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マイノリティ・リポート

映画:マイノリティ・リポート あらすじ
※レビュー部分はネタバレあり

 トム・クルーズ主演、スピルバーグ監督によるSFサスペンス「マイノリティ・リポート」。

 舞台は殺人予知が可能になった未来。しかし、"殺人のない社会"の影には深い闇が潜んでいた。

 そのカギを握るのは"マイノリティ・リポート"と呼ばれる報告書。
 明かされないはずだった秘密が白日の下にさらされたとき、犯罪予知システムの真実が明らかになる。

 『解説とレビュー』ではストーリーの解説、マイノリティリポートの2つのメッセージについて書いていきます。

マイノリティ・リポートマイノリティ・リポート  マイノリティ・リポート


 2054年、ワシントンDC。

 犯罪を予知できるシステムのおかげで、今の世界には殺人事件が存在しない。近未来の犯行を事前に予知し、殺人を犯すと予知された人間を逮捕・即収監してしまうのが犯罪捜査となっていたのだ。

 ジョン・アンダートン(トム・クルーズ)は犯罪予防局・予知犯罪取締り部門のチーフだった。

 予知された殺人事件の加害者の名前と被害者の名前は木のボールに刻まれて、設置された器械から出てくることになっている。その名前と、被害者が殺害される場面を予知した部分的なイメージ映像を元に居場所を割り出し、そこに急行するのがジョンの仕事だ。

 しかし、ある日、予知されたのは自分の名前。

 ジョンが、殺人事件の加害者として、未来に人を殺すことが予知されてしまったのだ。ジョンの立場は一転、追う方から追われる者へ。

 なぜ、自分の名前が予知されたのか。

 ジョンは殺人が起きるとされた時刻までに真相にたどり着くことを決意する。しかし、それはジョンの知るはずのなかった犯罪予知システムの暗い事実まで暴くこととなるのだった。



【映画データ】
マイノリティ・リポート
2002年・アメリカ
監督 スティーブン・スピルバーグ
出演 トム・ハンクス,リン・ファレル,サマンサ・モートン,マックス・フォン・シドー



マイノリティ・リポート


映画:マイノリティ・リポート 解説とレビュー
※以下、ネタバレあり

★犯罪予防システムの仕組み

 犯罪予知システムは機械ではありません。

 プリコグと呼ばれる3人の予知能力を持つ人間の予知夢を総合して、殺人の被害者と加害者の氏名が特定されます。

 つまり、彼らの見る予知夢はそれらをモニターする技師により統合・再構成され、一つの犯罪情報になります。そして、そこから加害者と被害者の氏名を割り出し、特定された被害者と加害者の氏名は木製のボールに刻印されて出てくる、という仕組み。

 犯罪予防局・予知犯罪取締り部門では氏名と予知された犯行状況から、殺人の起きる現場を割り出して事前に犯人を逮捕します。

 なお、裁判はなしで、即収容所行き。しかも、半永久的に収監されるうえ、収監中はカプセルに入れられ、仮眠状態になって意識は失われます。

マイノリティ・リポート


★ストーリーと結末

 ジョンは逃げることになるわけですが、なぜ、自分の名前が出たのかを知るために、まず、システム開発者の女性に話を聞きに行きました。

 開発者のアイリス・ハイネマン博士は園芸家でもあります。しかし、普通の植物を育てるわけではありません。遺伝子操作をした植物を育てることが研究の対象なのです。

 ハイネマン博士はジョンに"マイノリティ・リポート"の存在を告げ、その"マイノリティ・リポート"はプリコグの女性の頭の中にあるといいます。

 「マイノリティ・リポート」とは何でしょうか。システムの構造を思い返してください。

 犯罪予知システムのもたらす犯罪情報は3人のプリコグの予知夢を総合しています。そこでは、3人の予知夢は一致することが原則ですが、まれに、3人の予知夢が一致しないことがあります。

 すると、一致しない予知夢のうち、少数派の予知夢はマイノリティ・リポート(少数意見)として却下され、残り2者の予知夢から犯罪情報が構成されて、予知犯罪取締り部門に送られます。

 そして、マイノリティ・リポートを出したと思われるプリコグは"アガサ"の可能性が高い、とハイネマン博士はジョンに告げました。ジョンはアガサを犯罪予防局から連れ出し、アガサの脳にハッキングして彼女からマイノリティ・リポートを取り出そうとします。

 ところが、出て来たのはやはり、ジョンが人を殺すという未来。

マイノリティリポート


 ジョンは、自分が殺すとされる被害者の住所を訪れることにします。その男はなんと、ジョンの一人息子を殺した犯人の可能性が高いことが判明。

 ジョンは男の部屋にあった息子の写真を手掛かりにその男を問い詰め、激昂して銃の引き金に手をかけるものの、最後で踏みとどまり、銃を降ろしました。

 さらに、殺そうとしたその男は最終的には犯人でないことが分かります。彼は家族に金が支払われるのと引換えにジョンに殺されることを引き受けたのだ、とジョンに告白したのでした。

 「殺してほしい」と頼む男ともみ合いになったジョン。結局銃が暴発して男は死に、誰が買収者かをつかむ大事な手掛かりを失ってしまいます。

 ジョンはアガサとともに、息子を失って以来、別居していた妻ララの元を訪れました。

 ララは犯罪予防局局長のラマー・バージェスが助けてくれると思い、彼に連絡します。しかし、犯罪予防局がララの家を急襲し、ジョンは逮捕されてしまいました。

 システム導入当時におきたアン・ライブリー殺人未遂事件。

 アンの娘がプリコグになったアガサです。アンはドラッグ依存症で娘アガサを手放したのでした。

 母の死を巡って、アガサは夢を見ることがあり、それをジョンに"Can you see?"(あれが分かる?)と何度も訴えてもいました。

 ジョンは以前にアン・ライブリーの殺人者としてカプセルに収監されている男の元に行き、逮捕時の予知夢の状況を調査していました。
 しかし、出てきたのはアガサ以外の2人のプリコグの予知夢だけ。

マイノリティ・リポート


 アガサの分のデータは欠落していました。
 さらに、被害者アン・ライブリーの情報もありませんでした。

 情報は消されていました。しかし、情報は消されても、その情報元であるアガサの記憶は消せません。

 アガサはついにアン・ライブリーの記憶をモニターに映し出すことに成功します。その情報はモニター技師からすぐに予知犯罪取締り部門のかつてのジョンの部下に伝達されました。

 ジョンは収監先から妻のララに助け出され、ララを通じて犯罪予防局のかつての部下に電話をかけます。そして、部下から転送させたアガサの記憶をパーティー会場に転送させ、真実を暴きました。

 アガサの記憶には犯罪予防局局長ラマーがアンを溺死させる場面が映っていました。
 そう、アン・ライブリーはラマー・バージェスに殺されていたのです。

 犯罪を暴かれたラマーはジョンに対する殺意を募らせました。すると、予知犯罪取締り部門にはラマ―・バージェスを加害者、ジョン・アンダートンを被害者とする木のボールが出てきます。

 プリコグはジョンがラマーに間もなく殺されると予知したのです。

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 ジョンとラマーの対決。
 ジョンはラマーに自分を殺して見ろ、と迫ります。

 ラマーはシステムの正確性を世に宣伝してきたはず。ここでラマーがジョンを殺さないと、「ラマーが殺人を犯す」という予知は間違っていたことになり、犯罪予知システムに対する信頼性は崩れるぞ、とジョンはラマーを脅しました。

 一方で、ジョンはこうもいいます。ジョンが殺人を予知されても、思いとどまって殺さなかったように、自分の意思で未来は変えられる、と。

 果たして、ラマー・バージェスは自殺の道を選びました。

 その後、犯罪予知システムは廃止されました。、ジョンはララと再び、共に暮らすことになります。ララは妊娠していました。

 一人息子を失って以来、疎遠になっていた2人ですが、生まれてくる子供と再び、新しい生活を築くことになりました。

 そして、アガサをはじめとした3人のプリコグたちはシステムから解放され、湖畔で平穏な生活を送っています。

マイノリティ・リポート


★犯罪予防局長ラマー・バージェスはなぜ、アンを殺したのか

 ラマーはなぜ、アンを殺したのでしょうか?
 そこには、密接に関連する2つの理由があります。

 理由1: 犯罪予知システムを維持するため

 ドラッグ依存症から立ち直ったアンはアガサと一緒に暮らしたいと思うようになります。

 そこでアンは、ラマーに娘アガサを自分の元に返すように求めます。

 しかし、アガサは犯罪予知システムの命綱でした。
 プリコグのなかでも、最も優秀なアガサはどうしても犯罪予知システムに必要な存在だったのです。

 アガサを外せば、犯罪予防システムの機能がダウンする恐れがある。
 そこで、ラマーはアンを殺すという決断をします。
 
マイノリティ・リポート


 理由2: 犯罪予防局長の地位を維持するため

 アンがアガサを返すように要求してきたころ、議会では、犯罪予知システムの信頼性は揺るがないことを前提に、犯罪予防法の可決の是非が争われているところでした。

 このシステムを現在管轄するのは犯罪予防局。つまり、システムはラマーの管轄下にあり、ラマーが取り仕切っていました。

 ですが、この犯罪予知システムを巡っては司法省が自らの管轄下に置くことを熱望しており、司法省と犯罪予防局で熾烈な権力闘争が行われていたのです。

 最近、特に、司法省との駆け引きは激化しており、司法省の役人であるダニー・ウィットワーが足しげく犯罪予知システムの視察にやってきていました。

 司法省が犯罪予防局を攻める武器になるのは「人権問題」です。

 犯人を犯罪行為に及ぶ前、犯罪の結果が発生する前に犯罪者として逮捕する今の犯罪予知システムには、人権面で大きな問題要素をはらんでいるからです。

 仮に、システムの欠陥が見つかれば、無実の人を犯してもいない犯罪で収監している可能性が出てきます。

 そうなれば大問題になり、犯罪予防局には監督官庁が必要だということになるでしょう。そうしたら、司法省は犯罪予防局を下部組織としてその傘下に組み込むことができます。

マイノリティ・リポート


 ラマーの率いる犯罪予防局は、独立した捜査権限を失うどころか、犯罪予防局自体が廃止されるかもしれません。

 局長として捜査権限を一手に握り、絶大な権力と名声を得ていたラマー・バージェスは司法省の介入を疎ましく思っていました。

 何より、ラマー・バージェスは犯罪予知システムの欠陥の「恐れ」どころか、犯罪防止システムには欠陥が「ある」ことを知っていました。
 
 その客観的な証拠が"マイノリティ・リポート"の存在。

 マイノリティ・リポートがあるということは3人のプリコグの予知夢が一致しないことを示し、すなわち、犯罪の予知が100%の正確性を保てないことを明らかにしてしまいます。

 だから彼はマイノリティ・リポートを犯罪記録から削除していました。アン・ライブリーの記録にアガサのマイノリティ・リポートがなかったのはそのためです。

 もちろん、アンの事件のマイノリティ・リポートを隠滅した一番の理由は、そのマイノリティ・リポートにラマーがアンを殺す場面が映っているからということもあったのですが。

マイノリティ・リポート


 まとめ

 ハッカーの男が経営するバーチャル・エンターテイメントを提供している遊び場に犯罪予防局が踏み込んだとき、客の一人の男が正装した人々に取り囲まれて、彼らから称賛を浴びる、というエンターテイメントプログラムを楽しんでいました。

 これはラマー・バージェスの犯行動機である虚栄心を暗示するもの。

 そして、ラスト、パーティー会場でラマーの殺人が暴かれるとき。

 ラマーは彼の功績を賞賛する客たちに取り囲まれて得意の絶頂にいるところでした。遊び場にいた客の男の状況と全く同じ。
 やはり、意識して遊び場のカットを入れられているのでしょう。

 ラマーがアンを殺したのはアガサをシステム内に留め置き、犯罪予知システムを維持するため。
 殺人まで犯して、犯罪予知システムを維持するのは自らの地位を保ち、名誉欲と権力欲を満たすためででした。

マイノリティ・リポート


★なぜ、ラマーの殺人が犯罪予知システムに予知されなかったのか?

 アン・ライブリーは犯罪予知システムの初期に"被害者"として救われた人物です。それなのに、ラマーに殺されていました。

 なぜ、犯罪予知システムはラマーの殺人を見抜けなかったのでしょうか。そのからくりを説明しましょう。

 アンに殺意を抱いたラマーはまず、ホームレスに殺人を依頼し、湖の湖畔で彼女を襲わせます。そこに犯罪を予知した犯罪予防局の捜査官たちが現れてアン・ライブリーを助けます。

 アン・ライブリーはホームレスの襲撃者からは逃れましたが、助けに来た捜査官の中にラマー・バージェスがいました。
 ホームレスと同じ服装をした彼はアンを湖に沈めて溺死させます。

 さて、プリコグたちは犯罪を予知しますが、その際に、何度も殺人事件の経過を反復して経験します。

 プリコグたちの予知夢はモニター技師によって重複部分を削除されて一つの情報として犯罪予防局に伝達されていました。

 アンの事件に関して、プリコグたちはホームレスによる殺人及び、ホームレスの格好をしたラマーによる殺人の2つのイメージを見ていました。

 しかし、2件とも被害者がアンという同一人であり、殺害場所も湖畔で同じ。しかも、ホームレスの男とラマーはまったく同じ服装だったため、殺人者が2人いるとは思われず、モニター技師は同一人によるアン殺害事件と認識してしまいました。

 技師は"重複する"と考えた予知夢部分を削除して、犯罪予防局に情報を伝達します。

 結果、ホームレスの男1人によるアンの殺人が予知されるのみ、となったのです。ここで、削除がされていなければ、ラマーの名前も加害者として木のボールに刻印されていたでしょう。

マイノリティ・リポート


★ジョンの"マイノリティ・リポート"は隠滅されたのか

 ジョン・アンダートンは自らが殺人を犯すことを予知されていました。

 この予知はウソだったのでしょうか。
 それとも、マイノリティ・リポートは存在していたけれども、隠滅されてしまったのでしょうか。

 結論から言うと、ジョンは本当に殺人を犯す予定でした。息子を殺されたことを動機とする衝動殺人です。

 ジョンの未来に関してはマイノリティ・リポートは存在しなかったのです。ジョンの殺人はプリコグの3人一致の予知夢でした。

 ジョンはラマーに殺人を犯すように、仕組まれていたことは事実です。

 ラマーはジョンの息子の誘拐犯を仕立て上げ、ジョンがその男が誘拐犯だと思い込むように男の部屋に息子の写真をばらまき、ジョンがその男を殺してしまいかねない状態においた。

 しかし、ラマーはあくまで、ジョンが殺人を犯してもおかしくない、という状況を作り上げただけです。ジョンのマイノリティ・リポートを隠滅したりはしていません。

マイノリティ・リポート


 それはアガサの脳に直接ハッキングしても、ジョンが殺人を犯すという予知夢しか出てこなかったことからも明らかです。

 仮にアガサがマイノリティ・リポートを出しているなら、出されたマイノリティ・リポートはいわばアガサの脳内イメージの写しです。その写しはラマーに廃棄される可能性はあるでしょう。

 しかし、彼女の脳にはいわばマイノリティ・リポートの原本が残っています。これを消去することはできません。
 アガサの脳にハッキングしてもマイノリティ・リポートが出てこないということは、最初からそれがなかったということです。

 さらに、アガサは必死に被害者の元に向かうジョンを止めようとしました。アガサがマイノリティ・リポートを出しているなら、ジョンが殺人を犯してしまうから止めなくてはならない、とは思わなかったでしょう。

 彼女も、ジョンが殺人を犯す予知夢を見ていたからこそ、全力でジョンを止めようとしたのです。

 従って、ジョンが殺人を思いとどまったのは自分の意思の力です。決して、マイノリティ・リポートの予知夢通り、というわけではありません。

 結末でもジョンはラマーに、「自分の意思の力で未来は変えることもできる」、と語っています。
 これはジョン自身が殺人を思いとどまり、自分の未来を変えたから。

 "未来は変えられる"、これは映画「マイノリティ・リポート」のメッセージでもあります。

マイノリティ・リポート


★「マイノリティ・リポート」のもう1つのメッセージ

 "未来は変えられる"、いい言葉ですが、これだけではありません。「マイノリティ・リポート」の提起するのは犯罪予防という考え方の是非。

 現代において犯罪を処罰するには、原則として「結果の発生」が必要条件です。結果の発生がなければ、原則としては処罰の対象にはなりません。

 殺人未遂や強盗未遂などの未遂犯は結果発生の危険を生じさせたという点を処罰するので、あくまで例外的な処罰のかたちなのです。

 そう考えると、付きまとい行為、いわゆるストーカーの処罰が難しいこともよく分かります。

 ストーカーが特定の人をつけ回し、待ち伏せをするなど、その人が「殺されるかもしれない」と恐怖感を抱いたとしても、実際には何も結果が起きていません。

 つけ回し・待ち伏せ行為は「結果の発生」がなく、刑法上の犯罪には当たらないので、処罰できないのです。
(そこでストーカー規制法による処罰規定がもうけられました。逆にいえば、「結果の発生」のない行為は特別に法律がないと処罰できない、例外的な犯罪類型ということです。)

 要するに、犯罪処罰には結果発生がなくてはならない、それが現在の処罰原則です。

 これを大幅に改変するのがマイノリティ・リポートの世界。

 この未来においては殺人は計画しただけで処罰されます。しかも、殺人未遂ではなく殺人罪で処罰されるのです。

マイノリティ・リポート


★マイノリティ・リポートの世界の思考方法

マイノリティ・リポート


 「1, 人を殺す意思決定」→「2, 殺人実行」→「3, 殺人の結果発生」のうち、2,3,の行為を罰するのが現在の法制度。(1,の段階の処罰は相当限定される)
 マイノリティ・リポートの世界では例外なく「1, 人を殺す意思決定」の段階で処罰されます。

 人を殺そうと決めてから殺人に至るまで(1→2の間)をさらに分析的に見てみましょう。

マイノリティ・リポート


 「1, 殺人の動機となる何かが起きる」→「2, 殺意を抱く」→「3, 凶器を準備する」→「4, 殺人を実行する」、この流れです。

 現行の犯罪処罰では「1, 殺人の動機となる何かが起きる」→「2, 殺意を抱く」の段階での処罰はほぼありえません。

 「3, 凶器を準備する」の段階に至ればどうにかグレーゾーンです。3,の段階でも凶器の準備だけでは殺人未遂すら成立しません。せいぜい、殺人予備罪になるかならないか程度です。

 マイノリティ・リポートの世界では殺人が起きる前の段階から殺人予知をすることができます。つまり、「1, 殺人の動機となる何かが起きる」の段階で処罰してしまうことができます。

マイノリティ・リポート


 これをどう思われますか?

