アフリカの48.5%の人は毎月354ランド、およそ6300円の所得で暮らしています。毎日210円で暮らしている人たちが国の半分近くを占めているという現状はツォツィたちにも重くのしかかる現実なのです。

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↑ツォツィたちがこの暮らしをするにはあまりに高いハードルがある。


★ツォツィの悲劇―アルコール依存症が家族を壊す―

 ツォツィの生涯を追っていくと彼は南アフリカの病根を全て抱え込んでいる人生を送っていることが分かります。彼が育ったのはやはりスラム街の小さな小屋。父親は飲んだくれで母はエイズにかかって瀕死の状態。父は息子を母親に近寄らせず、酔っ払っては暴力を振るう。

 父親がどんな仕事をしているかは定かではありませんが、酒ばかり飲んでいるアルコール依存症の男にまともな職がないことは想像するに難くありません。実は、この酒びたりの父親はエイズにかかった母親とともに、南アフリカの貧困層が抱える社会問題を象徴的に表しています。

 アパルトヘイト時代、都市部の黒人社会にアルコール依存症が急拡大していきました。銃犯罪の38%、ナイフを使った犯罪の72%が飲酒時に起きているとの統計があります(南アフリカ政府機関の統計)。職がなく、昼間から酒を浴びるように飲む若者たちは、刑務所に近い存在となってしまうのです。

 ツォツィの家庭は母親がエイズで死に、父親は犯罪者として刑務所に入れられ、ツォツィ以外には誰もいなくなったのでしょう。いずれにしても、ツォツィがついぞ、両親の愛情を受けたことなく、物ごころついたころから、孤児同然に土管の中で育ったのは確かなことなのです。

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↑整備された住宅地。住環境が整っている地域に住むには一定額の定収入が必要だ。


★ツォツィの悲劇―エイズが家族を壊す―

 それに輪をかけて恐ろしいのは、エイズです。ツォツィの母親もエイズで瀕死の状態でしたし、「ツォツィ」で映される街や駅のシーンにはよく見ると、エイズの大きな啓発広告が掲示されているのが見えています。

 なぜ、エイズが強調されているのかといえば、南アフリカは世界一、エイズ感染者が多い国であるからです(2009年国連統計)。意外に思われるかもしれません。確かに、南アフリカは世界初の心臓移植手術をした国であることからも分かるように、医療技術の発展が特に遅れている国とはいえませんし、経済的にもアフリカ諸国の中では恵まれているといえます。それでも、エイズの感染者数世界一という不名誉な数字を誇る国なのです。

 約570万人という南アフリカの患者数は人口の12%に達します。毎日1000人以上がエイズで死亡し、毎日1400人の新規感染者が生まれているのです(JVC、英インディペンデント紙調べ)。そして、南アフリカではエイズに対する偏見が根強く、エイズウィルス(HIV)検査に対しても強い抵抗感が残っています。

 2009年5月、南アフリカのズマ大統領は、自らが率先してHIV検査を受診すると発表し、偏見の除去に努めています。ツォツィの父親もエイズに対して間違った知識を持っていました。父親はエイズにかかっている母親に触っただけで感染すると思い込んでいますが、エイズはウィルス感染です。血液や体液に直接接触することは危険ですが、患者の肌に触るだけでは絶対に感染することはありません。

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↑アフリカ全土でエイズは深刻な問題になっている。ある村に掲示されたエイズ啓発の看板。『あなたはエイズに感染しているかもしれない』と記されている。

★ニンニク、レモン、オリーブ油でエイズ予防―誤ったエイズ政策―

 なぜ、経済的発展に恵まれ、安定した統一政府を持つ南アフリカがエイズ感染者世界一になってしまったのでしょうか。そこには不幸な「エイズ否定政策」と呼ばれる歴史があります。

 アパルトヘイトを廃絶したことで有名なマンデラ大統領を継いで大統領になったのはムベキ大統領。彼は1999年から政争で敗れる2008年まで大統領職にあったですが、ムベキ大統領が保健相と組んで進めたのは「エイズウィルスによるエイズ感染を否定する」という政策でした。

 そんなばかな、と思われるかもしれませんが、ムベキ大統領は本気です。彼は有名なエイズウィルス否定論者でした。そのムベキ大統領に任命された保健相は抗エイズウィルス薬を否定し、「ニンニク、レモン、オリーブ油でのエイズ予防」(CNNの報道による)を推進したのです。その結果、南アフリカにおける抗エイズウィルス薬の普及はアフリカで最も遅くなり、南アフリカはアフリカ大陸で有数の富裕国であるにもかかわらず、HIV陽性者の3分の1にしか薬が行きとどかない状況が出現してしまいました。

 また、妊娠した女性がエイズにかかると、胎内で子供に感染し、いわゆる母子感染が起きる可能性があります。深刻な薬不足とお粗末で不正確なエイズの知識が広まったことにより、、いよいよ感染者は増えていくのです。非科学的なHIV予防の知識を国家が流布してしまったためにHIV予防策は行きとどかず、偏見はいよいよ根強いものとなり、世にも不幸なHIV大国が出現してしまったのです。

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↑ソウェト地区の遠景。遠くに見えるのは整備された住宅街。中央のグリーンゾーンを挟んで、格差が歴然と存在する。

★生き残るために

 ツォツィの母親はその間違ったエイズ政策の被害者であり、ツォツィはその2次被害者です。家族を知らない少年は成長しても言葉を知りません。彼が幼いころから生きてきたのは力がものを言う世界。仲間を従え、対立するグループと抗争し、仲間が死んだら新しい仲間を補充して、毎日のように強盗を働き、殺人を犯す。文句があったら、ナイフや銃が持ち出され、拳を使って言うことを聞かせる。気に食わないことがあったら相手を徹底的に潰せばいい。そうしたら、文句も言えなくなる。

 ツォツィは仲間にも容赦しません。彼は自分だけで生きてきたし、頼れるのは自分しかいないと思っている。だから、仲間にもそっけないし、気にいらなければ仲間のボストンにしたように殴りつけて、重傷を負わせてしまいました。ツォツィは愛情とか優しさとか、気遣いとかは無縁の世界で生きてきました。また、そうしなければ、生き残れない世界でもあったからです。

 ツォツィの顔は感情と言うものを知らない者の顔です。笑うこともなければ、怒ることもありません。常に無表情で相手を威圧するような鋭い視線を向けています。相手にやるかやられるかの世界で生きてきたツォツィには相手が力で倒せるか、つまり、相手の存在が自分の上か下かしかないのです。常に相手を値踏みして、自分の力が勝るかどうかを考えています。

 それを覆したのが、赤ん坊でした。小さくて、無力な存在である赤ん坊は本来はツォツィの下の存在です。しかし、赤ん坊は完全にツォツィを支配してしまいます。彼の行動や彼の感情はこの赤ん坊には直接的に向けられません。簡単に殺せる相手なのに、ツォツィは赤ん坊に完全に心を奪われていました。

 そして、次の例外は赤ん坊を授乳させようとツォツィが脅した女性です。彼女は銃を突きつけて脅迫するツォツィの意のままでしたが、ツォツィの踏み込めない、ある力を持っていました。彼女が赤ん坊に注ぐ愛情や、彼女が赤ん坊をあやす姿はこれまでツォツィが生きてきた上か下かを力で決める関係を完全に破壊する光景だったのです。

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★「何で、生きてる?」

 力だけでは決まらない関係性はツォツィを混乱させました。彼は理解できない力を前に立ちすくんでしまったのです。彼はホームレスの男性をこづきまわし、赤ちゃんを誘拐した家からミルクを奪うべく、強盗に向かいました。

 赤ちゃんに愛情を抱き、赤ちゃんのために強盗をするツォツィ。ツォツィは赤ん坊を見て不思議な気持ちになります。とにかく生きるために暴力を振るい続けてきたツォツィには、こんなに小さいものが生きていけるということが良く分かりません。ツォツィは生きるということの本当の意味、そして愛情というものを理解できていないのです。

 だから彼はホームレスの男性をこづきまわします。ホームレスの男性はけがをしてからは車いすで物乞いをするしか生きるすべがありません。まるで、自分では歩けず、泣いてミルクをもらうしかない赤ん坊と同じではありませんか。

 ツォツィが幼いころに可愛がっていた犬のことも思い出されます。あの犬は父親に背骨を蹴られて、歩けなくなってしまいました。それでも、犬ははいずって鳴き声を上げていました。ツォツィは犬や赤ん坊と違って、口をきくことのできるホームレスの男性に話を聞きたいと思うようになりました。「何で、生きてる ? 」

 ツォツィは赤ん坊やホームレスの男性など、今回の経験を通して出会った人々がいなければ、最後の場面で撃ち殺される方を選んだかもしれません。ツォツィは警察に捕まり、刑務所に入れられるくらいなら、死んだ方がましだと思っていたでしょう。しかし、彼は生きる道を選びました。

 生きるということはどういうことか。強いものだけがこの世で生きる価値があるのではありません。弱きものも、この世の全ての生ある人がそれぞれに生きる価値を持っています。最後、ツォツィはその意味を彼なりに理解することができたのです。

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↑南アフリカ共和国ケープタウンの子供たち
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第9地区

映画:第9地区 あらすじ
※レビュー部分はネタバレあり

 「第9地区」はSF映画だ。しかし、単なるエイリアン映画ではない。エイリアンの強制移住計画、エイリアン居住区のスラム化など、実際に人間社会で生じている社会問題を想起させる要素を取り入れている。人間とエイリアン、そしてその中間を生きるヴィカスを通して、人間の本質を問う。

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 ある日、南アフリカ上空に、正体不明の円盤型宇宙船が姿を見せる。その宇宙船には大量のエイリアンが乗っていた。彼らは地上に住むことになり、第9地区を形成する。数十年が過ぎた後、"エビ"と軽蔑をこめて呼ばれるエイリアンの居住区をもっと郊外へ移すべきとの意見を受け、超国家機関MNUはエイリアン強制移住計画を実行することになる。

 MNUに勤めるヴィカスは移住計画の担当者となり、エイリアンとの移住交渉を始めるが、その最中に真っ黒な液体を発見し、うっかりその液体を浴びてしまう。

 ヴィカスはそのまま任務を続けるものの、次第に体調が悪化し始める。彼の腕はエイリアン化し始めていたのだ。MNU幹部の義父により、拘束され、ラボに送られたヴィカスは解剖されそうになり、何とかラボを脱出。体のエイリアン化は止まらず、ヴィカスはエイリアンたちの住む第9地区に逃げ込むが、そこにはMNU追っ手が迫って来ていた。



【映画データ】
第9地区
2009年(日本公開2010年)・アメリカ,南アフリカ,ニュージーランド
監督 ニール・ブロムカンプ
出演 シャルト・コプリー,デヴィッド・ジェームズ,ジェイソン・コープ,ヴァネッサ・ハイウッド



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映画:第9地区 解説とレビュー
※以下、ネタバレあり

★もろい友情

 生きるとはどういうことでしょうか。人間として生きるとは。エイリアン化していくヴィカス、ラストのワンカットで完全にエイリアンとなった彼の姿が一瞬映し出されます。エイリアン化することを止められないことが分かっていたはずのヴィカスは微笑みを浮かべて空を見上げています。彼の心は何を感じていたのでしょうか。

 ヴィカスの勤めている超国家機関MNUはエイリアンの立退き・移住計画を進めていました。その責任者に抜擢されたのはヴィカス。MNU幹部の娘を妻に持つ彼はこの仕事で成功を収め、義父に認めてもらい、さらなる昇進の機会を得ようと野心を抱いていました。

 ヴィカスが第9地区での初仕事を終えて帰宅するとサプライズが。今日は彼の誕生日パーティだったのです。彼は大勢の友人・同僚・妻からの祝福を受けます。しかし、エイリアン化した体を持ったヴィカスがMNUから逃亡した後の彼らの反応は冷たいものでした。13年来の友人に助けを求めてもMNUに通報され、ヴィカスの仕事のやり方には問題があったと同僚は彼の仕事ぶりを酷評していました。MNU幹部でもある義父はヴィカスを実験の被験体にしようと画策し、ヴィカスは命を奪われそうになってしまいます。

 誕生日パーティでは一見仲が良さそうなヴィカスたちですが、そのつながりは驚くほど弱く、もろいのです。手のひらを返したように冷たい対応をする友人たち。また、ヴィカスは義父の名前をはっきりと覚えていません。姻族の名前すら覚えていない程度の人間関係だったのです。いずれにしても、希薄な人間関係でした。言い換えてみれば、彼らにとって一番可愛いのは自分自身です。彼らの世界では自分が常に中心に置かれており、その他の人間はいないも同然なのです。友人や義父、そしてヴィカスに真の関係性は存在しません。

 友人らがヴィカスに冷たいのはMNUに睨まれたくないためか。そもそも、ヴィカスと友人付き合いをしていたのは彼の妻がMNU幹部の娘だったからでしょうか。一方、ヴィカス自身も決して、友人たちに比べて褒めるところのある人間だとは言えません。ヴィカスにとっては昇進することがすべて。彼は今度の仕事にMNUでの将来をかけていました。

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★拝金主義

 また、このような自分本位の世界において、重要視されるのはカネです。義父はエイリアン化し始めたヴィカスに金銭的価値を見出し、治療をすることなく、即座に実験の被験体とする決定を下しました。

 MNUの装甲車内で流れるアナウンスは「ほほ笑みは銃弾より安いことを忘れないようにしましょう」というものでした。「安い」。これが重要です。仮に、銃弾が微笑みよりも「安い」ものなら、MNUは銃弾を使うように奨励するでしょう。効率、そして利益。「第9地区」の世界では、すくなくともMNUの中では"カネ"が物事の物差しになっています。

 ヴィカスの価値はエイリアンとなったことで上昇しました。エイリアン化したヴィカスは治療を受けることさえできずに即座に人体実験室へ送られ、「痛覚テスト」「動作テスト」を受けさせられ、さらに体は解剖されようとしました。「被験者の反応を見たいので麻酔は使いません」と科学者。ヴィカスは痛覚テストで悲鳴をあげ、動作テストでは自ら望まないのに引き金を引かさせられてエイリアンを殺してしまいます。そこにはヴィカスを人間として扱うという配慮はかけらも見当たりません。

 「何億もの価値」を持ったヴィカスの体はMNUにとって、もはや人間かどうかということはどうでもよいことなのです。彼は人間である前に、何億ドルという価値のあるモノでした。ヴィカスに人間としての価値が全くないというのではありません。この「第9地区」の世界は人そのものに価値を見出さない社会なのです。効率・利益が最優先される社会で、カネに換算できる人間は“人間”ではなくなるのです。

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★"人間"として生きる

 ここで最初の質問に戻りましょう。"人間として生きる"とはどういうことか。人間として生きるには、人間は人間たらねばなりません。そして、人間であるための条件は人間相互の信頼・愛情・理解・他人への気遣いといった感情的な面、すなわち"人間性"に求めることができます。しかし、「第9地区」の世界では物質的欲求に屈し、人間性は捨象されています。MNUでは人は人として扱われず、人は常に代替可能な物体に過ぎないのです。

 MNUで働くうちにヴィカスもその感覚に慣れていったし、それが普通のことになっていました。彼の思考の中心には常に会社の利益の最大化と自分自身が置かれているのです。彼がエイリアンに対する武器の使用を最小限にしようとしているのはエイリアンに対する配慮からではありません。できるだけ衝突を少なくして保護団体からの批判をかわし、合法に立退き交渉を進めているというポーズをとるためです。そうすれば、MNUの価値は最大化され、ヴィカスには昇進の道が開かれる。ヴィカスはエイリアンに対してはむしろ、軽蔑と侮蔑の念を抱いていました。彼はエイリアンの卵を焼き殺し、強引な手段で立退き合意書にサインさせていきます。