  殺人が起きていないとしても、近い将来確実に人を殺すような奴ならば、収容所に入れられてしまっても構わない、と考えることも十分に可能です。

 ジョンのことを思い出してみてください。

 彼はとても殺人を犯すような人間ではありませんし、本人も殺人をしようなどとは考えていません。

 しかし、現実に殺人を犯すという未来が予知されていて、実際にもジョンは人を殺しかけました。
 彼は土壇場で思いとどまりましたが、人間全員が彼のように思いとどまれるとはとても思えません。

 ならば、本人に殺人をする意思がたった今はないとしても、将来の殺人が予知された時点で殺人犯として捕まえないと、人間の命が危険にさらされることになるでしょう。

 本人に殺人をする意思が芽生えているのならば、なおさら危険が高まります。

 殺人をする自由があるとは思えません。
 また、殺人が起きてしまった場合、被害者の遺族や、何より殺された本人に対しては言葉もありません。

 それでも、現代社会において、殺意を心に抱くだけでは絶対に処罰されません。その限りでは、自由ということです。

マイノリティ・リポート


 なぜ、自由とされているのでしょうか。
 それは、犯罪として罰を与える対象を出来るだけせまくし絞るため。

 処罰するということは、その人の人生を奪うことになるため、結果が生じない段階での処罰には慎重でいましょうということになっているのです。

 それよりも、もっとも重要なことは人間は「変化する」、ということです。

 仮に、人間の意思や未来が固定されているなら、間違いなく、殺人の意思を持った段階でさっさと拘束しておくことが一番、世のため、人のためになります。

 現在、殺意を持つのみでは処罰対象にならないのは人間の可変の可能性に期待をかけているものであると考えることができるのです。

 マイノリティ・リポートの世界ではこの人間の可変可能性が全く無視されています。"人間は変わらないもの"、ということが前提になって結論が導かれています。

 そして、人間の意思が変わらないとするならば、人間は想定通りに行動するので、導かれる結果も変動することはありません。

 発生する「殺人という結果」が固定されるならば、殺意の発生を待つ必要はなくなります。それ以前に犯人を確保してしまうことが、より合理的ですし、被害者保護になるでしょう。

 こういう論理構造をたどって、殺人なんて考えてもいない時点での逮捕も可能になったのがマイノリティ・リポートの世界です。

マイノリティ・リポート


★マイノリティ・リポートから犯罪予防を考える

 犯罪結果の発生を前提にして、人の意思を推定し、その自由を拘束する。「マイノリティ・リポート」の犯罪予知の論理構造は、現在の犯罪予防の考え方と同じです。

 犯罪予防の見地から処罰をする場合、処罰対象は犯罪結果発生の「危険性」です。発生した具体的な「結果」ではありません。

 となると、危険性の有無や危険性の程度が処罰対象になる程度に高まっているか、価値判断を迫られることになります。

 あまりにも早い処罰は確かにその人の自由を著しく拘束することは事実ですが、それで犯罪の発生が防げるならば、必要な犠牲であるのかもしれません。

 この見解を押し進めれば、マイノリティ・リポートのように最速の段階での処罰が可能になります。

 しかし、「危険性」という概念は曖昧です。

 どの時点で処罰するべきなのか。どういう行為を犯罪として処罰すべきなのか。

 犯罪を予防するために処罰する、ということは結果発生が起きる前に処罰する、ということであるのを忘れてはなりません。

 犯罪予防と言う見地から考えたとき、犯罪と犯罪ではない行為の境界線は実に曖昧になってくるのです。犯罪防止を考えるにあたって、どうしても抜けられないジレンマがマイノリティ・リポートには描かれています。

マイノリティ・リポート


★放棄された"殺人ゼロ"の社会

 先に挙げた、ストーカーの問題。

 ストーカー行為がエスカレートした結果、凄惨な殺人事件が何件も起き、それを防げなかった警察に非難が集中しました。「何もしてくれなかった」、「被害者から被害相談を受けていたのに」、と。

 殺人が起きるまで警察が対処できなかった裏には一体何があるのかについて冷静な検討が必要です。

 現在の法制度の元において、犯罪と犯罪ではない行為のグレーゾーンがあるということ、そして、犯罪予防に名を借りたそのグレーゾーンの安易な拡大の裏で失う危険のあるものについて、十分に比較し、冷静な検討の元に犯罪予防の仕組みを考えていかなくてはなりません。

 「マイノリティ・リポート」でも再三繰り返されていましたが、どんなに優秀な犯罪予知システムだったとしても管理・運用するのは人間です。

 ミスや改ざんが加わって、システムの運用を阻害することがないとは言えないでしょう。

 現に"マイノリティ・リポート"は局長によって廃棄されていただけではありません。
 開発者のアイリス・ハイネマン博士らによっても、犯罪予知システムの完全性を宣伝するため、"マイノリティ・リポート"の存在は機密情報として秘匿されていました。

マイノリティ・リポート


 絶対的に正しい犯罪予防対策というのはありません。

 現段階でベストの犯罪予防法制度を作り上げたとしても、その法制度の運用に当たるのは人間です。

 社会の一員として、犯罪予防としての、新しい犯罪類型の創設と運用について、その暗部にも目を向ける必要があります。

 マイノリティ・リポートの未来社会では、犯罪予知システムを廃止しました。すなわち、"殺人ゼロの社会"を放棄したのです。

 犯罪が起きるリスクと、結果的に殺人を思いとどまった者や、誤った予知がされた潔白な者を逮捕・収監してしまう可能性のリスクを秤にかけた結果、彼らは犯罪が発生したとしても、潔白の者を犯罪者にはしないという選択をしました。

 犯罪予防のため、結果の発生前に逮捕ができるという法律を作るということは、重大な結果の発生が減少するというメリットばかりではありません。

 犯罪の危険に怯えなくてもいいという犯罪からの自由が、逆に不自由を生む危険のあること、"早すぎる逮捕"を招く可能性のあること。

 それを、マイノリティ・リポートの犯罪予知システムは示唆しているのです。

マイノリティ・リポート
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マシニスト

映画:マシニスト あらすじ
※レビュー部分はネタバレあり

マシニスト


 クリスチャン・ベールのガリガリっぷりに驚嘆する映画であり、1人の男の追い詰められた末の深い孤独と罪悪感を視覚化した異端のサスペンスでもある。

 人に起きた感情の変化はここまで外見を変え、人を追い詰め、精神構造を危ういものへと変化させるものなのだということに気が付く。
 『解説とレビュー』では彼に起きた変化を検証し、その心理を探る。

マシニスト


 1人のひどく痩せた男が部屋の中で死体をカーペットに巻き込んでいる。彼はそれを車で海岸まで運び、トランクから抱き上げた。

 カーペットからは死体とおぼしき足が飛び出したままだ。彼がそれを海に投げ込んだとき、死体に巻き付けられたカーペットがくるくるとほどけ、あわや死体が見えるかと思ったとき、後ろから声がかかった。

 「君は誰だ?」

 はっとして振り返る男。彼の顔に懐中電灯の眩しい光がかざされた。

 薄暗い部屋。さっきの男が手を洗っているのが見える。
 どうやら海から帰ってきたところのようだ。粉洗剤を大量にふりかけ、手を洗っている。机には懐中電灯が置いてある。

 目の前の鏡にふと彼が目をやると、後ろの壁に"君は誰だ?"と書かれたメモが張ってあることに気が付くのだった。

マシニスト




【映画データ】
マシニスト
2004年(日本公開2005年)・スペイン,アメリカ
監督 ブラッド・アンダーソン
出演 クリスチャン・ベール,ジェニファー・ジェイソン・リー,アイタナ・サンチェス=ギヨン,ジョン・シャリアン,マイケル・アイアンサイド



マシニスト


映画:マシニスト 解説とレビュー
※以下、ネタバレあり

★ある男の一日

 この男の名前はトレバー・レズニック。奇妙なのはそのやせ細った骸骨と皮だけのような外見だけではありません。彼の生活習慣も不思議な習慣に支配されていました。

 トレバーには行きつけの娼婦スティービーがいました。彼女は「それ以上痩せたら死ぬわ」とトレバーを心配しています。

 翌朝、トレバーは仕事場へ。彼は工場で部品加工の仕事をしています。大型工作機械で、部品を作る仕事です。

 ロッカールームでは仕事仲間に「ポーカーをやろう」と誘われるものの、トレバーは予定があると言って断りました。そして、向かうのは空港にあるカフェ。

 マリアというウェイトレスがその時間に働いていて、彼女はトレバーのお気に入り。トレバーは、彼女にも「それ以上痩せたら死ぬわ」と言われます。そして、深夜の1時30分を過ぎると、彼はコーヒーだけを飲み、出されたケーキは食べずに帰っていくのでした。

 家に帰ったトレバーはソファに座ってドストエフスキーの「白痴」を読みながら、うとうとしはじめますが、はっと目をさまします。そして、彼はバスルームへ。

 歯ブラシを取り、床のタイルの目をブラシで磨きはじめ、ふたたび朝を迎えるのでした。

 これはトレバー・レズニックのある日の行動。
 彼の一日の中で決定的なのは寝ない、食べないということ。彼によると1年近く寝ておらず、物もほとんど食べない。

 仕事場から毎日空港のカフェに行き、深夜1時30分までそこに座る。コーヒーを飲んで帰宅すると読書をし、朝まで掃除などをして過ごす。もしくは、娼婦スティービーの家に行く。そしてまた仕事場へ。この繰り返しが彼の日課でした。

 彼の、規則的で、少々奇妙な生活にある日変化が訪れます。
 工場での作業中、休憩時間に車のシガレットライターでタバコに点火し、車内でふかしていたところ、隣の車の中からアイバンという溶接工が話しかけてきたのです。
 彼はレイノルズの代わりに働いているとトレバーに話をしていました。

 翌日、工場でミラーという同僚に作業の補助を頼まれたトレバーは仕切りガラスの向こう側にアイバンを見つけ、しばらくぼーっと彼を眺めていました。
 するとアイバンがそれに気が付き、トレバーに首を切るしぐさをして見せたのです。

 その瞬間ミラーの叫び声が。トレバーは間違って工作機械の電源を入れてしまったのでした。
 機械の故障を修理していたミラーは手を挟まれ、手を機械にとられて切断されてしまいました。

 トレバーがその日帰宅すると、"洗剤を買う"と書いて貼り付けた冷蔵庫のメモが張り替えられていることに気が付きました。まったく違う内容になっているのです。彼はいぶかしみながらも、それをゴミ箱に捨てました。

マシニスト


★ひき逃げ事故前のトレバーはどういう男だったのか?

 ガリガリに痩せ、奇妙な生活習慣を持つトレバー。彼は1年前に起こしたひき逃げ事故によって人生を変えてしまいました。その事故以来眠れない、食べられない彼は次第に幻想を見るようになります。

 1年前、事故を起こす前のトレバーは派手な格好を好み、赤い車を乗り回す、社交的で明るい性格の男でした。少々傍若無人の振る舞いもあったものの、仕事仲間からは付き合いのいいやつとして好かれる男だったようです。

 その日も彼は町を車で流していました。いつものようにサングラスをかけ、先のとがったデザインの蛇革の入った洒落た靴をはいて愛車を走らせています。フロントミラーには"ROUTE 66"のキーホルダーが揺れていました。

 スピードを上げて運転していた彼は、タバコを吸おうと思い、シガレットライターに手を伸ばしました。その一瞬、彼が目をそらした間、車は空港近くの交差点にさしかかっていたのです。

 時刻は午後1時30分。火を付けたトレバーは1人の男の子が横断歩道を渡っていることに気が付きました。

 しかし、そのときにはもう遅かったのです。彼は男の子をはねてしまいました。急停車するトレバー。彼はウィンドウを開け、後ろを振り返ると母親らしき女性が男の子の名前を呼びながら倒れた男の子に駆け寄っていきました。

 このひき逃げ事故と、事故後の生活習慣、そしてその中で起きた数々の事件には密接な関連がありました。まずは、空港のカフェのウェイトレスのマリア、その息子のニコラスとトレバーの3人で遊園地へ出かけたときの事件を見てみましょう。

マシニスト


★ルート666

 ニコラスがトレバーと2人で「ルート666」というアトラクションに乗ったこと自体が、トレバーのひき逃げ事故の象徴です。

 "666"とはヨハネの黙示録第13章に出てくる、有名な悪魔の数字ですから、「ルート666」とは「地獄への道」というような意味。

 また、トレバーは事故前から車のフロントミラーに"ROUTE 66"というキーホルダーをぶら下げていたので、このイメージからも「ルート666」というアトラクションの名前が出てきたのでしょう。

 そして、アトラクションの内容もひき逃げ事故やその後のトレバーの生活を示唆するものばかりです。

 例えば、アトラクションでは"有罪"という板を打ち付けられた首つり死体や墓に花を供えて泣く女が出てきます。そしてモーテルではセックスをしている男女の影が映り、保安官事務所のそばを過ぎ、交通事故と思われる大破した車と生々しい血だらけの死体が出てきます。

 "有罪"の板を打ち付けられた死体は男の子をはねたひき逃げ犯のトレバー。墓に花を供えて嘆く女は、男の子をひき逃げされた母親の悲しみ。モーテルでセックスを繰り返す男女は、娼婦の家に通い詰めて一時の快楽に逃げているトレバーの生活。

 そして、自首しなければならないという思いが保安官事務所に象徴され、交通事故の場面はそのまま、トレバーのひき逃げ現場を表しています。

 この不気味なアトラクションで、とりわけリアリティのある再現をされているのが、交通事故の場面の血だらけの死体。他は一見して造り物や人形と分かるのに、この死体だけが妙に生々しい。

 これは、トレバーが特に男の子の死に罪悪感を感じていることの現れであり、全てがこのひき逃げ事故から始まっていることを示してもいるのです。

マシニスト


 そして、決定的なのはアトラクションの終盤で2股に別れる道。

 ニコラスは「地獄へ」と書かれた方の道を進んでいきます。そして、白目をむき、泡を吹いて倒れるニコラス。これはひき逃げ事故でニコラスが死んだことのメタファーです。

 トレバーは慌ててアトラクションの外にニコラスを連れ出し、地面に直接寝かせます。この地面に直接横たわるニコラスはひき逃げされて倒れた男の子の死体。そして、倒れたニコラスに走り寄るマリアは、事故現場で駆け寄ってきたあの母親らしき女性。

 しかし、交通事故でひき逃げされた男の子とは違い、ニコラスはマリアの手なれた処置で息を吹き返します。

 これはトレバーの願望。

 あのひき逃げしてしまった男の子が実は、トレバーのせいではなくて、持病で倒れたのなら、男の子に駆け寄ってきた母親があの子の命を救ったかもしれない。そんなはかない願望が現われたトレバーの哀しい妄想でした。

 その他にも、ひき逃げ事故がトレバーに影響を与えていたことはたくさんあります。

 まず、トレバーがタバコに火をつけようとしたばかりに男の子に気が付くのが遅くなったという事実。

 つまり、車のシガレットライターはトレバーの罪悪感を引き起こす象徴的存在です。それを使おうとしたときにアイバンが現われたのは偶然ではありません。車のシガレットケースを使おうとしたときにトレバーが無意識に事故を思い出し、その瞬間にアイバンが出現したのでしょう。

 また、「1:30」という時間を見るたびにトレバーは夢から覚め、家に帰ってきます。空港のカフェでも1時30分を過ぎればカフェを出ますし、遊園地の帰りにマリアの家によっても、台所で1時30分を過ぎると家に戻ってきました。

 彼にとって、1時30分とは事故を起こした時間。

 その時間を見るとトレバーは罪悪感が募り、実在しないマリアというウェイトレスと話しているという妄想から覚め、マリアの家に行ったという妄想から覚め、トレバーは現実へと引き戻されるのです。

マシニスト


★何が妄想で何が現実か?

 トレバーはひき逃げ事故以来現実と妄想を行き来する生活をしています。
 では何が妄想で何が現実なのでしょうか。

 トレバーが働いていた工場、そして、ミラーの事故は現実です。

 同僚たちは前は付き合いが良かったと言っていますし、上司もトレバーの激やせぶりをみてアルコールもしくはドラッグ依存を疑っていますから、工場の人たちはやせ細る以前のトレバーを知っているのです。

 つまり、ひき逃げ事故以前からトレバーはこの工場で働いていたのでしょう。

 そして、ひき逃げ事故以前に仲が良かったのはレイノルズという大柄な男。彼とトレバーは釣り仲間で、一緒に釣りに行って大物が取れたときに写真を撮ったこともありました。

 2人で最後にとった写真はアイバンの財布からトレバーが取った写真。このときに釣った魚はトレバーが持ち帰ったようです。

 ラスト近く、冷凍庫から転がり落ちたのはこの魚の腐った頭部。トレバーは1年近く魚の頭を冷凍庫に放りっこみぱなしだったのでしょう。

 レイノルズとトレバーが仲が良かったことがうかがわれるのは写真だけではありません。

 ミラーの腕を切断し、その後も情緒不安定なトレバーに「皆、お前と一緒に働きたくないって思ってるんだ」と同僚に言い渡されたとき、皆、怒りの視線をトレバーにぶつけていますが、レイノルズだけは目を伏せています。

 レイノルズはかつて仲の良かったトレバーに面と向かって出て行けとは言えなかったのでしょう。

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 そこで、アイバン。
 アイバンはトレバーの罪悪感が生み出したもう1人の自分なので、彼は妄想の世界の住人です。トレバーはアイバンとしての人格で謎のメモを残し、トレバーの行く先々に姿を現しました。

 アイバンは首を切るまねをして見せ、動転したトレバーはミラーの手を切断してしまいます。

 トレバーは直前に上司に呼ばれ、アルコール依存やドラッグ依存を疑われていました。そこで、トレバーには潜在的な意識のなかに工場をクビにされるかもしれないという思いがあったのでしょう。それでアイバンとしてのトレバーは首を切るまねをして見せたのです。

 ところが、トレバー自身はアイバンが自分自身だとは知りませんから、アイバンが首を切るまねをしたのはトレバーのひき逃げ事故という秘密を知っているぞ、という意味にもとってしまったのです。だからトレバーは動転してミラーの腕を切断してしまいました。

 また、アイバンがレイノルズが逮捕され、その代わりに来たといったのは、トレバーが逮捕されたら、誰かが代わりに職場に来ることになるというトレバーの想像の投影です。

 逮捕されたのがレイノルズなのは、彼が一番職場で仲の良い友人だったので、その記憶が投影されたのでしょう。レイノルズが犯罪を隠れてやっていたとか、そういうわけではありません。

 アイバンはあくまで幻影なので、トレバーが殺そうとしても殺すことはできません。カーペットから見えていた足はアイバンを殺したと思い込んでいたトレバーの幻想。

 そして、"おまえは誰だ"とメモを残したのはアイバンとしてのトレバー。

 また、空港のウェイトレスであるマリアやマリアの息子であるニコラスは彼の罪悪感と幼少時代の記憶が生み出した妄想。結末で明かされますが、空港のカフェにマリアというウェイトレスはいません。

 マリアと仲良くなり、遊園地に遊びに行ったとき、トレバーは1年前くらいからマリアと知り合いだとニコラスに語っています。

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★常に左しか選べないトレバー

 トレバーは1年前のひき逃げ事故のとき、「逃げる」「罪を償う」という選択肢を突きつけられ、「逃げる」方を選択しました。

 これ以降、トレバーの選択肢はつねに「逃げる」ほうだけに絞られたのです。それは、救われることのない地獄を永遠に彷徨い続けるという人生でした。

 だから、ニコラスと遊園地に行ったときにも、アトラクション「ルート666」で、「右に行け! 」とトレバーが叫んだにもかかわらず、「地獄へ」「救済の道」のうち、左の「地獄へ」の道を進みました。

 そして、虚偽の交通自己申告を疑われて警察官に追われて地下水道に逃げたときにも暗い道と明るい道の二股の道が目の前にありましたが、トレバーは左の暗い道を選択せざるをえませんでした。

 なぜなら、右の明るい道からは何者かの近づいてくる不穏な影が見えていたからです。ひき逃げ事故を起こしたときに「逃げる」道を選択した彼にはもはや、常に左側の救われることのない道しか選択することはできません。

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★スティービーの存在

 スティービーはトレバーの行きつけの娼婦であり、最終的には一緒に暮らす可能性まであった女性です。

 スティービーはもちろん、現実の存在。
 マリアと違い、彼女は現実の愛情と快楽を与え、トレバーに生きるよすがを与えてくれた存在でした。

 トレバーは彼女を当初は辛い毎日からの逃避手段として扱い、スティービーの元に通っていましたが、次第にトレバーは彼女の存在そのものに安らぎと居場所を求めるようになっていきます。

 しかし、スティービーとの関係も、トレバーの抱えた大きい秘密の前に破綻することになりました。

 結局、最初の選択、「逃げる」か「償う」かの選択を誤ったときからトレバーには決して幸運は回ってこない、そういう運命になっていたのでした。

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★トレバーとミラー

 ミラーの腕を切断してしまったトレバーにはあのひき逃げ事故の記憶がよみがえります。
 
 被害者はトレバーを恨んでいるだろう。そうならば、ミラーもトレバーを恨んでいるに違いない。

 ミラーがトレバーに「気にするな」と言ってくれても、トレバーはそれを言葉通りに受け取ることができません。すっかり疑心暗鬼になってしまったトレバーは偶然におきた事故を同僚のせいだと責め、仕事をクビに。

 この1年、ひき逃げ事故の記憶にさいなまれ続けたトレバーは、ひき殺してしまった男の子の母親はトレバーを恨んでいるに違いないと確信していました。

 トレバーのせいで、男の子は死に、トレバーのせいでミラーの腕は落とされてしまった。トレバーは母親の気持ちをミラーの気持ちに重ね合わせ、ミラーの気持ちを邪推してしまったのです。

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★血を流す冷蔵庫

 ミラーの事故ののち、血を流し始めた冷蔵庫。中には何が入っているのだろう。誰でもそう思うでしょう。
 しかし、結局転がり落ちるのは魚の頭。え、これだけ?

 そう、これだけ。冷蔵庫の中には他に腐った食べ物くらいはあるかもしれませんが、あっと驚くようなもの、たとえば死体などはないでしょう。

 思い出してみると、冷蔵庫が血を流し始めたその日、大家がトレバーの部屋にやってきて「水漏れ」がしている、とトレバーに注意しています。

 この「水漏れ」こそが、"血"の正体です。

 魚を持つレイノルズとアイバンの映る写真が実はレイノルズとトレバーだったこと、マリアというウェイトレスはおらず、トレバーは空港のカフェでコーヒーを見つめているだけだったこと、が結末で明かされたように、観客はトレバーの視点を通して物事を見ています。

 だから、水が"血"に見えたというわけです。

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 では、この血を流す冷蔵庫は何を意味するのか?

 トレバーの生活は荒れており、食事もろくろくしないのですから、トレバーは冷蔵庫を使うような生活はしていません。

 冷蔵庫はトレバーがよくメモを張っていた場所。
 つまり、冷蔵庫はメモを張るための場所として機能していました。

 そして、そのメモがトレバーの知らないうちに別のメモに張り替えられることからトレバーのもともと不安定な精神がいよいよ崩壊への道をたどり始めます。

 また、冷蔵庫が血を流し始めたのは、工場をクビになった日。その日はトレバーが仲間にわざと事故を起こされそうになったと勘違いして大騒ぎし、ついに工場をクビになった日。

 生活の手段を断たれ、トレバーが精神的にも、経済的にも追い詰められたときに冷蔵庫は血を流し始めました。

 この冷蔵庫はトレバーの心そのものです。
 血を流し始めた冷蔵庫というのは、どうにか保っていたトレバーの心の均衡が崩れたことの象徴。

 ひき逃げ事故の記憶さえなくし、偽りの記憶で真実を覆い隠して、不安定ながらも毎日をやり過ごしていたトレバーが、ミラーの事故をきっかけに、もはやどうしようもない状態に陥って破綻していくトレバーの心理状態を表しているのです。

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★聖母マリア、その許しを求めて

 罪の重さに耐えかねたトレバーは全ての人間的なつながりを断ち、孤独の中に逃げ込みました。空港のウェイトレスとして妄想の中で作り上げたマリアと会話をし、つかの間の安らぎを得、娼婦のスティービーの家に行っては快楽を得る。

 綱渡りの生活でした。

 トレバーは被害者の母親が自分を恨んでいるだろうと確信していました。そして、自分の過ちをその母親に許してほしいという気持ちがありました。

 ひき逃げ事故の被害者の男の子とその母親の投影であるニコラスやマリアがトレバーに優しいのはトレバーがその罪を許してほしかったからです。

 マリアは被害者の母親の投影であり、交通事故の加害者であるトレバーを一番恨むであろう存在でした。その人に許してもらえるならば、トレバーはこの重荷から解放される。

 トレバーの妄想の中の彼女はトレバーに優しく、愛情を見せて接してくれ、遊園地にもトレバーを誘ってくれます。マリアはトレバーに愛と許しを与える存在。つまり、「聖母マリア」のような慈愛に満ちた存在でした。

 "ニコラス"や"マリア"という名前はトレバーがつけた名前で本当の名前かどうかは分かりません。もしくはトレバーは新聞か何かで事故のニュースを見て、被害者の名前を知っていたのかもしれません。

 けれども、マリアとニコラスという親子の名前が共にキリスト教の聖者の名であるのは偶然ではないでしょう。

 この1年、トレバーを支配していたのは罪悪感でした。その疲れ切った彼の心によみがえってきたのは母の記憶です。倒れた男の子に走り寄って我が子の名を呼ぶ母親の姿はトレバーに自分を愛し、大切にしてくれた死んだ母の記憶を呼び覚ましました。

 また、精神的に苦しい毎日を送る中で、精神的な支えとしてもトレバーは母の記憶を求めていました。彼は母の日の話題をマリアに持ち出していますし、母の墓参りに行くとか、ニコラスに母の愛を知ったのは父が家を出たときだったとか、繰り返しマリアに母について語っています。

 また、遊園地でトレバーがマリアとニコラスの写真を撮った場所は、かつて幼かったトレバーと母親が写真を撮った場所と全く同じ場所、まったく同じアングルでした。それに、マリアの夫が出て行き、母が1人で我が子を育てているという環境までトレバーの幼少時代と同じです。

 つまり、マリアとニコラスの親子はトレバーのひき逃げ事故の被害者とその母というのみならず、トレバーの幼少時代の記憶と母への追憶というものが2重に投影された存在なのです。

マシニスト


★最後の天使、アイバン

 アイバンは罪悪感の地獄に囚われ、どんどん奥底に落ち込んでいくトレバーを導きます。

 ラストでは、アイバンはトレバーの運転する車に同乗しています。
 すると、目の前には「空港へ」「街へ」と書かれた2つの看板が。左に行けば再び負のスパイラルが始まります。

 トレバーはその後警察署に自首しました。トレバーはついに右の道、「街へ」の道を選ぶことができたのです。

 ついに救いの道を選ぶことのできた彼は罪悪感の重しから解放されました。留置場やその廊下が真っ白だったことにお気づきでしょうか。暗い画面の多かったそれまでから一転して、純白の画面に転換したラスト。

 これは、トレバーの心そのもの。彼は罪を告白し、ようやく解放されたのです。彼の心はまっさらになり、再び、生きることを選択していくことができた。その投影が真っ白な画面に現われています。

マシニスト


★トレバーの愛読書『白痴』

 何度も映し出される『白痴』の本。トレバーの愛読書のようです。ドストエフスキー著のこの作品には、"世間知らずで純真無垢な男"と"闇を代表する暗い人格の男"が出てきます。

 「マシニスト」にこれを当てはめてみると、"純真無垢な男"とはひき逃げ事故のことすら忘れたトレバーのこと。

 そして、"ひき逃げ犯"というトレバーの闇の人格は事故を忘れ去ったトレバーを冒し、結果としてトレバーはガリガリにやせ細り、眠ることすらできなくなっていました。

 ドストエフスキーの『白痴』では、男たちは最後2人とも破滅してしまうのですが、トレバーの場合はアイバンがいました。彼はトレバーを導き、最後には彼を警察に出頭させて、罪悪感の地獄から救い出します。

 アイバンがいなければトレバーには『白痴』の登場人物のように破滅が待っていたことでしょう。

 『白痴』に出てくる男の一人は"世間知らずで純真無垢な男"です。その彼のように、「何も知らない」トレバー。

 何も知らないということは、知ろうとしていないだけではないのか、現実から逃げようとしているだけではないのか。

 知らなければ、善き人でいられるというわけではありません。それは単なる"逃げ"に過ぎない。向き合いたくない真実から逃げ続けているうちに、崩壊の足音はすぐそこに迫っているのかもしれません。

 アイバンはトレバーのもう一つの人格でした。アイバンがトレバーを救ったということは、トレバーがトレバーを救ったということ。

 人の良心が一度間違った方向に負けたあと、それを取り戻すまでの闘いを描いた映画が「マシニスト」であるとも言えます。

 人の良心というものが一体強いものなのか、それとも、弱くて、誘惑に負けてしまいやすいものなのか。

 どちらも真実であるということなのでしょう。

 「マシニスト」は人間性への絶望をうたう映画ではありません。人間に残されたわずかな部分が最後の砦にもなるということ。「マシニスト」はそれを描く映画なのです。

マシニスト

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メメント 時系列順のあらすじ

映画:メメント あらすじ
※レビュー部分はネタバレあり

メメント


 「バットマン・ビギンズ」「ダークナイト」の監督クリストファー・ノーランの出世作「メメント」。たった10分しか記憶を維持できない男が、ある日1人の男を殺したことから、物語は始まる。

 見事に切り刻まれた時系列にあっけにとられそうだが、結末が近づいてくるにつれ、時系列が巧妙に組み替えられていて、きちんとストーリーを構成していることに気が付く。

 一見、複雑そうだが、ジグソーパズルのように、一つ一つ主人公レナードの行動を追っていくと、きっと何かが見えてくるはずだ。

 レナードの切望する"復讐"の正体とは何なのか、そして、このレナードが生きている世界がどういうものなのか。

 「メメント」の『解説とレビュー』では、簡単に登場人物を紹介したあと、時系列順に並べ直したあらすじを最初から結末まで順に書いていきます。
 その後、レナード自身が抱えていた問題点と、レナードがどのように周囲に利用されていたのかを見ていくことにしましょう。
解説とレビューだけ見たい方はこちら

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 記憶障害のあるレナードは、強姦されて殺された妻の復讐のために真犯人を必死で捜索している。しかし、レナードは10分程度の記憶しか保てない。時間が過ぎると忘れてしまうのだ。

 そこで、彼は常にメモを取り、忘れないようにしているが、犯人探しに最も重要と思われることについては体に刺青を入れて、消されたり、なくしたりしないようにしている。

 鎖骨の下には犯人の名前であるジョン・Gが彫ってある。他にも"THE FACTS 1"から"THE FACTS 6"まで、手掛かりが彫ってある。

 それによると、犯人は白人で男、そしてファストネームがジョー、ラストネームがGであり、麻薬の売人かつ車のナンバーはSG137IUであるということまで分かっていた。

 レナードはある日、犯人"ジョン・G"と目される男を殺害する。それはレナードの知った男だった。

 果たして彼はどのようにその男にたどり着いたのか? その男は本当に真犯人なのか ?

奇妙に歪んだレナードの記憶をさかのぼるうちに、現われたのは驚きの真実だった。



【映画データ】
メメント
2000年(日本公開2001年)・アメリカ
監督 クリストファー・ノーラン
キャスト ガイ・ピアース,ジョー・パントリアーノ,キャリー=アン・モス
インディペンデント・スピリット賞作品賞・監督賞受賞



メメント


映画:メメント 解説とレビュー
※以下、ネタバレあり

★人物紹介

【レナード・ジェルビー】

短期記憶障害。10分程度しか記憶が保持できない。それ以降は記憶を失い、何をしていたか、何が起きたのか全く忘れてしまう。

これは、妻を殺された事件以降の症状であり、妻が殺される前の記憶については完全な記憶が残っていると本人は思っている。

また、実際に思い出すことも可能なようである。元保険会社の調査員として働いており、サミー・ジェンキスという男を担当していた。

【ナタリー】

レナードの女友達であり、レナードを一時家に泊まらせていた。

ナタリーは恋人のジミー・グランツを何者かに殺されている。ジミーは麻薬の売人であり、ナタリーも客とジミーの取り次ぎをして麻薬密売に関係していた。ファーディーズ・バーで働いている。

【テディ】

本名はジョン・エドワード・ギャメル。潜入捜査中の警察官と名乗っている。
麻薬関連の犯罪でジミー・グランツを捜査していたことがある。レナードにナタリーを信用するなと警告していた。冒頭でレナードに殺される。

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★レナードの罪 〜時系列順のあらすじ〜

 レナードは何をしたのか。

 まず、彼は1年前に、テディが見つけてきた、妻を強姦した真犯人の男を殺している。その際にテディがレナードの写真を撮った。レナードが笑顔で映る写真だ。

 しかし、10分しか記憶の持たないレナードは犯人を殺したことを忘れ、再び犯人捜しを始めた。

 テディは新たなジョン・Gを探してきては、それらしい手掛かりをレナードに与え、その男を殺させた。これを何度も繰り返していた。その何人目か分からない犠牲者の1人がジミー・グランツだった。

 ある日、レナードはテディに揃えられた手がかりからジミー・グランツという男を突きとめる。麻薬取引が行われるという人気のない郊外の小屋にレナードは青いピックアップトラックでやってきた。

 レナードが待ち構えていると、ジミー・グランツが現われる。レナードはジミーを首を絞めて殺し、地下の部屋に放置し、死体の写真を撮った。さらに、ジミーの死体からスーツを奪い、ジャガーも乗り逃げした。この服装と車はレナードが「メメント」中でずっと使っていたものである。

 レナードがジミーを殺す前に、ジミーはジャガーのトランクに20万ドルを持ってきたことやテディを待っていることをレナードに話した。

 ジミーの話を怪訝に思ったレナードが直後にやってきたテディを問いただすと、テディはその20万ドルについて自分が取引して得るつもりの金であったことを白状。

 しかも、レナードが今までテディの用意したジョン・Gを殺し続けており、ジミーは数人目の被害者であることを教えた。さらに、レナードの持っているレナード自身が笑顔で映る写真は、真犯人を殺した直後に撮ったものだと教えた。

 レナードは憤り、建物の外に出て草むらにテディの車のカギを捨て、ジミーの乗ってきたジャガーに乗り込むと、笑いながら映る自分の写真とジミーの死体の写真を燃やした。

 そして焦げた写真をポケットに突っ込み、テディの写真に『こいつのウソを信じるな』と書き込む。さらに、レナードは、テディの車のナンバーを書きとめてから走り去った。

メメント


 行き先は刺青屋。

 その店で、テディの車のナンバーを"THE FACTS 6"として彫り込ませる。

 そこにテディがやってきた。テディは町を離れろとレナードに警告し、ジミーのスーツから着換えろと言って着替えの服をレナードに渡す。

 奥の部屋にいったレナードは着替えようとするが、テディの写真を確認すると、『信用するな』と書かれている。そして、ジミーのスーツから黒く焦げた写真のかたまりとファーディーズ・バーのコースターを見つけた。
 そこで、レナードは窓から逃げ出し、ジミーの車ジャガーでファーディーズ・バーに向かう。

 バーにつくと、ナタリーはゴミ出しをしているところだった。見慣れたジミーのジャガーを見て、「ジミー!」と声をかけるが、乗っていたのはレナード。「間違えたわ」、といってナタリーは店の中に戻っていく。

 レナードの見つけたコースターには"後で寄って、ナタリー"と書かれており、レナードはバーに入って「俺の服に入ってた」といってそれを見せると、彼女は不審そうな様子で「あなたの服に ? 」。

 「ジミー・グランツという私の恋人があなたのことを知ってたわ」とナタリーはいうが、レナードは自分が殺したジミーのことをすでに忘れていて、覚えていない。ナタリーは「テディがあなたをよこしたの?」とも聞くがレナードには分からない。

 ナタリーは彼にビールにつばを吐かせてそれをジミーに飲ませるが、ジミーは少し前に自分がつばを吐いたことを忘れてビールを飲む。

 ナタリーはそれを見て、「障害があるのは本当ね、警官が行ってた通りだわ」。

メメント


 ナタリーはレナードを自分の家に連れていき、彼を泊まらせることにする。ナタリーは恋人のジミーがテディという男に会いに行き、戻らなかったと語る。さらに、ナタリーはドッドという男を殺してほしいとレナードに頼む。

 レナードはそれを断るがナタリーは怒って殺されたレナードの妻をこき下ろし、罵詈雑言を吐く。レナードは彼女を殴り飛ばし、彼女は家から出ていってしまった。

 レナードはナタリーの吐いた悪態を書きとめようとするが、ナタリーはあらかじめ、ペンを隠してしまっていて、メモすることができない。ナタリーは外に止めた車のなかでペンを探しているレナードを見ている。

 そして、しばらくして戻ってくると、ナタリーはさっきレナードに殴られてできた傷を見せ、ドッドに殴られたとレナードにいう。

 レナードは「ドッドのところに行く」、いって飛び出そうとするが、ナタリーはドッドにレナードの車のナンバーを教えたから、彼からレナードのところに来るかもしれない、と告げる。

 そのまま、レナードは彼女の家に泊まり、家を出るとテディが待ち受けていて「ナタリーに気をつけろ」、と警告する。

 レナードは「メモをしておけ」、とテディからペンを渡されるが、テディの写真に『この男を信用するな』との書き込みがあることに気が付き、ナタリーの写真に書き込みはしなかった。

 妻の遺品を工場跡地に持ち込んで燃やしたあと、車で街を走っていると、突然ドッドから銃で狙われた。

 レナードは逃げ、逆にドッドの借りているモーテルに侵入してドッドを待ち伏せする。しかし、待ち伏せしている間に、なぜ、この部屋にいるのか忘れてしまい、シャワーを浴び始めた。