 当初、ヴィカスとMNUの利害は一致していました。ヴィカスが仕事を熱心にこなせばこなすほど、MNUの利益は最大化されたのです。しかし、ヴィカスがエイリアン化したことでヴィカスとヴィカスの身体を狙うMNUは対立し始めます。ヴィカスはこのときになって初めて目が覚めます。

 MNUはヴィカスを人間として見てはいない―しかし、これはヴィカスにとって真の目覚めではありませんでした。自分自身を何よりも最上位に置くという彼の思考回路は以前と同様だったのです。ヴィカスは彼がクリスと呼ぶエイリアンと行動を共にするようになります。それは故郷に帰りたいと話すクリスに共感したためではなく、クリスの持つスペースシップに乗って母船に行けばヴィカスを人間に戻す治療法があるかも知れないと考えたからです。つまり、ヴィカスは今度はMNUとではなく、クリスと利害が一致したのでした。

 しかし、クリスはヴィカスの治療は後回しにして、実験体にされようとしている仲間を救うことを優先させたいと話します。そこで、ヴィカスはクリスを殴り倒し、先にスペースシップを発進させようとしました。MNUに捕まろうとしているクリスを見殺しにして彼は母船へと出発しようと試みます。ヴィカスにとって重要なのは自分が人間に戻ることでした。

 ヴィカスにとっての真の目覚めが訪れたのは、クリスを助けに戻ったときでした。彼は危険を冒してクリスを助けに戻りました。そして、クリスを先に逃がすという重大な決断を下します。これはすなわち、ヴィカスが人間には戻れなくなるということを意味していました。しかし、ヴィカスは決断し、そして、信じました。ヴィカスは3年後に戻って来て、ヴィカスを人間に戻す治療を受けさせるというクリスの約束を信じたのです。これは大きな変化でした。ヴィカスは初めて自分よりも他人を優先させ、他人を信じました。彼はこのとき、初めて"人間"になったのです。

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★"人間"になったヴィカス

 人間としての価値を決めるのは外見ではありません。ヴィカスはエイリアン化していく自分の体の変化を止めることはできませんでした。ヴィカスはその意味でエイリアンになったのです。しかし、彼の心には大きな変化が起きました。彼は“人間”の心を持ったのです。

 クリスが旅立ったのち、1人残された第9地区で微笑んで空を見上げるヴィカス。彼の心は一つの満足感と幸福感で満たされていました。ヴィカスは信じるということ、助けるということ、思いやるということを知りました。彼は人生の中で初めて本当に"人間"らしく生きたのです。

 ヴィカスはエイリアンになったら、自分の人生は終わると思っていました。だから必死に治療法を求めていたのです。あの醜い"エビ"になったら何もかもがめちゃめちゃになってしまう―しかし、事実はそうではありませんでした。外見が人間だったヴィカスが生きてきた人生の方がよっぽど陰惨でした。

 外見がエイリアンになっても、外見が人間だったころのヴィカスよりももっと"人間"として生きることができる。このまま、エイリアンになったとしても、自分の人生は終わらない。ヴィカスの安心感・充足感は彼を微笑ませます。

 巷ではヴィカスはいなくなったとか、自殺したと言われていました。そんななか、ゴミで一輪の花を作り、妻に密かに届けたヴィカス。ヴィカスは死んではいない―ちゃんと生きている。本当の意味で"人間として生きている"。ヴィカスの妻は彼を待っているといいます。ヴィカスのメッセージはちゃんと届いていたようです。

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★「悪」と「醜悪な悪」

 「第9地区」では2つの悪が出てきます。一つはナイジェリア人ギャングであり、一つはMNUです。ナイジェリア人ギャングはどう見ても、悪そのものです。彼らは第9地区を縄張りに、売春・詐欺まがいの闇取引を行い、武器を横流ししていました。さらにはエイリアンの力を得ようと彼らの体を喰うといいます。

 一方、MNUは一見まともな合法的な機関です。今回の仕事は第9地区からのエイリアンの立退きと移住計画の円滑な実行でした。しかし、その実態は土地の強制的な徴収でした。なだめすかし、だまし、武力で脅してサインさせる。ヴィカスはエイリアンが怒って書類をひっかいただけでサインしたことにしていました。

 立退き合意書にサインを求め、その上で移住させるという一見合法的で人道的な手段を用いつつ、その内実はとても適法とは言い難い手法です。これは、合法に見せかけた違法な立退きというしかありません。

 MNUは人々の求めることをやっているように見えます。街頭インタビューを受けていた女性はこう言っていました。「政府はエイリアンにカネを使いすぎてる。居住区は別でいいけど」。今回の移住計画だって、人々の居住する土地からできるだけエイリアンを隔離し、遠く離れた地に押し込めたいという人々の声に応えて計画されたものです。エイリアンを"エビ"とよんで蔑んでいる多くの人々はMNUがどんな手段を使おうが、それほど気にも留めないでしょう。

 "善を装って悪をなす"―MNUのやっていることはこれです。彼らの思考からは気配りや気遣いといった計算できない不安定要素は完全に排除されていました。常に自己の利益の最大化を目指して行動しています。今度のエイリアン立退き事業は人々に歓迎されるでしょう。今回のMNUのターゲットはエイリアンなので、人間に実害はないからです。

 もちろん、人々もあまりに露骨なエイリアンの虐待には眉をひそめるかもしれません。しかし、きちんと手順を踏んでいるというMNUの巧妙なPRがあれば、人々の関心はそれほど高まることはありません。なぜなら、所詮、移住させられるのは”エビ”だからです。

 しかし、MNUのような価値観を持つ組織が拡大していけば、いずれ、人々の利害と何らかの形で衝突するときがくる。そのときになってMNUが突然、人道主義に目覚め、今までの手法を放棄するようになるとは思えない。いずれ人間たちが”エビ”の立場に置かれるときがくるのだ。その時になって後悔しても遅い。人間は代償を払うことになるでしょう。そのときになって「善」を装った「悪」の正体に気がついても遅いのです。

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★"エビ"は既に地球に存在している

 「第9地区」は"むきだしの悪"であるナイジェリア人ギャングと"善を装った悪"であるMNUの2つの悪のかたちを登場させることで「善き者」の仮面を被った悪の醜悪さを浮き彫りにしました。あの"エビ"たちの迫害劇は他人ごとではありません。地球規模で見てみれば、同じ人類でありながら、その生命価値が貶められている人間たちがいるのではないでしょうか。

 この映画の舞台が南アフリカである点がとても示唆的です。南アフリカには貧困と犯罪に悩む旧黒人居住区が複数存在しています。その地区の治安の悪さはピカイチで、居住者でない限り、都市部の人々は近づこうとしない地域です。南アフリカの社会経済からはじき出されたその地区は、警察関係者でもない限り、まったく訪れる必要すら生じません。都市部の住民からすれば、そういった地区は犯罪の温床であり、むしろ、無くなってくれた方がうれしい地区なのです。

 "エビ"と蔑称をつけられ、一か所に押し込められているエイリアンたちはそうしたスラム化した地区の人々と重複します。「第9地区」に登場する"エビ"たちは、既にこの地球上に存在しているのです。

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All images in this article above this picture belong to District 9 Ltd..



★ご参考
南アフリカ旧黒人居住区についての記事は映画「ツォツィ」に詳しく掲載しています。
ぜひご参照ください。
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↑南アフリカ共和国ヨハネスブルグ・ソウェト地区。旧黒人居住区のソウェトは貧しさと犯罪に苦しむ地域の代表格だ。エイリアンたちの暮らす「第9地区」の様子によく似ている。




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ツイン・ピークス ローラ・パーマー最後の7日間

映画:ツイン・ピークス ローラ・パーマー最後の7日間 あらすじ
※レビュー部分はネタバレあり

 何が何やら分からない、それがリンチ・ワールド。「ツイン・ピークス」はデイヴィッド・リンチ監督の摩訶不思議な世界観が存分に発揮された映画です。

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 アメリカ北西部の山間の町、ツイン・ピークス。ここで一人の少女の変死体が発見された。少女の名はテレサ・バンクス。事件は人々の強い関心を集めた。

 この事件を捜査するため、FBIから捜査官デズモンドが派遣されてくる。しかし、彼は捜査中に蒸発。そして、行方不明になっていた捜査官ジェフリーが急に現れ、“この世の悪の存在”を警告してまた消えるなど、次々に怪事件が起き、事件の謎は深まっていくのだった。

 それから1年が過ぎる。ツインピークスの高校に通う17歳のローラ・パーマー。彼女は学校でも有名で皆の人気を集める美しい少女だ。しかし、彼女は日々不安に怯え、ドラッグやセックスに逃避する日々を送っていた。そんなある日、事件が起きる。ローラが変死体で発見され、ローラの友人ロネット・ポラスキーが山林を彷徨っているところを保護されたのだ。

 一体、何が起きたのか?誰がローラを殺したのか?この事件の裏には衝撃の事実が潜んでいた。

 謎の多いツイン・ピークス。「ツインピークス ローラ・パーマー最期の7日間」はドラマの前日談を描いていますが、ドラマを知らなくても、存分にリンチ・ワールドを体験できる完結したストーリーになっています。

 『解説とレビュー』では、映画「ツイン・ピークス」の謎をひとつひとつ解説していきましょう。ローラを殺した犯人、そして結末の意味を含めて、「ツイン・ピークス」の世界を見ていきます。



【映画データ】
ツイン・ピークス
1992年・アメリカ
監督 デイヴィッド・リンチ
出演 カイル・マクラクラン,デビッド・ボウイ,キーファー・サザーランド,デイヴィッド・リンチ,クリス・アイザック,シェリル・リー



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映画:ツイン・ピークス ローラ・パーマー最後の7日間 解説とレビュー
※以下、ネタバレあり

★ローラを襲う辛い現実―父親の歪んだ愛―

 ローラは生前、酒を飲み、ドラッグに手を出し、生活は荒れていました。ローラはドナに、「宇宙に放り出されたらゆっくり落ちる? それとも急降下? 」と聞かれて、「急降下よ、永遠に。天使も助けてくれないわ」「天使は行ってしまったから」と答えています。

 また、バーに出かけたローラが中に入ったとき、歌手は「なぜ、あなたは去って行ったの? 私の元から。なぜ行ってしまったの? 私のせい? それともあなた? 」という歌を歌っています。歌手は天使を思わせる純白の衣装を身にまとっていました。これはローラの元から去ってしまった絵の中の天使。

 この時点では、ローラは“ボブ”が父親であるとの確証を持っていません。自分がなぜ、こうなってしまったのか、彼女は思い悩んでいました。

 しかし、彼女が自暴自棄な生活をしていたのは、父親との性的な関係を心のどこかで知っていたからです。自分の部屋に忍び込む男を“ボブ”と呼び、父親だと認識しなかったのは、ローラに酷いことをする男が父親だとは思いたくなかったから。同様に、ボブがいつも部屋の窓から侵入してくるとローラが信じ込んでいたのは、ドアから侵入してきていると信じたくなかったことの裏返しです。ドアから忍び込んでくるということは家族が犯人、すなわち父親がボブであるということになるからです。

 しかし、ボブが家に侵入したと思ったら、父親が家から出てきたり、片腕の男"マイク"に「あれはあんたの父親だ ! 」と糾弾されたローラは次第に真実に気が付きはじめます。ついに、部屋に忍び込んできたボブの顔が父親の顔になるのを見たローラはボブが父であることに気がつきました。

 この晩、ローラの母はリーランドに薬を入れた牛乳を飲まされていましたが、薄れていく意識の中で、白馬が現われ、それが消えていくのを見ています。白馬は純潔や清純さの象徴です。その白馬が消えていくということは、ローラが犯されるということを暗示しているのです。

 その翌日からはますます、ローラは薬にのめり込み、薬漬けになってしまいます。気がつけば、壁にかけてあった絵からは天使の姿が消え去っていました。心の支えを失ったローラはドラッグ・パーティにも出かけてしまいます。もう、彼女はボーイ・フレンドのジェームズと付き合う気力すらなくしていました。

 「あなたのローラは消えたの」。父との関係を知ってしまった今のローラには、とても、ジェームズと付き合うことはできません。ローラの心のどこかには、もう死んでしまいたいという気持ちがあったのでしょう。「自分の汚れた体なんてどうなってもいい」と思う自暴自棄な感情が勝っていきます。どんどんと事態は悪化していきました。

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★父親に殺されたローラ、天使に救われたローラ

 ロネットとローラはリーランドに捕まり、廃貨車に連れ込まれました。このとき、ロネットは天に祈りをささげ、天使がロネットの元に現れています。一方、いよいよ、父(ボブ)に殺されそうになったローラは指輪をはめました。

 指輪をはめるということは、悪魔、すなわち片腕の男"マイク"と契約をしたことになります。ローラの死後、ボブに契約を履行させた片腕の男"マイク"はクリーム・コーンを食べることができていますから、ローラの魂は一度、悪魔にさらわれてしまいました。

 このとき、天使に祈りをささげたロネットは後で保護され、命を取り留めています(この部分はツインピークスのドラマ版冒頭から)。天使は殺される寸前に祈りをささげたロネットを救い、そうしなかったローラは命を落としました。このあたりは「信じる者は救われる」というキリスト教の価値観に沿っています。

 しかし、赤い部屋に座るローラを迎えにやってきたのは天使でした。天使はこれまでのローラに降りかかった不幸を全部見ていたのでしょう。天使は一度、悪魔の手に堕ちたローラを救ってくれたのです。

 後日、死体で発見されたローラの死体は不思議に美しく、人々の関心を惹きました。生前、毎日を恐怖と不安の中に生きていたローラは、死後に平安の世界を得ました。ローラの美しい死に顔は天使に救われたローラの安堵の表情なのかもしれません。

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★赤い部屋 - 片腕の老人と赤い服を着た小人の謎 -

 結末、赤い部屋のソファに座る者は片腕の老いた男"マイク"と赤服を着た小人です。小人はマイクの腕のない方の肩に手を置き、2人で声を合わせて話をしています。赤服を着た小人はかつて、「私は腕だ」と話していました。また、小人は「私はこんな音がする」と言って、奇妙な音を立てて見せます。

 この音がする場面は他にもありました。それは、片腕の男"マイク"がローラの父リーランドとローラの乗る車を追いかけてきた場面です。この場面には赤服の小人は登場しませんが、奇妙な音がすることから、その小人がマイクとしてその場面に存在するということが分かります。

 以上の理由から、『片腕の男"マイク" = 赤服の小人』、つまりマイクと赤服の小人は2人で1人であることが分かります。

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★悪魔の集会、そしてマイクとボブの取引

 ローラの父、リーランドにオーバーラップして現れる長髪の白髪の男は「ボブ」と片腕のない老人に呼ばれています。そこで、彼の名を“ボブ”として話を進めましょう。このボブ、そして片腕の男"マイク"(赤服の小人)の共通点はいずれも、赤い部屋に出現するということです。そして結末、3人は一堂に会することになりました。

 ボブとマイクが初めて登場するのは、ジェフリーズ捜査官のイメージの中です。ジェフリーズ捜査官は、デビッド・ボウイが演じた白いスーツの捜査官で、ゴードンとクーパーの目の前で消えてしまった人です。彼の見たイメージは次のようなものでした。

 薄暗い部屋の中、手前のテーブルには赤服の小人とボブが向かい合って座っており、テーブルにはコーン・クリームの入ったボールが置かれています。また、奥には数人の人が立っているのが見え、そのなかにシャルフォン婦人と孫息子のピエールがいるのが見えます。