 そこにドッドが帰宅。人の気配に気づいたレナードは彼を殴り倒し、クローゼットに押し込める。ドッドの写真を撮り、「テディに会わせるか、ナタリーのために始末しろ」と書く。そして、テディに電話し、モーテルの名前と部屋番号を告げてテディを呼び出してから寝てしまった。

 その後、寝ていたレナードが目覚めると、戸口にテディが来ているが、レナードはテディをなぜ呼び出したのか、忘れてしまっていて思い出せない。そのとき、クローゼットからうめき声が聞こえ、ドッドを発見。町はずれまでドッドを連れていき、解放する。

メメント


 その後、ナタリーに会いに行ったレナードはドッドという男にジミーが持っていたはずの麻薬とお金を要求されていて、渡さないと殺すと脅迫されていたので助けてもらったのよ、とレナードに説明する。

 そして、ナタリーは妻を殺したジョン・Gを探すのを手伝ってあげるとレナードにいい、レナードは『ナタリーが探すのを助けてくれる』と写真にメモする。

 ナタリーとレナードは午後1時にダイナーで会った。ナタリーはレナードが"THE FACTS 6"として彫り込んでいたテディの車のナンバーを調べてきていた。彼女はレナードに車の持ち主はジョン・E・ギャメルという男だと教える。

 そして、その男を殺すには恋人のジミーが取引によく使っていた人気のない郊外の小屋を使うといい、という。さらに、ナタリーはジョン・E・ギャメルの免許証のコピーを渡す。

 レナードは免許証の写真を見てテディの写真を取り出し、『犯人だ』『殺せ』と書きつける。

 さらに、鎖骨の下に彫られた、『ジョン・G・が妻を犯し、殺した』という刺青を確認する。レナードはテディに電話して呼びだす。そして銃とテディの写真を手にしてモーテルの受付に行く。

 受付の男にテディが来たら部屋に電話してくれ、と頼んでいるところにテディがやってきた。2人は車に乗って、ナタリーに教えてもらった郊外の小屋に向かう。

 小屋には青いピックアップトラックが放置されている。車のドアを開けて乗り込んでみるレナード。これはかつてレナードがジミーを殺したときに乗ってきた車なのだが、当然レナードは覚えていない。

 レナードは写真を取り出し、テディの写真に先ほど書きこんだばかりのメモを見つける。

 『テディ こいつのウソを信じるな。殺せ』。

 小屋に入ったレナードを追ってテディが入ってくる。銃を向けるレナードにテディは慌てて、「地下に行けば…」といいだすがレナードは発砲。テディを射殺した。

メメント


これがメメントの時系列順のあらすじです。

★ナタリーやテディがどのようにレナードを利用していたのかについては、後半で解説します。「メメント 解説とレビュー
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メメント 解説とレビュー

映画:メメント 解説とレビュー
※以下、ネタバレあり

 こちらのページでは「メメント」の解説とレビューをしていきます。

 レナードの過去の記憶は本当に正しいのか、レナードの妻は本当に強姦犯に殺されたのか、レナードは誰にだまされていたのか。そして、レナードが繰り返し語ったサミーの記憶が意味するものとは ?

 最後に、医学的に見たレナードの病気について言及します。


「メメント」の『時系列順のあらすじ』はこちら。

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★レナードとテディの関係

 妻を殺されたレナードは復讐のため、ジョン・Gを探していました。
 最初こそ、テディが見つけた真犯人を殺しましたが、その達成感と裏腹に訪れたのは、空虚感。

 レナードは犯人を殺したことを忘れないように、写真も撮りました。
 しかし、これで、自分のすることはなくなってしまった。記憶障害のある自分は保険調査員としての仕事を失ってしまいましたし、新しく仕事を見つけて働くこともできません。

 彼はそこで決意します。殺した男の写真を捨ててしまえばいい。捨てたことは10分もたてば忘れてしまう。

 再び、彼は新しい標的を探して調査を開始します。

 これを見ていたのはジョン・エドワード・ギャメル、通称テディ。
 最初こそ、レナードのために真犯人を見つけてやりましたが、2度目の復讐を求めてレナードが犯人を探し始めたことを知り、これを利用できないものかと思い始めます。

 テディは恐らく、麻薬取引を捜査する警察官でした。

 麻薬の取引には多額のカネが動きます。

 ここでうまく取引相手を殺すようにレナードを誘導してやれば、レナードは復讐を達成でき、テディには金が入る。
 さっそくテディはその計画を実行しました。

 まず、それらしい証拠を用意し、レナードに調査させておきます。その間にテディは取引を麻薬密売人に持ちかけ、金を用意させて、取引場所まで持ってくるように仕向けます。

 そして、取引当日にレナードに犯人を教えて、その場所に向かわせ、テディの取引相手を殺させる。テディは取引相手の持ってきていた金を手に入れる。このようにしてテディは大金を得られるというわけでした。

 そして、再び、レナードは殺したことを忘れようとします。そして10分たてば忘れます。再びレナードの復讐の旅が始まる。

 この繰り返しを何度もしながら、テディはレナードを使って大金を得ていました。

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 ある日、テディがターゲットに設定したのはジミー・グラント。麻薬密売人でしかもレナードが復讐相手として探している"ジョン・G"にぴったりです。

 ジョンはさっそくジミーが犯人であるかのような証拠を揃え、レナードに殺させました。

 しかし、ジミー・グラントは殺される前に、テディと待ち合わせていたことや、金のことをしゃべってしまい、レナードは自分が利用されたことを悟ります。

 レナードに問い詰められたテディはどうせ10分後にレナードは忘れてしまうことだから、とテディは思ったのでしょう、あっさり事の真相を白状してしまいます。本物のジョン・Gは1年前に死んだことや、何人も殺していることを話します。

 さらに、決定的なのは、レナードの妻の本当の死因をしゃべったこと。

 レナードは妻が殺される前の記憶は完全に残っていると考えていましたが、実はそれは自分自身によって書き換えられた記憶だったのです。

 これを聞いたレナードは激怒しますが、その場でテディを殺そうとはしません。その代わり、次のターゲットとしてテディを選ぶことにするのです。

 しかも、『殺せ』とメモするのではなく『こいつのウソを信じるな』と書き込み、テディの車のナンバーを"THE FACTS 6"と刺青することで、わざとターゲットを曖昧にし、テディをターゲットに、次なる復讐をはじめることにしました。

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★妻の死の真相

 レナードは妻が強姦され、その後に犯人に殺されたと信じていました。しかし、それは違います。まず、実際にレナードの妻は深夜にバスルームで襲われ、それを助けようとしたレナードは殴られて昏倒し、記憶障害が残りました。

 ここまでは事実です。

 しかし、現実には妻は死んではいません。彼女は一命を取り留めていました。その後、レナードには短期記憶障害が残ってしまい、悲しんだ妻は彼を試そうとします。

 妻には糖尿病の持病がありました。彼女は毎日定時にインシュリン注射を夫に打ってもらう習慣です。そこで、彼女は「注射の時間よ」と言って、レナードに注射を打たせます。

 そして、夫の記憶がなくなったころに再び注射するように促しては繰り返しインシュリン注射を打たせました。

 夫レナードは、さっき打ったばかりの注射のことをまったく覚えておらず、妻に言われるままに繰り返し注射を打ちました。結果としてインシュリン注射の打ち過ぎによりレナードの妻は死亡したのです。

 レナードが保険会社の調査員として働いていた時代、サミーという男が短期記憶障害で、サミーの妻が何度も夫サミーにインシュリン注射を打たせて死んだというエピソードはレナード自身による記憶の書き換えでした。

 彼は妻を死なせてしまったという辛い記憶から逃れるため、かつて調査員時代に関わったサミーという保険金詐欺を働いた男を登場させたのです。

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★逆恨みで殺されたテディ

 レナードはテディの小遣い稼ぎに利用された同情すべき人間であるようにも思えますが、真実は違います。レナードはテディに利用されていたかもしれませんが、レナードだって、テディがおぜん立てしてくれるこのゲームを気に入っていました。

 いままで何人殺したのかしれない"ジョン・G"殺害もすべてレナードの意思によるものです。なぜなら、彼は復讐を果たした瞬間、次の10分のうちにその殺人を忘れるかどうかを選択していたからです。彼はそのたびにその殺人を忘れるという決定をしてきました。

 つまり、テディ殺害までに何度もレナードは殺人を忘れ、もう一度"復讐"をやり直すという選択をしてきたのでした。

 レナードは自分が繰り返し人を殺しては忘れ去っていたという真実をテディに知らされ、自分は「人殺しじゃない」とつぶやきます。

 しかし、今までだって、犯した"復讐"を記録しておくことで、終わらせることができたのに、その決断をすることができなかったのはレナードです。しかも、今まで人殺しをさせられた"復讐"として今度はテディを殺そうというのですから、レナードはすでに連続殺人者の素質十分です。

 それに、テディがレナードに殺される理由は何でしょう ?

 テディはある意味、レナードの"復讐"をエンドレスに続けさせるために犠牲者を選び、それらしき偽の証拠を届けてレナードを助けてきた相棒ではありませんか。

 たしかに、テディはレナードを利用してお金をもうけていましたが、それでレナードに害が及ぶわけではありません。つまり、レナードが怒ってテディを殺害しようと決意した理由はテディが自分を利用して金もうけしていたからだけではないのです。

 レナードはテディにだまされていたことを知ってかっとなり、冷静に怒りの原因を探ることなく、10分後にはテディに怒りを抱いたことすら忘れてしまいました。しかし、レナードが怒った本当の理由はテディではなく、自分にだまされていたことに気がついたからです。

 自分の意思で復讐を果たしたことを忘れ、また初めから復讐をやり直す。この循環をたどっていたことを認めれば、自分は自分にウソをついていたことを認めることになる。だから、そんな事実はなかったと信じたい。

 さらに、自分が無関係な人間を何人も殺してしまったということは認めたくないし、妻を殺してしまったのは自分だということも信じたくない。妻が死んで以来、復讐だけに生きがいを見出していた、ある意味、充実していた人生が崩壊していく。

 なぜ、テディは自分に知りたくもないこんな真実を教えるんだ!?
そうだ、自分にそんな知りたくもない事実を教えたやつに復讐してやろう。

 レナードはいわば、逆恨みに近い怒りにまかせた感情から、次のターゲットとしてテディを選んだのです。

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★記憶を書き換えたレナード

 そもそも、レナードは自分で妻を殺してしまったという罪悪感から、自分をサミーという保険金詐欺師にすり替え、サミーがサミーの妻を殺したことにしました。

 『サミー・ジャンキスを忘れるな』という刺青をしたのは、それを見たとき、"サミーがサミーの妻を殺したこと"を思い出せるからです。

 逆にいえば、レナード自身が妻を殺したことを忘れられ、自分とサミーを「すり替えた」という記憶自体を忘れられるからです。この刺青があることで、「レナードが妻を殺した」という記憶を封印し、"サミーがサミーの妻を殺した"という記憶に書き換えることができました。

 レナードが妻を殺したときにはすでに記憶障害になっていたので、妻を殺したこともすぐに忘れてしまうでしょう。記憶を無理に書き換える必要はないようにも思えます。

 確かにそうなのですが、レナードは、強い罪悪感を完全に消し去りたかったのです。そして、レナードは妻の死を強姦犯のせいにし、いわば強姦犯に責任転嫁をしました。これで、レナードは完全に妻の死に負う責任から逃れられるばかりか、生きる目的まで得ることができたのです。レナードにとっては、まさに一石二鳥でした。

 しかし、レナードの妻が死んだという事実は歴然として残ります。レナードは自分が妻をインシュリン注射で殺した記憶を書き換えるため、妻が誰にどうやって殺されたことにしようかと考え始めました。

 そこで思い付いたのは、妻が一度、強姦されているということ。そうだ、妻は強姦されて殺されたということにしよう。そこで、レナードは鎖骨の下に『ジョン・G が妻を犯し、殺した』と刺青をいれます。ジョン・Gというのは強姦犯と聞いた男の名前。

 そして重要なのは妻はインシュリン注射で死んだのではなく"犯されて"死んだということ。だからレナードは『ジョン・G が妻を殺した』ではなく、『ジョン・G が妻を犯し、殺した』と刺青したのです。

 これで、妻がなぜ死んだのか、誰に殺されたのか、レナードの記憶の書き換えは完了しました。レナードは罪の重荷を下ろすことができたわけです。あとは、妻を殺したジョン・Gを探すだけ。復讐の土台は整ったのです。

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★皆がウソをついていた

 皆ウソつきです。メメントに出てくる人たちは皆ウソをついてレナードを利用しました。

 まず、モーテルの受付係バート。レナードに記憶がないのをいいことに、部屋を2つも貸していました。これはまだましな方。

 次にテディ。彼はレナードの復讐心を利用して、次々に殺させる相手を提供しました。ジミー・グランツのときには取引があったことがレナードにバレてしまいましたが、それまでも全くテディに利害関係のない無関係の人間を殺させていたとは思えません。

 テディはかつて警察官でした。これについてはウソをついてはいません。ナタリーがテディのことを「あの警官が」というように呼んでいますし、何より、警察の資料をレナードに渡したりもしています。

 テディの場合、警察官として押収した麻薬の横流しもしくは密売を黙認して賄賂を得るなど、何らかの不正行為をしていたのではないかと思われます。甘い汁を吸ううちに、麻薬取引の抜けられない深みへとはまって行った。ミイラ取りがミイラになってしまったのでしょう。

 しかし、テディが現在も警察官であるかは微妙です。しょっちゅうレナードの呼び出しに応じていて、勤務中ということがありません。

 テディは潜入捜査官だと名乗ったときもありました。これが本当かは怪しいところです。テディのことをナタリーは警察官だと知っていますし、テディもナタリーのことを知っています。

 これは単に捜査関係上の知り合いというだけなのでしょうか ?

 潜入捜査官であるはずのテディがナタリーに警察官だということを知られているというのはどういうわけでしょうか。仮に、テディが潜入捜査官だと知っているなら、ジミー・グランツがテディとの取引を承知するわけがありません。

 さらに、彼が潜入捜査官だと名乗ったのは、レナードがテディの写真を撮り、名前と電話番号を控えているときです。テディはレナードが何人も殺している殺人者であることを知っています。レナードが逮捕されてしまったとき、写真に実名が記載されていては困るわけです。
 だから、愛称のみを教えたのではないでしょうか。

 もう一つの仮説としては、彼は潜入捜査官であるが、麻薬の売人たちと癒着して甘い汁を吸っていたという可能性です。仮に、そうならば、テディがナタリーら売人たちに顔が利くことも説明がつくでしょう。

 一方で、テディは自分のことを警察の情報屋だと言ったこともありました。彼の職業についての発言にはどうやらウソが混じるようです。

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★ナタリーのウソ

 ナタリーもウソをついています。まず、ナタリーの話の中で本当のことは、ジミーが彼女の恋人であること。そしてジミーが最後に取引したのがテディであると言っていること。これはジミーがレナードに殺される前にテディの名を呼びながら取引場所に来ているので間違いありません。

 ナタリーは恋人の服を着て、恋人の車に乗ったレナードが店に現われ、ジミーに渡したはずのコースターのメモを見せたので、ジミーの身に何かがあったことを悟ったはずです。そして、目の前の男は本当に記憶がない様子。彼女はレナードを利用することにします。

 困ったのはテディ。ナタリーとジミー、そしてテディは麻薬取引でグルになっていました。

 ジミーが麻薬を調達し、ナタリーがバーで客から注文をコースターの裏に書いて受け取ります。そしてテディはそれを黙認する代わりに口止め料をもらっていた。

 しかし、ジミーが殺された今、テディはジミーを殺したのがレナードであり、かつそれをおぜん立てしたのがテディ自身であることがバレるとまずいことになります。

 そこでテディはナタリーからレナードを引き離そうと、ナタリーの家ではなく、モーテルに泊まるようにレナードに仕向け、さらに、ナタリーを信用しないようにと警告するのです。

 ナタリーは恋人の最後の取引相手はテディだったことを知っていますから、テディに対してなんとか復讐したいと思っています。

 しかし、それだけのためにレナードを使うのはもったいない。

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 ナタリーはジミーが20万ドルを持っていなくなってしまったことで、密売仲間のドッドという男から脅迫を受けていました。麻薬と20万ドルを返すように脅してくるドッドを黙らせ、ナタリー自身の身の安全を確保する必要があります。

 恋人ジミーの復讐よりも、自分の身の安全が先。そこで、わざとレナードに顔を殴らせ、ナタリーを殴ったことを忘れたレナードにはドッドに殴られたと訴えて、レナードにドッドを捕まえさせました。

 一方、ナタリーはドッドにもこう言ったはずです。
 「20万ドルとジミーが持っていた麻薬は、レナードというジミーのジャガーに乗っている男が持っている」。

 それで、ドッドはレナードを追いかけました。ナタリーとしては、ドッドがレナードを殺そうが、レナードがドッドを殺そうがどちらでも構いません。これで、自分の身は安全になり、ジミーが家に残した麻薬は自分のものになるからです。

 ドッドとレナードの勝負はレナードに軍配があがりました。
 ナタリーはこのときになって初めて、レナードにこう言います。「ジョン・Gを殺すのを手伝えるかも」。ドッドがいなくなり、自分の身の安全が確保できたナタリーは今度は恋人ジミーの復讐に取り掛かりました。
 ナタリーは、恋人に最後に会っていたテディが何らかの形でジミーの消息不明に関与していることを確信しています。ジミーの復讐とは、テディを殺すことでした。

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★利用されたレナード

 結局、レナードは散々に利用され、ナタリーは彼を利用して、自分の安全確保とジミーの復讐の2つを見事に果たすことができました。

 レナードは自分は系統立ててメモを取っており、毎日同じ繰り返しをしているのだから間違いは起きず、他人に利用されることはないと思っていましたが、実際には他人の意のままに動いていたのです。

 レナードの殺人はテディに利用され、ナタリーにも利用された。

 一方で、テディの殺人については、レナードはもともと、最後はテディに行きつくように車のナンバーを彫りつけておいたわけですから、レナードはナタリーがいなくても遅かれ、早かれ、テディにたどり着いて彼を殺したでしょう。

 いずれにしろ、テディ殺害についてはナタリーとレナードに共通する利害関係がありました。

 しかしそれを言うなら、テディが提供した被害者たちにも同じことが言えます。レナードが今まで殺してきた相手はテディが選択していたのだから、テディは取引上障害になる者や、邪魔者をレナードの復讐相手として提供することができたわけです。

 テディが利益を得るために彼らを殺す必要があったのに対し、レナードは復讐のために彼らを殺す必要があった。

 ここにも利害の一致が見られるわけです。

 ナタリーはジミーの復讐もありますが、まず何よりも、自分が隠し持っているジミーの麻薬を確保するためにレナードを利用しました。テディも麻薬取引で金を得るためにレナードを利用してきました。モーテルを2部屋も貸していた男も同じ。

 皆、一見親切そうな様子で近づいてきますが、その実、レナードの記憶障害を利用してなんとかカネを得ようとする者たちばかりでした。

 レナードを本気で助けてやろうとする者はいなかったのです。

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★カネのためなら…『サミーの話』

 レナードが妻を犯した真犯人を殺したのは1年前のこと。それ以来ずっとこの周辺をうろついて探し回っているわけです。それなのに、誰もレナードの異変に気がつかない。

 レナードは奇妙な格好です。ジミーから奪った高級スーツを着てはいますが、毎日同じスーツに同じシャツ。そして車はジャガーですが、これもジミーのもの。外見上はお金がありそうなのに、泊まっているところはモーテルの部屋。

 ずっと長いこと、記憶障害の男が一年近く、仕事をするわけでもなくモーテルに宿泊していても誰も不審に思わないのでしょうか。ずっとカジュアルな服装ばかりだったのに、ある日、突然高級スーツを着て、ジャガーに乗ってモーテルに戻ってきても誰も何も思わないのでしょうか。

 皆、無関心なのです。

 レナードが記憶障害のせいで迷惑をかけていないか、とたずねるとモーテルの男は「お金さえ払ってくれればいいよ」。

 まさにこの通り。

 テディも麻薬取引でひと儲けするためにレナードを利用していましたし、ナタリーもレナードにトッドを始末させて、ジミーの麻薬を自分の物にしました。

 皆、お金。金さえ何とかなれば、レナードが何をしていようが、殺人を重ねようが、まったく気にしていない。自分さえよければいい。そのためにレナードのような哀れな奴を利用したっていい。

 金のために利用されたレナード。

 しかし、レナード自身もかつて金のために、人を傷つけたことがありました。『サミーの話』です。

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 サミーは保険金詐欺師でした。サミーには妻もいません。
 しかし、サミーの話は全くの作り話ではありません。

 レナードが保険会社に調査員として勤めていたのは事実です。そして、インシュリン注射の話はレナードの妻の話でした。

 しかし、サミーの保険金請求を容赦なく切り捨て、妻の懇願にもウソをつく保険調査員レナードの話は虚構ではありません。これらの話はレナードがこれまでに保険会社調査員として働いてきた記憶、もっといえばレナードの罪悪感が作り出したストーリーです。

 レナードは数多くの保険金審査請求を不適格として切ってきました。そのなかにサミーという詐欺師もいたのでしょう。しかし、実際には、保険金支給か不支給かギリギリの線で切ってきたケースも多かったはずです。彼は調査員として実績を上げたかったのです。

 そのためには、保険金の支給件数を減らして、"優秀な"調査員になることが必要でした。レナードがそのなかで感じてきた罪悪感の積み重ねがサミー・そしてサミーの妻というかたちに仮託して現われたもの、それがサミーのストーリーなのです。

 サミーの短期記憶障害は精神的障害に過ぎないと判断したレナードは、保険適用の「対象外」である、とサミーの妻に通告します。そして、これをきっかけにレナードは昇進し、オフィスに個室を構えるまでになります。

 その後も、サミーの妻が会社にまで出向いてきて、サミーの病気についてレナードと交渉している場面が出てきます。

 サミーの妻は「保険会社の人間という立場を忘れて、サミーが病気を装っているだけなのかどうか、教えてほしい」とレナードにすがりました。サミーが本当に病気ならば、そのつもりでこれからを生きていける。けれど、病気を装っているだけならば、それは妻にとっては辛すぎること。
 
 そのとき、レナードが答えたのは「新しいことは覚えられるはず」という答え。つまり、夫のサミーは病気ではなく、病気のふりをしているだけだ、そう答えたのです。実際には、レナードはサミーが真実、病気であることを知っていました。しかし、ここで正直な気持ちを話すことはやはりできませんでした。

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 サミーの案件はレナードが昇進するきっかけとなった案件です。仮に、ここで、サミーが病気であると言ってしまい、会社に保険金請求をされてしまったら、レナードの昇進は吹き飛んでしまいます。彼には、「会社の立場を離れて」答えることはできませんでした。

 しかし、この答えを聞いたサミーの妻はどうしても夫が妻をだましているとは思えません。そこで、それを確かめようと、インシュリン注射を打たせました。何度も。夫の愛は確かだと思うから、それを確かめたいから、何度も打たせたのです。

 夫が病を装っているだけなら、愛する妻を死なせないよう、夫は注射をやめるでしょう。しかし、夫は言われた通り、何度も注射を打ちました。「やはり夫は病気なんだ」。そういうことが分かった妻は悲嘆して死んでいったのです。

 保険金請求を拒否したところはサミーという詐欺師の話。インシュリン注射のところはレナードと妻の話。

 レナードは自ら妻を殺したという体験と保険金請求を結びつけ、サミーの妻がこうして死んでいったというストーリーを作り上げることで、数々の保険金審査請求をウソをついても切ってきたことの意味がようやく分かりました。

 レナードの妻もレナードの短期記憶喪失について保険金請求をして、同じ経験をしたのかもしれません。それは今となっては分かりませんが、レナードの妻が保険金請求をすれば保険会社がどのような対応をするか、保険会社の調査員だったレナードには容易に想像できたでしょう。

 サミーの妻が欲しかったのは、お金ではない。レナードはその一事に気が付いたのです。そして、「サミーは病気」だということ、この一言が言えなかった自分の責任の重さにも気がつきました。

 レナードがサミーを病気ではないと思ったことの理由の一つに、サミーがレナードを見るときに、前も会ったことのあるようなそぶりを見せるということがありました。

 しかし、今になって思えば、あれは記憶を無くしてしまうことを自覚しているサミーが少しでも覚えているようなふりをしただけなのだということが分かったのです。

 記憶を無くしてしまい、普通の生活が送れなくなっている自分を恥じて、少しでも普通の人間に見えるように振舞いたいというサミーの自尊心。その心がなせた業だったのだということにレナードは気がついたのでした。

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★お金だけ ?

 メメントではお金と人とのかかわりがクローズアップされています。金や利害関係が何よりも優先し、愛情関係や気遣いが後回しになる世界。その寂しさや孤立感を痛々しく描き出しています。

 人が死ぬときに大事なのはお金でしょうか。20万ドルを手に入れようとしたばかりにテディは命を落としました。レナードの妻はレナードの愛情を確かめようとインシュリン注射を繰り返させ、命を落としました。レナードは失った妻のぬくもりと愛情の影を追いかけて殺人を繰り返しています。
 
 レナードの妻が狙われたのは、1人暮らしだと思われたという理由でした。

 レナードは会社で昇進することを優先する仕事人間だったことが推測されます。レナードは家庭を顧みることなく、必死に働いて、昇進することばかりに目を奪われていたのでしょう。

 レナードが家に早く帰ることはめったになく、いつも深夜に帰宅する。いつも夜を1人で過ごす妻の姿を見た犯人たちは妻が1人暮らしだと思い込んでしまったのでしょう。

 事件が起き、夫が記憶障害に陥ったとき、妻は夫を疑うようになります。本当にレナードは病気なのか、と。

 疑いは晴れません。
 けれど、夫は私を愛してくれていたはず。妻はその愛情を確かめようと決意し、インシュリン注射を繰り返し夫に打たせました。夫が本当に病気なのだと分かった妻はそのまま死んでいったのです。

 仮に、病気になる前に、夫の愛情を十分に感じているならば、病気を「装っている」などとは考えないでしょう。

 しかし、夫の心と妻の心が離れているときに夫が記憶障害にかかってしまった。そうなると、もはや夫の愛情をことばで確認することもできません。妻は命をかけても、夫の愛情を確かめたくて、どうしようもなくなってしまったのです。

 寂しさと悲しさが入り混じった妻が起こした行動は妻に死をもたらしましたが、一方で、やはり夫は病気だったのだ、そう感じて安心する感情もあったでしょう。悲しいことですが、こうしなくてはいられない衝動にかられるほど、妻の心の虚しさは募っていたのです。

メメント


★メメント-Memento-

 "memento"には思い出・形見・遺品といった意味があります。

 そう言われると、死んだ妻の遺品をレナードが燃やす場面がすぐに浮かんできます。深夜に工場跡のような場所に行き、妻が何度も繰り返し読んでいた本を燃やし、時計やぬいぐるみ、くしなどの遺品を燃やす。

 本を燃やせば、「何度も同じ本を読んでいる」と話していた思い出がよみがえり、妻の顔を思い出さずにはいられない。結局夜明けまで遺品の燃えかすと一緒にレナードは座り込んでいました。

 これほどレナードは妻を愛していながら、妻は夫の愛情を確かめようとして命を落としてしまった。なぜ、生きているうちに、もっと妻に愛を伝えられなかったのか。レナードは苦悩したはずです。

 "Memento Mori."メメント・モリ。汝の死を忘れるな。という意味です。

 メメントといえば、この警句が思い浮かぶもの。当然、映画メメントもこれを意識してタイトルがつけられたに違いありません。

 絵画で取り上げられるメメント・モリの主題には骸骨や砂時計、ろうそくなどが描かれます。砂時計が表すのは、砂が落ちるように流れていき、いつか途絶える人生という時間、そして、ろうそくはふっと掻き消えるようにして終わる人生のこと。

 よく描かれた主題のひとつに、死神が金持ちと、貧乏人を同時に連れ去る場面があります。これは金持ちも貧乏人も死ぬときは同じという意味が込められています。

 同時に、名誉や欲、金銭は死ぬときには意味のないものに過ぎないという意味も。

 麻薬で大金を得るためにレナードを利用したテディ。
 やはり、麻薬を手に入れ、復讐を果たすためにレナードを利用したナタリー。
 妻への愛情を置き去りにして、仕事での出世に全力を傾けたレナード。

 そして、今レナードは、失った愛情の間隙を埋めようと虚しい殺人を続けている。彼らは金銭や復讐に執着し、それを何とかして手に入れよう、達成しようと夢中になっている。

 そんな彼ら、そして観客に向けられた警句がメメント・モリであり、映画のタイトル。それが「メメント」なのです。

メメント


★レナードの病気ってなに?

 レナードの病気は側頭葉性健忘症といわれる記憶障害のひとつ。側頭葉性健忘には2つの症状を含みます。

 まず、1つ目。
 たった今したことが覚えられず、自分の発言も覚えておくことができません。経験したことも正確に思い出すことができなくなります。

 また、何度も会っているのにその人の名前を覚えられなかったり、場所を覚えることもできません。

 この症状を前向性健忘症といいます。

 さらに、発症前に経験していた出来事もうまく思い出せなくなります。

 そして、かつて経験したことを思い出したとしても、時系列が混ざってしまったり、どこで起きた出来事かもあいまいになってしまうことがあります。

 この症状を逆向性健忘症といいます。

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 レナードはテディに電話をかけたことを忘れ、トッドの部屋に侵入しても、なぜそこに来たのかを忘れてシャワーを浴び出します。しかも、自分で捕まえて押し込めておいたトッドをクローゼットで見つけても、なぜ彼がそこにいるのか思い出せませんでした。

 また、レナードはテディやナタリーといった人の名前を覚えられず、いちいち写真とメモを見比べて確認していました。また、ずっと泊まり続けているモーテルも写真を撮っておき、道を聞いてからでないと帰ることができません。

 これは明らかに前向性健忘症の症状です。

 レナード自身は、妻が殺されたとき以前の記憶は正常だと思っていましたが、実はその記憶には大きな誤りがありました。
 レナードは妻は強姦した際に殺されたと考えていましたが、実際は、インシュリン注射が原因で死亡していました。

 サミーの妻は存在しないのに、存在すると記憶していました。そして、サミーのことを会計士と記憶していましたが、実際は保険金詐欺を働いた男でした。

 以上からレナードの事件前の記憶には誤りや錯綜が見られ、レナードには逆向性健忘症の症状が見られます。

 レナードは前向性健忘症と逆向性健忘症の2症状が見られ、これは典型的な側頭葉性健忘症であると診断されるでしょう。

 この側頭葉性健忘症は海馬の両側が損傷することによって発症します。妻を強姦した犯人に殴られた際に、それが原因となって発症したものと思われます。

 また、レナードが10分ほどしか記憶が持たないところを捉えて、前向性健忘症のみか、とも思われますが、実際の症例においては逆向性健忘症を併発することが通常です(加藤 元一郎: 記憶とその病態 . 高次脳機能研究, 28: 209, 2008 )。

 それに、レナードの症状には明らかに過去の記憶に関しても混同や錯乱が見られます。

 したがって、レナードは前向性と逆向性を併発する側頭葉性健忘症であるというのが正しいでしょう。

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モンスター

映画:モンスター あらすじ
※レビュー部分はネタバレあり

 シャーリーズ・セロンが13キロ太って役作りをし、実在のシリアル・キラー、アイリーン・ウォーノスを演じた。シャーリーズ・セロンはこの体当たりの演技が評価され、2003年アカデミー賞主演女優賞を受賞。アイリーンの恋人セルビーにはクリスティーナ・リッチ。

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モンスター2.jpgモンスター↑英語版ポスター。シャーリーズ・セロンは実際のアイリーンの写真にそっくり。.jpg


 アイリーンは流しの娼婦だった。毎晩、路肩に立っては男の車に乗り込み、体を売るのが彼女の仕事。彼女は現在の生活に絶望し、すさんだ毎日を送っていた。そこにセルビーという女性が現われる。セルビーはドナという女性の家に居候していた。ドナは親切だが、セルビーに何かと口を出すため、セルビーはドナの家での生活に居心地の悪さを感じていた。

 ある日、アイリーンは客の男にひどい暴行を受け、身を守ろうとして拳銃を取り出したアイリーンは男を撃ち殺してしまう。アイリーンは彼の車を奪い、セルビーを誘って町から逃げ出すことにする。セルビーとアイリーンはビールを飲み、肩を組んで歩き、酒場へ行って騒いで楽しい時間を過ごした。アイリーンはセルビーとなら、新しい人生を歩めるかもしれないと思い始める。



【映画データ】
モンスター
2003年(日本公開2004年)、アメリカ・ドイツ
監督 パティ・ジェンキンス
出演 シャーリーズ・セロン,クリスティーナ・リッチ,ブルース・ダーン,リー・ターゲセン,プルイット・テイラー・ヴィンス



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↑アイリーン・ウォーノス。1989年11月30日から90年11月19日までの約1年間に7人を殺した。2002年10月9日死刑執行、46歳だった。フロリダ州矯正省提供。

映画:モンスター 解説とレビュー
※以下、ネタバレあり

★依存しあう2人

 アイリーンとセルビーは相互に依存していました。アイリーンは生きる目的を全てセルビーに求め、セルビーは生きる糧を全てアイリーンに頼ります。2人は何を相手に依存するかが違っていました。アイリーンの場合は精神的にセルビーに依存していましたが、セルビーは金銭的にアイリーンに依存していました。だから、裏切るときも、セルビーはあっさり裏切ってしまいます。

 セルビーの場合は、アイリーンとの関係について損得勘定ができました。アイリーンとの関係が自分の得になるときには彼女との関係を保ちますが、損になると考えたときには手を切ることができます。

 しかし、アイリーンは違いました。アイリーンはこの世界に絶望して自殺したいと考えても、手元に残った5ドルを捨てることになるのが惜しくて、自殺を思いとどまったと言っていました。彼女は仕事や金銭に関しては損得勘定ができます。

 しかし、ことセルビーに関しては損得勘定ができません。セルビーに対しては犠牲を払っても、彼女に尽くそうとしました。セルビーの気楽な生活を維持するためにアイリーンは体を売り、彼女に金を渡す。最後には罪を全て被り、セルビーのために命まで犠牲にすることを決意しました。

 もちろん、殺人は殺人。アイリーンがしたことは連続殺人以外のなにものでもありません。しかし、それを知って黙認し、アイリーンの稼いだ金で家を借り、酒を飲み、友人と遊ぶ生活に興じていたセルビーの責任はまったくないとは言えないでしょう。

 セルビーは現実と夢の境が見えていません。「海沿いの家や本当の人生…、約束したのはあなたよ ! 」と言ってセルビーはアイリーンに怒鳴ります。売春や殺人で稼ぐお金でそんな夢のような生活が手に入るわけがない。なのに、セルビーは冗談交じりのアイリーンの言葉を本気にしていました。彼女は自分で苦労せず、夢を実現させることをただただ夢見ていました。彼女は「夢見る人」でした。

 一方、アイリーンは現実が見えていました。毎日、見知らぬ男の車に乗り、毎日体を売る。10代のころからこの仕事を続けてきたアイリーンは、この世が天使のような人間ばかりでないことは百も承知です。だから、彼女はこの世に疲れ切り、夢を見ることもやめていました。子供のころに見た大スターになるという夢。あのころは自分の夢がかなうものと信じ切っていた、という。アイリーンは自分の夢をあきらめました。

 しかし、セルビーに最後の希望をかけていました。彼女はあまりに純粋な人でした。セルビーはあまりに純粋にアイリーンの言葉を信じ、本気で夢を見ていたのです。アイリーンはセルビーに言います。「人は優しくて親切な者だって思ってきたろ ? それでいい、そうであってほしい」。アイリーンは自分の夢をあきらめる代わりに、セルビーに夢を見てもらいたかったのです。

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★裏切った観覧車

 アイリーンは観覧車のことを「モンスター」と呼びます。幼いアイリーンにとっては観覧車は最高の物に思え、それに乗るのが楽しみだったといいます。ところが、いざ、観覧車に乗ってみた幼いアイリーンは怖くてたまらず、吐いてしまうほどでした。

 アイリーンにとって最高の物に思えた観覧車は、実はモンスターでした。あんなに素晴らしい物に思えたのに、きっと今までにない幸せな体験をさせてくれるものに思えた観覧車はモンスターでした。暗闇にそびえる観覧車は大きくて恐ろしいものに見え始めます。心の中に抱いていた強い憧れは一瞬のうちに恐怖にとって変わりました。

 憧れの気持ちがあったからこそ、その分、余計に高いところから突き落とされる気分なのです。あらかじめ、怖いものだと分かっていれば、心構えができるでしょう。しかし、それが「最高のもの」と思っているときには、裏切られた衝撃を受け止める心構えもできていないし、身構える体勢にもないのに、急に恐怖のどん底に突き落とされてしまいます。だから、余計に怖い。

 観覧車に裏切られたアイリーンは再びこの恐怖を経験をすることになります。観覧車の後は男でした。彼女はきっと、「私を認めてくれる人が現われるはず」と男性と恋人関係になるたびに破綻してしまいます。アイリーンは恋人ができるたびに、観覧車に憧れを抱いたように、恋人関係に夢を見ました。そして、いざ観覧車に乗ってみたら恐怖のどん底に突き落とされたように、恋人関係も破綻し、恋人と別れてしまうことになります。

 アイリーンはこの繰り返しに疲れ果てていました。もう、男性そのものに憧れを持てなくなっていたアイリーンにとって、新しい恋人で友人、そして女性のセルビーは新鮮で、新しい希望をくれる存在に思えたのです。結局は彼女もやはり、観覧車と同じく、裏切るのですが。