 このイメージを見たジェフリーズ捜査官は「やつらはそこにいる! 」と叫びます。やつらとは、テレサ殺害事件を引き起こした“悪魔”のこと。ジェフリーズ捜査官が見たのは悪魔の集会です。つまり、この部屋の中にいる人々は悪魔か、悪魔に関係する人々。

 注目すべきは、赤服の小人(マイク)とボブが向かい合って何やら話をしているということです。実はこのとき、ある取引がなされていました。それは、ローラの魂です。赤服の小人はローラの魂を欲しがっていました。一方、ボブはローラの肉体を欲しています。赤服の小人はそれを知った上で、ボブと取引をします。「ローラの体はボブに与える、しかし、ローラの魂は赤服の小人に渡せ」、という取引です。

 赤服の小人はマイクの“悪魔”の部分。マイクもローラに内心、暗い欲望を燃やしていました。そこで、マイクは自分の中の悪魔である赤い服の小人に取引をさせたのです。

 ところが、ボブの本心は違いました。ボブはローラの体だけでなく、ローラの全てを欲しがったのです。ボブは約束を破り、マイクの許しを得ずにローラを殺してしまいました。マイクは慌てて走ってきますが、間に合いません。結局、ボブはローラを殺し、ローラの死体を投げ捨てます。

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★破られた約束、そしてクリーム・コーン

 ここで、再び、結末のシーンを見てみましょう。

 ラスト、片腕の男"マイク"は赤服の小人と声を合わせ、「私の痛みと悲しみを返してくれ」「私のガルモンボジーアを」とボブに要求しました。すると、ボブはリーランドの服についたローラの血液をうつしとり、床に投げ捨てます。床に消えていく血痕。その後に大写しになるのは、クリーム・コーンを食べる赤服の小人の口です。

 マイクのいう「痛みと悲しみ」「"ガルモンボジーア"」とはローラのことです。「返してくれ」といったのは、取引を破って、ボブがローラを殺してしまったから。ボブは不満そうに顔を歪めつつも、ローラの血の一滴までも床に投げ捨て、約束通り、ローラをマイクに返しました。

 ジェフリーズ捜査官の見た悪魔の集会の場面で、取引をしている赤服の小人とボブの座る机にクリーム・コーンが置いてありました。このクリーム・コーンこそ、マイクの大切にしている「痛みと悲しみ」「ガルモンボジーア」、つまり、ローラの魂。ボブにローラを返させた赤服の小人(マイク)は晴れて、クリーム・コーンを食べることができたのです。

 マイクが車を飛ばしてリーランドとローラの乗る車を追いかけてきたとき、「コーンを盗んだな! 」と言ってリーランド、つまりボブを非難しています。「コーンを盗んだ」リーランドとはすなわち、マイクとの取引を破ってローラの魂までをも狙うボブを非難しているのです。そして、ローラに対しては、「あれは彼だ、あんたの父親だ! 」といい、リーランドが悪魔(ボブ)であることをローラに糾弾していました。ちなみに、この場面で黒い犬が吠えているのがオーバーラップされますが、黒い犬は悪魔の象徴です。

 また、マイクがリーランドに「糸が切れる! 」と言っていたのはリーランドの理性が持たないことの暗喩。こらえていたローラに対する欲望が理性を押し切って溢れだすことを意味しています。

 端的に言ってしまえば片腕のない男"マイク"とボブの争い、ローラの奪い合いが結末に向かって描かれているのです。

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★2人で1つ―マイクと赤服の小人、リーランドとボブ―

 片腕のない男"マイク"は赤服の小人と2人で1つでありながら、悪魔の集会の場面には姿を見せず、集会には赤い服の小人しかいません。また、人間の世界で現われるのはマイクだけです。なぜでしょうか。

 マイクはローラのことを「痛みと悲しみ」と表現しています。それは、彼女に対する欲望が間違ったものであることの罪悪感の現れです。ローラ、もしくはローラの魂を自分のものにしたいという思いに恥じる部分がありつつも、その思いを消し去ることのできない辛さ、それがマイクにとっては痛みと悲しみとして表れるのでしょう。

 赤い服の小人が完全に悪魔であるのに対して、マイクには人間的な部分があります。人間であったマイクは自分の中に潜む、完全な悪を赤い服の小人という悪魔として分離してしまったのかもしれません。悪魔の集会にマイクが出席していないのは、完全な悪魔ではないマイクには悪魔の集会に出席する資格がないからです。

 マイクと赤服の小人の関係はボブとリーランドの関係と同じです。リーランドは人間ですが、ボブは悪魔。リーランドとボブは2人で1つの存在です。言いかえれば、リーランドの暗い面が分離してできたのが“ボブ”という存在。自らの暗い欲望に対するリーランドの人間としての罪悪感が“ボブ”という悪魔を生みだしたのです。

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★緑色の石の指輪、青色のバラ、フォーマイカのグリーンのテーブル…

 この指輪は"悪魔の指輪"です。この指輪をつけられるのは、悪魔か、悪魔に魅入られた者だけ。この指輪をつけた生者は必ず死ぬことになります。

 ローラは生前、このリングをつけた者たちのイメージを見たことがありました。リングをつけた片腕の男"マイク"、そして、リングをつけたテレサ。ローザは青白く発光する部屋の片隅に向かって「あなたは誰 ? 」と問いかけますが返答はありません。このイメージを見せたのはボブではなく、マイクです。マイクはローラの魂を欲しがっていました。この緑石の指輪は人の魂を悪魔へ引き渡す力を持っているのです。

 悪魔のリングに付いていたのは緑色の石、そして青白く発光する光。ザーッというノイズ音と青い画面のテレビにフォーマイカのグリーンのテーブル。全てに共通するのは全て緑青という色。

 この緑青色が象徴するのは「人間の世界」と「異世界」の切り替え点です。緑青色の画面がはさまれる前後には何がしかの異世界のイメージが見えています。

 先ほどあげたローズの部屋の青白い発光だけでなく、ジェフリーズ捜査官がゴードンのオフィスから忽然と消えてしまったときも、緑のノイズ画面がはさまれていました。また、映画の冒頭で、デズモンド捜査官が赤いドレスにつけられた青いバラのブローチについて説明をはぐらかしていましたが、青いブローチはテレサの殺人事件が「異世界」に関係するものであるということを意味していました。その意味を理解したデズモンド捜査官は謎を追ううちに、緑色の石の指輪に遭遇し、彼は「異世界」に連れ込まれてしまいました。

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★老婦人と孫息子

 デズモンド捜査官はトレーラー・パークの主人カール・ロッドに保安官助手のトレーラーの位置を聞き出しながら、なぜか真逆の位置にあるシャルフォン婦人のトレーラーに足を向けました。デズモンド捜査官はその直前、目の前にある電柱の数字に目を留めています。その数字は「6」。言わずと知れた、悪魔の数字です。これをきっかけにデズモンド捜査官はシャルフォン婦人のトレーラーに向かったのです。

 一方、この電柱の数字はこのシーンの前、サムとデズモンド2人でテレサのトレーラーを訪れたときにも出てきました。そのときに、この電柱の数字を思い浮かべたのはトレーラー・パークの主人カール・ロッド。彼は、テレサのトレーラーにふいに現れた1人の杖をついた小さな老人を見たときにこの数字を思い出していたのです。

 すなわち、この老人は悪魔。また、電柱の「6」の数字を見たデズモンドが直後に向かった先のトレーラーの主・シャルフォン婦人も悪魔に関係する者であることを観客に暗示しています。主人のカール・ロッドがクーパー捜査官に話しているところによると、このトレーラーの持ち主はシャルフォンという人で小さい男の子と住んでいたとのこと。

 ここで、再び、ジェフリーズ捜査官のイメージに出てきた、"悪魔の集会"を思い出してみましょう。シャルフォン婦人とその孫息子ピエールの姿が確認できるはずです。つまり、彼らは悪魔、もしくは悪魔に関係する者たち。

 ピエールはこちらに向かって指を指し、「犠牲者だ」と言います。観客はジェフリーズ捜査官の視点から悪魔の集会をのぞいているわけですから、男の子が指したのはジェフリーズ捜査官です。男の子はジェフリーズ捜査官が悪魔の犠牲になる者であるということを言っているのです。行方不明になっているジェフリーズ捜査官はあまりにも悪魔たちの暗躍に迫り過ぎてしまったのかもしれません。

 シャルフォン婦人とピエールの役回りは何でしょうか。

 シャルフォン婦人はローラのアルバイト先の店に現われて、「あなたの部屋に合うわ」と言いながら、"赤い部屋"に通じるドアを描いた絵画を手渡し、ローラを赤い部屋の中に導いて、赤い服の小人から緑色の石の指輪を受け取らせようとします。クーパーが現われて警告してくれなければ、ローラはあっさり受け取ってしまい、その場で悪魔の手に堕ちてしまったかもしれません。

 また、白い仮面をつけたピエールは「仮面の後ろの男が破れたノートを探してる。隠し場所に向かってる、今は扇風機の下にいる」と言って、ローラの父リーランド、すなわちボブがローラの日記を探していることをローラに教えました。ボブが部屋でローラの日記を探していると聞けば、ローラは急いで部屋に向かい、盗まれまいとするでしょう。ピエールとシャルフォン婦人はマイク(赤服の小人)がボブに出し抜かれないように手助けしている存在であるようにも見えます。

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★ジェフリーズ捜査官の警告―“大きな悪”とは―

 ローズの父親リーランドは娘に似ているテレサに欲望のはけ口を求めていました。ある日、彼はいつものようにテレサの元を訪れたときに、娘と友人の下着姿の幻影を見てしまいました。このとき、彼は罪悪感に目覚め、テレサに金だけを渡して去っていきます。

 父親リーランドが去っていく後ろで飛び跳ねているのはピエール。彼はヤドリギを手に持ち、白い仮面をつけてぴょんぴょん飛び跳ねています。

 この格好や動作が出てくるのは2回目です。1度目はジェフリーズ捜査官のイメージに出てくる"悪魔の集会"のとき。赤い服を着た、大人の男がやはり白い仮面をつけて、ヤドリギを手に持ち、ぴょんぴょんととび跳ねています。

 どういうことなのでしょうか。

 実は、この男こそが、悪魔の中の悪魔、いわば"悪魔の王"。赤服の小人やボブ、シャルフォン婦人やピエールは悪事を実際に働く実行部隊にすぎません。赤服の男は、彼らを使って、悪事を働き、悪を人間界に拡散しようと仕組んでいる張本人。彼が出てくるのは後にも先にもこの場面だけです。彼は表だって動くことはありません。

 ピエールは集会の場面で後半、"悪魔の王"の被っていた白い仮面を被ります。最初仮面の下にあったのは確かにピエールの顔。しかし、2度目に仮面をずらしたときに下にあったのは、およそ人間とはいえない、眼窩の黒く落ちた獣のような悪魔の顔でした。

 ジェフリーズ捜査官は一度、姿を現したとき、この世に存在する“大きな悪“の存在を警告して消えていきました。ローラを殺したのは彼女の父親リーランドですが、そのリーランドを操るもっと大きな悪魔の力が働いているということをジェフリーズは警告していたのです。

 悪魔はそのままの姿では、人間の暮らす世界に来ることはできません。赤い服の小人は片腕のない男"マイク"が人間の世界での姿ですし、ボブはローラの父親リーランドの姿を借りています。そして、それは"悪魔の主"といえども事情は同じ、人間の世界ではピエールの姿を借りる必要がありました。

 ツイン・ピークスでは、この赤服の男同様、赤い服や白い仮面をつける者はその者が悪魔に関係しているということを意味しています。また、聖書には"悪魔は幼き者の姿を借りて現れる"という一節があります。その言葉通り、“悪魔の王”は幼きピエールの姿を借りることで、人間の世界で悪魔の力を行使できるのです。

 それが証拠に、シャルフォン婦人がローラに贈った絵の中のドアを通って、赤い部屋に向かうローラを導くときのピエールは仮面をつけていません。つまり、ここでのピエールは悪魔の憑いていないピエールです。赤い部屋では悪魔は悪魔でいられるため、ピエールの体は必要ないからです。

 ピエールは人間ですが、人間界において彼は“悪魔の王”の媒体の役割を果たしています。そして、ピエールの世話をするシャルフォン婦人は悪魔崇拝者、もしくは魔女といったところの役割であると思われます。彼女は幼い孫ピエールを悪魔の媒体として悪魔に差し出したのかもしれません。

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★赤い部屋 - 赤い部屋の意味 -

 赤いカーテンが下がり、白と黒の模様の床のある、不思議な空間"赤い部屋"。ここはどのような場所なのでしょうか。

 まず、赤いカーテンはこの場所が特別な場所であることの象徴です。劇場などで使われる赤いカーテンは客席という"現実"と演劇という"空想"の舞台を仕切るもの。赤いカーテンは現実と異空間を仕切る象徴であり、赤いカーテンの中は現実とは違う異空間であることを示します。

 また、赤いカーテンの内側の床は白と黒の幾何学模様です。この「白と黒」に注目してください。白と黒は、善と悪の象徴です。白と黒が同居しているということは、この空間には善と悪が同居しているということを表します。

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★赤い部屋の謎 - 赤い部屋の機能 -

 では、赤い部屋は何のために存在するのでしょうか。それを解明するためには、「ツイン・ピークス」の世界観を整理する必要があります。

 「ツイン・ピークス」には3つの世界が存在しています。ひとつは人間たちの住む世界、そして、もう一つは悪の世界。そして、もう一つは善の世界です。

 悪魔が集会を行っていたということは、「悪の世界」があるということです。そうならば、その対極概念である「善の世界」があるのではという推測が成り立ちます。

 廃貨車の中でローラとともにリーランドに捕えられたドラッグ仲間のロネットの前には天使が現われて、ロネットの縄を断ち切りました。さらに、ローラの部屋に出現したアニーという女性は「"善いデイルはロッジにいて出られない"」と言い残しています。残念ながら、映画のみでは「デイル」が何者なのかは分かりません。ただ、「善のものが存在し、その善きものの世界(ロッジ)から、善は出ることができない」ということは分かります。

 そして、赤い部屋の床が白黒であり、善と悪の同時存在を示唆していることはすでに説明しました。そこで、赤い部屋の来訪者たちを思い返してみましょう。

 まず、赤い服の小人と片腕のない男"マイク"です。それに、ボブ。彼らは悪魔です。一方、死んだローラが結末に姿を現しました。人間である彼女は涙を流しながら上を見上げています。その視線の先には白い羽を持つ天使の姿がありました。つまり、この部屋には天使がくることもあるのです。さらに、クーパー捜査官がローラに寄り添っています。彼は生きている生身の人間ですから、クーパー捜査官のように、"赤い部屋"には、生きている人間も来ることができるようです。

 これを総合すると、赤い部屋には「ツイン・ピークス」の3つの世界からいずれも来訪者があるようです。"悪魔の集会"を思い浮かべてみると、あの部屋には悪魔しかいませんでした。人間はいない。つまり、悪の世界は悪魔だけのようです。また、「"善いデイルはロッジにいて出られない"」というアニーの言葉からすると、悪の世界に悪魔しかいないのと同様、善の世界にはやはり天使しかいないのではないでしょうか。

 人間の世界はどうかといえば、先ほど書いたように、悪魔は天使とは異なり、人間界に直接姿を現すことはできず、何がしかの肉体を借りて出現する必要があります。一方、赤い部屋は天使も悪魔も人間も、そのままの姿で訪れることが可能です。この特殊性を考えると、"赤い部屋"にはある機能が存在することが分かります。それは、1, 善の世界 2, 悪の世界 3, 人間の世界 のコネクションルームであるというものです。

 天使・悪魔・人間、この3つの世界は完全な双方向性を有していません。異端者はまったく入ることができないか、何かを媒介にしないとその世界に入ることができません。このように、相互に接触不能な世界を結びつけるために""赤い部屋""が設けられました。この部屋でならば、3つの世界から来る者は直接に接触することが可能なのです。

 では、この部屋を使って何が行われるのでしょうか?