 アイリーンは観覧車に裏切られ、男性に裏切られ、セルビーにも裏切られました。しかし、その状況になっても、アイリーンはセルビーに「あんたが好きだから、あんたを絶対裏切ったりはしない」と言います。彼女にとってセルビーは最後まで純粋な存在でした。もしくは、そう思い込もうとしていました。セルビーを観覧車と同じ存在にはしたくない。セルビーを今までの男たちと同じ存在にはしたくない。

 セルビーはこの絶望的な世界に生きたアイリーンが最後に見つけた夢だから失いたくありませんでした。裏切ったセルビーに対する愛がアイリーンの思い込みに過ぎなかったとしても、どのみち死刑判決を免れないアイリーンにとっては、この先セルビー以外の夢を見つけることは不可能です。アイリーンのしてきたこと、殺人や売春、強盗まがいの犯罪は全てセルビーのためでした。セルビーの愛を感じられる生活を続けるためでした。

 セルビーの愛がまがいものだったとするなら、アイリーンのしてきたことはまったく無意味だったことになってしまいます。アイリーンは最低な人生を送っていたのに、セルビーに出会ってからは本当の自分の人生を生きている気分だった。セルビーとの楽しい生活という夢が破れたとしても、せめて、セルビーの愛を信じていたい。アイリーンはセルビーをかばうため、という以上に、自らの「本当の人生」を守るため、全ての罪を背負う決意をしたのです。

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★世間の意見 -ドナの場合-

 セルビーを居候させていたドナ。彼女は敬虔なキリスト教徒であり、良き夫を持つ、模範的なアメリカ中流家庭の女性です。彼女の言葉は刺激的ですが、口にこそ出さないにしろ、多かれ少なかれ、世の中では一般的に持たれうる考えでしょう。映画「モンスター」のなかでは3種類の人間が出てきます。セルビーは世間を知らない、無知な存在、アイリーンは世の中の汚れを一手に引き受ける世間から外れた存在、そして、ドナという女性はその2人の中間、世間を代表する人物としての存在。

 ドナの言葉には黒人差別的な発言が出てきます。しかし、ドナは決して特別な人間ではありません。人種差別が世間の人々の意識から全くなくなったと考えるのなら、それは大きな間違いです。人々の心の奥底には、潜在的な人種差別観念が残っています。普段、絶対口には出さないし、もしかしたら無意識かもしれませんが、確実に差別意識は残っています。ドナはそれを言葉に出しただけ。しかも、彼女の言葉で注目すべきところは、差別発言ではありません。彼女の言葉からはもっと広い意味の人々に対する差別意識の存在が窺われます。

 彼女の言葉を整理して説明するとこうです。まず、世の中には「社会の落ちこぼれ」がいます。そして、その「社会の落ちこぼれ」には2種類の人間がいます。1つは「生まれつき」落ちこぼれる者、その例が黒人。そして2つ目は「選択を間違え」た者、その例はホームレスや同性愛者、そしてアイリーン。そして、彼らが道を誤った理由は「安易な生き方」を選択したからだ、と言います。

 アイリーンに売春から足を洗うという選択肢を要求することは簡単です。ドナはまさにその考え方の持ち主でした。売春という誤った生き方から抜けられないのはアイリーンが誤った選択をしたから。どんな仕事であれ、アイリーンは普通の仕事につけばよかったのだ。ドナにとって、アイリーンは売春という簡単にカネを稼げる手段に頼る生き方をしている、社会の落ちこぼれなのです。

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★立ちはだかる現実

 ドナに反駁することは可能ですが、一方で、これは世の中で広く通用している論理です。まともに働こうとしないから、ホームレスになる、一生懸命に働こうとせず、簡単に稼ごうとするから娼婦になる。彼らは生まれつき肌が黒く、野蛮に生まれついた黒人と違い、選択の余地があった。にもかかわらず、自らその道へ堕ちていったのだから、「選択を間違え」た者たちなのだ。

 この論理は働こうとする者に平等にチャンスが与えられ、働いた分に比例して報酬が出るというように、労働の機会・意欲と報酬が完璧に比例し、連動して機能する社会においては通用するでしょう。しかし、実際にはそうではありません。まず、就職自体が難しい。特にアイリーンのように、30歳前後の女性がキャリアもなしに、突然、オフィスワークに就職することはできません。しかも、アイリーンは前職が売春婦。

 職業安定所に行ったアイリーンが工場の作業員くらいの職しかないよ、と言われ、結局はその作業員の職すら得られなかったというシーンがありました。アイリーンは工場の仕事なんて、とバカにしていましたが、現状に照らせば、たとえ工場の仕事が嫌であっても、アイリーンは働くべきでした。

 しかし、工場で働く気がアイリーンにあったとしても、そもそもアイリーンは工場の仕事にすら、就くことはできなかったでしょう。アイリーンは初等レベルの教育すら、受けておらず、対人関係の築き方にも問題があります。荒んだ生活をしてきたアイリーンには協調性が欠けていました。彼女の場合、生活態度の基本から変えていく必要があります。そうでなければ、たとえ、工場の作業員として就職できても長く働き続けることは難しいでしょう。

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★地獄の連鎖

 つまり、アイリーンの場合、まず就職すること自体が難しく、仮に就職できても働き続けることが難しい。現実的には簡易なアルバイト程度の職に就くしかありません。その仕事では生活を維持できるだけの賃金を稼ぐことはできません。売春をしていれば、1人の客を取るだけで3000〜4000円のカネが手に入りました。一晩で取る客は複数になるでしょうから、一晩で1万前後は稼ぐことができるでしょう。一般的なアルバイトなら、1日10時間以上働いてようやく稼げる額です。

 結局、アイリーンは地獄の連鎖から逃れることはできません。この生き方をドナのように「安易な生き方」と非難することは簡単です。もちろん、一度にまとまったカネを稼げる売春から足を洗いきれなかったアイリーン個人に責任があることは否定できません。

 しかし、この"安易な"生き方に10代の少女だったアイリーンを追い込み、そこからの出口を塞いでしまっているのは、アイリーンのような選択を誤った人々を冷笑的に見ている社会の責任でもあります。そもそも、アイリーンが娼婦になったのは13歳で子供を産んでからでした。彼女は8歳のころから近親相姦もされていたといいます。親から虐待され、13歳で家を追い出されたアイリーンを助ける者は誰もいませんでした。

 10代の少女に一体、どうしろというのでしょうか。アイリーンは生きるため、文字通り、生きていくためにお金を必要としていました。13歳のアイリーンにとって、ドナのいう「安易な生き方」以外の生き方はなく、アイリーンは売春の道を選ぶしかありませんでした。ドナの言う「安易な生き方」とは、アイリーンがこの社会で生きるための「唯一の生き方」と同義なのです。

 そして、その売春の仕事でカネを稼げるために、アイリーンが売春以外の仕事に就かなかったことを非難されねばならないのでしょうか。

 例え、売春であれ、いったん、カネの稼げる仕事を知ったアイリーンにその仕事を捨て、アパートの賃料を支払ったら生活費すら残らないような仕事に就けというのは相当の覚悟を要求するものです。

 しかも、アイリーンが売春を覚えたのは、親に虐待され、10代のうちから道路に立つことを余儀なくされたからでした。親の愛を受け、学校に行って、友達と遊び、恋愛をして、仕事に就くことができていたなら。性的虐待を受けたアイリーンは、自らの体に蔑みの感情を抱き、自分自身を大切にすることができませんでした。そして、アイリーンは何より愛情に飢えていました。

 アイリーンが売春に走ったのは、カネが稼げるから、そして、何より自分を貶めたセックスという行為を自らの意思で行うことで、自分に対するコントロール権を得られるからです。親から性的虐待を受け、自分自身を翻弄されてきたアイリーンにとって、誰かに強制されるのではなく、自らの意思でセックスをするということは、虐待をしていた親と同じ立場にアイリーンが立てるということ。アイリーン自らが自分の体をコントロールし、セックスの相手を支配できる。

 アイリーンの心の傷がセックスを求め、生きるためのカネの必要性が売春を後押ししていました。社会から「落ちこぼれ」ていくアイリーンを助けてくれる者はおらず、アイリーンのような居場所を失った子供たちを助けるセーフティネットも存在しませんでした。

 親に捨てられた子供を無一文で放り出し、売春という選択肢だけを10代の少女に与えてしまった社会には十分に負うべき責任があるのです。すべての責任をアイリーン個人に押し付け、社会には何も責任はない、と言い切るのは、悲劇的な家庭環境になく、体を売る職業に就く必要のなかったドナのような社会の大勢の人間のエゴでしかありません。

 虐待を受けた10代のアイリーンを救う制度的枠組みがあり、アイリーンに売春以外に生きる道が用意されていて、それでもアイリーンが売春という道を選んだなら、そのときには、社会は彼女に対して何も責任はない、と初めて言えるのではないでしょうか。

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★セルビーの愛、アイリーンの愛

 「この世で大事なのは愛だけじゃない」とドナはセルビーを諭します。「そのうち、まともな暮らしがしたくなるわよ、例え、男の人と寝なきゃいけなかったとしてもね」。つまり、同性愛者のセルビーでも、金銭的な安定を手に入れるため、男性と結婚しても落ち着いた生活をしたくなるわ、とドナはセルビーに助言しているのです。

 セルビーはドナの言葉に怒り心頭です。ところが、こと、「カネ」に関してはセルビーは言われるまでもありません。セルビーの言う「愛」には金銭的な意味も含まれていました。セルビーは同性愛者だから、男性と生活するよりは、女性と生活したい。セルビーはアイリーンに「夫役」を求めました。アイリーンに稼がせ、自分を養うようにと求めたのです。セルビーはアイリーンとの関係が、純粋に金銭的な関係だとは思っていません。セルビーにとっては、これも「愛」。愛しているなら、生活に困らないようにすることなど当たり前、というわけです。

セルビーにとって、愛とは"カネに困らないように自分を世話すること"を含んでいました。セルビー自身は自分がアイリーンに求めているものがカネではないと思っていました。しかし、アイリーンが純粋な存在だと信じたセルビーの愛にはカネが大きな役割を果たしていることは否定できません。セルビーの愛はいわゆる"純粋な愛"ではありません。純粋なのはむしろ、アイリーンの方。常に純粋な愛を追い求め、そのたびに絶望を味わってきたアイリーンは、無垢な愛をセルビーに捧げていました。

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★「モンスター」

 アイリーンは何人もの人間を殺した恐ろしい人間。連続殺人者です。しかし、近親相姦され、13歳で子供を生み、家を追い出されてホームレスとなり、娼婦として生計をたてるしかなかった彼女だけが「モンスター」なのでしょうか。

 本当のモンスターはアイリーンを連続殺人に走らせた"何か"ではないのか。

 それはセルビーその人であり、ドナであり、このアイリーンが暮らす社会です。愛情とカネを混同し、アイリーンに"愛情"という幻を見せたあげく裏切ったセルビーは、アイリーンの抱いたはかない憧れを裏切った観覧車のよう。そして、アイリーンのような人々を蔑むドナのような人々、「社会の落ちこぼれ」に出口を与えず、放置する社会。

 愛情を装いつつ、セルビーはアイリーンを裏切り、人々や社会は最下層を生きるアイリーンのような人々を軽蔑し、黙殺します。そして、アイリーンがシリアルキラーとして逮捕されたときに、彼女の存在は「モンスター」としてクローズアップされる。アイリーンがどれだけ残酷に、どれだけ沢山の人を殺したか。アイリーンの苦しみは知られることなく、「モンスター」は死刑となり、この世とのつながりが断たれます。そして再び、彼女のような、逃げられない痛みを味わっている社会の最下層がいることも忘れられる。

 アイリーンのような社会の枠からはみ出た人間たちはこの世に存在しないも同然の存在です。人間ですらなく、彼らは「モンスター」。モンスターが問題を起こしたなら、そのモンスターは社会から抹殺すればいい、アイリーンのように。確かに、連続殺人者・シリアルキラーはモンスターの名にふさわしいでしょう。しかし、そのような「モンスター」を生み出す社会が本当の「モンスター」であることには、社会はまだ、気がついていないのです。

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マルホランド・ドライブ

映画:マルホランド・ドライブ あらすじ
※レビュー部分はネタバレあり

 不可思議で、ユニークな世界観を持つ映画を多々、世に送り出してきた監督デウィッド・リンチ。「マルホランド・ドライブ」でもその腕をいかんなく発揮し、謎めいたストーリーを展開している。主人公の女性を演じたのはナオミ・ワッツ。「マルホランド・ドライブ」は彼女の出世作となった。本作は映画祭での評価も高く、2001年の第54回カンヌ国際映画祭で監督賞を受賞した。

 あらすじ以降の『解説とレビュー』では、「マルホランド・ドライブ」の解説と謎解きをしています。この映画は決して、わけのわからない"アートな"映画ではありません。『解説とレビュー』では、「マルホランド・ドライブ」の全体像を概観した後、細かい部分の謎解きをしていきます。

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 ロサンゼルス、ハリウッド。深夜、マルホランド・ドライブを走る一台の車があった。乗っているのは黒い髪の女性、リタ。しかし、暴走する若者たちに巻き込まれ、リタの乗る車は事故に遭ってしまう。幸運にもリタは生きていた。彼女は命からがら現場を逃げ出し、そのまま住宅地へと降りていく。リタは、一軒のマンションへ忍び込むのだった。

 翌朝、ロサンゼルスの空港に1人の女性が降り立つ。ベティというこの金髪の女性は女優を目指してハリウッドへとやってきたのだった。彼女は女優である叔母の家へとやってくる。叔母が留守の間、彼女の家を借りる約束になっているのだ。

 しかし、ベティは家にリタがいるのに気が付く。リタはベティの叔母の知人だと嘘をつくが、実際には彼女は記憶喪失になっていた。リタに興味を持ったベティは彼女の記憶探しに協力することにする。




【映画データ】
マルホランド・ドライブ
2001年(日本公開2002年)・アメリカ,フランス
監督 デウィッド・リンチ
出演 ナオミ・ワッツ,ローラ・ハリング,ジャスティン・セロー,
アン・ミラー



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映画:マルホランド・ドライブ 解説とレビュー
※以下、ネタバレあり

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(左)"ベティ"ことダイアン   /   (右)"リタ"ことカミ―ラ


★ダイアンの夢、辛い現実

 「マルホランド・ドライブ」のストーリーは"ベティ"ことダイアンの夢と妄想の産物です。マルホランドを生みだしたのは、ダイアンの愛した"リタ"ことカミ―ラとダイアンの現実に存在した愛憎劇でした。そして、この2人の悲劇を眺めていたのはカウボーイこと死神です。カウボーイはカミ―ラの死、そしてダイアンの死を見届け、「クラブ・シレンシオ」という舞台を用意して、カミ―ラとダイアンの悲劇を「マルホランド・ドライブ」というドラマに仕立て上げました。

 ダイアンの見た夢とは一体何だったのでしょうか。そして、彼女がどうしてそのような夢を見てしまったのか。ダイアンの夢の謎解きをしつつ、「マルホランド・ドライブ」のストーリーを整理してみましょう。

 ダイアンの見た夢は現実とは正反対の、何もかもがうまく行っているもう一つの並行世界でした。この夢の世界ではダイアンは女優の卵で、その叔母は名優として知られる女優です。才能に溢れたダイアンはオーディションで神がかり的な演技を見せ、監督やプロデューサーを圧倒する実力を持っていました。ダイアンには女優として成功する将来が見えていました。一方、カミ―ラは記憶喪失になり、ダイアンに頼り切りになっています。カミ―ラはダイアンの言いなりで、ダイアンの助けなしには何もすることができません。ダイアンとカミ―ラは愛し合うようになり、その幸せを邪魔する者はいませんでした。

 ダイアンは完璧すぎる、都合の良い現実を夢想し続けていました。現実は正反対、ダイアンの予想を越えて厳しいものでした。

 カナダの故郷を出て、やって来たハリウッド。そこは「夢の都」でした。ダイアンの夢は映画女優としてスターになること。しかし、オーディションを受けても、ダイアンの才能は認められることはなく、つまらない端役がせいぜいでした。かつてダイアンが故郷で夢見たような華々しいスクリーンでの活躍は望めません。一方、当時無名だったカミ―ラも、ダイアンと同じく、女優を目指していました。ダイアンとカミ―ラは同じ映画のオーディションを受けたこともありました。その後、主役の座を射止め、成功したのはカミ―ラ。カミ―ラは映画の撮影現場でダイアンに出会います。

 ダイアンにとってこれは運命の出会いでした。ダイアンはカミ―ラは愛し合うようになります。しかし、その幸せは長くは続きませんでした。カミ―ラは映画監督のアダムと出会い、恋人関係になったのです。カミ―ラはダイアンに対して、つれない態度を取るようになりました。カミ―ラとダイアンはアダムのことでケンカをするものの、ダイアンはまだ、2人の関係が修復できるという希望をもっていました。しかし、このはかない希望が葬り去られる日が来ます。カミ―ラはパーティにダイアンを招待し、アダムとの婚約を発表したのです。それだけでなく、ダイアンの目の前でカミ―ラが彼女の新しい女友達とキスをする様子を見たダイアンは激しいショックと憤りを隠せませんでした。

 そして、ついにダイアンは重大な決断を下します。彼女はカミ―ラを殺害する決心をしたのです。ダイアンはウィンキーズというダイナーで殺し屋の男に会い、カミ―ラの殺害を依頼しました。殺害は実行され、成功します。カミ―ラはこの世から消えました。カミ―ラの殺害が成功したサインは青い鍵。この鍵がダイアンに届けられたなら、それはカミ―ラの死を意味していました。

 殺し屋にカミ―ラの殺害を強い決意で依頼したダイアンでしたが、激しい後悔と自責の念にかられ、カミ―ラの殺害が失敗したらいいのに、と考えるようになりました。彼女は3週間もの間、まるで死んだかのように部屋に閉じこもり、カミ―ラとの理想的な人生を夢想し続けます。しかし、その夢が破られるときが来ました。死神がダイアンを起こしにやってきたのです。

 ダイアンはふらふらと起き上がりますが、もう彼女は抜け殻のよう。カミ―ラの幻影を見たり、過去の記憶を辿りながらソファに座りこんでいました。そして、目の前のテーブルの上には青い鍵。カミ―ラの殺害は成功していたのです。そこに、激しいノックの音が聞こえてきました。ダイアンを探していたという警察でしょうか。追い詰められたダイアンはついに自殺してしまいました。

 ダイアンは現実から逃げるために夢想し続けていました。破れた女優への夢、そして、何より愛するカミ―ラを自ら手を回して殺してしまったことへの後悔。しかし、現実から逃げれば逃げるほど、心の重荷はダイアンを押し潰していきました。ラスト、ダイアンの部屋にドアをノックする音が響き渡り、扉の隙間から忍び込んできた2人の小人が大きくなってダイアンに迫ってきました。