 例えば、クーパー捜査官のように、犯罪捜査に利用するということもあるでしょうし、赤い服の小人と片腕のない男"マイク"がローラの父親に憑依したボブとの取引の清算をしたように、悪魔と人間との取引場所として使われることもあるでしょう。

 また、悪魔から直接指輪を渡されようとしたローラのように、悪魔と人間の待ち合わせ場所として使われるかもしれません。もしくは、死んで""赤い部屋""に来たローラのもとに天使が現われたように、天使が死者に対して最後の祝福を与えに来る場として使われることもあるようです。

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★赤い部屋 - なぜ赤い部屋ができたのか -

 人間は夢を通して赤い部屋にアクセスするということになっています。ローラが絵画のドアを通り抜けて赤い部屋に行ったのも、夢の中でしたし、クーパー捜査官も夢の話を上司のゴードンにしています。防犯カメラにクーパー捜査官の残像が映ったままになったのは、そのときに近づいてきていたジェフリーズ捜査官の影響でしょう。

 ジェフリーズ捜査官はすでに赤い部屋の向こう側の世界に囚われてしまった人です。「何かを見つけたんだ」と主張した彼は「僕らは夢の中で生きている」とも言い残していきます。

 夢を見ている人間というのは最も、あの世に近づいているといわれます。それに、何といっても、"赤い部屋"は天使と悪魔が交差する場所です。"赤い部屋"は死後の世界に近い場所なのでしょう。赤いカーテンの中は死者と生者が入り混じる、死と生の中間の場所なのです。

 しかし、そもそも赤い部屋はなぜ、存在するのでしょうか?

 善と悪は対立する存在です。悪魔と天使は敵対関係にあるわけです。彼らが反目しあうのは人間の扱いを巡って、です。人間を悪の道に誘い込もうとする悪魔、それを止めようとする天使。天使と悪魔の対立点は人間に求められます。

 ローラは日記を預けようとハロルド・スミスという男性の家に行き、彼に"ボブ"という悪魔の存在を訴えます。そのとき、真に迫る彼女の表情は一瞬悪魔に変貌しました。一方、ローラへの歪んだ愛情から欲望を抑えきれない父親のリーランド。彼はローラに愛しているよと言って泣き、ローラの面影を求めてテレサと寝ることに罪悪感を感じて金だけ払って立ち去り、ローラを殺す最後の瞬間にも、「私にやらせないでくれ」と言って抵抗します。誰にでも、善の部分はあるし、悪の部分もある。

 人間という存在が、善か悪か、どちらか100%ならば、そもそも、天使と悪魔は人間を巡って争う必要はありません。自動的に天使側か悪魔側かを振り分けることができるからです。

 しかし、人間は善と悪の両方を包含する存在です。従って、無条件に天使のいる善の世界に入ることはできませんし、無条件に悪の世界に入ることもできません。この人間という複雑な存在は、善悪両方を受け入れる赤い部屋の性質と類似するものがあります。逆にいえば、人間という存在がこの世になかったならば、赤い部屋は不必要なものだったでしょう。人間が存在するゆえに作られた部屋が赤い部屋であると言っても過言ではありません。

 人間は善にも悪にもなることのできる存在です。そして、人間を巡って、悪魔と天使がそれぞれに駆け引きを繰り広げています。心の弱さにつけ込まれ、悪魔との取引をしてしまうのか、それとも、別の道を選ぶのか。

 誰の心にも、“ボブ”や“赤服の小人“は存在するのです。自らに内在する恐怖や醜悪な欲望の存在を許し、拡大させて、悪に堕ちるのか、それとも善に生きようと努めるか。どちらを選択することも、人間の自由。個人個人の選択と生き方にかかっています。

 しかしながら、人間から悪の部分を完璧に駆逐することはできません。自分がどれだけ正しい生き方を選択していると思っていたとしても、心の奥底には"弱さ"がある。

 重要なのは、その弱さを自覚しているかどうかということです。この弱さについて自覚がないと、弱さにつけ込まれたときに全体が脆く崩れ去る可能性が高くなります。自らの心の弱さを自覚し、人として善き振舞い、正しい選択をすることができるのか。善とも悪とも割り切ることのできない、この不安定な立ち位置が人間でいることの危うさと魅力なのかもしれません。

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ドニー・ダーコ

映画:ドニー・ダーコ
※レビュー部分はネタバレあり

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 1988年、マサチューセッツ州。高校生のドニー・ダーコは、両親と大学受験のために浪人している姉、幼い妹の5人で暮らしている。10月2日の夜、ドニーは自分に呼びかける声に気がついてベッドを抜け出す。家の外にふらふらと出ていくと、"銀色のウサギ"がドニーを待っていた。

 銀色のウサギは彼に「世界の終わり」が迫っていると告げる。それによると、「あと28日と6時間と42分と12秒」が世界の終わりまでに残された時間だった。翌朝、ドニーは近くのゴルフ場で目を覚ます。彼が自宅に戻ると、墜落した飛行機のエンジンの一部がドニーの自室を直撃しており、自宅の屋根が半壊していた。

 「未来へ来い」とドニーを誘う銀色のウサギ、青空に空いた穴、そしてタイムトラベル。過ごした時間は夢か現実か。ドニー・ダーコの辿る数奇な人生を描く。

 主人公ドニー・ダーコを演じるのは、「遠い空の向こうに」「ブロークバック・マウンテン」で秀逸な演技を見せたジェイク・ギレンホール。「ドニー・ダーコ」から4年後の映画「ブロークバック・マウンテン」では同性愛に苦悩する20代の青年を演じていた。「ドニー・ダーコ」では10代の不安定な少年の心を若きジェイクが繊細に演じている。自分一人で抱え込むには重すぎ、しかし、他の誰かにも頼ることができない悩み、内向的な一面を持つ人間の揺らぎ。「ドニー・ダーコ」には今のジェイク・ギレンホールに通じる演技の真髄を見ることができる。

■「遠い空の向こうに」『解説とレビュー』はこちら
■「ブロークバック・マウンテン」『解説とレビュー』はこちら



【映画データ】
ドニー・ダーコ
2001年・アメリカ
監督 リチャード・ケリー
出演 ジェイク・ギレンホール,ジェナ・マローン,ドリュー・バリモア,メアリー・マクドネル,パトリック・スウェイジ,キャサリン・ロス



映画:ドニー・ダーコ 解説とレビュー
※以下、ネタバレあり
※本レビューは「ドニー・ダーコ」についてのレビューです。本作の続編「ドニー・ダーコ2」については未見ですので、ご承知置きの上、お読みください。

★「帰ろう」

ドニーは1988年10月2日の深夜、飛行機のエンジンが自宅を直撃するという事故に巻き込まれ、死亡しました。映画「ドニー・ダーコ」はドニーの不幸で、幸せな人生を描写したものでした。彼は何を思い、いかなる気持ちで死を迎えたのか。銀色のうさぎに導かれ、時空を旅した彼の足取りを追ってみましょう。

 ドニーは10月2日の朝を近所のゴルフ場で迎えました。自宅に帰った彼は、自室を直撃している飛行機のエンジンが運び出されているところを目にします。そして、ドニーは銀色のうさぎの言うがまま、いたずらや放火をし、グレッツェンと恋をし、最後にグレッツェンの死に行きあわせました。このときまでに28日と6時間と42分と12秒が過ぎ去っています。

 街を見下ろす高台に車を停め、「帰ろう」と呟くドニー。彼は10月2日の深夜に戻ってきました。ベッドに横たわって笑い転げるドニー。彼の上に飛行機のエンジンが落ちてきたのはそれからすぐのことでした。

 ドニーは今度こそ、「死んだ」のです。ドニーが過ごした28日と6時間と42分と12秒は、ドニーの未来の時間でした。ドニーが生きていたならば、経験しただろう未来の時間。そして、それはすなわち、「世界の終末」までの残り時間でした。

 「世界の終末」とはなんだったのか。これは世界が崩壊するとか、地球が消し飛ぶとか、そういうことではなく、ドニーが大切な人々を失うということでした。ドニーの母、ドニーの妹サマンサは飛行機事故で死亡し、心から愛した人グレッツェンは車に轢かれて事故死する。そして、ドニー自身はフランクを殺した人殺しとなる。これがドニーの迎えるべき、「世界の終末」でした。ドニーはこの将来を回避するべく、未来へと旅立った時点へと戻ることにしたのです。

 タイムマシンの話を聞かせてくれたモニトフ先生はタイムトラベルをするための条件として、金属製で空を飛べる乗り物、宇宙と外宇宙に開いた穴を挙げていました。その条件が揃うのは、ずばり、飛行機の落下事故のとき。飛行機の落下事故によって空に開いた穴は現在と未来を結ぶ通り道となります。ドニーは飛行機のエンジンが落下して、絶命する寸前、この通路を通って未来へと旅立ち、そして、再び、戻ってきました。

 ドニーが未来へ行っていた時間は28日と6時間と42分と12秒でしたが、現在の時間ではほんの一瞬のこと、飛行機が墜落し、エンジンがドニーの自室に落下してきて、それにドニーが押しつぶされるまでのほんのひとときの出来事でした。

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                【えんじ色の矢印→】ドニーがエンジンの落下事故で死ぬ時間軸。
                【虹色の矢印→】ドニーが事故を回避し、生き残る時間軸。
                【青色の矢印→】母妹・恋人の死を経たのち、ドニーは事故直前の時間に戻ってきた。

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★未来のために

 ドニーは家族のため、そしてグレッツェンのために過去の時点で死ぬことを決意しました。ドニーが10月2日を生き延びる限り、グレッツェンの命は助かりません。そして、母親と妹の命も。

 ドニーが10月2日に死んでいれば、グレッツェンがドニーと出会うことはなく、ドニーが地下室へ行こうと彼女を誘い出すことはありません。地下室に行かなければ、ドラッグをやっていた不良連中に出くわすこともなく、その後の事故でグレッツェンが死ぬこともありませんでした。そして、ドニーが人殺しになることもなかったでしょう。ドニーがジム・カニングハムの自宅に放火することもなく、ジムが児童ポルノ所持で起訴されることもなく、ジムの支援活動のために教師のキティがダンス・チームを引率できなくなることもなく、従って、母親のローズが妹サマンサのダンス・チームを引率することはなかったはずです。

 母がコンテストが終わってすぐの深夜便で帰ろうとしたのは、情緒不安定なドニーを家に残したことを心配したからです。キティが引率していれば、翌朝便で帰ってきたでしょう。深夜に急いでロサンゼルスを発ち、落下事故を起こす便で帰ってくることはなかったはずです。母は家にいて飛行機事故に巻き込まれることはなく、妹は翌朝便で帰宅することで、やはり、飛行機事故に巻き込まれることはないはずだったのです。

 ドニーがグレッツェンと出会わなければ、ドニーがジム・カニングハムの家に放火しなければ、グレッツェンや母ローズ、妹のサマンサは助かる。ドニーはそのために死を選びました。それは「孤独な死」でした。グレッツェンの愛も得られず、母親との和解もありません。グレッツェンとは赤の他人のまま、母親とは喧嘩別れしたまま、ドニーは死ぬことになるのです。

 ドニーは精神科医のDr.サーマンに「孤独は嫌だ」と訴え、孤独に死ぬことは耐えられないと告白しています。この言葉通り、ドニーの死は孤独なものとなりました。ベッドに一人、死んでいく。

 しかし、ドニーにとってこれは孤独な死ではありません。未来の自分の時間を生き、グレッツェンと出会い、母親を始め、家族の愛を得て死んでいくのですから。彼の心にあるのは温かい愛情にくるまれた満足感でした。飛行機のエンジンが落下してくる直前、ベッドに寝転がるドニーは笑い転げています。楽しくてたまらないかのように。

 彼は、未来を旅し、自分の死を覚悟していました。しかし、それと引換えに、心の隙間を埋めてくれる愛情に彼は満たされていました。だから笑っていた。そして、予定通り、飛行機のエンジンがドニーの部屋に落下し、ドニーの人生は終わりを告げたのです。

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★運命か、選択の結果か

 エンジンの落下は運命だったのでしょうか。この広い地球上の空にはたくさんの飛行機が飛んでいるけれど、その飛行機が墜落し、偶然にもエンジンが自室を直撃するなどということはそうそうあるものではありません。

 これは避けられない運命だったのか。もし、そうなら、精神不安定で薬が手放せず、非行を繰り返し、家族ともすれ違っていたドニーの人生は悲惨としかいいようがありません。ドニーはなんて不幸な人間だったのか、ということになるでしょう。

 しかし、このエンジン落下事故を意味のあるとする選択肢があります。それが、愛する人のために死ぬという選択をするということです。「あえて」死を選ぶ。ドニーの事故死は不幸な運命ではなく、ドニー自身の選択によるものだ、と考えることです。

 ドニーはモニトフ先生に「生き物には運命がある」と述べています。彼は運命というものがこの世に存在していると信じていました。「運命」とは、人の力、その人個人の力では如何ともし難い、変えられない未来のことです。人はただ、その運命に従わざるを得ません。例え、その運命に不服があっても。運命は不可変です。運命は神が決めるものであり、どうあがいてもドニーの力では変えられない。なるようにしかならないもの、それが運命です。

 しかし、このドニーの考え方にモニトフ先生は反対です。ドニーは運命が目に見えるものなら、未来も見えるはず、と主張します。これに対して、モニトフ先生は、「運命が映像として目に見えるということは、運命に背く選択肢もありうるということだ。だが、その選択の存在自体がすでに運命に背いてる」と指摘しました。

 運命とは不可変かつ不可避なもののことをいいます。それなのに、その運命を回避してしまえる可能性が生じるというのでは、それはもはや運命とは言えず、そこに矛盾が生じる。

 目に見える未来があるとするなら、人はその未来を招来しないように行動することが可能になります。その未来へつながらないような行動を選択すればいい。運命とは本来、目に見えないものです。目に見えないからこそ、人は全ての因果関係を想定し、生じる結果を予想して行動することはできず、運命を回避することができません。

 あのとき、そのときのちょっとした行動が未来において、予想もしない結果を引き起こしているかもしれません。ドニーの放火が回り回って母妹の死を招いたように。結果が見えていて、それを回避する選択肢を取れるという時点で、それは「運命」ではないのです。"

 あるイベントの発生において選択肢があるとき、そのイベントが発生するのは運命のせいではなく、選択の結果です。ドニーの場合なら、ドニーのエンジン落下による事故死が起きるのは運命のせいではありません。母妹の死、グレッツェンの死という目に見える未来を回避するために、ドニーは自ら、死を選びました。ドニーの人生は運命に従い、流され、定めのままに死を迎えたわけではありません。ドニーの人生は、ドニー自身の選択と決定によって形作られていました。

 Dr.サーマンは言います。「もし、空が開くものなら、この世に法則などないはずよ」。空が開き、タイムトラベルへの道が開くなどという不思議なことが本当に起こるなら、この世には、定められた道などない。一見、決まり切ったことのように見える物事でも、実は違った道が残されているのかもしれない。「あるのはあなたの記憶とあなたの取った選択とあなたの知人だけ」。不確かな世界の中で、唯一、確実と言えるのは、自分が決めたこと、行動したこと、そして、自分の愛した人々、そして自分の中に残るそれらの記憶です。自分が決めて取った何らかの行動が実際に存在することに間違いはない。自分のとった行動は運命に導かれてのものではなく、自分が自ら選びとった結果です。そして、その選択は自らを導く。