 この2人はダイアンがロサンゼルスへ来る途中のフライトで一緒になった夫婦でした。現実には、ドアをノックしていたのは恐らく警察です。警察はダイアンを捜査対象に置き、彼女をマークし続けていました。夢の中で、ダイアンの家にカミ―ラとともにやってくる途中でカミ―ラが怯えていた車の中の2人の男は刑事だったのでしょう。警察に追われているという強迫観念、そして、カミ―ラを殺した罪悪感。これらに追われて、ダイアンは死を選択しました。

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★夢・回想・現実

 「マルホランド・ドライブ」はダイアンの夢(妄想)、回想、現実の3つの部分から成り立っています。大きく分けて、死神がダイアンを起こしに来るまでが主にダイアンの夢、そして、それ以降は回想と現実が入り混じっています。この3つを見分ければ、難解なストーリーを理解する助けになるでしょう。

 例えば、ダイアンを訪ねてきた隣人の女性は警察がダイアンを探していたことには触れますが、ベティとリタという2人の女が訪ねてきたことには全く触れません。ということは、ベティとリタという女の訪問は現実にはなかっただろうということが推測でき、ベティとリタの訪問の場面はダイアンの妄想に過ぎなかったということが分かります。

 また、ダイアンの夢は現実にあったことをベースにして展開していることがあります。例えば、カミ―ラがマルホランド・ドライブを走行中に車を止められるシーンは、ダイアンの妄想ですが、これは、マルホランド・ドライブの途中で車を停められたダイアンがカミ―ラにパーティへと連れて行かれる現実に起きたことの焼き直しです。

 また、ウィンキーズで2人の男性が会話するシーンは、ダイアンの妄想ですが、これは、ウィンキーズでダイアンが殺し屋にカミ―ラ殺害を依頼する現実の出来事に似ています。さらに、カミ―ラがウィンキーズのウェイトレスの名札を見てダイアンという名前を思い出すシーンは、ダイアンの妄想ですが、これは現実にダイアンがウィンキーズのウェイトレスのベティという名札を見るシーンによく似ています。また、ダイアンの妄想の中での名前ベティはこれに由来するものです。

 ダイアンは「こうであったら良かったのに」という自らの強い願望も夢の中に織り込んでいました。彼女の願望ですから、夢の中では現実と正反対の出来事が展開することになります。例えば、夢の世界では、カミ―ラの恋人・アダムには妻がいることになっています。しかも、妻は家に出入りする業者の男と不倫中で、情事の最中にアダムが踏み込んでしまうという喜劇のような落ちまでついています。さらに、監督の仕事は彼の思うようにはいっておらず、映画の制作会社からの圧力を受け、キャスティングを巡ってトラブルになっていました。このように、ダイアンの夢の中では、現実と異なり、アダムは散々な目に遭っています。これは、恋人のカミ―ラを奪われたダイアンのアダムに対する復讐心、そしてダイアンと違い、映画の仕事も順調なアダムに嫉妬する心が生み出したものです。
 
 また、映画の主役女優として選ぶように圧力を受けたアダムが選んだ女優はカミ―ラ・ローズ。この"カミ―ラ"は現実にはカミ―ラの友人の一人です。彼女はアダムとカミ―ラの婚約発表の席で、ダイアンの目の前でカミ―ラとキスをしていました。ダイアンとしては、カミ―ラがアダムと婚約したことと同じか、それ以上にカミ―ラとこのカミ―ラの友人の親密な関係に傷つきました。ダイアンの夢の中では、カミ―ラとその友人は知り合いですらなく、カミ―ラと親密な関係になる可能性すらありません。加えて、ダイアンとカミ―ラのどちらも主演女優に抜擢されることはありません。現実には、カミ―ラとダイアンの関係はカミ―ラが人気女優になるにつれて崩れていきました。ダイアンは2人の関係を崩す要素を排除しようとしていました。これもダイアンの願望が反映された部分です。

 他には、褒められすぎるオーディションのシーンや、間抜けすぎる殺し屋のシーンがあります。夢の中でのダイアンのオーディションは大成功です。プロデューサーは手放しで彼女を称賛し、監督のボブは慎重な言い回しながらもダイアンの才能を認め、さらにキャスティングエージェントにスカウトまでされる、というまさに夢のような展開になるのです。ハリウッドに来て初めてのオーディションで一気にスターダムへの道筋をつけるという夢想。これはまさにダイアンの抱いていた願望そのものであり、逆に言えば、これはダイアンの経験した現実の裏返しであるということになります。

 現実にはオーディションは失敗でした。ダイアンはボブに才能を認められることはなく、リニーにスカウトもされません。ダイアンは自らの才能を認めない監督に深い失望感を抱きました。夢の中でダイアンをスカウトしたキャスティング・エージェントのリニーはボブの才能をけなす発言をしています。これはダイアンが現実世界で感じたボブに対する失望感が反映されたものです。ダイアンの才能を見出せない監督のボブ―ダイアンは自分に女優の才能があると思っていた―をリニーの口を借りてけなすことで、ダイアンは傷ついたプライドを取り戻そうとしていました。

 間抜けすぎる殺し屋のシーンもダイアンの夢であり、また、彼女の願望が反映したシーンです。殺し屋はターゲットを殺す際にへまをして、次々に他人を巻き込み、大騒動を引き起こしてしまいます。まるでコメディ映画のワンシーンを見ているかのような展開です。このどたばたコメディの筋書きを書いたのはダイアン。女優志望だった彼女らしい"映画のような"展開です。もし、現実の殺し屋が間抜けで仕事のできない男だったら良かったのに、そう願うダイアンの心情が反転して反映されたシーンの一つです。

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★ダイアンの回想

 さらに、ダイアンは過去に起きた出来事を思い出していることがあります。これは、ダイアンの夢あるいは妄想とは異なり、現実にあった出来事をダイアンが回想しているシーンです。これらの回想シーンはおおむね、真実なのですが、細部についてはつくり変えが起きています。誰しもそうですが、しばしば、過去の記憶というものは完全なものではなく、部屋のインテリアやレストランの食器などの、ストーリーの大筋を外れる部分は記憶がおろそかになるものです。ダイアンも全く同じでした。そのため、ダイアンの回想シーンをよく見ていると、小物がおかしいところが何点か出てきます。例えば、茶色のコーヒーカップ。下部が膨らんだ形のこのコーヒーカップは「マルホランド・ドライブ」中、3回出てきます。

 最初の登場シーンはウィンキーズで2人の男性が会話しているシーン。2度目はダイアンが自宅でコーヒーを淹れているシーン、そして最後はやはりウィンキーズでダイアンが殺し屋にカミ―ラ殺害を依頼しているシーン。確かに、ダイアンの家のコーヒーカップとウィンキーズのコーヒーカップが同じものだったということも考えられなくはありませんが、あまりにも奇妙な一致、と言わざるを得ません。

 この3つのシーンのうち、現実の場面は2度目のシーンだけです。1つめのダンともう1人の男性が話をしているシーンはダイアンの夢の中ですし、3回目のダイアンと殺し屋のシーンはダイアンの回想。従って、このコーヒーカップは本来、ダイアンが家で使っているカップであるということが分かります。

 また、茶色のコーヒーカップと同じ現象が起きている部分があります。それはダイアンとカミ―ラがソファで戯れたのち、アダムのことでいさかいをするシーンです。2人がいるソファの前に置かれたテーブルにはピアノを象った灰皿が置いてあります。しかし、この灰皿はダイアンと部屋を交換した隣人女性のものでした。彼女はダイアンの部屋に置きっぱなしだった荷物を引き取りに来た際に、この灰皿も持って帰っています。しかし、このシーンの時点では、ダイアンは部屋を交換していないはずです。

 なぜそれが分かるかというと、隣人女性の荷物と彼女の言動です。彼女は3週間も呼び鈴に応じなかったダイアンを責めていました。部屋に荷物があるのに引き取れないからです。ということは、ダイアンは彼女と部屋を交換した直後に失踪したか、部屋に閉じこもっていたということになるでしょう。荷物を早く引き取りたがっていた隣人の言動を考えると、部屋を交換してから何日も他人の部屋に自分の荷物を放置しておくことは考えにくいからです。一方、カミ―ラとダイアンはケンカした後、カミ―ラからの電話を受けてダイアンはカミ―ラの婚約発表パーティへと行っています。そして、ダイアンはカミ―ラ殺害を決意し、殺し屋にカミ―ラ殺害を依頼する、という流れになるわけです。

 ケンカから殺し屋の依頼に至る一連の流れが1日や2日で過ぎるものであるとは思えません。ケンカした時点より前にダイアンが部屋を交換したなら、隣人は荷物を取りに来る余裕があったはずです。ダイアンが深刻な精神状態に追い込まれるのはパーティに出席して以降のことです。このような状況の中では、ダイアンが部屋の交換に応じるような余裕があるとは思えません。従って、ダイアンが部屋を交換したのはケンカの後、という推論ができます。そうだとすると、カミ―ラとケンカをしたとき、ダイアンの部屋にこのピアノ形の灰皿があるのは本来はおかしいのです。従って、このシーンもダイアンが回想しているシーンであるということになるでしょう。

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★ウィンキーズの謎

 ごくごく平凡な、町のダイナー、ウィンキーズ。しかし、ここではさまざまな出来事が起きていました。このダイナーが初めて登場するのは、2人の男性が会話をするシーンです。そこでは、1人の男が夢の話をしていました。彼は2度、このダイナーを夢で見たと言い、相手の男性がカウンターのところにいて、怯えているのを見て自分はもっと怖くなった、と話しています。そして、その恐怖の原因は店の裏にいる男のせいだというのです。

 さて、実際に店の裏には不気味な姿の人間がいました。黒ずんだ顔にはまるで生気がなく、生きている人間とは思えないような恐ろしい顔をしていました。

 次にこのダイナーが登場するのはベティことダイアンと、リタことカミ―ラが警察に電話をするシーンです。ダイアンは警察にマルホランド・ドライブで事故があったかどうかを問い合わせるため、ダイナーの外に設置された公衆電話を使用していました。そして、その後、2人はウィンキーズで食事をしています。そこで、カミ―ラはウィンキーズのウェイトレスの名札を見て、"ダイアン"という名を思い出すのでした。

 最後にウィンキーズが登場するのは、ダイアンと殺し屋の男が会っているシーンです。2人は待ち合わせ場所にウィンキーズを選び、ここでダイアンはカミ―ラ殺しを依頼することになりました。
 これらのエピソードが意味するところは何でしょうか。

 まず、3つのエピソードのうち、実際に起きたのは1つしかないことに注意する必要があります。それはダイアンと殺し屋の面会のシーンです。この部分だけは現実に起きた出来事でした。それでは、残り2つは何だったのかというと、これらはダイアンの妄想です。

 1つめのエピソード、2人の男性のシーンにダイアンは登場しません。しかし、このシーンこそ、マルホランド・ドライブの謎を解く上で、もっとも重要なシーンであるとも言えます。まず、夢を見たと話しているダンという男は現実にダイアンが見かけたことのある男性でした。彼は、ダイアンが殺し屋にカミ―ラ殺しを依頼しているちょうどそのときに、ダイナーに居合わせ、ダイアンと目が合っているのです。ダイアンは店の入り口側に向かって座っていました。彼女はカウンターで支払いをしようとしているダンにたまたま目を遣り、ダンと視線が合ってしまいます。

 ダイアンとダンが知り合いだったかどうかは定かではありませんが、恐らく、ダンはダイアンと何の関係もない、偶然居合わせただけの人物であったのでしょう。ではなぜ、ダイアンの妄想に出てくるほど、ダンはダイアンに強い印象を与えたのでしょうか。それは、ダイアンが今まさに、カミ―ラを殺すという重大な決断を下した瞬間にダンと目があったからです。殺し屋にカミ―ラの写真を渡し、カネも渡した。そして、殺し屋が青い鍵をダイアンに取り出して見せた次のタイミングでダンと目があった。ダイアンの妄想の中で、ダンはカウンターのところにいる相手の男性が怯えているのを見て自分も怖くなった、と話しています。しかし、実際には、怯えていたのはダイアンでした。ダイアンが踏み出してはならない道へと踏み込んだそのときに、ダイアンを直視していたダンの印象はダイアンに深く刻みつけられ、ダンはウィンキーズの裏手に男がいるかどうか確かめに行くという役割を果たすことになりました。

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★黒い男は何者か

 では、このウィンキーズの裏手にいた不気味な黒い男は一体何者でしょうか。この男は「マルホランド・ドライブ」の中で2度、登場しています。1度目はダンがウィンキーズの裏手に行ったとき、そして2度目はダイアンが妄想から覚め、カミ―ラとの過去を回想した後でした。

 この黒い男はダイアンの後ろめたい気持ちや自責の念が形となって現れたものです。ダイアンの妄想の中では、ダイアンはときに別人となって行動しています。ウィンキーズのエピソードでもそうでした。繰り返し夢を見、ウィンキーズの裏手にいる男に怯えるダンはダイアンその人です。彼女はカミ―ラを殺してしまったという罪悪感に苛まれ、眠れない日々を送っていました。朦朧とするダイアンの意識のなかで、蘇るのは殺し屋にカミ―ラの殺害を依頼したあの場所、ウィンキーズです。あのとき、カミ―ラ殺しを依頼しなければ…と、ダイアンは後悔していました。あのダイナーが全ての出発点になった、その思いがダイアンの中にありました。黒い男がウィンキーズの裏手に潜んでいるのはそのためです。

 また、ダイアンの妄想の中で、ダイアンとカミ―ラがダイアンの部屋を訪れたとき、寝室に横たわる死体は黒くミイラ化した顔でした。この顔はウィンキーズの裏手にいた黒い男の顔と同じようにも思えます。実際にはダイアンが寝ていただけでした。この段階ではダイアンはまだ生きています。自殺するのは妄想から覚めた後のこと。生きているダイアンが黒い男と同じ顔をしていたというのはこれもまた、ダイアンの罪の意識が現れたものであると言えます。それと同時に、ダイアンにはもっと利己的な欲求がありました。それは妄想から覚めたくないという願望です。少しづつほころびかけてはいますが、妄想の世界では何もかもがうまくいっている。現実には目覚めたくない。その思いが、ベッドで眠るダイアンの顔を分からなくさせた理由であり、ウィンキーズの裏手の男を確かめに行ったのがダイアン本人ではない理由でした。

 2度目に現れたウィンキーズの裏手の男は青い箱を紙袋に入れ、足元へボトリと落とします。地面に落ちた紙袋からは2人の小人が笑いながら出てきました。この小人たちはダイアンの家に入りこみ、最後にはダイアンを自殺へと追い込んでいきます。

 青い箱はダイアンにとって、青い鍵をカミ―ラの殺害成功の合図以外の用途に使うことのできる唯一の道でした。その箱を紙袋に入れて捨てるということは、ダイアンがカミ―ラを殺してしまったという現実を変えることはできないことを悟ったことを意味しています。そして、紙袋に入れて捨てられた青い箱からでてきた小人たちはダイアンの焦燥感や危機感、世間の目の現れです。カミ―ラを殺したダイアンがこれから受けるであろう警察の追及や、世間の非難…ダイアンはカミ―ラを殺した罪の意識に加えて、その後に巻き起こる数々の試練を思い起こし、その圧力に耐え切れずに自殺していきました。

 黒い男はダイアンその人だったのです。
 
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★青い箱から出てきた小人たち

 青い箱から出てきた2人の小人はダイアンが空港でたまたま会ったあの老夫婦です。彼らはダイアンの部屋に入り込み、最後はダイアンに叫び声を上げながら迫ってきました。この老夫婦はダイアンが希望に満ちあふれていた時期に出会った人たちです。これからハリウッドで成功するのだという強い意気込みでロサンゼルスに降り立ったダイアンに対して、老夫婦はダイアンを励まし、期待の言葉をかけてくれた人たちでした。しかし、現状はどうでしょう。女優の仕事は鳴かず飛ばず、愛する人にも裏切られ、ダイアンはどん底です。しかも、その最愛の人を殺害するという行為にも及んでしまった。かつて、ダイアンがまとっていたあの空気、田舎から出てきたばかりの、清純で、夢に溢れて輝いていたあの雰囲気はもうどこにもありません。

 今のダイアンを見たら、あの老夫婦は何と思うでしょうか。きっと、ダイアンのことを大きな夢を見過ぎた愚かな娘と蔑み、嘲笑するに違いない。それだけではない、女優になれるなどと浅はかにも思いこみ、夢を語っていた私を、「女優になどなれるわけがないのに」と初めからバカにしていたのだろう、とダイアンは思い込みました。ダイアンの妄想の中で、老夫婦は彼女と空港で分かれた後に、タクシーの中で膝を叩いていやらしく笑っています。
そして、それは老夫婦のダイアンに対する評価というだけでなく、ダイアンに対する世間の評価でもあるでしょう。ダイアンにとって、あの老夫婦は世間の目、愚かなダイアンに対する社会的評価の象徴的存在でした。

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★ダイアンの夢見たハリウッド―映画の冒頭から―

 「マルホランド・ドライブ」の冒頭はダンスを踊る人々のシャドーで幕を開けます。そして、突如、中央に現れるのは白い人影。3人一組のものと、ダイアン単独のものがあります。3人のうち、中央にいるのはダイアン。これらはダイアンの故郷、オンタリオで行われたダンスパーティーの様子を表したものです。ダイアンはこのパーティでクィーンに選ばれたのでしょう。3人の人影のうち、ダイアンの両脇にいるのは年格好から見て彼女の両親ではないでしょうか。そして、中央に1人だけ現れるダイアンの白い影は女優として成功し、賞賛を浴びる将来のダイアンの姿。これはダイアンの追い求めた姿でした。

 つまり、故郷のパーティで女王に選ばれ、女優になる決心をして、ハリウッドへと夢を抱いてやってきたダイアンの前半生を描くオープニングになっているのです。両親とともに賞賛を浴びる姿が出てくるのは、両親の娘に対する期待をダイアンが感じていたことを示しているのかもしれません。だとすると、ダイアンを死へと追い込む老夫婦の姿には、両親の期待を裏切ったことに対するダイアンの自分自身に対する失望も含まれていると考えることもできるでしょう。

 白いダイアンの幻影は結末にも現れます。ここでは夜景をバックに、やはり、賞賛を浴びるダイアンの姿。これはもはや、幻です。命を失ったダイアンにはもはや永遠にかなえられぬ夢となってしまいました。

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★美しいウェイトレスたち

 ウィンキーズのウェイトレスにも、少し注目してみましょう。ダイアンの夢の中で出てくるウェイトレス「ダイアン」や、ダイアンが殺し屋と会っているときにテーブルのそばで食器を落として謝っていたウェイトレス「ベティ」。彼女らが"美しすぎる"とは思いませんか。一介の町のダイナーで勤めるウェイトレスがどうして、こんなに美人なのか。そして、ダイアンが殺し屋との面会という気の張る場面にも関わらず、「ベティ」というウェイトレスの名を覚えていたのはなぜなのか。よほどの常連客でもない限り、ウェイトレスの名前を覚えていることはないでしょう。