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★銀色のウサギ、もう1人の自分

 ドニーは銀色のウサギの言うことに逆らうことはできない、とDr.サーマンに主張していました。「逆らったら孤独になる」。ドニーの「想像の友人」である銀色のウサギは彼を導く大切な人でした。

 「何が起こるの?」とDr.サーマンに尋ねられ、「フランクが殺す」と答えるドニー。しかし、現実にフランクを殺したのはドニーです。フランクはドニーであり、ドニーはフランクである。この場合の"フランク"とは銀色のウサギのことです。銀色のウサギはすなわち、ドニー自身でした。

 銀色のウサギはドニーの前に現れては、次の取るべき行動をドニーに命令します。その言葉に従い、ドニーは未来へ行き、銀色のウサギの指示するままの行動を取りました。「大丈夫だ、まだ捕まらない」とドニーに囁き、「俺は何でもできる、お前もだ」とドニーを唆す銀色のウサギはドニーの心の内を具現化した存在でした。

 学校の水道管を破裂させ、銅像に斧を振り下ろし、ジム・カニングハムの家に放火する。そして、未来へ来いとドニーに働きかける。ドニーはタイムマシンを作る計画のために地下室へと行きました。これらの行動はドニーに衝撃的な結果をもたらしました。ジム・カニングハムの家への放火は母と妹の死を招き、タイムトラベルを実現させるために忍び込んだ地下室では襲われて逃げ出した末に、グレッツェンが車に轢かれて死亡してしまったのです。

 ドニーは銀色のウサギのいうがまま、非行を繰り返してしまう自分のことを「悔しい」と語っていました。悔しいけれど、孤独にはなりたくない、だから友人の言うことには従わねばならない。銀色のウサギの命令に逆らえば、""友人""を失い、孤独になってしまう。

 しかし、ドニーは目を覚ましました。銀色のウサギが導く道は自分の望まない道である、と。愛する人のいるドニーはもはや、孤独ではなく、銀色のウサギの命令はドニーにとって、絶対的なものではなくなっていました。そして、銀色のウサギの命令を客観的に捉え、考え直すことができました。

 銀色のウサギはドニーの心の弱さの現れでもありました。ドニーは銀色のウサギを殺すことで、自分自身の暗部と決別することができたのです。

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★銀色のウサギは死んだのか

 銀色のウサギはドニーに殺されました。ドニーが殺したのは銀色のウサギの着ぐるみを着たフランクです。フランクはドニーの姉エリザベスが大学に合格したことを祝うハロウィーン・パーティに招かれてやってきた友人たちの一人です。フランクの着ていた銀色のウサギの着ぐるみはハロウィーン・パーティの衣装でした。

 フランクは銀色のウサギだったのでしょうか?銀色のウサギはドニーの分身だというのに、どうして銀色のウサギの中身がフランクなのか。銀色のウサギは肉体を持って実在するのでしょうか?そもそも、"銀色のウサギ"など、この世に存在していなかったとしたらどうでしょう。肉体を持って存在していたのは初めから、"フランク"というドニーの友人だけ。

 映画の冒頭、自転車で帰宅するドニーが走り抜ける道路端に「ハロウィーン・カーニバル」の看板が出ているのが目に付きます。そして、ドニーが未来で過ごす最後の夜もハロウィーン・パーティ。そして、グレッツェンと一緒に観た映画は「死霊のはらわた」。映画館には銀色のウサギも現れていました。そして、この場でドニーにカニングハムの家への放火を命令しました。

 「死霊のはらわた」という映画は、奥深い山中のロッジに泊まりに来た男女5人が次々に死霊にとり憑かれ、死霊に体を操られて仲間を襲うというストーリーの映画です。

 ハロウィーンの季節には死者の霊や精霊が現れるとされます。かぼちゃをくりぬいて作るジャック・オ・ランタンは有名ですが、これはハロウィーンの季節に戸口や庭にこれを置いて悪霊を怖がらせるためのもの。ハロウィーンは魔が近づく季節なのです。

 銀色のウサギがドニーにさせたことは悪事ばかり。そして、そのウサギの言うがままに行動し、夢遊病者のように映画館を彷徨い出るドニーは、悪霊にとり憑かれ、肉体を乗っ取られたかのようです。

 繰り返し出てくるハロウィーンの描写は偶然ではありません。「死霊のはらわた」の死霊と、それにとり憑かれ、意のままに操られる若者たちの関係は、銀色のウサギとそれに盲従するドニーの関係に似ています。そして、映画館のスクリーンに映し出されるシーンは、若者たちがロッジに到着したところです。銀色のウサギは「スクリーンを見ろ、よく見るんだ」とドニーに促しました。スクリーンに映るシーンは、山奥のロッジの軒下にある吊り下げ式のベンチが一人で勝手に揺れているシーンです。これは「死霊のはらわた」冒頭のシーンで、死霊の存在が示唆されている場面でした。

 "銀色のウサギ"はフランクではない、人間でもない。銀色のウサギは霊的な何かである可能性が示唆されています。そして、肉体を持たない""銀色のウサギ""を銃で撃ち抜いて殺すことはできない。ドニーは銀色のウサギの命令に逆らうという意思を自分自身に対して示すために、銀色のウサギを殺すという儀式がどうしても必要でした。そして、フランクはその犠牲者となった。

 ドニーが殺したのはあくまで、フランクであり、"銀色のウサギ"ではありません。フランクを殺したのはドニーの放った一発の銃弾でした。銃弾はフランクの片目を撃ち抜き、彼を殺しました。"

 ドニーは包丁をキッチンから持ち出し、鏡に映った自分の目に突き立てていました。そののちに映画館で会ったフランクは目から血を流しています。鏡の向こう側にいる銀色のウサギはドニー自身、銀色のうさぎは鏡に映るドニーの姿です。鏡に映る自分の眼に突き立てた包丁が傷つけていたのは鏡の向こう側にいるもう1人の自分、"銀色のウサギ"でした。

 銀色のウサギの着ぐるみを着て映画館に現れたフランクの片目には血を流した痕がありましたが、グレッツェンが死んだ現場に駆けつけてきたフランクには眼に傷がありませんでした。これは人間である"フランク"と霊的な存在である"銀色のウサギ"が別の存在であることを示すものです。映画館に来ていたフランクは"銀色のウサギ"としてそこに存在していました。だから、このときのフランクは片目を負傷していました。一方で、グレッツェンが轢かれて死んだ現場に来ていたフランクは"
フランク"として存在していました。だから、フランクの目には傷がありません。

 銀色のウサギはフランクの肉体を借りてこの世に存在しつつ、ドニーの心に巣くう存在でもあったのです。
 銀色のウサギは今もどこかにいるかもしれません。"銀色のウサギ"はもう1人の誰かになることができます。ドニーの暗部に忍び込み、もう1人のドニーとなったように。彼はドニーでもあるし、他の誰かでもある。ドニーのような、複雑で揺れる感情を抱えた心には"銀色のウサギ"が現れるかもしれません。

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★"フランク"が消えるとき

 「フランク、いつ消える?」とたずねるドニーに対して、「知っているはずだ」と答える銀色のウサギ。

 "銀色のウサギに対して見せるドニーの表情は凄味を帯び、グレッツェンに対しても、母親ローズに対しても見せることのない形相をしています。銀色のウサギに会ったときのドニーからは、彼の破壊的な衝動が解放されていました。ドニーは、銀色のウサギに会う前から精神的な問題を抱え、放火をして処分を受けたという前科を持っています。

 暴力の行使がどのような理由で正当化されるとしても、暴力は暴力です。ドニーは自分の暴力性に気が付いていて、銀色のウサギの唆しに乗り、学校の水道管を破裂させ、銅像を壊したことについて「悔しい」とDr.サーマンに語っています。一方で、ドニーはそのような行動をしてしまうことに対して、銀色のウサギの命令だから従わねばならない、とも言っていました。

 ドニーはしてはいけないことをさせようとする自分自身の中にある力に恐れを抱いていました。その恐れは銀色のウサギと特異な存在を生みだしていたのです。ドニーは銀色のウサギに「命令」させることで、それに従わざるを得ない状況というのを作り出していました。

 命令に従うためにやるしかなかった、そういう状況を作り出すことで、ドニーは自分自身の中に残る罪の意識を消化していたのです。銀色のウサギはこのようなドニーの罪悪感に対処するための"装置"でもありました。銀色のウサギに命令されてした水道管の破壊や学校の銅像に斧を突き立てた行為は「学校の危機」という言葉で正当化され、ジム・カニングハム宅への放火は児童ポルノの収集家だったという彼の性癖を暴くという結果によって、ドニーの中で正当化され、罪の意識を消化していたのです。

 "フランク"こと、銀色のウサギが消え去るのは、ドニーが友人"フランク"の正体に気がついたとき、そして、自分の暗部が"銀色のウサギ"を生みだしたことを自覚したときです。銀色のウサギはドニーの友人としての外見を装い、ドニーの行動を正当化するという役割をドニー自身に期待されていたのです。

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★"銀色のウサギ"とフランク

 「不思議の国のアリス」で白うさぎがアリスを先導して不思議の国へ導いたように、ドニーにとってはフランクの描く銀色のウサギが未来の世界への先導者となりました。この銀色のウサギはあくまで、ドニーの「想像の友人」です。しかし、ドニーは銀色のウサギの名前は「フランク」だと言い、実際に、フランクという名前の人物もいる。

 このフランクという人物はなぜ、銀色のウサギの着ぐるみを着せられ、銀色のウサギの役を演じることになったのか。ドニーがタイムトラベルから戻ってきたエンジン落下事故の日、夜を過ごす人々のカットが次々に入ります。いずれも、ドニーの知人ばかりです。

 その中の1人にフランクがいました。ベッドの下にはまり込むようにして座るフランクの近くには、"銀色のウサギ"のイラストが数点と、"銀色のウサギ"の面があるのが見えます。これはいわゆる、「現実」の時間軸での出来事です。

 つまり、ドニーが戻ってきたこの世界にもフランクという人物はいて、彼は""銀色のうさぎ""の絵を描く。この絵と似たタッチの絵は他にも見ることができます。一つはドニーの部屋にある右眼がクローズアップされた大きな絵。そして、もう一つはグレッツェンと発表したときに使った記憶発生装置IMGのイラストです。

"銀色のウサギ"のイラストは未来の時間軸において、ドニーの部屋のカレンダーの上部に貼り付けられていました。そして、現実の時間軸において、ドニーの部屋にある大きな眼の絵は未来の時間軸から戻ってきたときの入り口になっていました。

 銀色のウサギはドニーを未来へと導く役割を果たしました。現実の時間軸において、ドニーはフランクと何らかの形で知り合いだったのでしょう。大きな右眼の絵はフランクの手によるもので、ドニーはフランクの描くウサギの絵を見たことがあったのかもしれない。

 そして、その"銀色のウサギ"を描くフランクは、銀色のウサギを「動かす」人。フランクが銀色のウサギの被り物を着ていたのはフランクが""銀色のウサギ""を描く人だったからでしょう。"
また、現実の時間でフランクがドニーの友人であり、過去のパーティで銀色のウサギの着ぐるみを着ていたのをドニーが記憶していて、それが未来の時間軸にも反映されたということも考えられます。銀色のウサギはもう一つのドニー。そして、銀色のウサギは、ドニーの友人という外見を取り繕うためにフランクという肉体を必要としました。

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★人間の着ぐるみ

 骨の上の肉でかたどられる形がどんなに美しくても、皮膚の下にあるのは皆同じ、骸骨です。どんなに見た目を磨き、表面を取り繕っても、中にあるものは変わらない。「なぜ、ウサギの着ぐるみを?」と問うドニーに対して、銀色のウサギは「お前はなぜ、人間の着ぐるみを?」と問い返します。

 人は「好かれる人間」でありたいと思うもの。他人に良く見られたい、と思う気持ちは誰にでもあります。誰からも受け入れられようとするために、自分自身に枠をはめて生きている。そして、それが当然のことになっているという現実があります。

 その本質にあるのが、醜いものだったとしても、外見を飾り立てれば、誰もその正体に気がつかない。児童ポルノを愛好していたジム・カニングハムは""恐怖克服セラピー""を謳う有名なカウンセラーという仮面を被っていました。しかし、彼が特別なのではなく、それは他の大人たちも同様でした。

 タレント・ショーという学校の催しで、一人、舞台で踊るシェリータに対して罵声を浴びせる男性、そして、それをにやにやと見守る大人たち。太めでアジア系、要領が悪く、よたよたと踊るシェリータに対して寄せられる大人たちの冷ややかな視線からは、明らかな軽侮の感情が感じ取れます。

 彼らは表だって罵声を浴びせるわけではありません。ただ、シェリータを眺めてひそひそと囁き合い、にやつくだけ。しかし、彼らの態度はシェリータに対して「引っ込め!」と声を荒げた男と本質的には同じではないでしょうか。シェリータの直後に出演したダンス・チームに送られたスタンディング・オべ―ションと拍手の嵐に比べれば、シェリータのときとの差は明らかです。ジム・カニングハムが司会をして行われた学校のタレント・ショーにはたくさんの「人間の着ぐるみ」を着た人間たちが集っていました。

 シェリータは催し物の後、衣装も着替えることなく一人、銅像の前に座り込んでいました。落胆した様子の彼女の表情からは人間の醜悪な面に触れた人の悲しみが感じ取られます。

 それから数日後、シェリータは、校長に首を言い渡され、大声で悪態をつく教師のカレンに校舎裏で遭遇しました。カレンはシェリータに気が付き、はっとしますが、すぐに微笑を浮かべます。みっともないところを見られてもカレンは物怖じしません。それは、率直な性格のカレンにとっては、普段取り繕っている外見と本音との差が僅かなものであるから。

 そして、いつも皆からバカにされているシェリータは人間の醜いところをいやというほど見てきています。カレンが本音を吐いているところを見ても、シェリータは彼女を理解するだろうと確信が持てたからです。あのすばりとものを言うカレンであっても、仕事を続け、社会生活を送るためには「人間の着ぐるみ」を着なければ世の中は渡っていけない。

 銀色のウサギは人間と逆です。銀色のウサギは着ぐるみではありません。骸骨の顔を持つ銀色のウサギは本質であり、着ぐるみのの下にあるフランクという人間の肉体はドニーの友人という外見をかたどる飾りでした。フランクという人間の外見を持ちながら、中にいるのは"フランク"ではなく、"銀色のウサギ"。フランクの中身がフランクではないことを見抜けない人間を銀色のウサギは嘲笑しています。

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★ドニーの未来

 ドニーはグレッツェンに、将来は「小説家か画家になりたい」と話していました。「皆に僕を分かってほしいから」。ドニーの過ごした未来の時間には彼の願望や希望が現れている部分がたくさんあります。現実の世界では、ドニーは精神上の問題を抱え、家族ともすれ違いが絶えません。

 夕食の席で姉と口論し、部屋に来た母親を追いだして「ババア」と罵声を浴びせる。父親は汚い言葉でののしり合う姉弟をにやつきながら眺め、母親はそんな2人に手を焼いている。姉は一流大学に入学するために浪人中の身ですが、「来年はハーバード大の学生」という母親の言葉がうるさく聞こえるようです。姉はエンジンの落下事故が起きたとき、外からそっと帰ってきたところでした。彼女の服装から察するに、夜遊びからこっそり帰ってきたところではないでしょうか。

 それが、エンジンの落下事故を境とした未来の世界では一変します。ドニーがゴルフ場から帰ってくると、家族は皆、温かく彼を迎え入れ、姉のエリザベスは妹を抱きよせ、弟のドニーに優しく話しかけます。前夜のエリザベスとはまるで態度が一変していました。さらに、姉のエリザベスはハーバード大学に合格し、ドニーもそれを心から喜び、姉弟の仲はうまくいっている。

 両親は、ドニーのことを気遣い、Dr.サーマンの下に足を運んで息子の症状を相談しています。「今までの処分や非行について、あの子なりの言い分があった」と父親。ドニーの問題行動について、父親は理解しようとしています。そして、母親は息子を心から愛し、心配している。事故が起きる前夜、母親を部屋から追いだし、「ババア」と罵っていたドニーと母ローズの関係は、お互いを思いやり、理解しようとする理想的な母子関係へと変化していました。ドニーは精神を病む自分のふがいない姿を母に謝り、母はそんな息子を「すばらしいわ」と言って涙を流して受け入れています。

 また、Dr.サーマンは非常に良くできた精神科医で、ドニーの話をじっくりと聞き、彼が本音を明かせる大事な相手になっています。現実の世界では、ドニーと姉はDr.サーマンに支払う高額の報酬や、投薬治療を引き合いに出して、口論していました。現実には、ドニーはDr.サーマンに何らかの不満を持っていたのではないでしょうか。ドニーはDr.サーマンが高額の報酬を受け取る一方、満足なカウンセリングが受けられず、ただ薬が処方され続けるだけだと思っていたのかもしれません。

 そして、学校でもドニーは楽しい時間を過ごします。何よりも、グレッツェンという恋人の存在です。転校してきた彼女とはあっという間に恋人関係になりました。さらに、この未来の世界において、ドニーには友達がたくさんおり、彼らと放課後の時間を過ごすこともあります。また、ドニーには学校の不良とも、渡り合える度胸がありました。廊下ですれ違うときも目をそらさず、いたずらの犯人と疑われた不良に脅されてもドニーは引きません。

 そして、教師のカレン。彼女は生徒たちに対して何かを命令したり、キティのように自分の考えを押し付けることを嫌う教師でした。校長に対して、「生徒と対話しようともせず、覇気のない子にしてます」と堂々と批判し、一方的な命令を押し付けることの無意味さを述べています。カレンはドニーの良き理解者であり、庇護者でもありました。

 この未来の世界では何もかもがうまくいっている。うまくいきすぎています。それはそう、これはドニーの世界なのだから。この世界はドニーの「僕を分かってほしい」という願望が強く影響して構築されています。

 しかし、これら全ては、神の定めた運命のなせる業ではなく、ドニーが選択し、行動した結果です。ドニーがこうでありたいと願い、その願望に沿って行動したことがこのようなバラ色の未来を生みだしました。しかし、その一方で、ドニーは銀色のウサギの言うがままだった。銀色のウサギの存在はドニーのバラ色の未来に不穏な影を投げかけました。

 銀色のウサギの命令に従うことを選択したのも、ドニー自身の選択です。その命令に従うべきかどうか、ドニーには選択の余地があった。ドニーには「運命に背く選択肢」が用意されていました。そして、その選択肢の存在自体が、運命というものの存在を否定しています。この世にあるのは結局、「あなたの選択」であり、それによって生じた結果なのです。

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★手紙

 ドニーとグレッツェンはスパロウ家のポストに手紙を投函しました。「お尋ねしたいことがたくさんあります」。ドニーは「答え」を恐れていました。「すべてが現実だ」と言われたら、と思うと、怖くて、直接答えをもらうことはできない。だから、「答えは夢で聞かせてください」と続けます。「世界に終わりが来たら、安心したいと思います。楽しみなことがたくさんあるから」。

 ドニーが恐れていたことは何でしょうか。それは「世界に終わりが来ること」です。世界の終わりとは、すなわち、死。世界に終わりが来ることが本当ならば、ドニーは命を失うことになる。しかし、そのことに「安心したい」とドニーは続けます。なぜ、安心できるのでしょうか。それは、銀色のウサギの告げる「世界の終わり」が本当の事であるならば、銀色のウサギの存在する時間に存在するグレッツェンや、家族と心の通う幸せな時間を過ごす今という時間も現実であることになるからです。

 ドニーの希望通り、答えは夢で示されました。グレッツェンとの出会い、家族との和解。この未来はドニーの言う、「楽しみなこと」です。2つの並行する時間軸において、ドニーは未来の自分という現実を過ごしました。これは夢であり、そして現実です。ドニーが事故で死を迎えた時間軸から見れば、ドニーの未来は「夢」であったことになる。一方で、事故を生き延びた時間軸からはドニーの未来は現実です。

 しかし、その現実は愛する人の死、そして人を殺すという、ある一線を越える自身の行動という事実を包含していました。その死、あるいは殺人がドニーの行動と選択の結果だったことはいうまでもありません。ドニーが銀色のウサギの命令に従い、行動したことが回り回ってこれらの悲劇を引き起こした。ドニーはこの未来の時間を生き続けることを断念します。

 「帰ろう」。ドニーはもう一つの時間を生きる自分へと戻ることを選択し、死を迎えることにしたのです。

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★2つの人生

 ドニーの人生には飛行機のエンジン落下事故で死ぬという人生と、事故で死なず、生きていく人生の2つがありました。ドニーは事故で死なず、生き続ける人生を生き、そして、落下事故で死を迎える人生のほうに戻ってきました。ドニーがしてきたことはすべて、そしてドニーが落下事故で死ぬという人生に戻ってくるという決断をしたのも、彼自身の選択です。

 ドニーがタイムトラベルを望んだのは、世界の終わりを回避し、人生をやり直すためでした。ドニーは赤ん坊に記憶を発生させ植えつける装置、IMGのアイデアをグレッツェンとともにモニトフ先生の授業で発表していました。幼いころの記憶を改変し、あるいは人為的に操ることのできる装置です。これはドニーやグレッツェンの生い立ちのたまものでもありました。

 ドニーは自身の前半生を悔やんでいました。精神的な問題を抱え、非行を繰り返し、家族に負担をかけている自分の前半生をやり直したい。赤ん坊のうちに、美しい記憶や楽しい記憶を植えつけることができたなら、成長してから辛い記憶に悩む必要はない、その思いからIMGを思いついたのでしょう。

 グレッツェンも同様です。母親と父親は不仲で、父親の暴力が絶えない家庭に育った彼女にとって、ドニーと同じく、今までの人生には不満が一杯でした。「赤ん坊の自然な発育には暗闇も必要だとは考えなかったか」というモニトフ先生。人間は忘れることで、精神状態の安定を保つことができるもの。

 しかし、ドニーやグレッツェンのように、今までの辛い記憶や忘れたい記憶から抜けることができず、今もその中に囚われているならば、"忘れる"ということを忘れてしまいます。辛い記憶を忘れられない地獄に陥るよりは、美しい記憶を覚えていたい。

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★過去と未来の時間を交換できたら

 グレッツェンは「もし過去に戻れて、辛い時間を楽しい時間と交換できたら」とドニーに話していました。タイムトラベルで過去に戻り、グレッツェンや友人、そして温かい家族のいる人生をやり直す。しかし、タイムトラベルのために地下室へ行ったことはグレッツェンの死を引き起こしました。

 人間には今という時間が目の前にあります。未来の時間も、その場に立てば、今である。過去、あるいは未来という概念は相対的なものです。重要なのは、今という時間が現在なのか、未来なのかを論じることではなく、今という時間を自らの選択によって生きるということ。ドニーが生きた未来の時間も、ドニーがその場に立ち、自分の意思で歩んだという意味では現実の出来事です。だから、ドニーの生きた未来の時間は、未来を生きたという「夢」でありつつ、「現実」でもある。

 ドニーには、今までの人生を「暗闇」にすることができませんでした。人間は、過去に戻り、今と過去の時間を取り換えることはできない。また、その必要もなかったのです。ドニーにはグレッツェンや家族のいる「今」という幸せな時間があったのだから。

 しかし、ドニーはタイムトラベルを望みました。「世界の終わり」という銀のウサギの言葉に囚われ、タイムトラベルを望んだ結果、引き起こされる愛する者たちの死。「世界の終わり」は何か見えない力によってもたらされるものではなく、ドニーの行動によってもたらされたものでした。この引き起こされた結果に対して、ドニーは過去へ戻るという決断をしたのです。"

 銀色のウサギの呪縛から逃れ、幸せと愛を得たのちの死。夢から醒めたドニーにすぐ訪れた死はドニーに「世界の終り」を告げました。彼に恐怖はありません。愛する人々のために迎える死なのだから。未来を生きたドニーには常に「死」が頭にありました。銀色のウサギの面は骸骨です。そして銀色のウサギの絵はドニーの部屋の壁にかけられたカレンダーに被せるようにして貼られていました。

 「死を想え」。死ぬときはひとりです。""死神オババ""ことロバータ・スパロウがドニーに告げたように、「生き物は皆孤独に死ぬ」。しかし、同じ死を迎えるにしても、誰も親しい人がおらずに孤独に死ぬのと、愛する人や大切な人がいて死ぬのは違う。死を身近なものとし、死の意義を考える時間。それが世界の終わりまでの「あと28日と6時間と42分と12秒」でもありました。

 ベッドの上で笑い転げるドニー。死は終わりではなく、始まりである。死は恐怖ではなく、喜びとなる。孤独に死ぬのをあれほど恐れ、嫌がっていた彼の姿はそこにはありません。エンジンが落下するのはこの直後のことです。未来を旅してきたドニーにとって、「世界の終り」は世界の始まり。ドニーが死んだ後の世界には、ドニーの残した幸せな時間が確かに待っています。

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ドニー・ダーコ2

映画:ドニー・ダーコ2 あらすじ
※レビュー部分はネタバレあり
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 時が過ぎ、兄ドニー・ダーコの死は遠い記憶となっていく。兄ドニーのように、生きることに絶望し、行き先を見失った妹サマンサが経験する不思議な世界。時が流れ、また戻る、時空を超える旅が今、始まる。

 ドニー・ダーコの死から7年の歳月が経ち、妹のサマンサ・ダーコは17歳の少女へと成長していた。ドニーの死後、家族が崩壊し、よるべを失ったサマンサは旅に出る決心をする。

 友人コーリーとともに、車を走らせている途中、車が故障し、道に立ち往生してしまった。車の修理を待つ間、2人の少女は小さな田舎町に滞在することになる。
その町には湾岸戦争の帰還兵、通称イラク・ジャックという男がいた。彼は戦争の記憶が忘れられず、奇怪な行動をすることから、町の人々から軽蔑され、白い目で見られている男だった。

 サマンサたちが町に泊まった夜、風車の回る風見台に隕石が落下するという事故が起きる。イラク・ジャックは風見台に上っているところをサマンサに助けられ、隕石の落下事故から危うく命拾いをするのだった。

 ジェイク・ギレンホールが主演した「ドニー・ダーコ」から8年。前作で幼いドニーの妹サマンサを演じていたディヴィー・チェイスが再びサマンサ役で登場。孤独と絶望に揺れる10代の少女を演じる。



【映画データ】
ドニー・ダーコ2
2009年・アメリカ
監督:クリス・フィッシャー
出演:デイヴィー・チェイス,ブリアナ・エヴィガン,ジャクソン・ラスボーン



映画:ドニー・ダーコ2 解説とレビュー
※以下、ネタバレあり

★2つの時間軸

 やり直せる時間。これは前作「ドニー・ダーコ」から引き継がれる「ドニーダーコ2」の世界観です。時は複数に派生し、未来のある時点から過去のある時点へと戻ることができる。しかし、人はその分岐点に気が付きません。時が派生するその重要なポイントに現れ、人を導く者がいます。ドニー・ダーコを導いたのは"銀色のウサギ"でした。

 「ドニー・ダーコ2」で"銀色のウサギ"の役目を果たすのはサマンサ、そしてビリー。導かれる者は湾岸戦争帰還兵の"イラク・ジャック"ことジャスティン・スパロウとサマンサの友人コーリーです。

 隕石の落下事故をサマンサによって免れたジャスティンは生き延び、そして、「世界の終わり」が迫っていることを知らされます。ジャスティンが生き延びる時間軸では自動車事故が起こります。死ぬのはサマンサでした。この結末を変えようと、コーリーが命を捨ててサマンサを救っても、サマンサは、今度はジェレミーによって再び殺されます。コーリーの"やり直し"は、あくまでジャスティンの生き延びる時間軸上での出来事であるからです。

 そして、訪れる世界の終わり。ジャスティンが隕石の落下事故を生き延びている限り、サマンサは死に、世界の終わりは避けられない。ジャスティンは隕石落下事故直前に戻り、死ぬという選択をしました。

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【えんじ色の矢印→】ジャスティン又はコーリーが事故で死ぬ時間軸。
【虹色の矢印→】ジャスティン又はコーリーが事故を回避し、生き延びる時間軸。
【水色の矢印→】サマンサの死を経たのち、ジャスティンあるいはコーリーは事故直前の時間に戻ってきた。そして、一度は回避したえんじ色の矢印の示す人生を選択して事故死することになる。

〈図表の見かた〉
コーリーの時間軸はジャスティンが隕石落下事故から生き延びる時間軸をベースに展開している。ジャスティンが生き延びる時間軸の中で発生する"交通事故"というイベントにおいて、コーリーは「やり直し」をしてサマンサの人生を救い、代わりにコーリー自身が事故死した。

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★選択された死

 コーリーが「やり直し」をしたおかげで、サマンサの命は救われました。しかし、サマンサは今度はジェレミーによって殺されてしまいます。そして、地球には「超四次元立法体」が降り注ぎ、各所で爆発が起きる事態になっていました。ジャスティンが生き残る限り、サマンサは死に、人類は生存の危機にさらされる。コーリーが「やり直し」をしたところで、サマンサは、そしてこの世界は助けられない。時間軸のおおもとになっているジャスティン自身が「やり直し」をしなければ、破滅的な未来を変えることはできなかったのです。

 ジェレミーは隕石をフランクから買ったことで、隕石に取り憑かれたようになっていました。超四次元立方体が降りそそぐなか、興奮を抑えきれない彼は勢い余ってサマンサを殺してしまいます。サマンサに致命傷を与えたのはジャスティンの作った鋼鉄製の"銀色のウサギ"の仮面でした。もし、ジャスティンが死んでいたら、銀色のウサギの仮面が作られることはなかったでしょう。そもそも、隕石が落下した風見台の持ち主フランクは隕石を売らなかったはずです。そして、ジェレミーが隕石を買うことはなく、ジェレミーが隕石の秘密にとり憑かれ、サマンサを死に追いやることもなかったでしょう。

 結末において、ジャスティンが隕石の落下事故で死んだとき、フランクは隕石を売るよう勧められたのにも関わらず、「人が一人死んでるんだ」と主張し、隕石を売ろうとはしませんでした。隕石はジェレミーの手には渡らず、モーテルの管理人フィルの事務所におさまっていました。そもそも、ジャスティンが死んでいたら、サマンサはこの町にとどまりませんでした。隕石の落下でジャスティンが死んだ後、サマンサはこの町を出る決心をし、コーリーとも別れます。

 ジャティンが死を選択することで、未来は変化したのです。

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★「なぜ見せた?」

 「なぜ見せた?」"銀色のウサギ"の仮面をつけたジャスティンはサマンサにたずねます。"銀色のウサギ"としてジャスティンを導いてきたサマンサがジャスティンに見せたのは、サマンサを救うため、時を遡ったコーリーの死でした。サマンサは大切な人、大切なもののために命をかける人間の姿を見せました。彼女は「世界の終わり」から人類を救うのはジャスティンの死の決断であることをジャスティンに示唆したのです。「私はあなたのために死んだ」。そう言ってサマンサは右の額にできた醜い傷を見せます。サマンサは死んだ。ジャスティンの生き延びる時間軸において。