 ハリウッドにはたくさんの俳優や女優の卵たちが集まってきます。皆、それぞれに夢を抱いて、この街にやってくるのです。しかし、そのうち、夢を叶えることのできる人間はごくごくわずか。残りはあきらめて別の職を探すか、たくさんのオーディションを受けながら、いつか来る日を待ち続けるしかありません。ハリウッドにはたくさんの"ダイアン"がいるのです。ウィンキーズのウェイトレスが美人なのは、彼女が女優志望だからでしょう。いつか、夢のかなうときを待って、ウェイトレスで食いつないでいるか、それとも、もう、女優になる夢をあきらめているのか。ダイアンもウェイトレスをした経験があるのかもしれません。端役ばかりで映画の仕事だけでは食べていけないダイアンと、ウィンキーズのウェイトレスは同じ境遇にある。仲間として彼女を見るダイアンの目が、ウィンキーズのウェイトレス・「ベティ」の名前を記憶に残したのかもしれません。

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★「彼女だ」―This is the girl

 アダムがオーディション会場に来たダイアンをじっと凝視していたのはなぜでしょうか。また、アダムが死神に言われた通り、「彼女だ」と言ったのは仕事を失いたくなかったから、でしょうか。

 アダムがオーディション会場に来たダイアンをじっと見る場面があります。ダイアンは途中で抜け出したときも、アダムは首をひねってダイアンを凝視し続けていました。これはダイアンに見覚えがあったからという理由ではありません。このシーンもあくまで、ダイアンの頭の中で構成されたもの、つまりダイアンの妄想です。従って、ダイアンの妄想の中のアダムはダイアンとは初対面のはず。しかし、ダイアンの中にはカミ―ラを殺した自分をアダムはきっと恨んでいるだろうという想像がありました。アダムは自分を憎んでいるに違いない、この思いがダイアンの妄想にも影響を与えます。

 また、アダムはあまりにも、現実世界でダイアンの愛憎に深く関わっていた人物でした。妄想の世界であれ、これ以上、アダムに深入りすると、この妄想世界が崩れ、恐ろしい現実に向き合わねばならなくなる。ダイアンはその恐怖に怖じ気づき、オーディションを受ける前に現場から逃げ出してしまったのです。

 また、アダムは結局、映画製作会社の意向に沿い、主演女優を入れ替えるという決断をしました。その言葉は「彼女だ(This is the girl.)」。これはダイアンがカミ―ラ殺しを依頼するときに殺し屋に使った言葉と同じです。ダイアンの妄想は常にカミ―ラを殺さなければよかったという思いから始まっています。殺し屋にあの言葉を発しなければ、カミ―ラは生きていたのに…。ダイアンはこの言葉をアダムに使わせることで、自分が発した言葉だという記憶をすり替えようとしました。ダイアンは少しでも苦しい記憶から逃れたかったのです。そして、この醜い言葉を憎い恋敵であるアダムに言わせ、苦渋の決断をさせることで、ダイアンはある種の復讐心をも満足させることができたのです。

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★人間の態度はある程度、その人間の人生を左右する

 「人間の態度はある程度、その人間の人生を左右する」。これはカウボーイこと、死神の言葉です。彼は「うまくやれば君はもう1回、私に会う。間違えたらもう2回会うことになる」とアダムに告げました。ダイアンの妄想の中でのアダムはダイアン自身でもあります。死神はアダムに向かってというよりは、ダイアンに向かって話していました。

 ダイアンの態度はどういうものだったでしょうか。カミ―ラの殺害を依頼し、それが成功した後、ダイアンがとった行動は現実逃避の一言につきます。過ぎ去った日々を後悔し、何とか、都合のいい展開を夢想する―彼女はどうしようもなく追い詰められた現実を直視することはできませんでした。

 ダイアンの最大の過ちは自分自身が行ったことを冷静に受け止めることができなかったこと。ダイアンは常に逃げていました。刹那的に犯した過ちであれ、それを後から振り返ることのできない人間は、また同じ過ちを繰り返します。

 ダイアンは死神の警告を受けた後も、態度を改めることはできませんでした。ダイアンは「間違えた」のです。彼女は結果的に、牧場で死神に会ったのち、2度、死神に会うことになります。1度目はカミ―ラとアダムの婚約発表がされたパーティで、2度目はベッドで眠るダイアンを死神が起こしに来たとき。ダイアンは妄想から自ら目覚めることができませんでした。ダイアンが死神の警告を聞き入れ、現実を見ることができたなら。それとも、辛すぎる現実を前にしては、死が唯一の道だったのか。

 死んだ方がいいかもしれない、そんなふうに思ってしまうほど辛い現実を目の前にしたとき、いばらの道を生きるのか、それとも安息の死を選ぶのか。どちらの道を取るか、それは各自の選択にかかっています。

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★クラブ・シレンシオ

 クラブ・シレンシオ。このクラブは、生者と死者の同時存在が許される異空間。このクラブへとダイアンを導いてきたのはカミ―ラの方でした。ダイアンはこのクラブの前座を務める男の口上を聞いているうちに、震えが止まらなくなり、ひどく怯えた様子を見せています。ダイアンはこのクラブに恐怖を感じていました。それは、この心地の良い夢から現実に引き戻されてしまうという恐怖です。

 前座の男の口上は、「楽団はいません、これは全部テープです。オーケストラはいません、これは全部まやかしです」というものでした。彼は今見ているもの、あるいは聞こえている音がすべて嘘であると言っているのです。ダイアンがカミ―ラと現在築いている愛情関係や、今の2人の暮らしが全部まやかし、全部嘘だとしたら…。男は口上を述べたのち、急に顔つきを変え、恐ろしい表情を見せます。青白い閃光、白い煙、そして彼の形相からも、彼が人間ではないことが分かるでしょう。

 前口上の男の後は泣き女の登場です。彼女は「あなたを想って泣いているのよあなたはさよならを言って私を1人置き去りにした…」と感傷的な歌を歌い、号泣して倒れて見せます。ダイアンとカミ―ラもやはり、抱き合いながら泣いていました。これらの意味することは何でしょうか。泣き女が倒れ、歌うのを止めても、歌はそのまま聞こえてきます。ここで思い出されるのは前口上の男の言葉。「これは全部テープです…これは全部まやかしです…」現実のダイアンの心情をそのまま歌にしたような歌詞、大げさに泣く泣き女。そして、カミ―ラとダイアンがこの歌を聞いて泣いている。まるで、カミ―ラがダイアンの苦しかった心情を察し、ダイアンのしたことを赦し、慰め合っているようにも思えます。これらの情景が全部嘘だとしたら。

 現実のダイアンを考えてみましょう。ダイアンはカミ―ラを殺した殺人者です。殺されたカミ―ラが真実を知ったら、決してダイアンを赦しはしないでしょう。あるいは、深く傷ついていたダイアンの心情を知ったら、カミ―ラを殺したことを赦してくれるでしょうか?ダイアンは自分がした殺人という行為をカミ―ラに赦してほしいと願っていました。そして、その殺人がどうしようもない辛い心情から発したものであることを理解してほしいとも思っていました。

 泣き女の歌は、ダイアンの身勝手な願望を反映したものでした。死神は、歌い手が倒れても歌が聞こえてくるという幻想をダイアンに見せることで、今、彼女がいるのが妄想の世界であり、カミ―ラの赦しはその妄想の一つに過ぎないことを警告したのです。あの前座の恐ろしい男は死神、またはその意を受けた者。クラブ・シレンシオで前座の男が白い煙と青い焔に包まれて消えるまで、ダイアンはけいれんを起こして、ガタガタと震えていました。ダイアンが怯えていたのは、前座の男ではありません。彼女が怯えていたのは、「現実」という恐怖。「全部まやかしです」と警告する前座の男はダイアンを居心地のいい夢の世界から現実へと連れ戻しかねない、その意味で、ダイアンにとって危険な存在でした。

 カミ―ラがマルホランド・ドライブで事故に遭ったとき、ダイアンが自殺したとき、そして、前座の男が消えるとき…全てのシーンに白い煙が出てきました。そして、ダイアンが自殺したときと前座の男が消えるときには青い光が見えます。そして、ダイアンを現実へと連れ戻すきっかけとなるあの小さな箱も青い色をしていました。青い色は死神の象徴、白い煙は死が訪れたことを意味しています。

 さて、青い箱が出てきたのはこのクラブから帰宅した直後のことでした。青い鍵の使い道。それは殺人の証ではなく、箱を開けること、であれば良かったのに。しかし、その箱の中は暗闇。暗闇の中には何もなく、ダイアンは死神によって、現実に連れ戻されたのでした。

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★カミ―ラになりたかったダイアン

 ダイアンの夢は青い箱を青い鍵で開けることで終焉を迎えます。このとき、箱を開けたのはダイアンではなく、カミ―ラでした。ダイアンは消えていなくなっていたのです。なぜでしょうか。

 端的に言ってしまえば、ダイアンがカミ―ラになったからです。ダイアンはカミ―ラに憧れていました。彼女のようになりたい、彼女のように生きたい。カミ―ラはダイアンにとって、愛情の対象であるとともに、成功した女優の象徴でもありました。同じオーディションを受けていたころ、2人とも無名の新人でしたが、カミ―ラは一流女優として認められ、成功を収めました。一方、ダイアンは女優の道を諦めねばならない状況へと追い込まれています。カミ―ラへの愛情には強い憧れ、同一化への願望が包含されていました。それが表れているのはダイアンの服装です。カミ―ラはいつも、黒い服や赤い色を好んで着ていました。カミ―ラの婚約発表パーティに呼ばれたときのダイアンはカミ―ラと同じようなデザイン、そして色の、黒のスリップドレスを着ています。ダイアンはカミ―ラに寄り添いたいという強い願望を抱いていたのです。

 一方、ダイアンは自分自身に対しても、強い自信を抱いていました。仮にも、女優を目指し、田舎からわざわざハリウッドまでやって来た女性です。自身の容貌や能力にある程度の自信を持っていたはずです。そのダイアンの外見をカミ―ラが真似るということはダイアン自身をカミ―ラが認めたということになります。

 夢の中でのダイアンは最初、黒い服の多いカミ―ラとは正反対の白や水色といったパステル調の明るい色の服装ばかり。しかし、カミ―ラと親密になるにつれて、赤系統の服を着るようになります。一方のカミ―ラは、金髪のウィッグを着けてダイアンのような短い金髪の髪型にし、ダイアンそっくりの外見になります。夢の中のダイアンとカミ―ラは互いに接近し、カミ―ラは精神的にダイアンに頼るのみならず、外見までダイアンに近づいてきました。そして最後、ダイアンは自分の存在を消し、カミ―ラと同一化します。クラブ・シレンシオから帰宅した後、ダイアンの姿が消えてしまったのはそのためです。ダイアンはカミ―ラと一体になりたいという願望を達成することができたため、姿を消したのです。

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★カミ―ラはアダムを愛していたか
 
 カミ―ラはダイアンを愛していました。それは、ソファで戯れるカミ―ラとダイアンの仲睦まじい様子からも明らかです。アダムのことでダイアンとケンカした後、ダイアンの家から追い出されたカミ―ラはダイアンを必死になだめようとしていました。カミ―ラはダイアンとの関係について、本気だったのです。しかし、カミ―ラの愛はダイアンの愛とは異なるものでした。ダイアンはカミ―ラのためならば、自分を犠牲にすることをいとわないでしょう。しかし、カミ―ラは違いました。彼女は全ての目標を女優としての成功という夢に賭けていました。彼女はその目標を達成するためなら、どんなことでもする女性です。例え、その行為によって、本当に愛してくれる人を失ったとしても。

 カミ―ラがアダムと結婚したのは、ダイアンよりもアダムを愛していたからでしょうか。ダイアンから、アダムへと心が移った結果でしょうか。カミ―ラは合理的な計算高いところのある女性です。彼女はアダムの映画のオーディションで主役の座を掴んだばかりでした。婚約パーティで出てくるアダムの家はハリウッドの高台に位置する豪勢な邸宅です。アダムは既に映画界で成功した監督でした。アダムの撮る映画には製作会社の強力なバックアップがあり、派手なPRがなされ、大規模な観客動員数が見込めるでしょう。アダムの映画で主演をするということは、人気女優としての道が確立されるということです。この仕事を成功させれば、カミ―ラには一流女優としての道が開けます。

 カミ―ラにとってはアダムの映画で主演することは女優になるための必須条件でした。カミ―ラはアダムに気に入られるためならなんでもしたでしょう。そのためにはダイアンとの愛を裏切ると言う決断まですることができました。それがカミ―ラという女性です。彼女が真実ダイアンを愛していたとしても、ダイアンとの関係はスキャンダルになりこそすれ、何もカミ―ラの得にはなりません。彼女はアダムとの映画を成功させて人気女優としての道を歩むため、ダイアンとの関係を切る決断をしました。

 人気女優になる条件は何でしょうか。ただ美しいだけではだめです。美人はたくさんいます。では演技力はどうでしょうか。高い演技力はもちろん要求されますが、美人で演技力が高いだけならば、ハリウッドにはごまんといるでしょう。やはりまだ足りないものがあります。自分のキャラクターや雰囲気、年齢に合った映画・役柄がそのときにあり、しかも、その役がオーディションで募集されているものであり、さらに自分がそのオーディションで選抜されること。タイミングやチャンスがあること、要するに「運」がなければ、"数多くいる女優候補のひとり"から抜けでることはできません。

 カミ―ラはその「運」を掴んだ女性でした。ダイアンには決して巡ってこなかった女優としての「運」です。カミ―ラは巡ってきた幸運を最大限に活用しようとしました。カミ―ラの掴んだ「運」は天から降ってくるものではありません。ダイアンとカミ―ラは監督ボブ・ルッカーの映画に出るため、同じオーディションを受けていました。それが分かるのは相手役俳優の言葉からです。オーディション会場にやってきたダイアンを見た彼は「黒髪の子とやったようにくっついてやりたいな」と監督に持ちかけます。この「黒髪の子」とはカミ―ラのことに他なりません。現実に、相手俳優が「黒髪の子とやったように…」とダイアンのオーディションで言ったのかどうかは分かりませんが、カミ―ラは現実のオーディションで、自らの持つ色気を最大限に利用して妖艶な演技を披露したのでしょう。単なる実力だけではなく、色目も遣って主役の座を獲得しようとしたカミ―ラの姿が見えてきます。

 ダイアンが夢の中のオーディションで披露した、迫力のある、それでいて魅惑的な演技は、ダイアンが想像したカミ―ラの演技の反映です。そして、これは同時に、純粋な実力だけで役を勝ち取りたいというダイアンの願望の表れでもありました。しかし、現実にオーディションを勝ち抜いたのはカミ―ラでした。この映画はカミ―ラの出世作となり、ダイアンは端役に甘んじることになります。このあたりの事情は、カミ―ラとアダムの婚約パーティの席で、ダイアンがアダムの母ココに説明しています。カミ―ラはこの作品をきっかけにして、人気女優への道を歩みだしました。そして、アダムと出会うことになります。

 カミ―ラの場合、運は「巡ってくるもの」ではなく、「引き寄せるもの」だったのかもしれません。その運を掴んだときに、人はその誘惑に負けて、以前の自分なら決してしなかった行動をしてしまうかもしれない。少なくとも、ダイアンにはこの「運」は巡ってきませんでした。ツキから見放され、一向に女優としての芽が出ないダイアンはいろいろと想像します。撮影現場でのカミ―ラの様子や、ハリウッドで暮らすうちに見聞きした噂などから、ダイアンは映画製作の裏舞台を想像するようになっていました。きっと、華やかな映画界の裏側には汚く、暗い世界が潜んでいるに違いない…。

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★映画界の裏側

 ダイアンの夢には製作会社に呼び出され、キャスティングについて圧力をかけられるアダムや、別部屋で報告を受ける側近を従えた奇妙な男の姿を見ることができます。アダムが圧力を受ける会議室の場面のイタリア系のカスティリアーニ兄弟は出されたコーヒーを巡ってあからさまに嫌みな行動をしますが、イタリア人とエスプレッソ、脅迫的な言辞をするイタリア系兄弟はマフィアを連想させるというあまりにテンプレートな組み合わせです。また、会議室の奥に鎮座する奇妙な男の部屋はがらんとした部屋で、人物とともに、どこか、現実離れしています。

 現実のダイアンは映画界の末端に位置する存在です。彼女には映画界の上部に位置する人間たちに近づく術はなく、人から聞いた噂や想像から、その世界のことを思い描くしかありません。ダイアンがオーディションに四苦八苦している一方、人気女優への道を駆け上がっていくカミ―ラを眺めていたダイアンは、この映画界という世界が単純な実力の見では上へ行くことができない世界であることを理解し始めていました。ハリウッドへの純粋な憧れのみを抱いてやってきたダイアンでしたが、女の魅力を武器にするカミ―ラの立ち回りを見ているうちに、次第に映画界には裏の権力が働いているのではないかと考え始めます。

 会議室の場面や奇妙な男の場面が戯画的、あるいはステレオタイプな描き方になっているのは、この場面が現実に基づくことなく、ダイアンの想像からのみ作られた場面だからです。

また、奥の部屋に鎮座する奇妙な男は事故現場からいなくなった黒髪の女"リタ"を探す電話をかけています。これを見る限りでは、この男は"リタ"の殺害を巡る黒幕であるようにも見えます。映画の主役を巡る裏の権力者たちの駆け引きは、女優の命をも左右する―ダイアンは自らの知らない映画界の裏側を想像しつつ、自分の指示したカミ―ラ殺害の責任を自分の見知らぬ世界へと放り投げたのです。

 しかし、男の電話は次々にリレーされ、最終的には赤いシェードのランプのある部屋へと取り次がれました。ベッドサイドのボードに置かれた赤いランプの下にはモザイク模様の灰皿。この灰皿はダイアンの部屋にあったもの…"リタ"の殺害失敗を知らせる電話は最終的にはダイアンの部屋へと取り次がれました。夢の中ですら、ダイアンはカミ―ラの殺害という重い責任から逃れきることはできなかったのです。

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★結末―「…これは全部まやかしです…」―
 
 「マルホランド・ドライブ」の結末は泣き女のあいさつで締められます。彼女があいさつしているのはクラブ・シレンシオの観客席にいる者に対して、です。では、観客席にいる者は誰でしょうか。

 それは「マルホランド・ドライブ」という映画を見ていた観客たちです。「マルホランド・ドライブ」はダイアンの夢であり、クラブ・シレンシオの出し物でもありました。ラストに映るクラブ・シレンシオの舞台は「マルホランド・ドライブ」が実は始めから舞台で演じられている演劇であったことを示唆しています。

 「…これは全部まやかしです…」という前座の男の口上を覚えているでしょうか。クラブ・シレンシオはダイアンの夢の中で登場してきますが、決して、ダイアンのためだけに存在するクラブではありません。このクラブは現実を受け止めきれない者のために死神が用意した特別なクラブ。このクラブに招かれた者はダイアンと同じく、死神の警告を受けることになります。すべてがまやかしである、という警告を聞きいれ、現実に向き合うことができるか、それとも…。

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