 全ての者を死から免れさせるため、そして「世界の終わり」からこの世を救うために、ジャスティンは死を選びました。天を仰ぎ、落ちてくる隕石を迎えるように手を広げて笑っているジャックは、エンジンの落下を笑いながら待っていたドニー・ダーコを思い起こさせます。

 ドニーが自らの死をもって大切な人たちを死から救ったように、ジャックも助けるべき人たちのために死んでいきました。サマンサを、友人を助けるために命を投げ出したコーリーも。サマンサを殺す殺人犯となるジェレミーを。ジャスティンが死ぬことで彼らの人生は悲劇から救われます。自分が死ぬということにこんなにも大きな意義があるのだということは、ジャスティンの死に対する恐怖を薄れさせました。

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★社会のつまはじき者

 むかしむかし、アリエルという名の世界一美しいユニコーンがいました。王子ジャスティンに見出され、不思議で美しい世界へ導かれていきました。でも、アリエルの美しさは誰にも見えません。ジャスティンにしか見えないのです

 "イラク・ジャック"の本名はジャスティン・スパロウ。ドニーの愛読していたタイムトラベルの本の著者ロバータ・スパロウの孫息子です。ユニコーンの一節はこの本に挟まれていたノートの切れ端に書かれたものでした。ユニコーンは"純潔"や"処女性"を象徴する存在です。そして、サマンサとコーリーは「私たち、完璧」「純潔よ」と何度も言葉を交わしていました。ジャスティンが死を迎える前、コーリーに「純潔よ」と答えていたのはサマンサです。そして、ジャスティンが死んだ後、サマンサに「純潔よ」と答えていたのはコーリー。ユニコーンはサマンサのこと、そして、王子ジャスティンとはそのまま、ジャスティン・スパロウのことでしょう。

 イラク・ジャックは気のふれた男として町の人々から軽蔑され、毛嫌いされていました。戦争の悲惨な記憶を生々しく語るジャックを人々は気味悪がり、皆、彼のことを無視し、邪魔者扱いしていました。

 一方、サマンサ。17歳の彼女は強い疎外感を抱いていました。兄ドニーの死後、家庭は崩壊し、姉は結婚してもはや他人のよう。コーリーの言葉から察するに、サマンサは孤独感と寂しさに追い詰められ、自殺未遂を起こしたこともあるようです。今のサマンサは、コーリーと共にあてのない放浪の旅を続ける身でした。コーリーも彼女を愛する父親がいるふりをしていましたが、実際にはコーリーを愛しているはずの父親は存在せず、母親は若い恋人と遊び回っていました。

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★世界一美しいユニコーン

 ジャックも、サマンサも、コーリーも、社会からはじき出された存在です。彼らの存在を気にかける者はおらず、"美しさ"を理解する者はいません。王子にしか分からない、ユニコーンの美しさ。それは見た目の美しさではありません。コーリーやサマンサの若さや外見的な美しさに惹かれた者はこの田舎町にもいました。牧師のジョンはその好例です。サマンサを映画館に連れ込み、彼女の太ももにいやらしく手を置くジョンはサマンサの体に惹かれていました。

外見からは分からないユニコーンの純潔さ、彼女らの純粋であるがゆえの美しさを感じたのは"イラク・ジャック"ことジャスティンです。お互いを思い合うがゆえに、その死に苦しみ、あるいは命を投げ出して、相手の命を救おうとする。しかし、残された者には地獄の苦しみが残されます。

 命を投げ出し、相手を救っても、生き残った者は決して幸せにはなれない。彼女らの"美しさ"を理解するジャスティンが取った行動は「死」でした。ジャスティンが死ねば、サマンサもコーリーも死なずに済む。2人とも生き延びられるのです。

 隕石の落下事故でジャスティンは死にました。この事故現場に来たサマンサは見知らぬ男の死に心を動かされます。焼け焦げたジャスティンのカンテラを取り上げるサマンサ。彼女が思い出したのは兄の死でしょう。

 兄と同じように死んだ男。そして何かを感じる。ドニーはなぜ、死んだのか。ドニー・ダーコはなぜ、死ななければならなかったのか。兄の死は偶然ではなく、彼の決断と行動の結果だった。サマンサはドニーの死の意味を悟りました。

 ジャスティンの死はサマンサの人生を変えました。サマンサは町を離れ、故郷へと一人戻る決断をします。これで、サマンサとコーリーの悲劇が起きることもなくなる。""美しさ""を理解したジャスティンはサマンサを悲劇から救う道を選んだのです。

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★「起きてやり直すのよ」

 この映画の前半はジャスティンが隕石の落下事故を生き延び、サマンサが交通事故で死に、コーリーがサマンサのため、やり直しをした結果、コーリーが死ぬところまでです。「なぜ見せた?」と問うジャスティン。そして、交通事故でサマンサが生き延び、コーリーが死んだ後の時間軸が展開していきます。そして、サマンサは再び死ぬ。今度は殺されてしまうのです。「死んだらどうなるか知りたい?」ジャスティンに尋ねるサマンサの額の横には痛々しい傷がぱっくりと傷口を開けていました。「私はあなたのために死んだ」。

 サマンサの死因はジャスティンが放置した銀色のウサギの仮面に頭部をぶつけたことでした。鋭い鋼鉄のウサギの鼻がサマンサの頭に傷をつけたのです。ジャスティンは逮捕され、「世界の終わり」が近づくのを独房に座って眺めるしかありません。

 ジャスティンを独房から解放したのはサマンサでした。ドレスを着て、血の気のない顔をしたサマンサから、蒼い羽根がジャスティンに渡され、留置場の格子戸が開かれました。「起きてやり直すのよ」。

 留置場を抜け出したジャスティンはサマンサが死んだ場所へとやってきていました。"銀色のウサギ"の面を被り、暗い空を眺めるジャスティン。降りそそぐ火の玉の中、彼は立ち尽くしています。ランディがその横をサマンサの死体を抱きかかえて去っていきました。

ジャスティンは"銀色のウサギ"が夢に出てきた顔だと語っていました。ジャスティンは見知らぬ他人であるはずのドニー・ダーコを常に意識していました。ドニー・ダーコにとって、"銀色のウサギ"は自分自身でもありました。このような"銀色のウサギ"がもう1人の自分自身を象徴する存在なら、その"銀色のウサギ"の虜になっているジャスティンは"ドニー"です。そして、そのドニーは妹のサマンサを救うため、エンジンの落下事故で死んだ。それなのに、今また、サマンサが死んでしまった。

 サマンサの"美しさ"を理解するジャスティンには彼個人としてサマンサを救いたい気持ちがありました。そして、ドニーとしても、サマンサは救わねばならない存在でした。死んだドニーの声が無意識のうちにジャスティンへと届いたのか。ジャスティンの夢に出てきた"銀色のウサギ"、そしてジャスティンを虜にした"銀色のウサギ"は説明のつかない死んだはずのドニーという存在を示唆しています。

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★死という恐怖

 「私はあなたのために死んだ」。そして、ジャスティンはサマンサのために死ぬ。蒼い羽根は死、そして時空を超えるための扉を開けるカギを意味します。ドレスを着たサマンサが手にしていた羽根はジャスティンに渡されました。この世の時間軸を望ましい時間へと戻すため、死ぬのはサマンサではなく、ジャスティンである必要がある。

「死は誰にも訪れる」。サマンサはロバータ・スパロウの本を読みながら、そう呟きます。誰にでも死が訪れるものならば、大切なのはそれまでの人生をどう生きたか。死には誰しもが恐怖を抱きます。特に、今までの人生に未練があればなおさら。死を目の前にしたとき、自分の人生が無意味であると思うなら、それは辛いこと。人間は自分の存在を誰かに認めてもらいたいと思う気持ちがどこかにあるものです。

町の人間から白い目で見られ、気のふれた男と思われて死ぬ。そして、皆の記憶からはジャスティン・スパロウという男がいたという記憶すら消えていく。これは恐怖です。自分が存在したことすら、なかったことになる恐怖。サマンサは故郷の皆は自分のことを詳しく知っているのに「私は透明人間なの」と言っていました。確かにそこにいるはずなのに、いないも同然の人間。居てもいなくても、同じ。

 自分が確かに生きたという証が欲しい。大切なのはいかに生きたか、ということです。「起きてやり直すのよ」。時間軸をさかのぼり、風車の下に座るジャスティンは訪れる死を迎える準備ができていました。

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★銀色のウサギ―サマンサ

 「ドニー・ダーコ2」で"銀色のウサギ"の役を演じたのはサマンサとビリーでした。ビリーは閉じ込められて死を待つ身、そして、サマンサは死へのほのかな憧れをもつ少女です。兄のドニーが死に、家庭が崩壊し、姉も結婚して別の家庭をもった今、サマンサは降り立つところのない鳥のようでした。行く先を見失い、ただ彷徨うだけ。

 かつて、兄のドニー・ダーコが銀色のウサギに出会ったとき、彼は銀色のウサギに導かれて未来を旅しました。ドニーも、死に対する強い親近感を抱いていました。精神を病み、非行を繰り返し、家族の重荷になっているという自分に対する強い不信感。ドニーを導き、ドニーにするべきことをそそのかす"銀色のウサギ"はドニー自身の姿でもありました。

 "銀色のウサギ"としてのサマンサは死に化粧をし、鳥の羽根を象ったドレスを着、まるでこの世のものとは思えないような姿をしています。血の通っていない、冷たい表情。現実のサマンサも、ある意味では死んでいました。エンジンがオーバーヒートし、助けを待っている間、道路の中央に無防備に横たわるサマンサは車が近付いてきても動こうともしませんでした。まるで、このまま轢かれて死んでもいいと思っているようです。

 そんな彼女を「死んでる」とコーリーは言います。「彼女は氷の女王よ」。この世に生きているサマンサは血の通う肉体をもっています。しかし、生きることに絶望し、希望を見失ったサマンサは死んだも同然。彼女の心は死んでいました。その死んだ彼女が演じたのが""銀色のウサギ""。ジャスティンを死へと導く先導者となりました。

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★"銀色のウサギ"―死に導く者

 ジャスティンも死に対して強い親近感を抱いていました。戦争から帰ってきた帰還兵であるジャスティンは戦争の経験によって精神を病み、戦争の経験に囚われたまま。今も過去の記憶の中を彷徨う"兵士"です。ゴミを拾って暮らすホームレス同然に町を徘徊する彼は町の人々に馬鹿にされる毎日でした。そして、たび重なる誘拐事件の犯人ではないかとも疑われている。ジャスティンが憩える場所はこの世界にはありません。

 ジャスティンは死んで当然と思っている町の人々の冷たい視線を感じずにはいられませんでした。隕石事故でジャスティンが事故死しても、彼らは天罰だ、正義が貫徹されたとしか思わないでしょう。せめて、意味のある死に方がしたい。自分がこの世に存在した証、存在した意味が、必ずあるはずだ。

 ジャスティンは"銀色のウサギ"サマンサの導きによって、隕石事故を生き延びる未来を経験しました。それはサマンサが死に、自分は誘拐の容疑で逮捕されるという未来。隕石事故でジャスティンが死んでいたら、サマンサは死なずに済む。そして、「世界の終わり」も来ない。

 "銀色のウサギ"は死に近づいた者、あるいは死に親近感を抱く者に訪れる死神でもあります。彼の役割は死にゆく者たちに生き延びる未来を経験させ、死の意義を理解させ、彼らを満足のいく死に導くこと。ジャスティンが生き延びる時間軸においては、ランディやジェレミーに湿疹が表れていました。

 この時間軸は本来あってはならない時間軸。どこかで歪みが生じ、時空の歪みが彼らの体に変化を及ぼしたのでしょうか。また、体から伸びる透明の管のようなものも、この未来の世界の異質さを表しています。銀色のウサギが導く未来は、あってはならない未来です。その先には「世界の終わり」が待っているから。

 "銀色のウサギ"はドニー・ダーコにエンジン落下事故による死をもたらしました。そして、今度はジャスティンに隕石落下事故による死をもたらしました。そして名もなき他の誰かにも。今度は誰の人生に現れるでしょう。誰にどんな未来を経験させるでしょうか。

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★繰り返す時間、「やり直し」の人生

 コーリーはサマンサが事故死したのち、図書館で新聞をしらみつぶしに調べていました。目につくのは"マンホールの蓋 少女の首を切断"あるいは、"ゴミバケツ 若者に落下"というような、およそ、簡単には起こり得ないような事故の見出し。そして、ドニー・ダーコの死亡記事。ドニーの死は彼だけに起きた特別な出来事ではなかったことをこれらの新聞記事は示唆しています。他にも"選択された死"があり、「やり直し」がされた、ということです。

 自分が今、生きているこの時間も、もしかしたら、「やり直し」の人生なのかもしれません。自分に関係する、あるいは間接的な関わりのあるだけで、直接には知らない人の決断により、時間は繰り返す。人は様々に分岐する時の流れを過ごした記憶を意識的には保持していません。しかし、無意識的なレベルで残されたこれらの記憶は人々を突き動かし、彼らに何かしら行動するように促します。この分岐した時間のなかで、潜在意識に残された"未来の記憶"は人に既視感を抱かせるのです。

 「ドニー・ダーコ」でドニーの両親は、自宅のドニーの部屋に飛行機のエンジンが落下した後、生き延びたドニーが死ぬかもしれないと話していました。ドニーは命拾いをしたばかりなのに、なぜ、両親にはドニーの死の予感がしたのか。

 そして、「ドニーダーコ2」。サマンサはピンク色のセロハンでできた小さな風車を手にしていました。この風車は風に飛ばされ、車に轢かれて、ぺしゃんこにされてしまいます。それを物悲しげに見つめるサマンサ。隕石が落下する前、ジャスティンと出会ってすらいない時点でサマンサは風車を手にし、その風車に心を動かされていました。

 これらは何を意味するのでしょうか。

 知らないはずのことなのに、そこには何もないはずなのに、なぜか心をよぎる不思議な気持ち。「派生した宇宙」の記憶は完全には消えず、これから経験するはずの未来、あるいはないはずの過去の記憶がふと頭をよぎります。暗示にかけられたかのように、取ってしまう行動、そしてその結果。人はこれを「運命」と呼ぶのかもしれません。運命の裏にあるのは過去や未来の誰か、あるいは自分の選択と決定であることを知らずに。

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★新しいスタートにキスを

 田舎町をあとにしたサマンサは長距離バスの窓ガラスに口紅でハートマークを描き、その中にキスをしていました。この世の中に生きることに幻滅し、疲れ切っていたサマンサ。彼女は本当に死んでもいいと思っていたし、生きることに執着がありませんでした。他人に対して無愛想で刺のある態度だったサマンサはジャスティンの事故後、変わります。彼女は""銀色のウサギ""としてジャスティンを死へと導き、彼の死をサマンサとして目撃したことで、命のつながりを悟りました。

 サマンサ自身にはもちろん、"銀色のウサギ"としてのはっきりとした意識はありません。時間の分岐を旅した記憶がないのも、兄ドニーが死んだ時と同じです。しかし、この無意識の経験はサマンサに、人生を生きる価値を見出させました。ドニー・ダーコが死んだのは無意味ではない。サマンサの命はドニーが死ぬことで、つないだ命。サマンサは迷いながらもつないだ命を生き、兄の死の意味を知ることになったのです。

 サマンサは兄ドニー・ダーコに、そして、彼女の人生の全てに直接的に、あるいは間接的につながっていた人たちへキスを送りました。彼らの選択と決定がサマンサを支え、彼女をここまで生かし続けてきた。サマンサの命をつないだ人々へのキス、それは、彼女自身の生きてきた人生を肯定することでした。

 故郷のバージニアはどんな町かと聞かれ、「退屈な町」と答えるサマンサ。しかし、彼女の口元には笑みが浮かんでいます。本心、退屈な町だと忌み嫌っていたサマンサは既になく、今、彼女にあるのはかすかに沸いた希望。サマンサは新しい人生のスタートを切る糸口を見出していました。

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逃走迷路

映画:逃走迷路 あらすじ
※レビュー部分はネタバレあり

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 バリー・ケインは飛行機工場の労働者として働いていたが、工場で起きた火災事故の犯人と疑われ、警察から逃げることになる。バリーは手掛かりを追ううちに、火災事故の背後に大規模な破壊活動組織があることを知る。

 アルフレッド・ヒッチコック監督作品。1942年の作品。罪を犯したとあらぬ疑いをかけられ、罪を晴らすために真犯人を追いかけるストーリー。彼の道連れとなる女性パトリシア、目の不自由なパットの叔父マーチン、道中で出会ったサーカスの人々…彼らの存在は「逃走迷路」を単なるサスペンスでは終わらせない。正義とは?人間の生きるべき道とは?一人の男の逃避行を通して、社会にあるべき人間の姿を問いかける作品となっている。



【映画データ】
逃走迷路
1942年・アメリカ
監督 アルフレッド・ヒッチコック
出演 プリシラ・レイン,ロバート・カミングス,ノーマン・ロイド




映画:逃走迷路 解説とレビュー
※以下、ネタバレあり

★「逃走迷路」の時代背景、そして映画の問うもの

 バリー・ケインは飛行機工場で働く労働者でした。彼はある日、工場で起きた火災事故に巻き込まれ、友人ケン・メイソンを失います。後に、火災が破壊活動によっておこされたことが判明し、バリーは犯人として疑われてしまいました。バリーは当時、一緒に消火活動にあたったフライという男が犯人だと睨み、警察から逃亡する決意をします。

 バリーは道中、たくさんの人々に出会いました。その出会いが彼に教えたものは一体、何だったのか。

 1942年、第2次世界大戦中に製作された映画「逃走迷路」。当時は第2次世界大戦中、ヨーロッパではヒトラーが台頭し、ファシズム・全体主義の嵐が世界を席巻していました。そんな時代を背景に製作された「逃走迷路」。真の「愛国者」とは?正義とは何か?社会において、人間とはどうあるべきか?現代に続く重要な問題が問われています。

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★「国民の義務」とは?-マーチンとパットの争いから

 バリーが真っ先に出会ったのはヒッチハイクで逃げる彼を乗せてくれたトラック運転手でした。そして、行きがかりの別のドライバーは警察の注意を逸らし、バリーを逃がしてくれます。そして、目の見えない男性フィリップ・マーチンとの出会い。バリーは「バリー・メイソン」と名乗り、男性のロッジで一時の休息を取ることができました。

 バリーは手錠をしたままですが、目の不自由なマーチンにはそれが見えないはずでした。しかし、マーチンはとっくにバリーの手錠に気が付いていました。彼はバリーが警察に追われる身であることに気がついていながら、バリーを温かくもてなしていたのです。手錠に驚いた姪のパトリシアは、バリーを警察に突き出そうとしますが、マーチンは姪を制止します。

 薄汚い身なりで手錠をしたバリーをマーチンは「メイソンさんは危険な人じゃない」とかばいました。姪のパットは猛反対します。脱走犯人を探していると警察から聞いていたパットはバリーを警察に突き出すことが「国民の義務よ」と叔父に反論しました。それに対し、マーチンは「ときには法律を無視するのも義務だと私は思ってる」と返します。

 バリーの手錠を外すため、知り合いの鍛冶職人のところへ行くよう、バリーを送り出すマーチンは別れ際、バリーにこう言いました。「バリーは本名だね。メイソンは嘘だと思った」。マーチンは目が見えません。しかし、彼は心の目で真実を見極めていました。バリーの薄汚い服装やびしょぬれになってロッジにやってきた、彼の見るからに事情のありげな様子はマーチンの目を曇らせはしません。マーチンはバリーという人間そのものを見、彼をかばう判断をしたのです。

 一方のパトリシア。パットは「あなたはいかにも破壊活動家らしいわ」とバリーに言います。パットは後に破壊活動家であることが分かるチャールス・トビンのことは「いい人」だと言っていました。トビンは「スパイには見えない」。バリーはパットに「牧場とプール付きの家を持ってればそうは見えないと?」と反駁していました。

 パットが見ているのは叔父のマーチンとは対照的な部分です。彼女は警察から追われているバリーのことを犯人だと思い込んでいます。その根拠は、警察から脱走犯人がいると聞いていたこと、そして、手錠をし、薄汚い格好のバリーの様子。彼女は他人から聞いたこと、あるいはその言い分を鵜呑みにし、そして、バリーの外見を見てバリーがクロであると判断していました。

 バリーが指名手配犯である以上、バリーは犯人である。バリーの人柄を見抜く目がパットにはなかったのか。そうというよりは、「指名手配犯」という犯罪者のレッテルを目の前にして、パットは思考を停止した、という方が正しいでしょう。警察が犯人だと言っている以上、バリーは犯人である。ここでパットは考えることをやめたのです。そして、バリーの薄汚い格好。いかにも、警察に追われ、逃げている人間らしい外見です。パットは完全に思考を停止しました。バリーは犯人に間違いない。

 これに拍車をかけるのが義務感です。指名手配犯を通報するのは「国民の義務」。パットの強い義務感は彼女を拘束しました。義務である以上、従わねばならない。パットはそう考えていたのです。「国民の義務」があることは認めてもいいでしょう。しかし、その義務に絶対的に服従せねばならないのかは別問題です。「国民の義務」であると言われたが最後、それに疑問を付すことは許されないのか。

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★「国民の義務」というマジックワード

 「大衆は馬鹿だ」とチャールス・トビンは語っていました。愚かな大衆は正しい道を知らず、彼らを導くためには優秀な指導者が必要になる。そして、その指導者の命令に大衆はただ従っていればよい。全体主義において、国民は駒にすぎません。重要なのは、彼らが指導者を支持していること。国民に政治的主体性はなく、ただ、指導者を褒めたたえ、彼の言うままに行動する存在であれば良い。

 一方で、民主主義においては、個々人には社会を構成する者として主体性を発揮することが求められます。個人がそれぞれに考え、それぞれに政治的意思表明を行うのが民主主義。全体主義において、個人の意見は求められません。一方で、民主主義においては、それぞれの人間が政治的に思考することが要求される。

 全く異なるように見える全体主義と民主主義。しかし、民主主義はときに、全体主義へと変貌を遂げます。それは、個人が思考することを止めたとき、です。思考せず、そもそも政治に関心すら持たず、社会を構成する人々がただの「傍観者」となったとき、彼らは権力の前に漂流を始めます。彼らは時の権力を正当化するための、単なる数合わせの人員になり下がる。そのとき、チャールスのいう「衆愚」が顕在化するのです。彼らはもはや権力の駒でしかない。

 パットの繰り返す「国民の義務」はマジックワードです。この言葉を前にすると、人はその正当性を疑わず、思考を停止してしまう。その「義務」たるものに果たして正義があるのかどうか、疑いすら抱かず、その義務を履行しなくてはならないという義務感に駆られ、行動に移してしまう。人々の思考停止状態は権力を肥大化させます。民主主義はとたんに、全体主義へと移行する危険をはらんでいる。

 パットの叔父、マーチンは「時には法律を無視するのも義務だ」と語っていました。マーチンの語る「義務」は正義のことです。時の権力や法律によって課される「義務」のことではない。「国民の義務」が果たして、正義を実現するものなのかどうか。それを考えた上で、拒否すべきであるならば、それに従う。そして、それは「義務」に違背することにはならない。なぜなら、「義務」はあくまで社会の善を実現するためのものであり、正義に違背する義務はそもそも「国民の義務」とはいえないからです。

 マーチンは常に本質を見ていました。何が正しいのか、の判断において、彼は他からの判断の押し付けを排し、常に、自分自身の心で物事を見ていた。彼にとって、全てを免責し、正当化するマジックワードは存在しなかったのです。

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★「大衆は馬鹿」か?

 民主主義を支えるのはひとりひとりの判断であり、行動です。誰かの判断に過ちがあったとしても、他の誰かの行動がそれを修正し、全体として正しい方向へと進んでいく。「大衆は馬鹿」ではなく、社会を正しい方向へと導く社会の主体である、その考えが根底にあります。

 「ここ数日の間に、いろいろな人に会ったよ」。バリーはこの逃避行で大勢の人に助けられました。マーチンだけではなく、通りすがりのドライバーやサーカスの一団など、警察に追われる身と知りながら、彼を助けてくれた人々はたくさんいました。

 「大衆は味方だ」。物事の本質を見ようとする心、そしてそれを見極める目が人々にあるならば、やがて正義は下される。そのような人々が構成する社会では大衆は衆愚に陥らず、民主主義は順当な発展をみせるでしょう。

 民主主義社会においては全ての人々が同一の判断をすることはありません。絶対的な""正当性""などは存在しない。民主主義においての正しさは相対的です。民主主義においては多数派の意見に正当性を与えられます。いわゆる、多数決です。多くの人が同意する意見であれば、その社会においては正当性を持つという意味で多数派の意見に正当性が与えられるのです。"

 「時には法律を無視するのも義務」。民主主義においては一人ひとりの判断が権力に正当性を付与します。善き社会を実現するには、真実を見極め、判断することのできる力が必要です。そのためには"マジックワード"を使って思考を停止させてはならない。盲目的服従は真の「愛国者」のすることではありません。

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★「愛国者」とは

 「高貴で純潔でそのために損をしてる人」、とチャールスはバリーのことを評価します。「実際は愛国者なんだよ」。

 チャールスは牧場主であり、大きな家に住み、豊かな暮らしをしている男です。彼はこの破壊活動の首謀者でもありました。彼は死刑の恐れがあるとキューバに逃げる計画であることを仲間に告げます。これを聞いた部下のフリーマンらは不満げです。危険を仲間に押し付けて逃げるのですから当然の反応でしょう。

 しかし、チャールスに悪びれる様子はありません。結局、彼が欲しいのは「権力」でした。「戦争や弾圧が君らの利益なんだろ」というバリー。戦争の足音が迫る中、社会には不穏な空気が垂れこめています。情勢不安や混乱につけ込み、破壊活動により、人々の危機感を煽る。チャールスは不安にかられた人々を利用するだけです。仲間の命など、気にもしていない。チャールスが考えていたことは「この国を良くしよう」などということではなく、私利私欲、権力に対する渇望でした。

 チャールスの仲間たちのうち、本当に純粋に国のことを考え、政治的信条のために活動をしていた者はチャールスの計画を実際に実行する組織の末端の者だけだったのではないでしょうか。フライのように、危険に身をさらし、計画を実行に移す者たち以外は、現在の裕福な生活に安住し、自己の欲望のままに何不自由なく生きている。

 慈善事業で有名だったサットン夫人はその一人です。壮麗な屋敷に暮らし、豪華な宝石を身に付け、ドレスで着飾った彼女は事前パーティを開いては、金を集めている。本当にその金が全て慈善事業に回っていたのかどうか、怪しいものです。彼女が慈善事業よりも、美しい宝石やドレス、慈善事業家としての評判を保つことのほうに関心があったのは明らかでした。

 そして、それはパーティに集まってくる男女も変わらない。ドレスやタキシードを着て、社交にいそしむ人々。バリーはサットン夫人の屋敷が破壊活動組織のアジトであることを話し、助けてもらおうとしますが、招待客からはパーティに正装もしてこない酔っ払い、とばかにされ、相手にすらしてもらえません。バリーが話しかけた老夫婦は怪しい男がいると会場係に知らせてさえいました。バリーが話しかけたもう一人の若い男は「君も25ドル払ってきたの?僕は社長の代理さ」と得意げです。

 慈善事業という社会奉仕活動に興味を持って参加しているはずの客たちですが、結局、彼らがこのパーティに求めているのはステイタスです。高名なサットン夫人の慈善パーティに出席している自分、困っている人や貧しい人に恵みを分け与えているという自分の優しさに酔っている。慈善事業はただの看板に過ぎません。もっといえば、慈善パーティで集めた金の行き先にすら、興味がないのかもしれない。ただ、出席するだけで、客たちは満足できるのです。いわんや、サットン夫人が裏で何をしているのかなどは疑いもせず、それを見抜く力は誰にもありません。

 チャールスはそんな自分や周囲の人間の本音を自覚していました。自分は真の意味での「愛国者」ではない。そして、それは、彼らを取り巻く金持ち連中も同じである、と。バリーはチャールスの組織の存在を告発するために命をかけている。自己の欲望にとりつかれた者たちのなかで、バリーは異質の存在でした。

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★「いい人」である条件

 「人が困ったときに助けるのがいい人」だ、とサーカスの一員、エスメラルダは語ります。このサーカスにいるのは"骸骨人間"に"ヒゲ女"、"人間山"に"小人"、そして体の一部が結合している"双子"。いずれも、外見に特異な特徴を持つ人間ばかりでした。彼らはその外見ゆえに苦労を重ねてきた人々です。「世間にいい人が少ないってことは私たちが一番よく知ってるわ」と"ヒゲ女"ことエスメラルダは語ります。サーカスで自らの特異な身体的特徴を見世物にして生きてきた彼らは、世の人々が彼らに投げかける好奇と侮蔑の視線を嫌というほど感じてきたでしょう。

 それがゆえに、彼らは「いい人」であることがいかに難しいかをよく知っている。慈善パーティに出席し、金を寄付することが「いい人」になる条件ではありません。また、困った人に同情することがその条件でもない。バリーを匿ってくれた、目が見えないフィリップ・マーチンはそのハンディゆえに同情されることを嫌っていました。ピアノはいい、「目が不自由でも下手な同情はしないし、信頼してくれる」、そう語っていました。

 「助ける」という行動に出ることがいかに難しいか。特に、その「困った人」が指名手配犯である場合には。エスメラルダはパトリシアがバリーに寄り添っているのを見て、バリーが「いい人」であると感じ取りました。そして、そのためにバリーを助ける決断をした。また、「信頼される」ということも難しい。往々にして、その人に何らかの問題が生じている場合、人はその人が信頼に値する人間であると評価することを躊躇します。

 目が見えないというマーチンのハンディ、そして、指名手配犯というレッテルを貼られたバリー。それらの外面的な事象を捨象した生身の人間を評価できるか。それが「いい人」になる条件なのです。

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★人間はどう生きるべきか

 この社会において、人間はどう生きるべきか。それは常に物事の本質を見ようとする心を忘れないことです。人間には外見というものがあり、世間の評判、あるいは社会的に貼られたレッテルというものがある。それらに惑わされてしまえば、その中身を見ることはできません。「いい人」であろうとすることは、すなわち、「愛国者」であることにもつながる。

 愛国者が求めるべき正義は目に見える形では現れません。法律が正義ではないし、誰かに教えてもらえるものでもない。仮に、民主主義が正義を実現する最善の方法だとしても、その内部では様々な議論があります。

 社会全体の善を最大化することを追求すれば、全体の利益のために個人は犠牲にされる可能性があります。一方で、個々人には侵害されるべきでない一定の権利があり、それを捨象することはできないと考えることもできる。そう考えるとしても、その踏み越えてはならない一定のラインはどこで引かれるのか。

 何が正義か。この難解な問いに対する答えは社会において人間がどう生きるべきかを示すでしょう。正義の意義を追求することは、社会に生きる人間にとって、永遠に課せられた課題なのです。

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